3-31:水と炎
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性格の悪い仕組みがわかれば造作もないことだった。一人であれば永遠に辿り着けず、共にいる者が信頼のおける者でなければ殺し合う。人間のことを憎むような仕組みだ。
俺が行く、お前が残れ、いや、俺が、とやり取りをするようなこともなく、押し付けるのではなく任されたことに胸を張れる男が共にいたことは幸運だった。それだけ、こちらを信頼してくれているということでもある。台座のある場所へ入り込む前に一度振り返り、遠くで手を振る男を確認してから足を踏み入れた。
遠目にはわかりにくかったが広い場所だった。真ん中にぽつりと台座があり、ドーム状の天井はオレンジと白で色が入れ替わりつつ揺らめいていた。一歩入ればぶわっと圧が吹き抜けたように感じ、マントを持ち上げて顔を庇った。ぐぅっと空間が広がっていき歪みを持ち、洗濯洗剤の泡がたわむようなものが見えた。ラングは双剣を一本抜いた。閉じ込められたとわかったからだ。中央にあったはずの台座も姿を消していた。熱で見えるものが歪むと聞いたことがあるが、それだったらしい。
『ぬぅ、なんたることだ、よもやヒトの子が辿り着くとは思わなんだ』
地面が真っ白に光り、どぷりと波打った。そこから首をもたげて姿を現したのは炎を纏うオレンジ色の巨大な蛇だった。ぶるぶる、と首を振って振り落とされた滴が床に垂れ、じぅ、と焼いた。あれは一本橋の底で煮えたぎっていた炎の水と同じだろう。ずるりと体を全て出してきた蛇は深い溜息をつき、ぶわりと熱風に煽られてくすんだ緑のマントがたなびいた。細かな火の粉が空気中に舞っているように思え、ラングはマントで口元を覆った。
『西の土地神だな。東の鋼の国、雪のドルワフロ、ユキヒョウの加護を得てここまで来た。【女神の欠片】と加護を求めている』
『口上などと要らぬ、立ち去れ、帰り道は作ってやろうぞ、ここで命を置いていかれては困る』
『あんな罠を仕掛けておいてよく言う。誘うことはできないが、消すことはできるぞ』
『ヒト如きがなんたる傲慢な!』
シャアッ、と炎を波打たせて叫ぶ蛇の口から燃え滾る水が零れ、再び床を焼く。熱風を受けながらラングは引かなかった。
『西から人を追いやり、世界を守るため、少しでも永らえようとしたのだろう。いまさら何の見栄を張る』
『ヒト如きに何がわかる! 我の抱えた命たちは尊き命である。形を失い己を失くしはしても、記憶だけは手放さんとする我が意を、見栄と申すか!』
『見栄でなければお前の自分勝手な決め事だ』
ガァ、と怒りに燃えた蛇が大きな口を開いて襲い掛かってきた。ラングはそれをひらりと避けて床の焼けた範囲や、飛び散るものを見極めて安全な位置に降り立った。あの熱、下手をすれば剣が溶けかねなかった。少し冷ます必要があるだろう。
『神というのはヒトに触れると狂うらしい。それは土地神もそうなのだろうか』
『何を言いたい』
『その形で残ることを誰が望んだ』
ラングはツカサから聞いたシュンのことを思い浮かべていた。黒い命となって偽りの神として産み落とされ、そして殺されたという哀れな青年。
本当に【命の女神】とやらがその想いを掬いあげてこの事態に陥っているとして、シュンであったサルムという男も、ショウリという男も、こんなことは望んでいない様子だった。ただ幸せになりたい。それだけのことが神の手のひらにいるばかりに実現されない今を、誰が喜んでいるのだろう。そう考えると地下闘技場にいた神子のやりようにも裏がありそうな気がしてならない。だから、早く戻ってやりたかった。
『お前がそうでなければならないと思っているだけではないのか』
『我は間違わぬ。我は西の炎を守る土地神である』
ぐぅっと蛇は胸を張り、ラングを見下ろした。
『ヒトの子よ、加護が欲しいと申したな』
『そうだ。くだらない試練とやらは越えた。十分だろう』
『否、未だ不十分である』
