前世で悲恋の死を遂げた転生悪役令嬢は今世でこそ幸せを掴み取る
「クラリーチェ、君との婚約は破棄させてもらうよ」
前世で非業の死を遂げていわゆる乙女ゲーの悪役令嬢とやらに転生した私ことクラリーチェ・アメジストは、こうならないようにどうにか頑張ってきたけど、結局はこの台詞を聞く羽目になってしまった。
「理由を聞かせていただいてよろしいでしょうか、ヴィクトル殿下」
「言わないとわからないのかい? 君はアカリが平民の出であることを理由に、彼女に数々のひどい仕打ちをしてきた。それだけで婚約を破棄する理由としては十分だ」
一応聞いてみたけど、これまたテンプレな台詞が返ってきた辺り、私の断罪と死は不可避らしい。
アカリ、というのはこのゲームの主人公にして、蝶よ花よとイケメンたちから愛でられる宿命を背負った主人公のことだ。
そのアカリが扇子の奥でひどく悪辣な笑みを浮かべていることにも気づかない辺り、この国──イーステン王国の第一王子、ヴィクトル殿下はもう骨抜きにされているようだった。
骨どころか目玉も腐り落ちてますよ、殿下。
思わず溜息をつきたくなったけど、それすら出ないぐらいに呆れが先にきていた。
突如として降りかかってきた私への断罪に、観衆としてこの夜会に参加していた貴族たちも同調している辺り、とりあえずこの断罪イベントを逃れるのはもう本当に諦めた方がいいのかもしれない。
でも、事実と違うことを言われてはいそうですかと大人しく処刑台に上ってやるほど私のプライドは安くなかった。
「なにやら誤解があるようなので、謹んで訂正させていただきたく存じます。殿下」
「誤解? クラリーチェ、君はアカリに対して常に礼儀作法がなってないと因縁をつけていたと聞いている。それだけではない。今日だって彼女を階段から突き落とそうとしたと、アカリの口からはそう聞いているが、どこが違うというのだい?」
「お言葉ですが、アカリ様の礼儀作法を指摘したことはございます、ですが因縁をつけた覚えなど……ましてや、階段から突き落としたなどと!」
「ならば、彼女の足の怪我はどう説明するというのだ!」
知らんがな。
原作だとマジでアカリに嫉妬したクラリーチェが階段から突き落としていたらしいけど、少なくとも今日、一日中書斎に引きこもっていた私にはアリバイがある。
なのに捻挫したような痕がアカリの足にある辺り、多分自作自演なんじゃないかな。
私は大方あのアカリの中身はご同類──だとは思いたくないけど、現代からの転生者だと見ている。
中々原作通りに物語が進まないことに腹を立てて、自作自演をしてまで私を処刑台に上げようとしているのだ。
そう決めつける理由? そんなの。
『アカリ様、カップの縁に指を通すのは作法がなっておりませんことよ』
『──ちっ』
ヴィクトル殿下の言う通り、確かに私はアカリに対して礼儀作法を指摘したことがある。
ただそれは主人公が主人公らしく礼節を身につけてないと将来困るんじゃないの、という心配があってのことだ。
そして、微かな舌打ちだけが返ってきたときに確信した。こいつは自分が蝶よ花よと愛でられて当然、批判や指摘はアンチの戯言だと思ってるタイプの女だと。
だから、これ以降は関わらないことを決めて徹底的にスルーしていたのだけれど、まさかその出来事を何十倍にも誇張して話された挙句に、自作自演で断罪イベントまで持ってくるとは思わなかった。
こんなことなら、最初から関わらなきゃよかった。
後悔したけどもう遅い。色んな意味で私はもう遅い。
「アカリ様がご自分でお転びになったのでしょう。私はこの夜会まで書斎におりましたから、覚えがございません」
「ああ……なんということだ! 見え透いた嘘までついて、彼女の尊厳を傷つけるとは! 僕は……君を一時でも好いていたことが恥ずかしい! もしも嘘ではないというのなら、この中にクラリーチェが書斎にいたことを証明できる者はいるか!」
