4-22:温かい手
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ぱち、と目を開けば眼前に星空が広がっていた。なんだか変な慣れ方をしてしまっているが、ここは精神世界だろう。
「シェイさんがいた場所は静かで綺麗だったよなぁ、あそこでじっと魔力が戻るのを待ってたってことは、シェイさんはそれがいいって知ってたってことだよね。あれも理由があるのかな、今度会えたら聞いてみよう」
ぷかぷかと水の上で揺れる葉っぱのような感覚に酔いを感じて身を起こし、周囲を見渡す。葉っぱのような、というツカサのイメージを精神世界はすぐに具現化したらしく、腕をついたのはざりざりとした葉脈の上だった。そこまで再現しなくともいいのにと思いながら、それを少し撫でて顔を上げた。
砕かれた真珠の粉が川を象り、様々な輝きがきらきら、ちかちかと光り、闇を照らす。ドルワフロへの坑道で見た鉱石の海を思い出した。
「綺麗だなぁ」
折々、旅の道中で見上げる夜空も美しかった。夕暮れに沈む太陽、宵闇に欠伸をする月、そして月が微睡むと伸びをする太陽。刻一刻と色は変わり、一度として同じ色のない空をツカサは飽きもせずに眺めていた。
気づけば、隣に少女が居た。同じように葉っぱの上に座り、星空を見上げていた。不思議な感覚だった。長くともに生活してきた兄妹のようであり、幼馴染のようであり、赤の他人のようであった。言葉を交わすこともなくただ見上げ続けた星空は日が昇り、沈み、昇り、沈み、永遠に繰り返されていく。
ふと気づいた。少女の編み込まれた長い金髪は、肩まで短くなっていた。
「どうしたの? この間会った時は長かったのに」
少女は短くなった髪を軽く揺らして、にっこりと笑った。どう? 短いのも悪くないでしょ、と言われた気がして、そうだね、と答えた。なぜだかそれ以上触れてはならない話題のように思えて、ツカサは少女から目を逸らし、星空へ視線を戻した。葉っぱに後ろ手をついたせいか、ぐらりと体勢が崩れた。あ、と短い声を上げる間もなくとぷりと闇に落ち、激流に呑まれた。凄まじい勢いで体が闇に引きずられていき、葉っぱの上、闇に片腕を突っ込んで掴もうとしてくれた少女の腕があっという間に見えなくなった。
ごぽりと水音が鼓膜を叩く。鈍く響く音が脳まで響くようで頭痛がした。耳を押さえても肺に響く太鼓の音のようなものがうるさくて頭がおかしくなりそうだった。お祭りで聞く時には大丈夫だというのに、この音は聞き続けたくなかった。体が千切れそうになりながら激流に耐えていれば、バシャリと吐き出されるようにしてどこかに追い出された。げほ、こほ。息ができる。口の中に入っていた何かを吐いた。先ほど落ちて揉まれた闇の何かか、でろりとしたものが出てきて本当に気持ちが悪い。
体中をまさぐった。不思議と衣服は濡れていない。精神世界のルールがわからないぞ、と混乱しながら顔を上げれば、暗闇でぽつんと座り込む女性が居た。
ぼんやりと金色に光っていて、長い金髪は水に浸されているかのように、常に波打っている。ほっそりとした手足、身に纏う衣は白く、金と赤の細かな装飾と刺繍がこれでもかと施されていて美しい。少し近づけば、ただ座り込んでいるのではなく、地面にぺたりと、呆然とした様子で項垂れているのがわかった。声を掛けるか悩む。直感が、心が、ここに居てはいけないと叫んでいた。それと同じくらいあれが何であるのかを知りたいという知的好奇心が体を突き動かしていた。
やめろ、ダメだ、近づくな。でも、知りたい。君は誰なの?
