失われたもの
クラン伯爵家を訪れたイライアスは、テーブルを挟んで腰掛けている華奢で色白なロゼリアを、切ない思いで見つめていた。
王立学院でロゼリアを一目見た時、イライアスはまるで雷に打たれたかのような衝撃を受けた。何不自由のない恵まれた生活をしながらも、自分には絶対的な何かが欠けているような、どこか満たされない思いを抱えていた彼にとって、その理由がわかった瞬間だったからだ。ロゼリアを見た途端、彼には前世の記憶がみるみるうちに甦った。
悩みはしたものの、ロゼリアと話したい、前世について彼女に尋ねたいという気持ちを抑えきれなかった。彼女に前世の自分の名前を呼ばれた時には、心が震えた。
美しい亜麻色の髪に、アメジストのような輝きの強い瞳。ロゼリアのその色合いは、彼女の前世であるリュシリエールーー珍しい菫色の髪に、金色の瞳をした女神のような女性だったーーとは違ったけれど、彼女は確かにかつての婚約者に違いないと、彼はロゼリアと会う度に感じる。それは、彼女が纏う空気感もさることながら、ロゼリアの優しい気質も一つの大きな理由だった。
ロゼリアはイライアスを避け続けていたし、彼に対しては随分と素っ気ない態度を示していたけれど、それでも完全に冷たくなりきれてはいない。この日も、ロゼリアの言葉にイライアスが表情を翳らせた時、それ以上に傷付いたような顔をした彼女に、彼は愛しさを覚えずにはいられなかった。
(前世の頃から、こういう人の好さも相変わらずだな)
本人に自覚はないのだろうけれど、いくら距離を置かれても、イライアスには彼女の優しさが感じられる。
けれど、温和な顔に似合わず、彼女の口元が頑なに引き結ばれている様子を眺めて、イライアスの胸は深く痛んでいた。
(俺はどれほど、彼女を傷付けてしまったのだろう……)
婚約者として彼を長年支え続けてくれた前世のロゼリアを、大勢の人々の前で酷く裏切ったのだ。前世で婚約破棄を告げた時の彼女の表情は、前世の記憶の中で彼の目に焼き付いている。
イライアスの前にいるロゼリアの瞳から読み取れるのは、ただ彼に対する拒絶の色だけだった。
ロゼリアにまた自分を殺すつもりかと問われても、イライアスは咄嗟に言葉を返せなかった。自分が前世の彼女の死のきっかけを作ってしまったことを考えれば、それは誤解だと釈明する権利など、自分にはないように感じられたからだ。
親しい友人と過ごしている時のロゼリアは、まるで花が綻ぶように明るく笑う。けれど、彼が話しかける瞬間、彼女の表情はいつだって凍り付く。恐怖、嫌悪、困惑といった負の感情が彼女の顔に浮かぶ様子を、イライアスはただ眺めることしかできなかった。
今更謝罪の言葉を並べても、きっとロゼリアには届かないのだろうということも、これまでの彼女の様子から想像がつく。
それでも、イライアスにはロゼリアを諦めることはできなかった。この縁談も、かなり強引に外堀を埋めて急いだものだ。彼女に手を伸ばしたくなる衝動を、イライアスは必死に堪えた。
(あの時、俺は君の手を放すべきではなかった。……俺が間違っていた)
リュシリエールだった時の彼女の絶望を滲ませた顔が、目の前のロゼリアの顔に重なる。前世の婚約破棄に対して、今回は真逆の求婚だったものの、彼女が浮かべている表情は同じだ。
前世では、信頼しきった様子で、愛情に満ちた笑顔を自分に向けてくれた彼女だったけれど、今となってはそんな過去があったことが嘘のようだ。イライアスは、それは当然だと理解しながらも、心にぽっかりと穴が空いたような感覚を覚えていた。自分の前世の行動は悔やんでも悔やみきれなかったけれど、過去に戻ることはどうしたって叶わない。
彼は静かに口を開いた。
「君を両親に紹介したいのだが、近々アルレイ侯爵家に招待させてはもらえないだろうか」
「……その前に、少しだけ気持ちを整理する時間をいただけませんか?」
ロゼリアがイライアスを見つめる。彼女の虚ろな表情に、彼の胸は再びずきりと痛んだ。
多くの令嬢たちは、わかりやすく好意を表に出して彼に近付いてきたけれど、ロゼリアは正反対だった。彼女からは、彼に対する好意や興味は微塵も感じられない。
そんなロゼリアが、自分との結婚を歓迎しているどころか、心底嫌がっていることを、イライアスはもちろん知っている。そして、結婚の諾否の決定権は今、彼女の手の中にある。
それでも、ロゼリアは自分を犠牲にしても、クラン伯爵家を、そして伯爵家当主である父を守ろうとするだろうと、イライアスは確信に近いものを持っていた。
「わかった。君からの連絡を待っているよ」
イライアスが席を立つ。ロゼリアも椅子から立ち上がると、イライアスの視線を避けるようにして、彼の一歩後ろについて部屋を出た。
応接間のドアが開く音に気付いてやって来た父と一緒に、ロゼリアは笑顔のないまま、イライアスが乗り込んだ馬車を青白い顔で見送った。