優しい腕
ロゼリアから、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始めた。イライアスは少し体勢を変えると、彼女の背中を愛しげに見つめた。
(俺は、まだ眠れそうにはないな)
彼女の寝顔を見たいという気持ちを、ぐっと抑える。下手に動いて、彼女を起こしてしまいたくはなかった。結婚式を終えて、ロゼリアがぐったりと疲れていることは知っている。
手を伸ばせば届く距離にあるはずの彼女の身体は、近くて遠く感じられた。ブランケットの内側に彼女の温もりは感じられるけれど、心の距離はまだ遥かに遠く思える。
(いつか、ロゼリアが俺に心を開いてくれる時はくるのだろうか)
前世の彼女が寄せてくれた愛情は、ロゼリアの中から消え失せているようだ。それは当然だと理解しながらも、自然と寂しさが込み上げたけれど、それ以上に、彼女の存在を側に感じられることが嬉しかった。
ロゼリアを守りたいと思うのと同時に、ただ彼女の側にいられるだけで、切ないほどの幸せが胸に押し寄せる。
(こんなに近くにロゼリアがいるなんて)
彼女の自分への警戒は、まだ完全には解けてはいないようだったものの、態度は少しずつ軟化しているように見えた。次第に信頼を積み上げられてはいるようだ。
「う……ん」
小さく呟いたロゼリアが寝返りを打つと、ぐるりとイライアスのほうを向いた。無垢な寝顔に、イライアスの口元がふっと綻ぶ。
(……可愛いな)
この日の誓いの口付けは、彼女に遠慮してごく軽いキスに留めた。けれど、がちがちに固くなりながらも、妻としての務めは果たすと言った彼女があまりに愛しくて、堪え切れずについ力いっぱい抱き締めてしまった。
前世の頃から、心の底から望んだ相手だ。すぐにでもロゼリアのすべてを奪ってしまいたいくらいだったけれど、その欲望はイライアスの理性が押し留めた。ロゼリアの気持ちが定まっていないのに無理を強いれば、本当の意味で自分に気持ちを向けてくれることはなくなるとわかっている。
(困ったものだ。君を守れさえすればいいと思っていたのに、一緒にいればいるほど欲が出てしまう)
ロゼリアの仕草や声音、彼女が自分に向けてくれる表情や視線、そうしたもののすべてが、イライアスの心を切なく揺らす。
それまで、王立学院や社交界でも、年頃の令嬢にまるで興味を持てなかったことが嘘のように、彼女の存在はイライアスの中でかけがえのないものになっている。
彼はゆっくりと手を伸ばすと、ロゼリアの亜麻色の髪をそっと撫でた。彼女の寝顔を見飽きることはなく、眠ってしまうのが惜しいように感じられる。
イライアスが優しい瞳でしばらくロゼリアを見つめていると、彼女の顔が微かに歪んだ。悪夢でも見ているのか、苦しげにうなされ始めた彼女は、縋るようにイライアスに手を伸ばした。
「ロゼリア、大丈夫かい?」
彼に手を伸ばしたのも、どうやら夢のせいのようで、彼女に自分の声は届いてはいないようだ。咄嗟にイライアスがロゼリアを抱き寄せると、彼女は安心したように、再び穏やかな寝息をたて始めた。
(やはり、前世の記憶が今も彼女を苦しめているのだろうか)
前世に関して、イライアスがロゼリアに尋ねたいことは幾つもあったけれど、断片的にしか前世の記憶を取り戻していないという彼女に、無理して思い出させたくはない。聞きたいことの多くが、彼女の辛い記憶に関係するため、これ以上の負担をかけたくはなかったのだ。
腕の中のロゼリアの温もりが、前世で彼が覚えていた喪失感まで埋めていくようだった。
彼女の体温に誘われるようにして、イライアスも静かに目を閉じた。
***
ロゼリアは不思議な夢を見ていた。
一人の青年が、自分の前に跪いている。服装や目に映る景色からは、前世で過ごした国のように思われた。けれど、煉瓦色の髪をした青年は、エルドレッドとは違う人物だ。
困惑した彼女は青年に背を向け、彼の手を振り払った。助けを呼ぶと、どこからか力強い腕が差し伸べられ、ほっとしたかと思うとまた始めの場面に戻っている。幾度かそれを繰り返したところで、夢が途切れた。
嫌な感覚で打つ胸を覚えながら、ロゼリアは浅い眠りの中でまどろんでいた。
(今のは夢だったのね)
悪夢を見た時特有の、夢から覚めてほっとする感じがあったものの、心地よい温もりに包まれて、まだ完全に起き出してしまいたくはなかった。
夢の中で必死に助けを求めた時、彼女の求めに応じて差し伸べられた腕が思い出される。
(助けを呼んだら、優しい腕が伸びてきて助けてくれて……って、あら?)
それまでうとうととしていたロゼリアから、一気に眠気が飛んでいった。実際に、彼女の頭の下に温かな腕を感じたからだ。
彼女がどぎまぎと目を開けると、美しいイライアスの顔が彼女のすぐ側にある。
(……‼︎⁉︎)
イライアスに腕枕をされながら、彼の胸に縋るような格好でロゼリアは眠っていたのだった。もう一方の彼の腕も、そっと彼女の身体に回されている。
すぐには状況が理解できず、自分がどこにいて、何が起きているのかと混乱したロゼリアだったけれど、ようやく昨日が結婚式だったこと、そしてイライアスと同じベッドで眠ったことを思い出した。
(どうしてイライアス様は私に腕枕を……)
まだ眠っている彼の顔を、カーテンの隙間から差し込む朝日が淡く照らしている。穏やかなイライアスの寝顔がまるで天使のようで、ロゼリアは息を止めるようにして彼の顔に見入っていた。
悪夢から逃れようと、自分から彼に縋ったことが薄らと思い出された。いっそ縋ったことを忘れていたらよかったのにと、あまりの恥ずかしさに顔から火が出そうになる。
けれど、イライアスの腕から身を捩らせて抜け出し、彼を起こしてしまうことも忍びなく、ロゼリアは途方に暮れて固まっていた。
(どうしよう……)
意外にも、イライアスの腕が嫌ではなかったことも、彼女を困惑させていた。それどころか、彼の腕の中はむしろ心地よく、不思議と安心感があった。今世で彼と再会したばかりの自分だったなら、すぐに彼の腕を振り払っていただろうと思いながらも、彼の優しさや頼もしさに触れ、少しずつ絆されていることを自覚してしまう。
「ん……」
イライアスの長い睫毛が微かに揺れ、その目が薄く開かれる。彼と目が合ってしまったロゼリアは、身体中が火照るような感覚を覚えていた。