3-5:谷の底
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上手くいった。アルはほっと息を吐き、オルファネウルに礼を言う。槍は胸を張るようにして礼に応え、アルは谷を歩き出した。
振り払った風が舞いあげた雪はふわふわと自らの重みだけで落ち始め、アルはランタンを手にその中を進んでいく。上段から振り下ろした槍は地面の雪すらひらいたらしく、足元の雪が一直線に割れていて歩きやすい。意図したことではない、オルファネウルが気を利かせてくれた可能性はある。ふと気になった。
「そういえば、オルファネウルも世界を越えてんだっけ?」
アッシュの話ぶりからすると、ネルガヴァントの武器兄弟は所有者が神の裁きを受け、その衝撃か何かで世界を越えている。言い淀む気配を感じ、無理に話さなくていいぞ、とアルが言えば、それがオルファネウルの背中を押したようだった。
オルファネウルから、越えている。だが詳細は話せない。制約があるわけではなく、所有者の悪行の片棒を担がされたからだ、と答えがあった。なるほど、神の裁きを受けるほどの悪行とはいったいなんなのか、思いつきもしないがその手に持たれていたオルファネウルが否応なしに付き合わされたことはわかる。
「だとしたら、俺もごめんな」
サルムを殺したくはなかった。だが、結果として殺している。子供の方はオルファネウルが目になってくれたおかげで苦しませなかった。オルファネウルは優しく微笑むような気配を纏い、少し低めの柔らかい声で言った。
――やりたくないのはわかっている。巻き込まれただけだということも。槍を振るうと決めたのならば、アルとならば、地獄までも付き合おう。
「ありがとな、でも地獄は行きたくねぇわ」
そうだな、槍がしぃぃと微かに笑うような音を零した。この音もアルにしか聞こえていない。白い雪の中、鼻先を赤く染めさせる冷たさは変わらず、徐々にブーツの底に雪が溜まり始める。時折つま先をとんと叩いて雪を払い、アルはとにかく前に進んだ。どこか風から身を隠せる場所、火を起こせる場所、何かを食べられる場所。風呂なんかあったら最高だが、我儘は言わない。とにかくこの風と雪を凌げる場所が欲しい。きょろりと見渡したアルの視界に何かが映った。雪の白と崖の灰色の中、黒いものがあった。洞窟だ。
「しめた、少なくとも雪は凌げるよな」
雪を踏んで蹴ってランタンで暗がりを覗き込み、中に入る。肩と頭に乗っていた雪を振り払い、ぶるぶると犬のように身を震わせて粉を払う。自分の体温で溶け始めればしっとりと水分を感じるようになるだろう。できればその前に火を起こしておきたい。
ジェキアまで向かった雪中の移動は本当に死ぬかと思った。今ほどの装備もなく、携帯食料も少なく、手足の感覚がなくならないように必死に神経を研ぎ澄ませて辿り着いた。雪が溶け始めて移動速度が上がっていなければ手足のどこかは失っていたかもしれない。気づいたらジェキアで、【真夜中の梟】のロナが手当てをしてくれていて。
「あれもちょっとした黒歴史ってやつだよな」
アルは苦笑を浮かべ、改めてランタンで洞窟を照らした。
岩の亀裂か何かかと思っていたが、ここはどうやら人が通っていた道らしい。自然に崩れた土壁ならば崩れた土が下に積もっているものだが、それがない。ということは掘った、削った土を誰かが持ち出したということだ。
その予想は正しかった。雪から逃げるように洞窟の奥へ向かえば、朽ちてはいるが道具も置いてあった。突然使われなくなったのか、それとも急遽だったのか、アルは崩れた木箱に入りっぱなしのピッケルなどの道具を眺め、それから顔を上げた。すん、と鼻を鳴らす。
「変な臭いがするな」
洞窟は毒溜まりがある時がある。だいたいそういうのは足元の方に溜まるもので、アルの身長であれば嗅ぐことはない。逆に上に溜まっているのかと思い、ゆっくりと身を屈めて小さく息をする。変わらない。ということは、この洞窟全体にあるのか。
「どう思う? オルファネウル」
背中の槍はしぃぃ、と音を鳴らし、ヒトに害ではないが臭う、と答えた。単純に異臭らしい。ツンとするような、生臭いような、これはそうだ、生きもののにおいだ。ヒトではなく、獣か何かだろう。アルはランタンを腰に吊るして槍を手に構えながら先に進んだ。こういう洞窟というのは奥に行けば行くほどここの主がいる。入り口付近で体を休めるのもいいが、アルの場合、奥まで進み切って主を倒してからの方が塩梅がいい。不寝番を交代できる相棒がいないのだからそれしかないのだ。
