クライドの疑問
イライアスは立ったまま、ロゼリアが出て行った寝室のドアをしばらく見つめていた。その口元には、幸せそうな笑みが浮かんでいる。
(強い女性だな、ロゼリアは)
ロゼリアに、前世のリュシリエールと重なる部分も感じていたものの、彼女はリュシリエールの生まれ変わりであっても、まったく同じ人間ではないと感じることも増えた。
前世では慎ましやかで、守られることが当然という立場で育った彼女だったけれど、今世のロゼリアは、自らの手で未来を切り拓く強さを備えている。芯の強さは似ていても、自分の意思をはっきりと口に出すところは、控えめだった前世の彼女とは異なっているようだ。
そのような違いも含めて、今のロゼリアが、イライアスには愛おしくて堪らなかった。前世の記憶をかなり取り戻している自分とは違い、それほど前世の記憶が戻っていない彼女には、学生らしい瑞々しさも感じる。まだ成長途上の部分まで、ずっと見守っていたいという気持ちになるのだ。
(自分の魅力に自覚のないところは、心配だが……)
結婚式の際にも、祝福以外の感情が窺える視線を彼女に向ける者がいたように見えたことは気になっていた。ロゼリアにそれまで婚約者がいなかった幸運を噛み締める。どうやら彼女は今まで、恋愛にも無縁のままでいたようだった。
イライアス自身、ロゼリア以外の令嬢には微塵も心が動かなかったことを考えても、前世の影響は少なからず今世に引きずっているようだ。
彼の意識が、ロゼリアの父から聞いたクラン伯爵家の事業の話に移る。
(家業に暗雲が漂い始めたのは、四、五年前という話だったな)
クラン伯爵家は、主に領地で採れる穀物の販売が事業の中心だ。年によっては収穫量に多少の差異があるとはいえ、需要も落ち着いており、概ね安定した価格で取引されるはずだった。にもかかわらず、顧客が次第に離れ始め、取引価格の見直しなど苦戦を強いられている。
(アルレイ侯爵家の豊富な人脈を使えば、ある程度は状況の改善が見込めるはずだが、クラン伯爵家の事業の背景では何が起きているのだろうか)
財務上の数字の推移を追う限り、クラン伯爵家の事業を脅かすような何かが起きていることは間違いないように見える。何かしらの圧力がどこかからかけられているように感じられた。
新しい事業として、領地内の痩せた石灰質の土地を利用して、ワインの原料となる葡萄の栽培も始めている。けれど、出来上がったワインの品質に比べて、必要以上に安く買い叩かれているのが現状だった。
(顧客との取引関係や、競業する他家の状況などを含めて、不振の理由を探る必要がありそうだ)
前世と今世では、世の中の状況は当然異なるにせよ、王太子時代に得た知識は役立つように思われる。使えるものはすべて使って、クラン伯爵家の再興に尽力したかった。
(ロゼリアの信頼も、これから積み上げていくことができたなら)
ついさっき向けられた彼女の微笑みを思い出し、イライアスの胸はじんわりと温まっていた。
***
最終学年の授業が始まるまでの休暇中、ロゼリアは、父がイライアスにクラン伯爵家の事業内容を説明する場にはできる限り同席するようにしていた。この機会に、彼女自身も自分の家の事業に対する知識を深めたかったからだ。
イライアスの呑み込みは驚くほど速く、ロゼリアは感嘆と尊敬の籠った瞳を彼に向けていた。
(一を聞いて十を知るとは、こういうことを言うのね)
イライアスは、前世の経験と記憶が残っているためだろうとロゼリアに話していたけれど、どんな理由があるにせよ、クラン伯爵家にとって彼の存在が心強いことには違いなかった。
休暇も終わりに近付いたある日、ロゼリアは王立学院にやって来た。最終学年の生徒向けに配られる教科書を受け取りに来ていたのだ。
「ロゼリア!」
聞き慣れた声にロゼリアが周囲を見回すと、駆け寄ってくるクライドの姿が目に入った。ロゼリアが嬉しそうに彼に手を振る。
「クライド、この前は結婚式に来てくれてありがとう」
彼は少し頬を染めると、ロゼリアに笑いかけた。
「ロゼリアのウェディングドレス姿、大人っぽくて凄く綺麗だったよ」
「本当に? ありがとう。慣れないことばかりで緊張していたけれど、そう言ってもらえると嬉しいわ」
「学生結婚だなんて、驚いたけどね。ジェマが恋愛の噂話をしている時も、ロゼリアはあんまり興味がなさそうだったし、まさか君がこんなに早く結婚するとは思わなかったよ」
クライドが少し切なげな瞳をロゼリアに向ける。そんな彼の瞳には気付かないままに、ロゼリアは微かに眉尻を下げた。
「私自身、こんなに早く結婚するつもりはなかったから驚いているの。人生、何が起こるかわからないわね……」
ロゼリアがふっと息を吐く。前世の記憶を思い出したことも、前世で婚約者だった人と再び巡り合って結婚することも、少し前のロゼリアには想像もつかないことだったからだ。
密かにロゼリアに想いを寄せていたクライドにとっても、彼女の結婚は晴天の霹靂だった。
(ロゼリアに好きな人ができたようには、見えなかったんだけどな)
とはいえ、ロゼリアが他の男性と結婚したとしても、彼女が大切な友人であることに変わりはない。クライドは失望を隠して、ロゼリアに笑顔を向けていたのだ。
「素敵な結婚式だったよ。僕を呼んでくれてありがとう」
「クライドは大事な友達だもの、当然じゃない」
思案気にロゼリアを見つめたクライドが、躊躇いがちに口を開く。
「結婚式に招待した人って、皆親しい人たちだったんだよね?」
「そうね。お父様からは、最終的に、お付き合いのある取引先の方も数人招いたと聞いたのだけれど、お互いの親族と親しい友人が中心だったことは間違いないわ」
「そうか……」
怪訝な顔をしたクライドに、ロゼリアが首を傾げる。
「何か気になることでもあったの?」
「いや、別に。おかしなことを聞いてごめんね」
クライドには、招待客の中で一人、どことなく気になる雰囲気の青年がいた。彼の瞳が、じっとロゼリアだけを追っているように見えたからだ。ロゼリアを切ない想いで見つめていた自分だったからこそ、青年の視線に敏感に気付き、彼の視線が印象に残ったのかもしれなかった。
挙式で見かけた彼は、披露宴では既に姿を消していた。
(あれは誰だったんだろう? まあ、僕の思い違いかもしれないし、ロゼリアに聞くようなことでもないしな)
それから何気ない世間話に話題を移した二人は、しばらく並んで廊下を歩いていった。図書室の前でロゼリアが足を止める。
「私、図書室で少し調べものをしてから帰るわね」
「相変わらず勉強熱心だね、ロゼリアは。それじゃ、また新学期にね」
「うん。クライドに会えて嬉しかったわ」
ロゼリアとクライドは、互いに手を振って別れた。