反論したけど、返ってきた答えは案の定だった。
ヴィクトル殿下の目にはもうアカリ以外映っていないのだろう。
そして、私が書斎にいたことを知っている使用人たちからの弁明が全くないということは、大方アカリが事前に根回しでもしていたか。
『──九条君とあなたって、タダの友達、だよね?』
不意に、前世の記憶が頭をよぎる。
彼女がいないのが不思議なぐらい、優しい男の子がいた。
できることなら、誰にでも優しくしようとしていた女の子がいた。
男の子から告白を受けた女の子は、一瞬だけ安堵していた。
まさか、両想いだなんて思っていなかったから。だから、安心したのだ。
お互いがお互いを好きでいることに。
でも、女の子は次の日、その男の子を好きな女の子たちのグループに囲まれて、「タダの友達」であることを迫られた。
誰とでも仲良くしていたかった女の子は、曖昧な笑みを浮かべて、その脅しにも似た問いかけを肯定することしかできませんでしたとさ。
それが、私の前世だ。
すごく悲しかった。すごく悔しかった。
でも、誰かと仲良くしていたいのは本当で、関係を壊したくなかったのも本当で。
だけど、私が仲良くしていたはずの皆は、友達だと思っていた人たちは、告白を受けた瞬間、敵に変わってしまったから。
だから、今世では誰にも好かれないように生きようと決めたのだ。
それがヴィクトル殿下の不興を買う一因になったのだと言われれば、否定はできない。
愛した分だけ、愛された分だけ人は罪を背負って、別れのときに罰を受ける。
だったら、愛さなければいい。
そうすれば、なんの罰も受けることなく、なんの罪も背負うことなく、生きていけるから。
でも、それもどうやら間違いだったらしい。
「どうやら君は本当に嘘をついていたようだね。この沈黙が証明している──僕は、ヴィクトル・フォン・イーステンはここに、クラリーチェ・アメジストの断罪を宣言する!」
どこで間違えたんだろう。
だったら、なにをすればよかったんだろう。
誰かを好きになることも、ただ生きることも私には許されない贅沢なのだろうか。
『その通りだ!』
『殿下の仰る通り、この女を処刑台に送ってしまえ!』
『アカリ様こそ次の王妃に相応しいお方なのよ!』
貴族たちも、口々に私の処刑を後押しする。
「その断罪に私は異議を唱える!」
思わず、涙がこぼれ落ちてしまう。
そして、膝から崩れ落ちたそのときだった。
隣国であるウェスタリア神聖皇国から来賓として招かれていた神聖騎士団の団長を務めている、ヴィクトル殿下のライバルであり、親友に当たる攻略対象──ランハルト・シュテルブルク様が、突如として原作にはなかった異議を唱える。
「親友殿、気は確かか!? クラリーチェは……この女は、稀代の悪女なのだぞ!」
「私は正気だ。使用人たちが口を噤まされている可能性はないのか? 君はアカリ嬢を愛するあまり、その愛以外を瞳に映すことを拒んでいるように見える」
「君までアカリを悪者にするつもりなのか! もういい、君との縁もここまでだ、ランハルト! そんなにその悪女が気に入ったというのなら、国にでも連れて帰るといい! そして二度と我がイーステン王国の土を踏むことは許さない! これは僕の最後の優しさだと思え!」
「……そこまで君が頑なだったとはな。クラリーチェ嬢、御手を。共に行こう」
わけがわからなかった。
確か、ランハルト様は原作だとヴィクトル殿下に同調して私ことクラリーチェの処刑を後押しする役だったはずなのに。
困惑する私の手を取って、ランハルト様は夜会の舞台である王城の大広間をあとにする。
とりあえずは生き延びられたらしい。
ただ、それを喜ぶより先に私は困惑することしかできなかった。
一体どうして、ランハルト様は心変わりをしたのだろう?
