初めての夜
イライアスの隣にロゼリアが並ぶ。神父の前で、落ち着いた声で誓いの言葉を述べたイライアスとは対照的に、ロゼリアは声が震えないようにするだけで精一杯だった。
互いに結婚の誓いを終えて、ロゼリアに向き合ったイライアスが、彼女のヴェールをそっと持ち上げる。
イライアスの澄んだ青い瞳と、ロゼリアの目が合う。美しい彼の顔が近付いたかと思うと、触れるか触れないかという程度の、ごく軽やかで優しいキスが落とされた。
(……!)
はっとロゼリアが彼を見上げる。初めての口付けと、柔らかな唇の感触に顔は火照ったものの、彼の気遣いを感じたような気がしたからだ。
唇が離れた後、イライアスは愛しげな微笑みを浮かべて彼女を見つめていた。
その笑顔があまりに幸せそうで、ロゼリアはどうしてよいかわからなくなった。家のための結婚と考えていたことが、どこか申し訳ないようにも感じられる。
(あんなに強引に結婚を迫ってきたかと思えば、こうして意外に気遣ってくださることもあるし、何だか調子が狂うわ……)
彼に腕を取られてチャペルを出る時、ようやくロゼリアには辺りを見渡す余裕ができた。ロゼリアとイライアスの親族と、ごく親しい友人たちの顔がロゼリアの目に映る。ジェマとクライドに祝福の言葉と拍手を送られて、笑顔を返した。父からは、近しい取引先もほんの数人招くことになったと式の直前に聞いたけれど、彼女には見知った顔を認識するだけでもやっとだった。
午後から行われたチャペルでの挙式の後、二人が披露宴と招待客への挨拶を終えた頃には、既にとっぷりと日は暮れて、群青に染まり始めた夜空に星が瞬き始めていた。
ロゼリアは、ウェディングドレスから着替えて湯浴みを終えると、自室に戻って大きく息を吐いた。
(疲れた……)
ぐったりと身体に残る疲労を感じながら、ロゼリアが大きく伸びをする。
(どうにか無事に結婚式が終わったわ)
慣れない挨拶で目が回りそうだったロゼリアのことを、イライアスは隣で上手くフォローしてくれた。社交に慣れて堂々とした様子の彼に、ロゼリアはずっと助けられていた。そつのない話題選びも、さりげなくロゼリアを庇ってくれるところも側で見ていて、彼が女性に人気がある理由が改めてわかったような気がする。
(イライアス様って、隙がなくて完璧よね……)
そんなことを思い返しつつ、闇に沈んだ窓の外を眺めながら、彼女は落ち着かない思いでいた。クラン伯爵家には、今はイライアスとロゼリアのために、夫婦用の寝室が設えられている。なかなか寝室に向かう勇気が出ないまま、ロゼリアは落ち着かない思いで椅子に座っていたけれど、とうとう重い腰を上げた。
ロゼリアは寝室の前まで行くと、深呼吸してからドアを叩いた。
中から返事が聞こえ、ゆっくりとドアが開く。
「お待たせいたしました」
固くなっているロゼリアに、彼は優しく微笑んだ。
「今日は疲れただろう」
「はい、少しだけ」
「君はしっかりしていて立派だったよ。とてもまだ学生だとは思えなかった」
「いえ、イライアス様が隣で助けてくださったお蔭です」
イライアスは呟くようにロゼリアに言った。
「今夜、君は来ないかと思ったよ」
「すみません、遅くなってしまって……」
「いや、君を責めるつもりはまったくないんだ。まだ自分の目が信じられなくてね」
部屋に入り、遠慮がちにベッドに腰掛けたロゼリアの隣に、イライアスも腰掛ける。
どことなく、ロゼリアはイライアスから前世の名前を呼ばれるような気がしたけれど、彼が呼んだのは彼女の名前だった。
「ロゼリア」
「はい」
緊張に固まっていたロゼリアの肩が、ぴくりと跳ねる。彼はロゼリアに向かって言った。
