和やかなひととき
イライアスがクラン伯爵家の屋敷に帰宅したのは、陽が傾き始めた頃だった。既に雨は上がり、頭上に広がる空には茜色が混ざり始めている。彼が馬車から降り立つと、すぐにロゼリアが屋敷の中から出迎えに現れた。
「お帰りなさいませ、イライアス様」
「ただいま、ロゼリア。変わりなく過ごしていたかい?」
「はい。イライアス様は、ご実家ではゆっくり過ごせましたか?」
「ああ。皆元気にしていたし、クラン伯爵家の事業に役立ちそうな話も聞けたよ」
ロゼリアが微笑んでイライアスを見上げる。
「いつもこの家のことを考えてくださって、ありがとうございます。イライアス様がよかったら、休憩を兼ねてこれからお茶でもいかがですか?」
「ありがとう、いただくよ」
嬉しそうに笑ったイライアスは、ロゼリアと並んで屋敷の中に入っていった。
鞄を下ろし、ソファーに座ったイライアスの前に、ロゼリアが紅茶のポットを載せたトレイを運んでくる。彼女がカップに紅茶を注ぐと、芳しい香りが部屋に満ちた。
紅茶のカップを傾けて一息吐いたイライアスは、結婚当初と比べて笑顔が増え、自分から歩み寄りを見せることの多くなったロゼリアを愛しげに見つめた。
「いつもありがとう、ロゼリア。こうして君と過ごせると、生き返るよ」
「ふふ、お仕事お疲れ様です」
「ロゼリアはもうすぐ王立学院の最終学年が始まる頃かな?」
「はい。そろそろ授業に備えて予習をしようと思ったのですが、今日は何だか集中できなくて……」
イライアスを意識するようになってしまい、彼がいない時間を落ち着かなく感じたことは、ロゼリアには言い出せなかった。
ほんのりと頬を染めたロゼリアが口を開く。
「予習は諦めて、代わりにクッキーを焼いていたのです。よろしければ、お持ちしてもいいですか?」
「ああ、是非。楽しみだ」
イライアスが大きな笑みを浮かべる。ロゼリアは恥ずかしそうに目を伏せた。
「ただ、私はあまりお菓子作りに慣れていなくて……。イライアス様がご実家で召し上がっていらしたような焼き菓子には遠く及ばないでしょうから、あまり期待しないでください」
部屋を出たロゼリアが、今度は手に大きな皿を持って戻ってきた。皿の上には、ナッツ入りのクッキーやチーズを練り込んだクッキー、チョコレートクッキーなど、様々な種類のクッキーが並んでいる。甘く香ばしい匂いが、二人の間にふわりと漂う。焼き色が濃くついてしまったことをロゼリアは気にしていたけれど、イライアスはにこやかにクッキーを眺めた。
「良い香りだね、美味しそうだ」
「イライアス様のお口に合うとよいのですが」
「早速いただくよ」
ナッツ入りのクッキーを齧るさくっと小気味よい音が響き、イライアスの口元が綻ぶ。
「とても美味しいよ、ロゼリア」
ロゼリアの顔が嬉しそうに輝く。
「ふふ、お世辞でも嬉しいです」
「お世辞などではないよ、これまで食べた中でも一番だ。もう一枚もらっても?」
「もちろん召し上がってください」
イライアスがじっとロゼリアを見つめる。
「これは、俺のために焼いてくれたと自惚れてもいいのかな?」
「……はい。イライアス様には助けていただいてばかりで、この程度ではお礼にもなりませんが、感謝の気持ちを込めて作りました」
ふっと息を吐いたイライアスは、赤くなった顔を片手で覆った。
「凄く嬉しい。君のその言葉も、俺にとってはこの上ないプレゼントだ」
ロゼリアは、イライアスに対する警戒が解けて気持ちが彼に向くまで、十分なお礼すら言えていなかったことを申し訳なく思っていたのだ。
(私自身、これほどイライアス様に対する気持ちが変わるとは思わなかったわ)
はじめは拒否感からイライアスの顔も見たくないほどだったのに、今では彼の姿が見えないと何だか物足りないような気がしてしまう。大きなマイナスから始まった分、誤解が解けるとプラスの方向に反転するのも速いようだった。