◇
果たしてイーステン王国を追放されて、ウェスタリア神聖皇国に連れてこられたあとも、その疑問が解決することはなかった。
「クラリーチェ嬢、しばらく不便な思いをさせてしまうかもしれないが、騒動のほとぼりが冷めるまで、私の邸宅で暮らしてほしい」
「……ありがとうございます」
当然あんな、両国の関係にヒビを入れるどころか国交そのものを断ち切りかねない話があれば、騒乱になるのは避けられない。
イーステン王国がどうなっているかは知らないけど、少なくともウェスタリア神聖皇国は私とランハルト様を支持する勢力と、非難する勢力に別れているらしかった。
中にはランハルト様を神聖騎士団団長から弾劾しようとする動きもあるとは、衛兵たちの噂で聞いたことだ。
なんで、そこまでして彼は私を助けたのだろう。
ランハルト様と顔を合わせる機会は、何度かあった。
その度にヴィクトル殿下と親しげに話されている様子を見て、前世でもあんな男の子同士の友情ってあったなあとか懐かしんでいたけど、私から特段関わった記憶はない。
だって、下手に関わればそれだけの報いを受けるから。
ただ、黙ってヴィクトル殿下の三歩後ろを歩いていた、愛想のない婚約者。
他人から見た私は、間違いなくそう映っていたことだろう。
そんな私を、どうしてわざわざ助けたりなんかしたのか。
自分の身を捨てるような真似までして。
ランハルト様のお屋敷で過ごしている間、私はそんなことばかり考えていた。
でも、口に出すことはできない。
迂闊になにか言ったら、散々な目に遭うのは前世でも今世でももうわかりきったことだ。
だから私は、ただ口を噤んで生きる。
そう決めたんだ。
そのうちランハルト様が私に愛想を尽かして、また追放なり処刑なりしたとしても、それはもう運命だと諦めるしかない。
そのときがくるまでは、せめて自分のためだけに生きようと、そう決めていたはず、なのに。
「クラリーチェ嬢、新しいドレスを仕立ててもらった。お気に召すかどうかはわからないが……受け取ってはもらえないだろうか」
「具合が悪いのだろう。あまり自分一人で抱え込もうとせず、周りをもっと頼ってもよいのではないか」
「困ったことがあったのなら、なんなりと呼びつけてもらって構わない。私が君の力になろう」
どういうわけかこの数ヶ月間、私はランハルト様から歯が浮くような言葉と共に熱視線と、上等な食事を用意してもらったり、薔薇が見事に咲き誇っている庭園を案内してもらったり、ドレスを仕立ててもらったり等々──様々な形での溺愛をぶつけられていた。
溺愛なんてしてもされてもロクなものじゃないのはわかりきっていることだから、その度に私は愛想笑いを浮かべて、「ありがとうございます」を繰り返すbotのようになっていた。
ただ、それで気をよくしたのか、ランハルト様は私の世話に一層精を出すようになってしまった。
……どうしてこうなった。
無愛想で、髪の手入れも自分でやっていたせいで最低限レベル。容姿そのものは悪役令嬢らしく端麗だけど、必要以上に着飾ることをしない。
そんな、喪服のように暗い色合いのドレスがお似合いだった私は、まるで物語のお姫様みたいに艶やかな髪を手に入れて、フリルや花飾りがふんだんにあしらわれた明るい色合いのドレスに身を包んでいる。
姿見に映る私は、イーステン王国にいた頃とはまるで別人のようだった。
「お気に召していただけただろうか、クラリーチェ嬢」
「……ありがとうございます」
「君はいつもそればかりだな。感謝をされるのは嬉しいが、私がしたくてしていることなのだ。あまり畏まらないでほしい」
──感謝されるようなことじゃないよ、俺がしたくてやってることなんだから。
苦笑するランハルト様は、まるで前世で私が恋していた男の子みたいなことを言っていた。
そう、いつだってクラスの面倒ごとを押し付けられるような形で引き受けていた私の手伝いをしてくれていた、彼のように。
だからこそ、私の胸は痛んで仕方がない。
だって私は、彼の優しさを無碍にしているから。
それが好意なのか厚意なのかもわからないしわかりたくもないと、それこそが正しいと、知らず、聞かず。
でも、そうしないとダメなんだ。
ランハルト様が向けてくれる溺愛の正体を知ってしまえば、いつかその報いを受けるから。
本当なら、その愛に私は応えたい。
その愛がどこから来ているのかわからなくても、ランハルト様は自分の命を擲つような真似をしてまで、私の命を助けてくれた恩人なのだから、当然だろう。
命を助けてもらった、死にゆくだけの私を救ってもらった。
それだけで愛に応えるにはあまりある理由だけど、私は──愛が、怖い。
愛することが、愛されることが怖くて怖くて仕方ない。なのに、孤独に生きることを覚悟しきれていない、半端者でしかないのだ。
そんな醜い私の正体を知ったとしても、ランハルト様はいつもと同じように接してくれるだろうか?