ごくり、と喉が鳴った。そうっと伸ばした手がもうすぐ届く。あと十歩。あと五歩。そして。
ぐるんと振り返った女の顔は見えなかった。その前に見え覚えのある黒い衣に体を包まれ、引き剥がされたからだ。けれどツカサの腕を確かにその女は掴んだ。
【愚かな】
これもまた聞き覚えのある声が頭上から聞こえ、ツカサの腕を掴むものが弾かれ、離される。その隙を逃さず、激流の道を戻るように体が浮上し、ツカサは暗闇の中でぽつんと光る金色のそれを見えなくなるまで見ていた。
上空に高く上がったかのような感覚に、ツカサは意識を手放した。
「――ツカサ、ツカサ。マール・ネル、封じを解いてよい、なに、もうやっている? では寝坊助なだけか」
「まだるっこしい、小僧、起きろ!」
ドスッ、と顔に指を突っ込まれた鈍痛があった。糸くずの腕を持ち上げてそれを振り払い、しょぼしょぼとした目を擦って開く。心配そうに覗き込んでくる牡鹿と、マール・ネルを手にして苦笑を浮かべたセルクス、その襟首から顔を出す蛇が見えた。ヴァーレクスは、と探せば、なんということか、ツカサをその手に持っているのがヴァーレクスだった。しかし、その顔はにたりとした気味の悪い笑みを浮かべており、正直ゾッとした。気持ち悪い。下から見上げた角度もよろしくなく、獲物を見つけたバケモノのように見えてしまった。しかしこの顔、見たことがあるぞ。ツカサが眉を顰める気持ちでヴァーレクスを見上げていれば、セルクスに頬をつつかれて視線を求められた。
「罠にしっかりと掛かってくれたようだ。我々の勝ちだな」
よかった! じゃあラングが近くにいるんだね? ……ちょっと待って、ヴァーレクス、待って。
ツカサは改めてヴァーレクスを振り返り糸くずの腕でヴァーレクスの手首にしがみついた。鳥肌が少し立つが、それ以上に興奮が勝っているのがわかる。体温が微妙に高く感じられてそれも気持ち悪い。
セルクス! ヴァーレクスに言って! ラングは今、【ラング】じゃないって!
「言ったとも。ヴァーレクスの戦った【パニッシャー・ラング】ではない、戦うなと」
そうだよ! ヴァーレクス!
「しかし、まだかなり距離があるというのに、ラングがヴァーレクスの気配に感づいてしまったのだ」
ラングの馬鹿! 空気読んで! とツカサはぽよぽよぶるぶる怒りを示した。ヴァーレクスはツカサをセルクスの手に投げるとぬらりと立ち上がった。
「若輩とは言いますが、さて、今は如何ほどでしょうかねぇ」
すーぅ、とタルワールが抜かれ、ツカサは青ざめ、体がぷるるっと細くなった。ヴァーレクスが駆けだそうとした姿にツカサは慌ててぽよんと跳んだ。
駄目だって!
「ツカサ!」
掴んだヴァーレクスの腕が感触に耐えられず強く振られ、ツカサは放り出された。地面に落ちて跳ね、そしてその先が下り坂で、まずい、と思った時には勢いを伴って転げ落ちた。
「小僧!」
小僧! じゃないんだよ、あんたがやったんだろ! と叫ぶ声など届くわけもなく、ツカサは頭を抱えるようにして止まらない落下に耐えた。
下り坂は障害物がなかった。これは土地神の道で、木々が、小石が何もなく、ぶつかって止まることも引っ掛かって止まることもできないで速度だけが上がっていく。打ち付けた肩が痛い。頭を庇う腕に擦り傷ができていく。腰を、腿を、膝を、まるで全身を削られていくかのように落ちていく。聞こえる音はぽよん、ぺちょり、ぽいんと間の抜けたものだというのに、全身が打撲で痛く、血が流れているような気がした。
やばい、やばい、止まらない、どこまで行くんだ。痛くて、息ができない。
ガリッと引っ掛かる時もあって肉が抉られる感覚もあった。誰か、止めて、誰か! 体をぎゅうっと丸めていつまでも続く落下に耐えていれば、回転する視界の中、会いたかった人の姿が見えた。
くすんだ緑のマント、黒いシールド。ラングだ。
ラング、ラング! お願い止め……っ!?
