ロゼリアの涙
ロゼリアが黙っていると、アーサーが彼女に食事を勧めた。
「冷める前にどうぞ?」
「……はい」
濃厚なソースのかかったステーキに、ロゼリアがナイフを入れる。小さな一切れを口に運び、ようやく飲み込んでから、彼女はナイフとフォークを置くと彼に尋ねた。
「私がお断りしたら、アーサー様はどうなさるおつもりなのですか?」
ロゼリアにはイライアスと離婚するつもりはなかったけれど、クラン伯爵家に彼が何をするのかが心配だった。彼が重要な債権者であることに変わりはないからだ。
不安気にアーサーを見つめるロゼリアに、彼が微笑む。
「そうだな。ずっと君を僕の手元に閉じ込めておこうかな」
「えっ?」
想像の斜め上を行く彼の返答に、ロゼリアは全身から血の気が引くのを感じた。
「そんなこと、できるはずがありませんわ。イライアス様やお父様が探しに来てくださるはずです」
「僕は、手段は選ばないんだ。そんなことをしたくはないけれどね」
アーサーがにっこりと笑う。
「せっかくまた会えた君には、できれば自由に過ごして欲しい。こういう店に来て食事をしたり、さっきのように服を選んだりしてさ。僕を選んでくれるなら、いくらでも贅沢をさせてあげるし、大切にすると約束するよ」
ロゼリアは言葉を失っていた。ぞわりと嫌な感覚が背筋を駆け抜ける。
「リュシーと過ごせるなら、君の家の借金だって棒引きにするし、君の家の品物だって優先して扱っていくつもりだ。クラン伯爵家にとっても、悪い話ではないと思うよ」
「……私の名前は、ロゼリアです」
何気なく前世の愛称を呼ばれて、思わず言葉を返したロゼリアに、アーサーは不思議そうに言った。
「気に障ったなら謝るよ。でも、僕にとっての君はリュシーでもあるから」
(アーサー様には、前世の私しか見えていないのでしょうね)
アーサーはイライアスとは違うとロゼリアは思った。イライアスは、前世のリュシリエールの存在を認めながらも、今のロゼリアのことを見てくれる。そのことが、ロゼリアには嬉しかったのだ。
しばらく経って、デザートが運ばれてきた。二人が食後のコーヒーを飲んでいる時、アーサーは顔色の悪いロゼリアを見つめた。
「ちょっと脅かしすぎたかな、ごめんね。でも、君にはどうしても僕を選んで欲しくて」
必死な表情をしたアーサーから、ロゼリアは困ったように視線を逸らすと庭を眺めた。
(どうして、こんなことに……)
月明かりに淡く照らされた庭を眺めた彼女の目が、はっと瞠られる。ロゼリアはコーヒーのカップをソーサーに置くと、顔を上げてアーサーを見つめた。
「この後、庭に出てもいいですか?」
「いい考えだね。一緒に散歩でもしようか」
アーサーの口元が綻ぶ。二人が並んで庭に出ると、ロゼリアはアーサーを見つめた。
「ごめんなさい。私はアーサー様を選ぶことはできません」
「……考え直すつもりはないかい?」
「ありません。私はイライアス様の妻ですから」
ロゼリアの声に応えるかのように、庭の茂みからイライアスが姿を現した。ガラス越しに店内にいるロゼリアに合図をした彼に、彼女はさっき気付いたのだ。
アーサーが彼を見て顔を顰める。
「いつからここに?」
「ついさっきだよ。ロゼリアを迎えに来たのだが、店の者に言っても店内に入れてもらえなかったから、仕方なく庭から入ったんだ。……ロゼリアに何をした?」
ロゼリアを背に庇ったイライアスの目が、鋭く細められる。アーサーは一つ溜息を吐いた。
「……彼女には、まだ何もしていませんよ」
イライアスはロゼリアを振り返ると、手を差し出した。
「帰ろう、ロゼリア」
「はい」
手を取り合って去っていく二人の姿をしばらく眺めていたアーサーは、苛立った顔で店内に戻ると、店の男性に一言耳打ちした。
店員の服装を身に着けてはいるが、怜悧な顔つきをした男は、頷くと足早に店を出て行った。
庭から門に続く小道をイライアスと走ったロゼリアは、彼と一緒に、店の外に繋いでいた馬の背に乗った。ちょうどイライアスの前に乗る形になった彼女は、彼の胸に身を預けながら、今更湧き上がってきた恐怖に身体を震わせていた。
