誘い
長かった休暇が終わり、王立学院の最終学年が始まった。再び奨学金を得られることが決まったロゼリアは、胸を撫で下ろしていた。
クラン伯爵家では、アルレイ侯爵家からの支援とイライアスの助けによって再建の道筋が見えてきたとはいえ、現状ではまだ苦しい状態が続いている。父の体調もあまり思わしくはなく、ロゼリアはできる限り家に負担をかけたくはなかった。父は、娘に心配をかけたくなかったためか、これまではあまり家業のことを詳しく話してはくれなかったけれど、イライアスが婿入りしてからは、三人で事業の状況について話す機会も増えている。
ようやく家業の実態を知ったロゼリアは、売上が落ち、借り入れを増やしてどうにか事業を保っていたことに、背筋が冷える思いがした。
(イライアス様がいなかったら、今頃は……)
以前アーサーが屋敷に来ていた時の、父とのやり取りを思い出す。その後に話したアーサーの柔らかい印象とは対照的に、父に更なる借り入れを依頼された様子のアーサーは、厳しい雰囲気を醸し出していた。
(アーサー様からの借り入れが難しくなったなら、どうなっていたかわからないわ)
今もクラン伯爵家にとって資金の重要な提供元であるアーサーとの関係を、せっかくなら円滑にしたいとロゼリアは考えていた。いずれにしても、借り入れた資金は返済しなければならない。貸手であり、取引先でもある彼とは良好な関係を築きたかった。彼から声を掛けてもらったワインの話も、上手く進めばクラン伯爵家にとって非常に良い話だ。
授業が始まってからしばらく経ったある日、王立学院から帰宅したロゼリアに、父が慌てた様子で声を掛けた。
「アーサー殿がいらしたのだが、ロゼリア、お前も来れるかい? 今、応接室でお待たせしているんだが、是非お前と話したいと仰っているんだ」
「はい、これからまいります。イライアス様もご一緒ですか?」
「いや、彼は今、外の顧客のところに行っていて、まだ帰ってきてはいないんだ。もうじき帰ってくるとは思うがね」
「そうでしたか。では、制服から着替えたらまいりますね」
「ああ、待っているよ」
急いで私服に着替えたロゼリアは、応接室に向かった。一歩部屋に入ると、アーサーが明るい笑顔をロゼリアに向ける。
「来てくれてありがとう、ロゼリアさん」
「いえ。クラン伯爵家までご足労くださってありがとうございます、アーサー様」
テーブルを挟んでアーサーの前にロゼリアが腰掛けると、彼は嬉しそうに彼女の父を見つめた。
「先日、僕が出資することになったレストランで、偶然ロゼリアさんに会いましてね。彼女にはその時お話ししたのですが、これからレストランでより客足を増やしたい若い女性のご意見を、是非取り入れていきたいのです。貴伯爵家のワインも気に入りましたし、これを機にロゼリアさんにご協力願えませんでしょうか」
アーサーはロゼリアに目配せをすると続けた。
「ご協力いただいた暁には、貴伯爵家のワインを今まで以上に多く仕入れさせていただきたいと思っていますし、今後の貸し付けにも便宜を図らせていただきますよ」
ロゼリアの父は戸惑ったように答えた。
「ありがたいお話ですが、娘はまだ学生です。学業もありますし、アーサー殿のお役に立てるかどうか……。それから、貸していただいている資金は、ようやく返済の目途が立ってきました。これ以上の借り入れはお願いせずとも済みそうです」
彼の言葉に、アーサーの眉がぴくりと上がる。
「それは何よりですが、大切なお嬢さんにご無理をさせるつもりはありませんので、その点はご安心を。……ロゼリアさん、貴女のご意見を伺えませんか?」
「私はお酒に強くはありませんし、ワインについても学び始めたばかりなのですが、それでもアーサー様のお役に立てそうでしょうか?」
「ええ、もちろん構いません。無理して酒を飲まなくても、料理や店の雰囲気などにロゼリアさんの視点からご意見をいただけるなら、それで十分です」
アーサーに見つめられ、ロゼリアは父に向かって微笑んだ。
「大丈夫ですよ、お父様。アーサー様もあのように仰ってくださいましたし、私でよいなら是非お手伝いしたいと思います」
「そうか。ロゼリアがそう言うならわかったよ」
「これで交渉成立ですね」
上機嫌に笑ったアーサーが、ソファーから立ち上がった。