ラングは右手だけを左の腰、剣の柄に添え、抜刀と同時に斬り捨てる方針か、腰を落として構えていた。直刀に向かない剣技ではあるが、明らかにこちらを狙っており、そしていつもの剣技で処理するほどでもないと判断されているのだろう。
転がり落ち続ける以上にまずいと思った。ラングの手に掛かれば確実に斬り捨てられる。ツカサは何度もラングの名を呼び続けた。喉が焼けてべったりと溶けてくっついている。痛い。そんなことを構っている場合か、痛みなど、死ぬことよりも怖いことなんてあるもんか。ツカサは張り付いて閉じている喉を無理やり剥がすように喉に力を入れた。
溶けたビニールのようなものが互いに張り付いている状態を開いていく。べりべりと剥がれていく喉の奥の何か。激痛が走り、血を吐く。黒いぷるんとした欠片が道に点々と落ちていた。構うな、今ここで自身が誰であるのかを伝えられなければ全てが終わる。激痛を抱えて生きるのと、全てを失うのなら、前者の方が圧倒的にいいだろう。
ぁ、あ、あぁ、あぁぁアアァ!
バリッと喉が開き、息が入ってきた。人としての正しい呼吸ができたところで、目の前にラングが迫っていた。
しっかりと位置を確認され、ツカサの跳ねた軌道を読み切って腰を落とし、足先の向きを調整、ひと息に斬り捨てるつもりだ。そうしてラングが剣を抜こうと腕に力を入れたところで、この体になって初めて、ツカサから微かな声が出た。
『ブ、ラン、ダ、ニア』
ラングは動きを止めようとしてくれたように見えた。刃先の湾曲した剣であればスムーズに引き抜かれ、そのまま斬り捨てられていた。直刀を引き抜く際の僅かな鞘の抵抗に助けられ、ラングは柄を素早く手放し、けれど止まらなかった腕が振り抜かれ、ツカサを手の側面で殴り飛ばした。頬に手刀が叩き込まれ、ツカサはピギッ、と形容のし難い音を立ててぽいん、ぺちょり、と草むらの向こうへ落ちた。この体で長いこと坂道を転がり落ちていたせいで全身が痛くて、最後に打ち込まれた手刀が鋭く、もう何もかもが痛い。それでも会えた、会えた。
『待て、どこに行った』
思わず言ってしまったらしい言葉の後、素早くこちらへ近寄ってきてくれた。僅か数秒で辿り着き、しゃがみ込んだ黒いシールドの奥、双眸が自身を捉えているのをわかり、それだけで嬉しかった。
ラング、俺だよ。
そっと伸ばされたラングの手へ縋るように、糸くずの腕をよろよろと持ち上げて、その指先を掴んだ。温かい。爪の手入れがしっかりとされているまだ若い、兄の指。ラングは壊れ物を拾うようにそうっと持ち上げてくれた。その手のひらに身を寄せ、親指にしがみついて、もう、限界だった。
う、うわぁぁん……! ラング、ラング! 会いたかった……!
ぽろ、ぽろ、と大粒の水を零し、ツカサはぐすぐすと情けなく泣いた。ラングは困惑した様子でその涙を眺めていた。
一頻り思いきり泣いて、ツカサはぐっと糸くずの腕で涙を拭い、よろりと手の上で姿勢を正すと、再び伝えた。
『ブラン、ダー、ニア』
ラングが一瞬揺らめいた。けれど、ぐっと堪え、息を吸い、何度か呼吸を入れた。そして、ラングは確信を得た声で尋ねてきた。
『お前、まさか……ツカサか?』
ツカサはもう一度ぼろりと涙を流し、きゅっとラングの指を掴むと、うん、そうだよ、と頷いた。