ロゼリアがイライアスを避けていた時、ジェマから「好きの反対は無関心っていうじゃない。そんなに彼を意識してるなら、きっかけさえあれば好きになるかもよ?」と言われたことを、ロゼリアは今更ながら思い出した。ジェマは時として、驚くほど鋭いことを言うのだ。
ロゼリアの気持ちがイライアスにぐっと惹き付けられたのは、彼の誠実な仕事ぶりによるところが大きい。クラン伯爵家を助けるために彼がどれほど尽力してくれているのか、側で見ているロゼリアにもはっきりとわかったからだ。
元々頭脳明晰な上に、前世の知見や経験を仕事に活かしているからか、とても王立学院を出たばかりの卒業生とは思えないほど彼は頼りになった。ロゼリアの父も、優秀と噂のイライアスに期待はしていたようだったけれど、想像を遥かに超える聡明さに驚きを隠せない様子でいる。
ロゼリアはイライアスの前で目を伏せた。
「私、お会いしたばかりの頃から、失礼なことをたくさん申し上げてしまって。こうして我が家のために尽力してくださっているイライアス様に、今更ながら申し訳なく思っています」
「いや、ロゼリアが謝る必要なんてない。前世の記憶があれば、それは当然のことだろう。……それでも、こうして君が向き合ってくれるようになったことが、俺にとっては本当に嬉しいんだ」
イライアスは明るい笑みを浮かべると、再びクッキーに手を伸ばした。次にイライアスは、チーズ入りのクッキーを手に取って口に運んだ。
「程よい塩気があって、チーズの香りも効いているね。これはワインにも合いそうだ。君も一緒にどうだい?」
「はい」
ロゼリアもチーズ入りのクッキーを口にして頷く。
「確かに、これならワインにも合うのかもしれませんね」
「さっき、実家のアルレイ侯爵家で父と兄とも話したのだが、クラン伯爵家で造っているワインは有望だよ。舌の肥えた父と兄も味に満足していたしね。まだ新しい事業だし、これからというところではあるだろうが、大きなポテンシャルを秘めていると思う」
「ワイン事業が、現状の打開策になるとよいのですが。私にも、何かできることがあれば教えてください」
「君はまだ学生だし、本分は学業だ。無理をする必要はないよ」
「私自身が、少しでも役に立ちたいのです。……そうだ」
彼女の目がきらりと輝く。
「イライアス様のお時間がある時に、できればワインに関する知識を教えていただけませんか? この前、アーサー様にもワインのことでお声掛けいただきましたし、できればこの機会にワインに詳しくなっておきたいのです」
「勉強熱心だね。今はちょうど時間もあるし、早速だが始めようか」
「よろしいのですか?」
「ああ」
頷いたイライアスが椅子から立ち上がる。
「何本かワインを持ってくるよ。実は、さっき兄上ともワインを飲んできたのだが、情報通の兄上から聞いたばかりの話もあるからね。ただ、君は飲む量には注意して欲しい」
「ええ、気を付けます。イライアス様はエイベル様とも飲んでいらした後なのに、大丈夫なのですか?」
「俺はあまり酔わない体質のようだ。……少しここで待っていてくれるかい?」
「はい」
ロゼリアから初めて知識を教えて欲しいと頼られたことを、イライアスも嬉しく感じていた。
この日、ワイン用の葡萄の品種や産地、それぞれの味や香りの特徴といったことを、ロゼリアは基礎からイライアスに教わった。
ほんのちょっぴりしかワインを飲んではいないのに、ほろ酔いでほんのりと頬を染めたロゼリアに向かって、少し眉尻を下げたイライアスが呟く。
「もし君が酒を飲むことがあるなら、俺にも同席させて欲しい。さすがに心配だな」
「ふふ、イライアス様は心配性ですね。お酒を飲む機会なんてあまりないですし、イライアス様はお仕事もお忙しいのですから、私のことなどお気になさらないでください」
「いや。必ず行くから教えてくれ」
「わかりました。もしそのような機会があったらお知らせしますね」
イライアスの前で、ロゼリアは普段よりもふわふわとした様子で笑った。