蛇の体からずるりと二本の腕が生え、それが床に突かれ、じゅう、と焼いた。焼いた地面を握り何を抜き取る。そこにあったのはどろどろと燃えた水を垂れ零す剣だった。部屋の気温が一気に上がり、ラングはぽつりと汗をかいた。蛇はさらに胸を張り、そこに深紅の宝石を現した。
『耐えてみせよ、抗ってみせよ、案ずるな、命はまだ二、三抱えても我は堕ちぬ。加護が欲しければその刃を我に届けてみせよ!』
『後出しは好まない、叩き斬る!』
ラングは床を蹴った。蛇は雄叫びを上げながら大振りだが当たれば致命傷の一撃を振り下ろした。床を叩いた一撃は硬いものを殴る音ではなく、じゅわぁ、と何かを溶かす音を立てた。飛び散る飛沫を器用に避け、ラングはするりと駆けていく。蛇の体幹はそのまま、ぐるんと振り返り再び剣が振り下ろされた。動きは速くないが落とされた一撃の重さとそこから飛び散るものというのが厄介だった。一つでも身につけば肌を焼かれ、衣服が燃え、部屋の熱さもあり火だるまになるだろう。ラングはちらりと安全な場所を確認し、走り回った。
『どうした、逃げてばかりか! これだから水は嫌なのだ!』
右手、左手、振り返ってまた右手。燃える蛇は広い部屋を縦横無尽に滑り回り、ラングの行く先を潰すようにして剣を振り下ろす。溶けていない足場を大きく跳んで移動し、ラングはただ蛇の胸だけを見ていた。
そうして逃げ回っていれば追い詰められるのも自明の理。ラングは背中を壁に、唯一残った安全な床の上に追いやられ、蛇を見上げることになった。
『息も辛いだろう、穏やかに眠れ。ヒトの子の命もまた、最期までわが身に守り続けてやろう』
『リーマスは言った』
ラングは左手の双剣を鞘に収め、ポシェットから何かを取り出して握るとその手を蛇の前に差し出した。
『料理をする時、小麦粉をばら撒いたところで火を使うなと』
『……何の、話だ』
『それから、こうも言った』
ラングは右手に双剣を握ったまま、マントを掴み、引き寄せた。ぴちょり。ラングの手のひらから水滴が零れ、じゅっと蒸発した。
『熱したフライパンに水を注ぐとき、火傷に気をつけろ、急激に冷やすと物が割れることがある、と』
呆気に取られている蛇の前でラングの開いた左手には石が乗っていた。
『私は必ずお前を倒す。ツカサのためにも、ここで死ぬわけにはいかないんだ!』
ツカサがラングに預けていた水の石、それを蛇に向かって投擲し、ラングはマントで全身を覆い隠し素早くしゃがみ込んだ。
ドッ、と何もかもを押し流すように水が溢れた。溶けるほどに焼けた床と炎を纏った蛇の土地神がそれに呑まれ、即座に水が蒸発していく。ラングもまた水圧に押され壁に寄せられ、それから激流に呑まれた。
冷たい水と煮え立つ湯の境、流れにその身を任せながらラングは蛇を見据えていた。中央にいた蛇を中心に渦を描きラングは剣の柄を咥え、弓を取り出し矢を番えた。ぐるり、ぐるり、部屋中を満たす水の中で蛇の体がぼこぼこと泡を発して水に抗っていた。蛇の正面、深紅の輝きが目の前に来た時、ラングは矢から指を離した。鈍い音がして矢は刺さり、水を通して蛇の絶叫が全身を叩いた。
まず先に床が冷えた。その次に蛇の握り締めていた剣が冷えた。最後に、一度水に溺れながらも耐えていた蛇が、ついにその身を石のように固め、水の滴る床に倒れ込んだ。生えていた腕はその衝撃で折れて床の凹みの中に転がり落ちていった。
しゅうしゅうと水蒸気が部屋中を満たしていた。蛇の意識が弱まったか閉じ込められていた泡のようなものがぱちりと弾ける気配がして、冷たい風が吹き込み、それを払っていく。未だ床も蛇も水に抗い蒸気を発してはいるがもう動くことはできないだろう。
ラングは顎を滴る水や汗を拭い、ふらりと蛇の胸元へ近づいた。深紅に輝くそれは、唯一剣を入れられる場所。それを晒していたのは助けてほしいからに他ならない。全身がヒリヒリして堪らなく痛かった。震える指で深紅の輝きに刺さった矢を抜き、矢じりの変質がないかを確かめ、ポシェットにしまう。頬が焼けている気がした。揺れた指先が爛れているのか顔なのかがわからない。深紅の輝きの前に膝をつき、相討ちかと目を閉じた。
