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温かな手

 ロゼリアの父が目を覚ましたのは、それから数時間が経った後だった。


「おや、私は……」

「お父様!」


 困惑気味に目を瞬いた父の手を、ロゼリアがぎゅっと握る。


「お父様は書斎で倒れて、しばらく意識を失っていらしたのですよ」

「そうか。それは迷惑を掛けたな」


 娘の隣にイライアスがいることに気付いて、彼は慌ててベッドから上半身を起こそうとした。ロゼリアがすぐに手を貸して彼を支える。頭痛を堪え切れず頭を押さえた父に、彼女は気遣わしげに口を開いた。


「お父様、ご無理をなさらないでください」

「だが……」


 イライアスは穏やかな表情で、これから義父になる彼を見つめた。


「どうか安静になさってください。俺のことはお構いなく」

「ああ、ありがとう」


 ロゼリアの父は、さらに彼の横に視線を移した。

 ベッドサイドにはもう一人、見知らぬ初老の男性がいたからだ。ロゼリアは、父に彼を紹介した。


「こちらにいらっしゃるのは、アルレイ侯爵家の主治医の先生です。お父様の主治医の先生は、ちょうど別の患者様のところへ出掛けられていたので、代わりにイライアス様が呼んでくださったのですよ」


 医者は、ロゼリアの父に向かって落ち着いた口調で尋ねた。


「ご気分はいかがですか?」

「それほど普段と変わりませんが、左半身に多少の痺れを感じます」

「症状から見る限り、脳梗塞でしょうね。先ほど薬を注射しましたが、無理は禁物です。しばらくは十分な休息を取ってください」

「だが、そういう訳には……」


 渋い表情をする父の前で、ロゼリアが首を横に振る。


「お父様は働き過ぎです。このまま仕事に戻っては、治るものも治りませんわ」


 辛そうに口を噤んだ父を、ロゼリアは悲しそうに見つめた。


(お父様に余裕がないことは、もちろんわかっているけれど……)


 彼女は隣にいるイライアスにちらりと目をやった。現状を打開するために手を貸してくれそうなのは、彼しかいない。


「まずはお身体が第一ですから、ゆっくりお身体を休めてください。また改めます」


 イライアスが義父に向かって言った言葉に、医者も頷いた。


「薬を出しておきますね。ですが、休息が一番の薬になりますよ」


 医者はイライアスと目を見交わすと、部屋を出て行った。ロゼリアも、イライアスに続いて椅子から立ち上がる。


「お父様、このままお休みになっていてください」

「ああ。……イライアス殿、世話になったな」

「いえ。この程度のこと、何でもありません」


 父の部屋を出たロゼリアは、イライアスを連れて応接間に向かった。

 テーブルを挟んで椅子に腰を下ろし、彼と向き合う。


「本当にありがとうございました、イライアス様。何てお礼を申し上げたらいいか……」


 ロゼリアは心からの感謝を込めて彼に頭を下げた。父が倒れてパニックになり、自分だけでは咄嗟に動けなかった。父の主治医が捕まらず、血の気が引いていた彼女の前で、イライアスは冷静に、アルレイ侯爵家の主治医を代わりに呼んでくれたのだ。


「イライアス様がいらっしゃらなかったら、父はどうなっていたかわかりません」

「俺がクラン伯爵家のためにできることをするのは、当然のことだよ」


 自分をじっと見つめるイライアスの視線に、ロゼリアは思わず俯いた。以前に比べたら、イライアスに対する拒否感はなくなってきているとはいえ、彼に愛情を感じているかというと、また話は異なる。

 イライアスは自分には勿体ない男性だと頭ではわかっているのに、彼に向き合って一歩踏み出すことはまだ躊躇われている。ただ、父が倒れた時にイライアスが側にいてくれたことが頼もしかったのは間違いなかった。


「お父上が落ち着いた時に、また日を改めて伺うよ」

「すみません、お手数をお掛けいたします」


 ロゼリアは思案気にイライアスを見つめた。


「話は変わりますが、イライアス様は、前世のことはどのくらい覚えていらっしゃるのですか?」

「だいたい覚えているよ。特に、君と婚約してからのことはね。君は?」

「私が思い出した記憶は、断片的なものです。前世の最期は覚えていますが、その前後の記憶は抜けている部分も多くあります」


 再び甦ってきた辛い記憶に、ロゼリアが顔を顰める。前世の婚約破棄の理由を尋ねようと思っていたロゼリアだったけれど、言葉にしようとすると、喉につかえるようでうまく口に出せなかった。二人の間にしばしの沈黙が落ちる。

 先に沈黙を破ったのはイライアスだった。


「君は、前世で僕の側仕えだった者たちを覚えているかい?」

「側仕えの方、ですか?」


 ロゼリアがきょとんと目を瞬く。


「ああ。数人いたのだが、俺が一番信頼していた青年は、君とも特に親しかったんだ」

「いえ、特に覚えては……」


 そう言いかけた時、ロゼリアの頭が突然ずきずきと痛み出した。


(確かに前世では、エルドレッド様の側にいらした誰かと、私もお話ししたような気がするわ)


