視線
しばらくロゼリアがアーサーと話していると、使用人が彼を呼びにやって来た。
アーサーは使用人と言葉を交わすと、名残惜しそうにロゼリアを見つめた。
「僕は別件の約束があるので、そろそろこれで。ご主人ももうじき来ると思います」
ロゼリアは彼に向かって微笑んだ。
「興味深いお話を聞かせてくださって、ありがとうございました」
「近いうちにまた是非お会いしましょう」
人懐こい笑みを浮かべたアーサーは、最後にもう一度ロゼリアと握手を交わすと部屋を出て行った。
(前にクラン伯爵家にいらしていた時よりも、大分柔らかい印象だったわ)
アーサーが話しやすい青年だったことに、ロゼリアはほっとしていた。
(これからもきっと長いお付き合いになるのでしょうし、お話できてよかった)
一人になったロゼリアは、改めて応接間の中を見回した。贅沢な空間からは、この商家が潤沢な利益を上げていることが透けて見えるようだ。
(イライアス様はいついらっしゃるのかしら……)
ロゼリアがそう思った時、応接間のドアが開いた。
使用人に連れられてやって来たイライアスの姿に、安堵を滲ませる。
「イライアス様」
「ロゼリア、君が来ていると聞いて驚いたよ」
「すみません。クラン伯爵家の者が積荷を間違えていたと聞いて、急いでやって来たのです」
「君のお蔭で助かった、ありがとう」
ロゼリアがイライアスに微笑む。
「まだ学生の君にここまでしてもらって、すまないな」
「いえ。私の家のことでもありますし、父の代わりに来てくださったイライアス様にご迷惑を掛けたくはありませんでしたから」
自分を慮る彼女の言葉に、イライアスは嬉しそうに笑った。
「頼りになるな。……ここはクラン伯爵家にとって繋がりの深い取引先だそうだね」
「ええ。資金の融資も主にこちらから受けていると思います」
「ワインの取引を行う担当者とも話したが、その関係性もあってか、こちらの立場は弱いようだな」
「そうなのですね? 先程まで当主のアーサー様とお話ししていたのですが、アーサー様は感じよく接してくださいました」
「……アーサー殿が?」
「ええ。隣国の珍しいお菓子をいただきながら、しばらく一緒にお茶を飲んでいたのです」
商人としては飛び抜けた成功者として名を馳せているアーサーは常に忙しく、大きな取引先や当主クラスが相手でないと、あまり顔を出さないと噂に聞いていた。現に、イライアスの場合も然りだ。
ロゼリアの父から、彼らの結婚式にアーサーが顔を見せたと後から聞いた時にも驚いたものだった。
(妙だな)
イライアスが怪訝な表情を浮かべる。
(ロゼリアの言葉からも、彼は俺が既にこの家に着ていることを知っていたはずだ。俺と使用人が話しているところに、彼とロゼリアが後から同席するほうが自然に感じるが、どうしてロゼリアと二人で過ごす必要が?)