接してくれるわけがない。
だから、黙る他に選択肢はないのだ。
今という時間を悪く思っていないのなら、今という時間を大切に思うのなら、尚のこと。
前世の私は、そうやって失敗したから。
上手く取り繕うことができなかったから、大好きな人といることでしか埋まらない空白を埋めようとしたから、命まで失うことになったんだ。
「クラリーチェ嬢、気分でも悪いのか?」
「いえ……なんでもありません。身に余る幸せです。ありがとうございます、ランハルト様」
「そのドレスは君のために誂えてもらったものだ。身に余るものではなく、君の身の丈に相応しいと、私は自信を持って断言しよう」
なんでそういう、優しくて仕方ないことを言っちゃうかなあ。
中途半端に孤独と親しくなった心が揺れてしまう。
ずっと埋まらなかった、埋められなかった空白を埋めてくれるんじゃないかって、勘違いしちゃう。
「……」
「顔が赤いぞ? やはり熱でもあるのか……?」
「だ、大丈夫です! ありがとうございます、心配していただいて!」
「それならいいのだが……やはり君には感謝されてばかりだな。少しはその感謝に見合うことができていたらよいのだが」
困った様子で、ランハルト様は細い顎に指をやった。
困っているのは私なのに。
どうしてそんなに、あなたは優しいの。
優しさや愛がやがて今という時間を、平穏を壊す劇毒になるのに。
だから私は愛から逃げ回っているのに、どうして捕まえようとしてしまうのだろう。
そもそも愛される資格なんてものが、私には存在していないのに。
疑問は尽きず、溺愛も止まず。
ただただ注がれるその感情に身悶えしながら、私はランハルト様と、お屋敷という鳥籠の中で共に生活を送っていた。
いつかその感情が破綻するものだと知っていても、いつかその感情を受け入れる側の要領が足りなくなって溢れてしまうものだと知っていても、それを指摘する勇気もないまま、前世で、大好きだった男の子と両片思いだった──愛がなんたるかを知らずに、幸せでいられた、あの頃を思い返しながら。
◇
ランハルト様のお屋敷に連れて来られてから実に半年の月日が経過していた。
世論は落ち着きを見せてきたらしく、概ね夜会の、それも婚約者の眼前で婚約破棄を宣言したヴィクトル殿下に非がある、という論調に収束しつつある──というのは、ランハルト様から聞いていたことだった。
ただ、ヴィクトル殿下とは親友同士だったせいか、彼に非があるという論調にもまた複雑な思いを抱いているらしく、友情や愛情の類は、やっぱり不可逆のものなのだと思ってしまう。
そんな私が今、なにをしているのかといえば。
「短剣、薬草、ポーション、路銀……必要なものは身につけたわね」
このお屋敷にやってきた頃と同じ、地味めなドレスを身に纏って、絶賛家出の準備中だ。
ランハルト様との生活に不満があるだとか、彼に愛想が尽きてきただとか、そんなことは断じてない。
この家出計画は、あくまでも私のわがままでしかないのだ。
「……ランハルト様の優しさに溺れてしまう前に、なんとかしなきゃ」
ぽつりと呟いた言葉は、夜の静寂に飲み込まれて、すっと消えていく。
もう、私という器は彼の愛を受け止め続けることが難しいほどひび割れて、壊れてしまいそうだった。
これ以上愛されると、取り返しのつかないことになってしまう。私も、ランハルト様を愛してしまう。
そうなれば、いつか彼を不幸にしてしまうことは間違いない。
愛すれば愛した分だけ、焦がれれば焦がれた分だけ、揺り戻しのように咎は訪れるものなのだから。
命を助けてもらったからこそ、恩があるからこそ、私はそうなる前にランハルト様の元を去らねばならない。
