不死の薬いりますか?
肌にまとわりつくような湿気と、遠雷のように響く蝉時雨。今年もまた、あの忌々しい季節がやってきた。
寝苦しさに抗えず、汗ばんだシーツを蹴立てて寝台から抜け出す。
鏡に映る寝癖のついた髪を無造作に束ね、近くを流れる川へと向かった。
夜の間の熱を吸った土の匂い。
川面を渡る風だけが、束の間の涼をくれる。
水面に映る自分の顔をかき消すように両手で水を掬い、火照った顔を洗った。
さえずりながら水面を跳ねる小鳥たちが、やけにけたたましく感じる。
いつもなら、このまま家に戻る。だが、今日はそんな気分ではなかった。苛立ちにも似た空腹が、胃の腑からせり上がってくる。暑さのせいか、それとも心のささくれのせいか。どちらでもよかった。足は、吸い寄せられるように町の方角を向いていた。
早朝の町はまだ眠りの中にあるようで、人影はまばらだ。しかし、馴染みの料亭からは、食欲をそそる油の爆ぜる音と、小気味よい鍋を振るう音が漏れ聞こえていた。
開け放たれた窓から顔を覗かせると、主人が一人、一心に何かを炒めている。
「おはよう。悪いけど、今何か頼める?」
「おう、おはようさん!構わねえよ。こいつは俺の賄いだ。で、何にする?」
「赤魚の炒めを一つ。タレを多めにしてくれると嬉しい」
「あいよ!」
店の軒先で日陰を探し、料理が出来上がるのを待っていると、背後から最も聞きたくない声がした。
カンおばあだ。
「おはようさん、薬屋さん。こんな朝っぱらから何してるんだい?」
この老婆が厄介なのは、突き出た頬骨が意地悪そうな貌をしているからではない。その卑しい精神そのものにある。
「おはようございます。今日は暑くなりそうなので、朝から精をつけようかと」
「そうかい、そうかい!そりゃ立派なこった!でも、薬屋なんだから、薬でどうにかならないのかい?」
「生憎、そんな万能薬は持ち合わせておりませんで」
「おかしいねぇ。一昨日、あんたの店の箪笥にあった薬の山はなんだったんだい?もう捨てるやつだろう?」
これだ。
彼女は、私が商品としてはもう出せないと判断した薬草や調合に失敗した薬を嗅ぎつけ、たかりに来る。それだけならまだいい。だが、それを私の名を騙って横流しするのは話が別だ。私の看板に傷がつく。
「あれはもう、全て売れてしまいましたよ」
「嘘をおつき。ここ数日、あんたの店に客が入っていくのなんて見なかったじゃないか」
随分と失礼な物言いだが、彼女はこの町の古株だ。新参者の私が事を荒立てれば、どうなるかは火を見るより明らかだった。
「いやはや、このところ本当に暑いですね」
「話を逸らさないでおくれよ。あの薬、あたしが貰ってやるよ」
「残念ですが、本当に手元にはもう…」
「じゃあ、確かめに店まで付いて行ってやろうか?」
「いえ、今日は遠方から客人が来る予定でして。店は開けないんです」
「確認するだけだよ。客としてじゃないさ」
「それも、ご勘弁を」
ここで「また今度、余りが出たら」などと口を滑らせれば最後、毎月のように集りに来られてしまう。
「ほんと、ケチだねぇ。あんたは分かっちゃいない。薬屋ってのは、この町での信頼が第一なんだ。どこの馬の骨とも知れないあんたから、私たちが薬を買ってやっているんだよ。たまには恩を返したらどうだね。それに、なんだいその胸元をはだけたような服は。男を誘っているのかい…」
何も渡さないと分かると、今度は説教が始まる。誘うほどの胸など、持ち合わせていないというのに。
「ふん!まぁいいさ。せいぜい一日中、店の掃除でもしてな!」
老婆は、なおも何かをぶつぶつと呟きながら、道の奥へと消えていった。
「おはようさん〜」
