歴史のノート
声をかけてきた背の高い青年を見て、ロゼリアは一目で彼が誰だかわかった。
(この方は、イライアス様のお兄様ね)
さらさらとした金髪に、イライアスよりも薄い色合いの碧眼。甘い顔立ちにバランスの取れた体躯は、イライアスともよく似ている。ただ、完璧で近付き難い印象のイライアスよりも、明るく親しみやすい空気を纏っていた。
イライアスが、彼を振り返って口を開く。
「兄上。帰っていたのですね」
「ああ。ついさっき戻ったところだ」
屈託のない笑みを浮かべると、青年はロゼリアに向かって手を差し出した。
「こんにちは。イライアスの兄のエイベルです」
「はじめまして、ロゼリアと申します」
「イライアスから、同じ王立学院の一学年下の後輩で優秀な子だと聞いてはいたんだが、君がロゼリアさんか」
エイベルは握手をしたまま、しげしげとロゼリアを頭の天辺から爪先まで眺めた。遠慮のない彼の視線を感じて、恥ずかしくなったロゼリアの頬が軽く色付く。
「可愛いね、君。……へえ、イライアスの好みって、ロゼリアさんみたいな子だったんだ」
さらに戸惑うロゼリアを見て、イライアスがロゼリアと繋がれたままのエイベルの手を無理矢理ほどいた。
「兄上、失礼ですよ」
「ごめんね、ロゼリアさん。嫌だったかな?」
「いえ、大丈夫です」
ロゼリアが首を横に振る。フランクな性格のエイベルに驚きはしたものの、彼に対しては、イライアスに感じたような、逃げ出したくなるような感覚は覚えなかった。
「ならよかった」
屈託のない笑みを浮かべたエイベルは、瞳に楽しげな色を浮かべて、目の前に並ぶ二人を見比べた。エイベルがロゼリアに笑いかける。
「イライアスが、急に結婚したい女性がいるなんて言い出したから、何が起きたのかと思ったんだよ。それまでも、弟にはたくさんの縁談が来ていたけれど、どんな好条件の縁談が来ても欠片も興味を示さずに断っていたから、父上も母上も気を揉んでいたんだ」
ロゼリアは、エイベルの話に驚きながら耳を傾けていた。
イライアスになら、数多くの縁談が来ていてもまったく不思議ではなかったけれど、なぜほかの縁談には首を縦に振らず、どうして自分を選んだのかという問いが、再び心の中で頭をもたげる。
小首を傾げたロゼリアがイライアスを見上げると、彼は兄に向かって口を開いた。
「……兄上、ロゼリアにそんな話をする必要はないでしょう」
「ああ、悪かったな」
「それから、兄上は俺の好みが云々と言っていましたが、俺はロゼリア以外の女性に興味はありません」
(……‼︎)
イライアスが平然と言った思いがけない言葉に、ロゼリアの顔は真っ赤に染まった。
ふっとエイベルが笑みを溢す。
「ほう、お前からそんな言葉を聞く日が来るとはな。運命の出会いってやつか。……だが、こんなに可愛い義妹ができるなんて、僕も嬉しいよ。これからよろしくね、ロゼリアさん」
「こちらこそよろしくお願いいたします、エイベル様」
「また今度話そう。それじゃあ、またね」
エイベルはロゼリアにひらひらと手を振ってから去って行った。イライアスが小さく溜息を吐く。
「驚いただろう」
「はい、少しだけ」
「兄は自由な人だからね。ただ、兄のおおらかなところには、俺も救われてきた部分があるんだ」
「そうだったのですね」
エイベルの性格は、あまりイライアスとは似ていないようだったけれど、二人の様子からは気のおけない兄弟仲の良さが感じられた。
「お兄様とは仲が良くていらっしゃるのですね。私は一人っ子で兄弟姉妹がいないので、羨ましいです」
「そういうものかな。まあ、ああ見えて頼りになる兄で、俺も感謝しているんだ。一言多いことはあるがな」
意外にもイライアスと普通に話せていることに、ロゼリアは自分でも驚いていた。
(前世の彼のことを知らないまま、目の前のイライアス様だけを見られたなら、また違っていたかもしれないのに)
これまでは、彼とこうして向き合って、前世に関係ないことを話す機会はほとんどなかった。何気ない会話をするだけなら、目の前にいる彼の印象は悪くはない。
それでも、前世の記憶によるトラウマなのか、彼の側にいると、身体の奥に染みついた何かが反応して、警戒してしまう感覚が拭えない。頭では彼と歩み寄れたらと考えても、本能の部分で逃げ出したくなってしまう自分が、ロゼリアには悲しくもあった。
その後、屋敷を一通りイライアスに案内してもらってから、ロゼリアは彼の両親とエイベルに挨拶をして、帰りの馬車へと乗り込んだ。イライアスも、彼女を送るために一緒に馬車に乗る。
無事にイライアスの家族と挨拶が終えられたことにほっとしながらも、ロゼリアの頭の中には、今も同じ疑問がぐるぐると回っていた。
(イライアス様は、なぜ私を選んだの……?)