そういうわけで、比較的人の目が向かない深夜に私は準備を重ねて、家出の準備を整えていた。
「路銀はこれだけあれば足りるはず……問題はどうやってこれから生きていくかだけど」
とりあえず、私の顔と名前が割れているイーステン王国にもウェスタリア神聖皇国の貴族界隈に居場所はない。
そう考えると、船に乗って遠くの大陸に渡るのが現実的な路線として考えられるけど、言葉が通じない可能性が大いにある以上、この計画も問題がある。
ならば、名前を偽って、冒険者でも始めるか。
原作の設定から察するにこのクラリーチェ、魔法は人並み以上に使えるはずだし、冒険者はなにより食いつめた人間の行き着く先で、素性を問われることはほとんどない。
田舎のギルドにでも登録すれば、しばらくはバレないだろう。
バレたらどうなるかはあまり考えたくないけど、今は一人で生きていく手段を確保することの方が先だ。
そのときはそのときとして、後で考えればいい。
気配を遮断する魔法を唱え、姿を眩ませながら私は夜の闇に紛れてお屋敷の中を忍び足で歩き出す。
この魔法、気配は消せるとはいえ足音だとかまでは消せないし、発動中の魔力も感知できるぐらい高位の魔法が使える人間には引っかかってしまう。
だから、皆が寝静まった夜に行動する必要があったわけで。
警邏の騎士たちは基礎的な魔法しか使えない。
その分、足音だとかには気をつけなきゃいけないけど、そこは大丈夫。万一に備えて騎士たちが巡回するルートは事前に調査済みだ。
そんなわけで難なくお屋敷を脱出することができた私は、城下町も同じ要領でメインストリートから外れた道を歩き続けて、とうとう都市の外側に出ることにも成功していた。
「これが……世界……」
馬車に揺られて連れてこられたときにはわからなかった草の匂いや風の鳴く声。
イーステン王国にいた頃にも、ウェスタリア神聖皇国のお屋敷にいた頃にも、感じることのできなかった世界の圧倒的なスケールが、その輪郭が手触りとして感じられる。
ここから私は、旅に出るんだ。
「……っ……!」
感動していたのも束の間、肌を撫でる夜風の冷たさと、どこかから聞こえてくる獣の遠吠えが、底冷えのするような悪寒として背筋を粟立たせる。
怖い。だけど前に進まなくちゃ。
これ以上私のせいで誰かが不幸になるのが嫌なのなら、優しさから目を背けて一人でいることを受け入れなくちゃいけない。
きつく目を瞑って、決意を固める。
そして、私が足を踏み出した、刹那。
夜そのものが牙を剥いたかのように、心を握り潰す恐怖が本能にこの場からすぐ立ち退くことを選択させた。
「な、なに……?」
『グルルルルル……』
夜の闇から溶け出るように、それは現れる。
闇が敵意を持って形を成したのなら、この形を成すのが道理だと思えるほどの威厳と力強さを備えた、狼の化け物。
シャドウフェンリル──書庫を漁っていたときに見つけた図鑑に書いてあった、生息地不明の怪物だ。
「話し合いの余地は……ない、よね」
『グオオォォォォォン!!!!』
あ、死ぬんだ。
耳をつんざく咆哮が聞こえたその瞬間に理解した。
理解してしまった。私の運命はここで終わりだと。
ここで私は野垂れ死ぬ。
人の優しさを怖がって、拒んで、挙げ句自分のためだけに生きようとした文字通りの悪役令嬢の末路としては相応しいんじゃないかな。
一秒がどこまでも薄く引き延ばされていくような感覚の中、私はきつく目を瞑って──
「伏せていろ!」
「っ!」
「魔剣シュトゥルムヴィント、唸れ!」
『グオオオオオオッ!?』
竜巻の刃が、夜の闇をただ一振りで打ち払って吼える。
真に勇敢な者にしか力を貸さないとされる疾風の魔剣。
