忘れられない人
本日二度目の更新です。
誤字報告をありがとうございます、修正しております。
固まっているロゼリアの腕を掴んだまま、アーサーが口を開く。
「せっかくだから、まずは食事を楽しむのはどうかな?」
アーサーの口調が元に戻ったことを感じながら、ロゼリアは店内を見渡した。あえて照明を落としてある仄暗い店内には、遠くに数人の店員の姿は見えるものの、助けを求められるのかどうかはわからなかった。全員がロゼリアの言葉になど耳を貸さず、アーサーに従う可能性も捨て切れない。
(お父様は、イライアス様が帰ったら伝えてくださると仰っていたわ。アーサー様と食事をしながら、とりあえず時間を稼ぐのが一番良い方法かもしれない)
頷いたロゼリアを見て、アーサーが彼女の腕を放す。彼女が再び椅子に座ったのを見届けてから、彼も席に着いた。
店員が二人の元にスープを運んでくる。アーサーが店員に目配せをした様子から、恐らく店の者に助けを求めても難しいのだろうとロゼリアは感じた。
スープからは良い香りが立ち上っていたけれど、ロゼリアには緊張と恐怖で味がよくわからなかった。
「君は、前世で王太子殿下に婚約破棄されたことを覚えてはいないのかい?」
「婚約破棄のことは、イライアス様に会って思い出しました」
「なら、どうして前世で君を裏切った男と結婚を?」
「はじめは、クラン伯爵家を助けていただくことが目的だったのです」
忌々しそうにアーサーが顔を歪める。
「けれど、前世で私を革命に巻き込まないようにするために、あえて彼が婚約破棄なさったのだと気付いてから、まったく見方が変わりました。……前世の貴方様は、そのことを知るただ一人の側仕えだったのではありませんか?」
非難めいたロゼリアの口調に、アーサーが苦笑する。
「そんなことまで気付いていたのか。聡いな、君は。……王太子殿下は、誠実で温厚だったし頭も切れたが、真っ直ぐすぎたせいか、少し不器用なところがあったからね。だが、そういう殿下を心から慕う前世の君を見ていて、殿下が羨ましくてならなかった」
「エルドレッド様は、貴方様のことを心から信頼していたのに」
悲しそうに呟いたロゼリアは、スプーンを置くとアーサーに尋ねた。
「アーサー様は、前世で英雄と呼ばれていらしたのですよね。前世でもすべてを手に入れていらしたのではないのですか?」
「……君以外はね」
どうして私を、と言いかけた言葉をロゼリアが呑み込む。
アーサーの目がすっと細められた。
「英雄といったって、民衆の望み――あの時は、王族の抹殺と政権の一新だったが――を叶える舞台を、彼らの希望通りにお膳立てしたという、ただそれだけのことだよ」
「そうでしょうか? それでは、あのように歴史に名前が残らないのではありませんか。私もダミアン様のことを尊敬していました。ダミアン様が優れた施政者だったからなのでは……」
前世のアーサーは、せめて良政を行っていたのだとロゼリアは信じたかった。
ふっと彼が笑みを零す。
「君にいいことを教えてあげようか。正しさや善人であることは、名誉や名声には繋がらない。結局は、力のある者が勝つんだ。歴史だって、勝者の目から見たものにすぎない」
口を噤んだロゼリアに、アーサーが続ける。
「あまりに清い理想や信念を貫くよりも、時には泥水だって飲むくらいの覚悟でいたほうが力は得られる。今世では、貴族ですらない身分からのスタートだったから、前世の知識で使える部分は限られてはいたが、その記憶はとても役に立ったよ」
「今も、アーサー様は大きな成功を収めていらっしゃいますものね」
アーサーの商売の手腕は天才的だと評されている。それは間違いなく彼の天賦の才と努力の賜物なのだろうと、ロゼリアは思った。