ぬるり、と耳朶を撫でるような、掴みどころのない声。去っていった老婆とは正反対の方角からだ。振り返ると、曲がった腰を懸命に伸ばそうとしながら、ケンじいが杖をついて歩いてきた。
「おはようございます。今日は一段と暑いですね」
「そうじゃろう〜。じゃからワシはのぉ、朝うんと早うから歩いとるんじゃが、どういうわけかもうこんな時間でのぉ。一日っちゅうのは瞬く間じゃわい」
老人の濁った瞳が、私の胸元を一瞥したのを見逃しはしなかった。この老爺は悪人ではない。だが、買う薬はいつも“そっち”方面のものばかりで、正直なところ得意な相手ではなかった。とはいえ、客単価は高い。無下にもできないのが商売というものだ。
「では、今日も一日頑張ってください」
「ほぉのぉん」
私が軽く手を振ると、老人は奇妙な鳴き声のような返事をして去っていく。
「ほぉのぉん」とは一体どういう意味だろうか。
「じゃあのう」とでも言いたかったのだろうか。
「へい、お待ち!」
窓から威勢のいい声が飛ぶ。木の箱に手際よく詰められた料理を受け取り、腰の瓢箪から帝国紙幣を一枚と銀貨を三枚、主人の手に渡した。
「毎度あり!また来てな!」
汗ばむ肌に陽光を感じながら帰路につく。
店の扉を開けると、むわりとした熱気が籠っていた。私は店中の窓という窓を開け放ち、店先の木製の椅子に腰を下ろす。卓上には冷たいお茶と、まだ温かい料理の入った箱。
蓋を開ければ、ふわりと湯気と共に香ばしい匂いが立ち上った。箸でそっと身をほぐす。ぴりりと舌を刺す唐辛子の辛味と、ふっくらとした白身魚の甘み。絶妙な味わいが口の中に広がり、こめかみの奥がじんわりと痺れる。思わず頬が緩んだ、その時だった。
「美味そうなもん食ってんなぁ、ジーラン姉さん」
背後から、水を差す声。
恐る恐る振り返ると、漆黒の衣服に身を包み、物珍しい意匠の眼鏡をかけた弟のリンウンが、そこに立っていた。
「げっ…なんでここに」
「母さんが死んだ。それを伝えに来た」
私は、持っていた箸を静かに置いた。
店の中に弟を招き入れ、冷たい茶と団扇を差し出す。私は彼の真正面に腰を下ろした。
「最期に、何か言ってた?」
「……さあな。俺も長くは会ってない。死に際には間に合わなかった」
ぶっきらぼうな口調は昔のままだったが、その声には微かな翳りが落ちていた。茶を一口すすり、荒れそうな心を落ち着かせる。
「私たちは、親不孝者だったな」
「仕方ないさ。あれが最善だった。俺たちが傍で介護するより、誰かに任せて稼いだ方が、お互い良い暮らしができたはずだ」
「でも、死ぬ前に会えなかった」
「…それもそうだが、この世に不死の薬でもない限り、母さんの病はどうにもならなかった」
「そうね。…それで、もう葬儀は?」
「昨日、全て済ませた。だから俺も、もう戻らないと」
彼の全身を覆う黒い服は、単なる趣味ではなく、喪服の名残なのだろう。
「今はどこで働いてるの?」
「海を渡って、いくつも国を越えた先。『ミゲルシア王国』ってところだ。面白いぜ、魔法なんてものもある」
「へぇ。変わった国」
「ただ、帝国直轄の管理国だからな。厳しいところはとことん厳しい」
私も、この土地に根を下ろすつもりはなかった。
「私も、その国に行こうかな」
「薬の商いは認可が厳しい。やるなら、他の仕事だ」
「他の仕事、か…」
彼は席を立ち、棚に並んだ薬瓶を品定めするように眺めながら、話を続けた。
「覚えてるか?親父のこと」
思い出したくもない記憶だが、親という縁は、どこまでもついて回る。
「覚えてる」
「親父は言った。『成し遂げろ』ってな」
「……それで?」
「金があれば、母さんも親父も、死なずに済んだかもしれない」