 前世の何かが思い出せそうで思い出せないままに、彼女は疼くような痛みを堪えていた。

 辛そうにこめかみを押さえたロゼリアを前にして、イライアスが申し訳なさそうに続ける。


「思い出せないなら構わない。こんなことを聞いてすまなかった」

「いえ。イライアス様に言われてみると、確かにそのような方がいらしたような気もするのですが、あいにくまだ思い出せません。私が思い出せるのは、エルドレッド様のほかには、ご両親ーー国王様と王妃様のお名前だけです」

「無理をする必要はないが、思い出せたら俺に教えて欲しい。それから……」


 イライアスは緊張を滲ませて彼女を見つめた。


「もしも、誰かを見て前世の記憶にあるように感じたら、その者には近付かないでくれ。とりわけ、前世で俺の側仕えだった青年には、決して関わらないで欲しいんだ」

「……? イライアス様以外に、そのような感覚を覚える方にはまだ出会っていませんが、貴方様の仰ることはわかりました」


 不思議そうにしながらも、ロゼリアがこくりと頷く。イライアスは、それを見届けてから席を立った。


「今日はそろそろ失礼するよ。だが、何かあったらいつでも俺を呼んでくれ」

「ありがとうございます」


 ロゼリアも椅子から腰を上げ、部屋のドアへと向かう。彼女に並んだイライアスが、ゆっくりと口を開いた。


「最後に、一つだけ聞きたい。結婚の時期について、君の答えは出ているかい?」


 イライアスの深く澄んだ青い瞳が、彼女の目を覗き込む。ロゼリアははっと一瞬動揺を滲ませたけれど、彼女の中では答えは既に明白だった。彼女は真っ直ぐにイライアスを見つめ返した。


「イライアス様が王立学院を卒業したら、私と結婚していただけますか?」


 父の優れない身体と領民の生活を考えれば、それはロゼリアにとって当然の決断だった。


(この状況では、悩む余地なんてどこにもないわ。いずれにしたって、私はいつかイライアス様と結婚することになるのだし)


 父の負担を少しでも減らすことを考えれば、クラン伯爵家へのイライアスの婿入りは歓迎すべきことだ。一つだけ問題があるとすれば、ロゼリアの気持ちがついてきていないことだったけれど、基本的に貴族間では政略結婚になることを考えれば、それは大した問題ではない。

 今世の彼に対する信頼も少しずつ芽生え始めている。特にこの日は、イライアスが側についていてくれたことが心強かった。

 イライアスがそっとロゼリアの手を取る。


「ありがとう」


 たった一言だったけれど、イライアスのその言葉には重みが感じられた。彼の表情には隠し切れない喜びが滲んでいる。

 温かな手を感じながら、微かに頬を染めたロゼリアの脳裏を、ふっと遠い記憶がよぎった。


(前世では、エルドレッド様に手を取ってもらうと、いつでも嬉しくて胸が高鳴ったものだったわ)


 ロゼリアがぼんやりと思い出した前世の記憶が、薄らと今の状況に重なる。まるで他人事のように感じていた記憶が、ほんの少し自分に近付いてきたような気がした。優しく自分の手を取ってくれているイライアスを、まだ完全に受け入れられてはいないけれど、麻痺していた心は少しずつ溶け始めているようだ。


「では、結婚に向けた準備を始めさせてもらうよ」

「はい、よろしくお願いいたします」

「お父上にはまた改めてご挨拶させてもらう。お身体を大事になさるよう、どうぞよろしく伝えてくれ」

「承知いたしました」


 最後に、イライアスがはにかんだ笑みを浮かべた。


「……ロゼリア。君の側にいることを俺に許してくれて、改めて嬉しく思うよ。式も楽しみにしている」


 イライアスに向けられた笑顔がまるで子供のように純粋で、ロゼリアも心の中がくすぐったいような心地になる。


「こちらこそ、クラン伯爵家に救いの手を差し伸べてくださって、ありがとうございます」


(私はいつか、前世の彼に抱いていたような愛情を思い出すことができるのかしら)


 前世の自分がエルドレッドを心から愛していたことを知っているだけに、今世の自分の感情は、その足元にも及ばない、愛情とも呼べないものだとわかってはいる。それでも、ロゼリアには微かな希望の光が見え始めたように思えた。


「イライアス様、一つお願いしても?」

「ああ、何だい?」

「私たちの結婚のことは、イライアス様が卒業するまで伏せておいていただけませんか? できれば、王立学院内であまり波風を立てたくはないので……」


 彼はすぐにロゼリアの言葉に頷いた。


「わかった。君がそう望むなら、もちろん構わない」


 イライアスが美しい笑みを浮かべて答える。ロゼリアはほっと胸を撫で下ろした。王立学院内では、できるだけ無駄な騒ぎを避けたかったからだ。少なくとも、女生徒に絶大な人気を誇る彼の姿が王立学院からなくなってからのほうが混乱は避けられそうに思われた。

 ロゼリアは門の前までイライアスを送ると、帰っていく彼の背中を静かに見つめた。

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