「では早速ですが、できればこれからロゼリアさんのお時間をいただけませんか? 人気のレストランを押さえてあるのです。これから貴伯爵家のワインを扱う予定の店なのですが、いかがでしょうか」
「今から、ですか?」
思わず目を瞬いたロゼリアに、アーサーが頷く。
「ええ。ご都合はいかがですか?」
「……大丈夫です。急な話で驚きましたが」
「はは、それはよかった。強引に誘ってしまい、すみません」
「念のためにお伺いしたいのですが、他にも同席なさる方はいらっしゃるのでしょうか。それから、できれば主人に後から合流してもらっても構いませんか?」
ロゼリアは、既婚者の自分が彼と二人きりで過ごすことは避けたかった。アーサーがくすりと笑う。
「ロゼリアさんがご結婚されていることはもちろん知っていますし、使用人もレストランのスタッフもいますから心配はいりませんよ。後からご主人に来ていただくことも問題ありません」
アーサーは、ソファーから腰を上げながらロゼリアの父に視線を移した。
「では、しばらくロゼリアさんをお借りしますね」
「……娘にはこのような経験が少ないので、不慣れな部分もあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
ロゼリアも立ち上がると、父を見つめた。
「行ってまいります、お父様。イライアス様がお帰りになったら、伝えておいていただけますか?」
「ああ、伝えておくよ」
アーサーの隣に並んで、ロゼリアはクラン伯爵家の屋敷を後にした。
***
「僕に時間をくれてありがとう、ロゼリアさん」
馬車の中で、アーサーがロゼリアに笑いかける。
「いえ。こちらこそ、私の家によいお話をいただき、ありがとうございます」
「君の家で扱っているワインは、まだ歴史は浅いようだけれど気に入ってね」
彼はワインについても詳しく、料理との合わせ方やワインにまつわる歴史など、興味深い話をロゼリアに聞かせてくれた。そこから派生した地理や貿易の話など、知識も深く幅広い。巧みな彼の話に、ロゼリアは頷きながら聞き入っていた。
「アーサー様はまだお若いのに、色々なことをよくご存知ですね」
「まあ、仕事絡みで得た知識も多いよ。学がない分、昔から必死に仕事をしてきたからね。さっき、君の家のワインを気に入ったと言ったが、若いのに頑張っている君も応援したくなったんだ」
ロゼリアの頬が軽く色付く。その様子を眺めて、アーサーは続けた。
「王立学院にも、奨学金を得て通っているそうじゃないか」
「よくご存知ですね。……主人も私とほとんど年は変わりませんが、クラン伯爵家に婿入りして支えてくれています。後ほど、アーサー様に紹介させてください」
一瞬アーサーの表情が固まったけれど、彼は気を取り直したように微笑んだ。
「ああ。ところで、レストランに行く前に少し寄りたいところがあるのだが、いいかい?」
「ええ、構いません」
彼の仕事関連なのだろうと思ったロゼリアだったけれど、彼が馬車を止めたのは、一目で高級とわかるブティックの前だった。
呆気に取られたロゼリアを連れて、アーサーが店に入る。彼は慣れた様子で、ロゼリアの服を見繕うように店員に依頼した。
気付いた時には、店員によって美しい薄紅色のシルク地のドレスに着替えさせられ、さらに靴までも履き替えていたロゼリアは、困惑顔でアーサーを見上げる。
「アーサー様。これはどういう……?」
「君へのちょっとしたプレゼントだよ、よく似合っているね」
「こんなに高価なもの、さすがにいただけません」
慌てるロゼリアを眺めながらも、彼は意に介さない様子で満足気に笑った。
「これから行く店には、その服装の方が合うと思うから」
それまで簡素なワンピースと踵の低い靴を身に着けていたことが、ロゼリアには急に恥ずかしく感じられた。
(アーサー様に恥をかかせないように、っていうことなのかしら。そういえば、人気のレストランって仰っていたものね……)
アーサーに誘われるまま気軽に彼についてきてしまったことに、今更ながら後悔が湧き上がる。
(イライアス様にもお声掛けして、時間が合う時に一緒に来ればよかったわ)
優しいけれど押しの強いアーサーに、ロゼリアはどことなく不安を感じていた。
「さ、行こうか」
返す言葉も上手く見付からないままに、彼女は小さく頷いた。