「死も病も、いつかは訪れるものよ。それを覆せるのは神くらいなものだ」
「だが、姉さんなら病は治せるだろ」
「万能じゃない」
彼は、棚から一つの小瓶を摘み上げ、じろじろと眺めている。
「それは薬じゃない。劇薬よ」
「…そうか」
「真っ当に生きる気はないの?」
その毒を見たことがあり、異国でそれなりの金を稼いでいるとすれば、その仕事がどんなものか、想像に難くない。
「…仕方ないだろ。俺は、必ず成り上がる」
「止めはしない。必要なら持っていくといい」
彼はいくつかの薬瓶を指先で選び取ると、音もなく懐の奥深くへと仕舞った。
「姉として言えるのは一つだけ。死ぬな」
「分かってる。……これ、置いていく。薬代だ」
そう言って彼は帝国紙幣の束を卓上に置いた。
何十枚という厚みがある。
「要らない」
「なんでだ?汚い金だからか?」
「金に色はついてない。ただ、あんたの金を受け取る理由がないだけ」
彼は何も言わず、しかし金はそこに置いたまま店を後にした。
私はその札束を手に取り、箪笥の右奥に仕舞う。
そこには既に、同じような金の塊がいくつも眠っていた。
ふと、入り口に人影が見える。
真夏の日差しを拒むように差された日傘。
この埃っぽい町には、あまりに不似合いな優雅さだった。
「……いらっしゃい」
「初めまして。チェンシーの件は、聞き及んでおります」
私は背後に隠し持っていた短剣の柄から、そっと指を離した。
「それで、ご用件は?」
「貴女が腕の立つ方だとよく存じております。どうです?ひとつ、大仕事など」
まるで全てが仕組まれていたかのような巡り合わせ。この土地への未練はなく、弟は新たな道を歩み始めた。そして、私の元にもまた新たな『客』が訪れる。
「あの強欲な大地主チェンシーを、見事な自殺に見せかけた腕前。依頼主も大変満足しておりましたわ」
はぁ、と心の中でため息が漏れる。
素人の依頼はこれだから困る。簡単に口を割ってしまう。
「話を聞こう。その大仕事とやらを」
「簡単なことです。とある人物の暗殺を、お願いしたいのです」
「報酬は?」
「その者が住まう土地と屋敷。それから、このくらいの帝国紙幣を」
彼女が指で示した紙幣の厚みは、無視するには大きすぎた。
「場所は?」
「麗花国。貴女の弟君も気にいる場所のはずです」
「…弟と、同業者?」
「ええ。あ、予め申し上げておきますが、私どもは彼と敵対する者ではございません」
「そう。いいわ。引き受ける。そろそろ、私も『成し上がり』たいと思っていたところだから」
「左様ですか。それは、わたくし共も嬉しい限りです。こちら、大陸横断鉄道の切符と、報酬とは別のお支度金ですわ」
渡された切符と紙幣を検める。
偽造の痕跡はない。
本物だ。
「あんたたちの名と、標的の名は?」
「私どもは『黒蓮幇』。ギャングのような粗忽者ではございません。わたくし共もまた、仲介人に過ぎませんので。標的の名は……すぐに分かりますわ」
まだ罠かは断定できない。
「分かった。今日中にここを発つ」
「はい。では、お待ちしております。王国に到着されましたら、駅のホームにてわたくしがお迎えいたします。詳しい話は、その時に」
「了解」
彼女は踵を返したが、戸口で思い出したように振り返った。
「そうでしたわ。貴女には、こういったお仕事を請け負う際の、特別な合図があるのでしたね」
「必要ないわ。もう話はついた」
「いえ、どうかそれを。わたくし共に、聞かせてくださいませ」
彼女は、どこか芝居がかった、しかし真剣な顔で言った。
「全てにきく薬をひとつ」
何故こんな儀式が必要なのか分からないまま、私はいつものように、ただ淡々と答える。
「不死の薬、入りますか?」