ふいうち
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王立学院の期末試験が近付いたある日、ジェマは辺りを見回すと、どこか残念そうにロゼリアに向かって話し掛けた。
「最近、イライアス様のお姿を見掛けなくなったわね」
「そうね」
ほっとした様子でさらりと答えたロゼリアとは対照的に、ジェマの眉尻が下がる。
「勿体ないな。せっかくイライアス様とお近付きになるチャンスだったのに、いつも彼を見ると逃げちゃうんだもの。浮いた話もないイライアス様にあんなに気に入られてたのは、ロゼリアだけだと思うわよ?」
ロゼリアは苦笑すると、首を横に振った。
「そんなことないわ、あれはきっと彼の気紛れだったのよ。もう飽きただけだと思うわ」
「そんな風には見えなかったけどな」
親しげに話し掛けてくるイライアスを、頑なに避け続けるロゼリアのことが、これまでもジェマには不思議でならなかった。それに、彼に気に入られたきっかけを尋ねても、ロゼリアはわからないの一点張りなのだ。普段は素直なロゼリアだけに、ジェマもそれ以上は踏み込めずにいた。
実際のところ、ロゼリアにも、イライアスが前世の婚約者だったなどという突拍子もないことは、いくら仲の良いジェマでも言い出せなかったのだ。
「今更かもしれないけど、イライアス様は美形なだけじゃなくて頭も良くて人望もあるし、せめて仲良くなっておけばよかったのに」
確かに、イライアスが美しい外見だけでなく、頭脳や人柄の面でも優れていることは、学院内の評判からも、ロゼリアは十分に知っている。
そんな彼の姿が、前世で婚約していた時の彼と重なることも、ロゼリアがイライアスから逃げ出したくなる理由の一つだった。
(でも、今の私はリュシリエールではないもの。イライアス様には関わらずに、前世のことなんて忘れてしまえばいいだけだわ)
前世の記憶がどうであれ、今の自分はロゼリアとしての人生を歩んでいるのだ。今世では平穏に生きていきたかった。
今世で何かをされた訳でもないというのに、イライアスをあからさまに避けていたことに、多少の気まずさと申し訳なさを感じてはいたものの、それ以上に逃げたい気持ちが勝った。
ロゼリアが友達思いのジェマを見つめる。
「……まあ、もう過ぎたことだし、ジェマも気にしないで。私は図書室に寄って、少し勉強してから帰るわね」
「わかった。また明日ね、ロゼリア」
ジェマに手を振って別れてから、ロゼリアは図書室へと向かった。本の匂いに囲まれた静かな図書室は、彼女にとって落ち着く場所だ。
ロゼリアは図書室の机で教科書とノートを広げた。数学の教授に出題された応用問題のところで、珍しく彼女のペンが止まる。
(困ったわ。こんなところでつまずいている場合じゃないのに)
前世の記憶が戻ってからしばらくというもの、ロゼリアには勉強に集中できない時期が続いていた。ふとした瞬間に足が竦むような光景が甦ってしまい、勉強どころではなかったのだ。授業中も、教授の言葉が右の耳から左の耳へと抜けてしまうことが少なくなかった。
けれど、奨学金の継続がかかった期末試験が迫り、ロゼリアには少しずつ焦りが出始めていた。手を止めたまま教科書とにらめっこをしていた彼女に、背後から声がかかる。
「ロゼリア」
思いがけない声に、ロゼリアの肩がびくりと跳ねる。恐る恐る振り返ると、そこには久し振りに見るイライアスの姿があった。
(どうして、イライアス様がここに?)