それを操っているのは、私をまた助けてくれたその声は。
「気配を辿ってみれば……こんな魔物が出没するところで、なにをしているんだ、君は!」
「ランハルト、様……」
「心配したんだぞ……! 間に合って、本当によかった……!」
シャドウフェンリルという最高位の魔物をたった一撃で討ち払ったにもかかわらず、それを誇ることもせず、ランハルト様は私に囁きかけて肩を抱き寄せる。
「……本当に、心配してくれたんですね」
「当たり前だ。侍女から部屋に君がいないと聞いたときは血の気が引いたぞ、クラリーチェ」
慌てて気配の残り香を追ってみたらこれで、とにかく無事で本当によかった、と、ランハルト様は安堵の息を吐き出しながらそう語った。
私は、一度ならず二度までもこの人に命を助けられた。
でも、嬉しさより先に同じような安堵が先立つのはどうしてだろう。
本当なら、感涙に咽び泣いて、ランハルト様に謝り倒すべきなのに。
なのに、私はこの局面に至っても、まだその優しさを恐れていた。
片方から向けられる矢印の鋭さ。矢印同士がぶつかり合ったときに起きる歪みやヒビ割れ。
……なんとなくだけど、わかっていたんだ。
本当は、ランハルト様は。
でも、私は問いかけずにはいられなかった。
「……どうして、どうして私なんかに優しくしてくれるの……? 私は、あなたの愛を拒んでいるのに。あなたに愛されることが怖くて仕方ないのに。嫌いになってほしかった、いっそあのとき助けないでほしかった! どうして、私を救って……っ……!」
「私は……いや、俺は昔、君のような女の子を助けられなかったんだ」
ランハルト様は悔恨らしき感情に細い眉を歪めて、心の奥で痛み続けている傷口を曝け出すかのように語る。
「えっ……?」
「君が信じてくれるかどうかはわからない。だが、それでも俺の語る言葉に嘘はないと、わかってくれると信じて言おう。俺は……元々この世界の人間じゃないんだ」
なにかが符合していく。
頭の中で、バラバラになっていたピースが急速にその形を取り戻していく。
やめて、と唇が声にならない言葉を紡ぐ。その続きを聞いたら、本当にもう戻れなくなってしまう気がしたから。
「……俺は、好きだった女の子に告白してしまったばっかりに、その子が他の女の子にいじめられて自殺するのをただ見ていることしかできなかったんだ。だから、クラリーチェ嬢。あのとき不当に断罪されかけていた君をその子と重ねて見ていたんだ……本当に申し訳ない。君は君のはずなのに、俺は。俺は……君を助けることで過去の俺を慰めようとしていたんだ」
確信、してしまう。
私は。
彼は。
「九条、くん……?」
「……っ、まさか、君は……!? もしかして……綾音ちゃん、なのか……!?」
「……うん……そっか……君も、いたんだ……」
ぽろぽろと、今まで封じ込めていた堰を切って、涙が溢れ出してくる。
ずっと空っぽだった私が、空っぽじゃない時間を過ごせた相手。ずっと好きで好きで仕方がなくて、本当ならその告白も断るつもりなんてなかった、男の子。
昔からひどく優しくて、ひどくお人好しで。そんなあなたの胸で泣けたならと、なんど夢見たことだろう。
私は今、現実としてその願いを手に入れてしまった。
ああ、大好きな人に抱き寄せられるってこんなにあったかいんだ。こんなに、心地いいんだ。
でも、その分怖くなってしまう。またいつか、愛し、愛された分だけの揺り戻しが不幸としてやってくることが。
そう言って泣きじゃくる私の髪を、彼は優しく撫でながら、耳元で囁いてくれる。
「もう大丈夫だよ。その不幸を跳ね除けるために俺は強くなったんだ。君のために、君のためにずっと……! だから、なにがあっても君を守る。そうじゃなきゃ、君の後を追いかけてきた意味がないから」