彼は慎重に口を開いた。
「君は、彼に気に入られているのかもしれないな」
「さっき品物を届けに来た時、私の年齢のせいか、対応してくださった使用人の方には、私が来た理由をなかなか信じていただけなかったのです。その時、ちょうど通りかかったアーサー様が助けてくださって。たまたまそのご縁でお時間をくださったのだと思います」
「そうか……」
アーサーは若い頃から苦労を重ねて成功している。取引先の娘であり、まだ若いロゼリアが仕事を手伝う姿に共感したのかもしれなかった。
ロゼリアのこととなると、つい過剰に心配してしまう。思い過ごしだろうかと思いながら、彼はロゼリアの手を取った。
「そろそろ行こうか」
「はい」
イライアスに触れられることが、ロゼリアはもう嫌ではなくなっていた。むしろ、優しい手を意識してしまい鼓動が速くなる。二人は並んで応接間を後にした。
使用人に挨拶をしてから馬車に乗り込もうとしていると、イライアスが周囲を見回した。
「どうなさったのですか?」
不思議そうに尋ねたロゼリアに手を貸して馬車に乗り込んでから、イライアスが答える。
「今、誰かの視線を感じたような気がしたのだが、俺の気のせいだったのかもしれないな」
「そうでしたか」
去って行くクラン伯爵家の馬車を、アーサーは上階の窓から眺めていた。
その手にはワイングラスが握られている。中身は、ロゼリアが運んで来たばかりのワインだ。
蜂蜜のような甘く芳醇な香りのある白ワインを傾けながら、彼は溜息を吐いた。ロゼリアの瑞々しい笑顔を思い出す。
(もしこの世界に神がいるのなら、神は不公平だな)
彼は白ワインの入ったグラスをテーブルに置くと、小さく唇を噛んだ。
***
馬車の中で、ロゼリアはイライアスに頭を下げた。
「イライアス様。父に代わってノールド家に向かってくださって、ありがとうございました」
「いや、当然のことだよ。俺はクラン伯爵家に婿入りした身なのだから、もっと遠慮なく頼って欲しい」
「ありがとうございます」
イライアスがロゼリアを見つめて微笑む。
「俺も、あの家に着いてから積荷の誤りに気付いたんだ。出発前に自分の目で確認しておくべきだったと後悔したが、君に救われたよ。……まだ学生なのだし、無理はしないで欲しいという気持ちもあるがな」
「今は王立学院も休みですし、無理をしている訳ではありませんよ?」
「君は若くて綺麗な女性だ。君が仕事の場に赴くというなら、つい心配になってしまうというのが本音だよ」
確かに、仕事の場は男性中心に進むことが多いものの、女性の進出も最近は少しずつ増えてきている。
きょとんとしたロゼリアが、思わずくすりと笑った。
「イライアス様って、意外と過保護なんですね」
「君に関することだと、どうしても気になってしまってね」
「……それは、前世の私の記憶があるからですか?」
「きっかけは前世の記憶だが、今は目の前にいる君から目が離せないんだ」
イライアスに真っ直ぐに見つめられ、ロゼリアはかあっと頬に熱が集まるのを感じた。男性から褒められることには、あまり慣れてはいない。
戸惑ったロゼリアだったけれど、続けて彼に尋ねた。
「前世のことで、一つ伺っても?」
「ああ、もちろん」
「前世では、エルドレッド様の側仕えだったという煉瓦色の髪の方がいらしたと仰っていましたよね。その方は、革命の立役者になった方ですか?」
「ああ、そうだ。何か思い出したのかい?」
厳しい顔付きになったイライアスの前で、ロゼリアは首を横に振った。
「いえ。今日、王立学院の図書室で関連する書籍を調べたのです。革命の英雄と呼ばれたという方の姿絵は、煉瓦色の髪でしたし、王太子に仕えていたという経歴も一致していましたので」
「そうか……」
イライアスはロゼリアを見つめた。
「背景を説明するよ。ただ、君を怯えさせたくはないから、聞いていて気分が悪くなるようなことがあったら言って欲しい」
「わかりました」
こくりとロゼリアの喉が鳴る。
「彼ーーダミアンは前世の俺の腹心だった。男爵家の出だが、俺の側仕えの中でも群を抜いて優秀だった」
(ダミアン様というお名前は、思い出せないわ)
もどかしい思いのロゼリアの前で、ふっとイライアスが遠い目をする。