ふわりと蜃気楼のように台座が現れたのはその時だった。その上に乗った小さな光は、まるで軽やかな乙女のような足取りでラングに近寄ると、後ろからふわりと身を寄せた。
一瞬意識を失っていたラングは大きく息を吸って自身の指先を確かめた。まだヒリヒリはしているが、爛れてはいない。頬を撫で、首を撫で、先ほど感じていたじゅくりとした肉の感触がないことに振り返れば、消えたはずの台座がそこにあり、不可思議に慣れていない身でも何があったかは察した。
『これが、神すらも癒す、【女神の欠片】』
火傷というものは少しの傷でも致命傷になりかねない、と師匠リーマスには教えられたが、その治療もまた大変であると習った。傷痕が残らないのはツカサに叱られなくてよかったかもしれない、と小さく笑みを浮かべていればアルが部屋に駆け込んできた。
「ラング! 大丈夫か、すげぇ音がしたけど。何があったんだ」
ばしゃばしゃと水音を立てながら駆けつけたアルを少し振り返り、ラングは立ち上がるとシールドを揺らして近くに来ることを要求した。五十メートル、誤りがあっては困る。アルはそっと近づき、蒸気を発する床の熱、黒く石になりつつある蛇を覗き込んだ。大鷹が眉尻を下げるように首を下げ、呟いた。
「エンケポル、お前なんて無茶をしやがるんだ」
ラングは剣を両手で握り、深紅の輝きヘ剣を突き刺した。ぶわっと溢れた黒い命は誘われることはなく、泡と消えて降り注ぐ。水に辿り着くことも熱を持つ大地に辿り着くこともない。それはただ元々存在しなかったものとして消えていくだけだ。それを守ろうとする優しい青年はここにはいない。命を導く柔らかな光はどこにもない。アルはただ胸に手を当て瞑目し、安寧を祈っていた。
暫くして深紅の輝きから黒い命は現れなくなった。剣を抜き、その切っ先が歪んでいないことを確かめ、ラングはそれを腰に収めた。アルはツカサがトロッコの道でホムロルルにしたように、癒しの泉エリアを蛇の口に注ぎ込んだ。蛇の黒い体がぐしゃりと崩れていき、間に合わなかったか、とアルが肩を落とした瞬間、焦がして潰れたスフレのようになった残骸がもぞもぞと動いた。そこからオレンジ色の小さな蛇がひょこりと現れ、きょろりと周囲を見渡して首を傾げた。
「あれぇ? ホムロルル? なんでここに?」
「エンケポル! お前! 無事だったか!」
「きゃー! やめてホムロルル! その鉤爪で押さえないで! 鱗が傷ついちゃう!」
猛禽類の羽ばたきと差し向けられた鉤爪に蛇は飛びあがり、必死に逃げ、最終的にラングの足元へ逃げた。ラングがマントを持ち上げその姿を晒すと蛇はさらにブーツの影に隠れた。
「なにぃ? 本当どういうことなのぉ? このヒトの子からはシャムロテスのにおいがするしさぁ……」
「アル、悪ぃけど説明する時間もらっていいか? こいつは炎の揺らめきが強くて物分かりがよくねぇんだ」
「酷くない? ホムロルルが一本気過ぎるんだと思うんだよねぇ、そりゃぁ住処が谷だから仕方ないけどさぁ」
ラングが足をどけ、水をパシャリと踏みながらホムロルルがその前に降り立ち、挨拶をするかのように顔を寄せた。蛇もまたそろりとホムロルルに顔を寄せ、じっと動きを止めた。どうやら言葉で会話するのではなく、触れ合うことで伝えるらしい。
「これで後は加護をもらうだけだな、しっかし床酷いことになってるな、いったい何をしてたんだか……ラング!?」
熱風と水と水蒸気とに晒された体が休息を求めていた。肺を焼かないようにするため、呼吸を最低限に押さえ激流を耐えていたため、若干の酸欠のままだったラングは先ほど息を吸ったばかりだった。熱風も咽るような水蒸気も耐え忍び、今になってぐらりと来たのだ。慌てたアルに抱き留められる感触を覚えながら、ラングは一言だけ言った。
『リーマスの料理バカに救われたな……』
は、と自嘲気味な笑みを残して意識を手放したラングに、アルの動揺した叫びが響いた。