「まだ夢を見ているみたいだ」
「どうしてですか?」
「この縁談だって、無理矢理に俺が持ち掛けたものだ。俺が前世の君にしたことを考えたら、ずっと口をきいてもらえなくても、目すら合わせてもらえなくても、仕方ないと思っていた。なのに、君は……やっぱり優しいな」
ロゼリアは困った顔で俯いた。
「私は、別に優しい訳ではありません。イライアス様にこの家を助けていただくことに、感謝をしているだけです。今は、それ以上でもそれ以下でもありません」
イライアスの視線を感じながら、ロゼリアは続けた。
「少なくとも、アルレイ侯爵家はクラン伯爵家を助け、父にも最善の治療を受けさせてくださり、貴方様にはこの家の事業を助けていただくのですもの。結婚した以上、妻としての務めは果たしますわ」
決意を滲ませてロゼリアが彼を見つめ返す。
「……そうか」
イライアスは両腕を伸ばすと、ぎゅっとロゼリアの身体を抱き締めた。突然の出来事に、ロゼリアの息が止まりそうになる。
(前世だって、こんな風にエルドレッド様に抱き締められたことはなかったのに)
彼の熱い体温に包まれて、ロゼリアの頬がかあっと染まる。同時に、初夜を前にして緊張と恐怖に身体が震えた。
イライアスにそのままとさりと身体をベッドに倒されて、ロゼリアはぎゅっと両目を瞑った。そっと髪を撫で、顔の輪郭に触れる彼の手を感じて、ロゼリアの身体が強張る。
(……?)
そのまま何も起きないことに戸惑ってロゼリアがゆっくりと目を開けると、彼は切なげな瞳で彼女を見つめていた。
「これ以上は何もしないよ。それに、君はまだ学生だし、学業に差し障るようなことがあっても困るからな。だが、このまま君の隣で眠っても構わないかい?」
「……はい」
ほっと気が抜けて、ロゼリアが頷く。
「おやすみ、ロゼリア」
「おやすみなさい、イライアス様」
ベッドの中で体勢を変え、彼に背を向けたロゼリアは、音もなく深い安堵の息を吐いた。
(助かった……)
一番の懸念から逃れられて、ようやく彼女の心は落ち着いてきた。義務感からイライアスにああ言いはしたものの、心の準備ができているというには程遠い状況だったからだ。イライアスはすぐ隣にいるとはいえ、彼は約束を守る人だと感じているだけに、何も手を出されないことは信じている。
(それにしても、よくわからないわ)
ロゼリアは内心で首を捻った。
(イライアス様には、私との結婚を急ぐ理由がどこにあったのかしら?)
まだ直接彼に確認をしてはいないものの、エセル王国で起きた革命が前世の婚約破棄に関係しているのだろうと、おおよその推測はついていた。彼の自分に対する好意も感じているし、側にいたいという言葉にも嘘はなさそうだ。
(強引に結婚を迫られたせいで、あの時の印象は最悪だったけれど)
頭の回転の速い彼なら、あんな風にロゼリアを追い詰めて結婚を突き付ければ、嫌われることくらいわかりそうなものだ。確かに、王立学院でロゼリアは彼を避け続けてはいたけれど、急な求婚は悪手に思える。仲を縮めるだけなら、他の方法はいくらでも考えられそうだった。
(それに、キスも羽が触れるようなものだったし、無理に私を抱く訳でもない。……私に手を出すつもりもないなら、結婚を急ぐ必要なんてなさそうなものなのに)
極限まで緊張していただけに、安堵を超えて、少し拍子抜けしたというのも正直なところだった。
背後にいる彼の存在が気になっていたけれど、振り向いて目が合っても気まずいように思われる。悶々と考えているうちに、ロゼリアは疲労感に抗い切れず、いつしか眠りの中へと落ちていった。