イライアスが心配そうに彼女に尋ねる。
「遅くなってすまなかった。大丈夫だったかい?」
「ええ。来てくださってありがとうございます」
「……アーサー殿が前世のダミアンだったとはな」
彼は硬い顔で唇を噛んだ。ロゼリアがイライアスをちらりと振り返る。
「イライアス様は、アーサー様が前世のダミアン様だったとすぐに気付いたのですか?」
「さっき彼と向き合って初めてわかった。アーサー殿のほうは、既に気付いていたようだったな」
「アーサー様から、さっき伺ったのですが……」
ロゼリアは、アーサーから聞いた話を、前世のことも含めてぽつりぽつりとイライアスに話した。イライアスは、厳しい表情で彼女の話に耳を傾けていた。
アーサーに言われたことが、ロゼリアには未だに信じられないような心地がしている。自分に求婚をされたことはもちろん、彼の異常なまでの執着が怖かった。
『ずっと君を僕の手元に閉じ込めておこうかな』
『僕は、手段は選ばないんだ』
アーサーの言葉が耳に甦り、再びロゼリアがふるりと身体を震わせる。
(さすがに、あれは冗談よね……?)
イライアスが操る馬は、山道に差し掛かっていた。道の片側は、急な斜面に面している。ごつごつとした足下の悪い道で、イライアスが馬の速度をやや落とした時、馬が突然大きく嘶くと、ぐらりとバランスを崩した。
馬上から暗い斜面に向かって投げ出される格好になったロゼリアの身体に、必死にイライアスが腕を伸ばす。
「ロゼリア‼︎」
暗闇に吸い込まれていくような感覚の中、イライアスの力強い両腕が、自分の身体をぎゅっと抱き締めるのを感じながら、激しい衝撃にロゼリアは意識を手放した。
***
ロゼリアが目を覚ました時、彼女の傍らには父が寄り添っていた。
「気が付いたんだな、ロゼリア」
安堵の滲む父の顔を見つめて、ロゼリアがゆっくりと目を瞬く。
「お父様? あの、ここは……」
「病院だよ。君は半月近くも眠ったままだったんだ」
「半月も? どうして、私……」
「山道で馬の背から放り出されて、山の斜面から滑落したんだよ」
ぼんやりとしていた意識が次第にはっきりしてきたロゼリアは、何が起きたのかを思い出してはっと上半身を起こした。青ざめた顔で父に尋ねる。
「イライアス様は?」
「彼も近くの病室にいるよ。もう意識も戻っている」
「よかった、ご無事だったのですね」
ほっと胸を撫で下ろしたロゼリアだったけれど、父は言いづらそうに眉尻を下げた。
「だが、かなり酷い怪我を負っていてね。君は奇跡的に外傷がほとんどなかったのだが、彼は……」
(イライアス様は、私を庇って……!)
真っ青になったロゼリアはベッドから跳ね起きると、腕の点滴の針を抜いた。ロゼリアの声が掠れる。
「イライアス様の病室を教えていただけますか?」
「ああ」
胸が嫌な音を立てるのを感じながら、ロゼリアは父の後についてイライアスの病室へと向かった。
イライアスの病室には、エイベルが付き添っていた。ベッドの上に横たわるイライアスを見て、ロゼリアが青ざめる。
痛々しく全身に包帯が巻かれたイライアスの姿を見て、ロゼリアの目に涙が滲む。すぐにイライアスの側に駆け寄った彼女は、包帯が巻かれた彼の手にそっと触れた。
「イライアス、様……」
「よかった、君が無事で」
イライアスは声を震わせると、ゆっくりと手を伸ばして、ロゼリアの身体を優しく抱き締めた。
「君が目を覚まさなかったらと思うと、気が気ではなかった」
大粒の涙が、ぼろぼろとロゼリアの頬を伝う。
「イライアス様が、私の身体を庇ってくださったお蔭です。貴方様がいなかったら、私は死んでいたはずです」
力強い彼の腕と、彼女の身体に被さるように覆う温かな彼の身体を、ロゼリアは思い出していた。
「あの時、何があったのでしょうか。急に馬が暴れたようだったのですが」
「馬が撃たれたようだ」
「撃たれた? どうして……」
そこまで言いかけてから、ロゼリアははっと口を噤んだ。
(……まさか、アーサー様が?)