彼が、ほかの令嬢との縁談には興味を示さずに突然自分を選んだと聞いても、腑に落ちないものがある。
けれど、この日の訪問では、今まで以上にイライアスから好意を示されて、むずむずとするような思いがした。
(前世の私が世を去ってから、何か心境の変化でもあったのかしら)
ロゼリアは顔を上げると、少し躊躇ってからイライアスに尋ねた。
「イライアス様が前世のことを思い出したのは、いつだったのですか?」
「君を一目見た時だ。それからは、自分の目に映る世界が違って見えた。君は?」
「私も、イライアス様をお見掛けしたすぐ後に、断片的にではありますが、前世の最期を思い出しました。……前世の記憶なんて思い出さずにいたほうが、お互いに幸せだったかもしれませんね」
本音を漏らしたロゼリアの前で、イライアスの顔が辛そうに歪む。
「少なくとも、俺にとっては、前世の記憶を取り戻せたことは幸運だった。こうしてまた君に会えたのだから」
「そうでしょうか。前世では私を棄てたのですから、そのまま私のことなど忘れてくださればよかったのに」
つい棘のある言葉を返してしまい、ロゼリアは後悔したけれど、後の祭りだった。
(今日はあれほど温かく迎えてくださったのに、私ったら、何て失礼なことを……)
しんと重い沈黙が馬車の中に落ちる。その時、ちょうど馬車が大きく揺れた。
「きゃっ⁉︎」
馬車の席から腰が浮いたロゼリアの身体を、イライアスが抱き留める。
「大丈夫かい?」
彼の腕の中で、ロゼリアは硬直していた。優しい腕だとはわかるのに、血の気が引くような感覚がある。
イライアスは、彼女を腕に抱き留めたまま呟くように言った。
「君には信じてもらえるはずもないが……前世の俺は、君を片時も忘れたことはなかった」
はっとロゼリアの目が見開かれる。彼も言ったように、その言葉を額面通りに受け取ることは難しかったけれど、苦しげな響きには真実味があるような気がした。
ロゼリアが振り払う前に、イライアスがぱっと腕を解く。
「身勝手なことを言って、すまなかった」
再び向き合って座った、口を噤んだままの二人を乗せて、馬車はクラン伯爵家へと向かっていった。
***
翌週、ロゼリアは今学期最後の歴史の授業に出ていた。その一回前の歴史の授業は、体調を崩して欠席している。
この日の歴史の授業では、エセル王国の歴史には触れられなかったことにロゼリアは胸を撫で下ろしていた。前世の記憶のトラウマのせいで、エセル王国についてこれ以上知るのが怖いというのが本音でもある。
彼女の隣の席に座るクライドが、ロゼリアに話しかけた。
「この前の授業は休んでいたね。ノートを貸そうか? その前も、体調が悪くて板書が取れていないようだったし」
「こんな期末試験直前に借りてもいいの?」
「ロゼリアになら構わないよ」
クライドがにっこりと笑う。親切な彼に、ロゼリアもほっと笑顔を返した。
「ありがとう、助かるわ。写し終わったらすぐに返すわね」
「ああ」
この歴史の授業が、王立学院でのこの日最後の授業だった。彼に手を振って別れたロゼリアは、馬車ですぐに帰宅した。
(期末試験もすぐ目前に迫っているし、集中して勉強を頑張らなくっちゃ)
いくらクラン伯爵家にアルレイ侯爵家からの支援が得られるとはいえ、ロゼリアは、王立学院はせめて自分の力で奨学金を得て卒業したかった。そのためには、いずれの試験科目でもかなりの高得点を取る必要がある。
勉強は得意なロゼリアにとって、最も憂鬱だったのが、前世の記憶に関係する歴史の科目だった。ほかの科目は、既にある程度教科書を読み込んでいるけれど、歴史だけはほぼ手つかずのままだ。
このまま目を背け続ける訳にもいかず、ロゼリアは重い気持ちを抱えたまま、クライドから借りたノートをゆっくりと開いた。
(エセル王国は大陸の中心となるような国ではなかったし、世界史でも、あまり大きく取り上げられていないといいのだけれど……)
ロゼリアの視線が、クライドの几帳面な字で書き取られた板書を追っていく。エセル王国について記述されたある箇所で、彼女の目がぴたりと止まった。
「……えっ?」
思わずロゼリアの口から声が漏れる。彼女は呆然と、開かれたノートのページを見つめていた。