「民衆の不満を武力で制しようとする王家のやり方に、彼は反対していたんだ。このままではいつか破綻するとね。それは君の父上も同じで、他の解決策を模索していた」
「……うろ覚えではありますが、エルドレッド様も王家のやり方を懸念され、お父上に考えを改めるよう進言なさってはいませんでしたか?」
「その通りだ。民との繋がりも、ダミアンを通じて密かに築いていたが、王家への逆風が強くなり過ぎて、気付いた時にはもう手遅れだった」
悲しそうに目を伏せたロゼリアに、イライアスは続けた。
「前世の君だけは巻き込みたくなかった。民の信頼の厚かったお父上の下でなら、生きられるのではないかと思った。俺が婚約破棄をした後は、ダミアンに君を守るように事前に頼んでいたんだ」
「では……」
「君を無事に家に送り届けた後は、そのまま彼は民の側にーー革命軍側につく予定になっていた」
「ダミアン様は、エルドレッド様にただ反旗を翻した訳ではなく、事前に合意があったということですか?」
「そうだ。王家側の事情も熟知している彼が革命軍側につけば、流れる血の量も減るのではないかと思ったし、あの国の行く末と君を彼に託したんだ。彼の人柄も頭脳も、そして行動力も信頼していたし、君を心から慕っている様子でもあったからね。だが……」
イライアスが苦しげに息を吐く。
「必ず君を守るよう頼んだが、君は冷たい身体で戻ってきた。俺は自分の浅はかさを呪ったよ。本当に大切なものは、自分の手で守らなければならなかったのだとね」
ロゼリアの脳裏に、夢の中で見た、跪く煉瓦色の髪の青年が浮かぶ。朧げに記憶にあるのは髪色までで、姿絵を見ても見覚えはなかった。
「君にそんな顔をさせてしまって、すまない」
表情を翳らせていロゼリアに、イライアスは気を取り直したように続けた。
「馬車に誤って積まれていたワインは、別の商会に納入予定の銘柄だったのだが、もう一仕事付き合ってもらってもいいかい?」
「ええ、もちろんです」
馬車はクラン伯爵家に向かう道の途中にある大きな町に寄った。多くの人々で賑わう街の商会の前で馬車を止めたイライアスは、商会の主人に挨拶とロゼリアの紹介をすると、積荷を下ろしててきぱきと仕事を片付けた。
人の好さそうな商会の主人は、まだ若い夫婦が手際よく仕事をする様子に目を細めると、手に封筒を持って彼らのところにやって来た。
「もしよかったら、君たちでこれを使ってくれないか」
「これは……?」
商会の主人が封筒から取り出したのは、二枚のチケットだった。
「今週末に公演がある劇のチケットなのだが、一緒に観に行く予定だった友人の都合が悪くなってしまってね。もし都合が合うなら、是非君たちに使って欲しいんだ」
(これって、とても人気がある劇団の公演だわ。今、この街に来ているのね)
ロゼリアの目が輝く。もし機会があるなら、一度見てみたいと思っていた劇だったからだ。町が普段以上に賑わいを見せていた理由がわかったような気がした。
イライアスとロゼリアが顔を見合わせる。
「よろしいのですか?」
「ああ。むしろ、使ってもらえたら嬉しいよ」
「ご親切にありがとうございます」
商会を後にしてクラン伯爵家に戻った二人が、無事に荷物を届け終えたことを伯爵に伝えると、彼は感謝を込めて微笑んだ。
「本当に助かったよ、二人ともありがとう」
「お父様、ご体調はいかがですか?」
「もう大分落ち着いたよ、心配をかけたね」
顔色の良くなった父を見て、ロゼリアがほっと胸を撫で下ろす。
親切な商会の主人から観劇のチケットをもらったことをロゼリアが話すと、父はにこにこと頷いた。
「せっかくのご厚意をいただいたのだし、是非行っておいで。結婚して早々、イライアス君には仕事を手伝ってもらうばかりだったし、少しは羽を伸ばして欲しいと思っていたんだ。ロゼリアにも、これまであまりそうした機会を与えてやれなかったしね」
ロゼリアも今まで、お金のかかりそうな機会は、家のことを考えてできるだけ避けるようにしていた。
観劇に行けると思うだけで、わくわくと心が弾む。そんなロゼリアの様子に、イライアスの顔にも笑みが零れる。
「ではお言葉に甘えます、義父上」
「ああ、楽しんでおいで」
ロゼリアは思わずイライアスを見上げると、嬉しそうに笑った。