顔色を失っているロゼリアの頭を、イライアスが撫でる。
「もう、全部片が付いたよ」
「どういうことですか?」
「アーサーは捕まって、今は牢の中だ」
「……! あの後、いったい何があったのですか?」
部屋の奥にいたエイベルが、イライアスの言葉を継いだ。
「あの日、普段と違ったイライアスの様子が気になって、僕もクラン伯爵家に立ち寄ったんだ。だが、ロゼリアさんとイライアスが帰って来ないと、君の父上が気を揉んでいてね。僕も使用人を連れて、君たちが行ったという店に向かったら、途中の山道で騒ぎが起きていたんだ」
「騒ぎ、ですか?」
「ああ。クラン伯爵家の馬が山道に倒れていて、その脇をたくさんの松明の灯りが照らしていた。君たち二人の捜索が行われていたんだ。捜索を指揮していたのはアーサー殿だった」
「……アーサー様が?」
ロゼリアは戸惑いに首を傾げた。
「私たちを襲ったのは、アーサー様ではなかったのですか?」
「馬に残っていた銃痕と当時の状況から、アーサー殿が部下に命じたと後からわかったのだがね。彼は、どんな手を使ってもいいから、ロゼリアさんを連れ帰るようにと部下に命じていたようだ。だが、狙い通りにいかなかったのか、結果として、君たち二人は山の斜面に落ちて姿を消した」
(私のせいで、イライアス様を巻き込んでしまった)
ロゼリアの胸がずきりと痛む。エイベルは続けた。
「彼は僕にも助けを求めてきたんだ、どうか君たちを探すのを手伝って欲しいと。アルレイ侯爵家からもさらに人を出して、ようやく君たちが見付かったのは明け方頃だった。イライアスは酷い怪我だったが、辛うじて意識はあった。逆に、イライアスの腕の中にいたロゼリアさんには目立つ傷はなかったものの、いくら呼んでも目を覚まさなかったんだ。……そんな君を前にして、アーサー殿は半狂乱だったよ」
ショックを受けている様子のロゼリアを、エイベルは気遣わしげに見つめた。
「また君を殺してしまったと、よくわからないことを言って頭を抱えていた。いつも冷静で食えない男だった彼があれほど混乱しているのは、僕も初めて見たよ。その場の状況から彼を問い詰めると、君たちを部下に襲わせたことを認めたんだ」
「そんなことが……」
「アーサー殿は、言い逃れをしようとすればいくらでもできただろう。あっさりと罪を認めたことに、僕も驚いたくらいだ。だが、君がいないなら何もかもが無駄だと、放心したように洗いざらいすべてを吐いたんだ。彼には後ろ暗い噂もあったのだが、どうやらよからぬ連中とも繋がっていたようでね。君たちに関係しない余罪がいくつも出てきたから、牢からは当分出られないだろう」
ロゼリアは胸の奥が鈍く疼くのを感じた。彼に前世の記憶がなかったら、または彼女への執着がなかったなら、このように人生をふいにすることもなかったのではないかと、切なく悲しい思いが込み上げる。
イライアスがロゼリアを見つめた。
「彼は代償として、クラン伯爵家に対するすべての債権を放棄することに同意した。それに、この家に対して裏で圧力をかけていたことも認めたんだ。もう、これでクラン伯爵家は大丈夫だよ」
「そんなことより、イライアス様のお身体が……」
再び泣きそうになったロゼリアに、イライアスは微笑んだ。
「俺のことはいいんだ。……義父上、兄上、ロゼリアと少し二人にしてもらっても?」
ロゼリアの父とエイベルは、頷いて目を見交わすと、二人を残して病室を出て行った。
次話で完結です。