「……っ……!」
「だから、君は幸せになって、いいんだ。いや、俺が……今度こそ、一生をかけて君を幸せにする!」
これは、夢だろうか。
いや、違う。
紛れもなく現実なのだと、湧き出る涙が、今までの痛みと引き換えに心の傷から滴る透明な血液がそう教えてくれていた。
「……どう、呼べばいいのかな」
「ええと……それは、確かに」
「ふふっ。じゃあ……私のことはクラリス、って呼んでくれるかな。ランハルト様」
「君に様づけで呼ばれるとなんか背中がむずむずするな……こほん。お安いご用だ、クラリス」
さあ、御手を。
いつかのように、優しさと愛を掌に乗せて差し伸べられたその手を、私は包み込むように握り返す。
今度こそ、離さないように。今まで理由をつけて拒み続けてきた優しさと愛を、もう二度と取りこぼさないように。
◇
「クラリス。君のためにこの薔薇たちは咲いてくれたのかもしれないな」
「ふふっ、冗談がお上手です。ランハルト様」
「冗談のつもりはないのだがな……」
それから、季節が巡り巡って一年の時が経った。
私は正式にランハルト様の結婚相手として認められ、ウェスタリア神聖皇国も婚約破棄の問題はイーステン王国側にあるという見解を内外に示している。
そして、当のイーステン王国側も、第一王子が公共の場で婚約を破棄するという暴挙を静観するわけにはいかなかったのか、第二王子のローレンス殿下に王位を継承する方向で動いているらしい。
風の噂で聞いただけだから、真実はわからないけど。
でも、私にとってはどうでもいいことだ。
だって、もう関わりのない国だもの。
「失礼いたします。旦那様、奥様。お手紙が届いております」
「ディアーチェ、今は茶会の最中だが」
「私は構いません、ランハルト様。どなたからですか?」
クラシカルなメイド服に身を包んだお屋敷のメイド長、ディアーチェさんは小さく咳払いをすると、その手紙の差出人を読み上げる。
「イーステン王国第一王子、ヴィクトル・フォン・イーステン様からです」
「一応読んでおこう。手紙を」
「かしこまりました」
ディアーチェさんから受け取った封筒をランハルト様は懐に忍ばせていたペーパーナイフで開けて、中からその手紙を取り出し──小さく笑った。
「どのような内容だったのですか、ランハルト様?」
「いや、なに……アカリ嬢の金遣いが荒すぎて領地の経営がままならないと泣き言が書いてあってな。自分から絶縁した相手にも助けを求めるほど必死らしい」
「まあ」
自業自得もいいところだ。
愛したら、愛した分だけの罰を受ける。
それがヴィクトル殿下とアカリの間に訪れた咎であり罪であり、罰だったのだろう。
「……とはいえ、もう君には関係のない話だ。クラリス」
「はい。ランハルト様」
くすりとその泣き言を一笑に付して、私はケーキを口に運んだ。
私たちの間にどんな罰が訪れるのかはわからないほど、日々大きく大きく愛は育ち、高め合っていく。
だけど、今度こそ。今度こそ守ってくれると、幸せにすると言ってくれた人がいるから、私はもう、愛を怖がることなんてしない。
例えどんな結末が訪れるとしても、その瞬間までこの人を、ランハルト様を愛し抜いて、そして一緒に終わりを迎えるのだ。
「クラリス、君はいつも愛しい。愛しているよ」
「……んっ。もう、ランハルト様」
「ん……ケーキの味がしたな」
「当たり前です」
だからこうして、胸の内に一欠片も逃さず取り込んで、幸せになるんだ。
そんな誓いと願いを込めたベーゼを交わして、私たちは他愛もない話に耽る。
空っぽはもう、どこにもなかった。