「まあ、世間的に見ればそうかもしれないね。だが、僕が欲しかったのは成功じゃない。君なんだ」
彼にじっと見つめられて、ロゼリアの顔に再び緊張が走る。
「いくら前世の記憶があるといっても、私などよりずっと素敵な女性はたくさんいますし、アーサー様ならいくらでもお相手を選べるでしょう?」
「僕は力を得るために成り上がってきた。でも、ずっと虚しかったんだ。前世で英雄と言われるようになってからも、溢れるほど多くのものを持っていたし、美しい女性にも囲まれていたはずなのに、心の中には埋まらない空白があった。自分をいくら責めても戻ってこない君が、ずっと心の中にいたんだ」
アーサーが自嘲気味に笑う。
「どうして、これほど君が忘れられないんだろうね? 頭ではわかっているんだ、君を忘れたほうが幸せだろうって。でも、どうしても忘れられなくて、前世の想いを引き継いだまま生まれて、こうしてまた君に会えた。……あと、もう少しだと思ったんだがな」
微かに顔を歪めたアーサーの前で、ロゼリアが首を傾げる。
「もう少し?」
「ああ。君を手に入れるまで、もうほんの少しのはずだったんだ。今更隠しても仕方ないから、正直に言うよ。クラン伯爵家は僕の意向一つで首が回らなくなる寸前だった。クラン伯爵家に貸し付けた資金と引き換えに、僕は君をもらい受けるつもりでいた」
「‼︎」
ロゼリアがはっと息を呑む。
「では、私の家の状況がここ数年厳しくなっていたのは……」
「そう、裏で君の家に手を回していたのは僕だ。僕が成功して、多方面に人脈と力を得てからは、君の家の顧客を奪うことも、取引価格に影響を与えることも造作なかった。それくらいのことをしないと、貴族位すらない僕には、君を望むことは難しかったからね。……彼が急に君を攫っていかなければ、今頃、君は僕のものになっていたはずだ」
悔しそうにアーサーが続ける。
「神は不公平だと思わないかい? 彼は前世は王太子で、今世は侯爵家の子息だ。僕は自分の腕一本でのし上がらなければ、こうして君に手を伸ばすことすら叶わなかったというのに」
アーサーは手を伸ばすと、ロゼリアの亜麻色の髪をするりと撫でた。彼女の肩が小さく跳ねる。
「今の地位だって、君のために築いたものだ。今度こそ、君には僕のものになってもらうよ」
ロゼリアの気持ちを無視して執着するアーサーの言葉と、その瞳に浮かぶ狂気じみた光に、ロゼリアの背筋が冷える。天才と狂気は紙一重なのかもしれないと感じながら、彼女は言葉を失っていた。
彼と話している間に、横から新しい料理の皿がいくつも置かれていた。メインに提供された肉料理を眺めながら、いつまで時間を延ばせるのか、そしてイライアスはいつ来るのだろうかと、ロゼリアは不安を募らせていた。
***
イライアスを乗せた馬車がクラン伯爵家に到着すると、彼は嫌な音を立てる胸を抱えて屋敷に駆け込んだ。
廊下を走り、ロゼリアの部屋をノックしたけれど返事はない。義父を見付けたイライアスが、焦りを押さえて尋ねる。
「義父上。ロゼリアがどこにいるか知りませんか?」
「ああ。君が帰ってきたら伝えようと思っていたのだが、さっきアーサー殿と一緒に出掛けたよ」
「アーサー殿と?」
イライアスの顔が青ざめる。
「何でも、この家のワインを出す予定のあるレストランで、ロゼリアにも料理などに意見を聞きたいという話でね。ロゼリアは、君が帰ってきたら、できれば後から合流して欲しいと言っていたのだが、君の都合はどうかな?」
「すぐに向かいます。店の場所を教えてもらえませんか?」
(ロゼリア、無事でいてくれ)
義父からレストランの場所を聞いたイライアスは、クラン伯爵家の屋敷を走り出ると、用意のできていた馬に飛び乗って店へと向かった。