イライアスを見上げて、ロゼリアが身構える。
(私になんて、もう興味を失くしたのだろうと思っていたのに)
彼とロゼリアとの共通点は、前世の記憶があるということだけだ。今世では、同じ王立学院に通っている以上の接点はない。前世で愛し合っていたならまだしも、あっさりと自分を棄てた相手がなぜ今更絡んでくるのか、彼女には理解できなかった。
きっと、イライアスの一時の気紛れなのだろうと思っていたロゼリアは、ほとぼりが冷めれば、単なる他人に戻るだけだと思っていたのだ。
油断していたロゼリアは、あいにくこの時一人で勉強をしていたために、近くには頼れるような友人もいなかった。
「随分と難しい顔をしているね?」
近付いてきたイライアスの言葉に、ロゼリアが渋々答える。
「すみませんが、ご覧の通り勉強中なのです。私のことなど放っておいてはいただけませんか」
イライアスは、ロゼリアへの返答の代わりに、彼女の背後から机に両手をつくと、開かれていた数学の教科書を覗き込んだ。
「この問題はね……」
すらすらとイライアスがロゼリアに解き方を説明する。耳元で聞こえる彼の声に、距離の近さを感じて、恥ずかしさにロゼリアの頬が染まる。
背後から逃げ道を塞がれる格好になり、困惑していたロゼリアだったけれど、要点を押さえた彼の説明につい聞き入っていた。
(悔しいけれど、わかりやすいわ。さすが優秀と言われるイライアス様ね)
疑問が解けたロゼリアは、はっと我に返ると、まだ表情に警戒を滲ませつつも彼に礼を述べた。
「教えてくださって、ありがとうございました。……では、私はこれで失礼します」
ロゼリアには、これ以上イライアスと話す気はなかった。
教科書とノートを閉じて、イライアスを振り払うようにして椅子から立ち上がったロゼリアに、彼が尋ねる。
「他に、何か俺が役に立てそうなことはないかい?」
「いえ、もう十分です」
取り付く島のないロゼリアを、イライアスがじっと見つめる。
「君は、奨学金で王立学院に通っているそうだね」
「ええ。それが何か?」
「勉強熱心で優秀だと思ったんだ。……そういうところも、変わってはいないね」
彼が前世のことを示唆しているのだということは、ロゼリアにはすぐにわかった。
胸の中にざらりとした感覚を覚えた彼女からは、思ったよりも冷えた声が出た。
「そういうお話は結構です」
鞄に教科書とノート、ペンケースを詰め込んで、急ぎ足で立ち去ろうとした彼女の腕を、イライアスが咄嗟に掴む。
「君に話があるんだ。クラン伯爵家にとっても、悪い話ではないと思う」
(……私の実家の状況が悪いことまでご存知なのね)
実家の名前を出されて、一瞬逡巡したロゼリアが溜息混じりに返す。
「……なら、手短にお願いできますか?」
「俺との結婚を考えてはもらえないだろうか」
イライアスの言葉に、ロゼリアの思考が止まる。
「……は?」
彼女は顔を引き攣らせて固まった。
政略結婚が大半の貴族社会で、いくらでも相手を選べる彼が格下の家の自分に求婚するなど、常識的に考えてあり得ない。しかも、前世では自分との婚約を一方的に破棄してきた彼のその言葉は、ロゼリアの想像から最も遠いものだった。
(どれだけ私をからかえば気が済むの? 前世で私を傷付けただけでは、まだ足りないのかしら)
怒りと失望に眩暈を覚えて一呼吸置いたロゼリアが、ようやく口を開く。
「ご冗談はおやめください」
短くそれだけ答えたロゼリアが、イライアスをきっと睨み付ける。
「いきなりこんなことを言って、驚かせてすまない。頼むから、少しだけ話を……」
イライアスの言葉を、ロゼリアが強い口調で遮った。
「失礼します」
ロゼリアは、彼に背を向けて逃げるように図書室を出て行った。
その後、ロゼリアはイライアスをさらに徹底して避けるようになる。
イライアスが次にまともにロゼリアと言葉を交わすのは、彼女の父に正式な縁談を持ち込んだ彼が、クラン伯爵家を訪れる時になるのだった。