ブーツの足音を立て、槍の石突で地面を突き、壁を叩き、ここにいるぞと存在を示しながら進んでいく。この洞窟はどこかには繋がっているらしく、風がゆらゆらとアルの髪を揺らした。それだけで一安心だ。人が歩いた跡、活動していた形跡、土壁に引っ掛けられたボロボロのランタンを見ながら進んでいけば、道が途絶えていた。いや、洞窟としては歩くことはできる。ここまで続いていた腐った木の板の道がなくなり、何かに抉り取られているかのような状態だった。直線に横から突っ込んだような。
「横穴ができてる? 結構でかいな」
ランタンを掲げて覗き込む。風の鈍い音がしたのでこれはこれでどこかに通じていそうだ。とはいえ行くわけにはいかない。今は道なりに真っ直ぐ来ているからいいものの、これで横道にそれた場合、戻れる自信がない。風がふわりと吹いて誘われれば別だが、気乗りしない。
「真っ直ぐだな」
アルは横道の違和感を覚えておこうと思った。
さらに真っ直ぐ進んでいけば道は少しずつ上り坂になり、暗い洞窟の中、広い空間に着いた。思わず、おぉ、と声が零れ、ランタンの明かりを持ち上げて高い天井を眺めた。あちこちにロープが垂れ下がっていて微かな風にゆら、と揺れている。今も耐えているロープの先には板のようなものがついており、そこに人が乗って作業でもしていたのだろうと思えた。
「採掘場なのか? 何が採れるんだろうな。マジェタのダンジョン思い出すけど、原石っぽいものは見えないよな」
じぃっと目を眇め遠い暗闇を覗こうとした時だった。地鳴りが響いた。
「なんだ!? 大地揺れか? 崩落か!?」
両手を開けるためにランタンを再び腰に吊るし、アルは槍を構えて周囲を窺った。バゴンッ、と音を立てて壁を崩しながらでかいムカデが現れたのは振り返った時だった。こちらを見据えて構える挙動も一切なく牙の動く口を開いて、いくつもの目で肉を捉え、落ちるように現れたムカデ。アルは振り返る遠心力を利用して大きく槍を振り、ムカデの牙を真横から叩いた。いつもなら何かを砕く音を立てるはずの穂先がぶるりと震えていなされた感触があった。
「こいつ、なんかあるな!?」
振り払われたムカデは広い足場に着地し、体をぐるぐると巻きながら体勢を整えてアルを正面から見据えた。アルもまたムカデを見据えていた。
「さぁて、どうするか。あんまり戦っても崩れそうだしな」
もう落ちるのは勘弁してくれと思った。ギチギチ、ギシギシ、軋むような嫌な音を立てながらムカデは上体を揺らし、鋭い脚で地面を掴んで蛇のように体をしならせる。体に何かがあって槍が逸らされるのならば、最近練習中の【ひらく】しかないだろう。いけるか、オルファネウル、と問えば、もちろんだ、と相変わらず心強い返事があった。アルはグッと槍を上段に構えた。ムカデがギャアァ、と雄叫びを上げて走り出し、アルが全身の筋肉を緊張させた瞬間、床が抜けた。
「うおおぉぉ!?」
ムカデの初回の落下で地盤が揺れ、今の駆け出しでついに耐え切れなくなったらしい。ベッコリと床が凹み、砕け、割れて、慌てて後ろに走って元の道に戻ろうとしたが間に合わず、アルはムカデとともに暗闇に落ちていく。
「落ちるのはもういいって!」
重さの差、ムカデが先に落ちていく。その姿がランタンの光の届かない奥底に落ちていくのを見ながら、アルは腕を広げてきょろきょろと周囲を見渡した。特に横穴なども見当たらない。となれば、槍を刺して落下を止め、上り直すしかない。クン、と体を持ち上げる力は一向に現れない。
「こういう時の神様じゃねぇのかよ!」
ええい、くそ、と悪態を吐き、アルは体を壁に寄せ、槍を突き刺そうとした。またもやその時だった、同じように壁に鋭い脚を突き刺して落下を堪えたらしいムカデが、ギィィと鳴きながら駆け上がってきた。
「だぁぁ! 嘘だろ! お前は落ちてろよ!」
アルは壁に刺そうとした槍を構え直し、駆けあがってきたムカデの牙を穂先で逸らした。【ひらく】のだって少しずつコツを掴んできてはいるが、即座にと言われると未だ難しい。こんな空中戦でやれというのは無茶だ。上に駆け上がっていったムカデは壁をぐるうりと回って再び襲い掛かってきた。それを払い、いなし、アルは徐々に焦りが募った。ムカデを追い払うことができたとして、この深さ、上るのにどれだけの体力を使うのか。加えて底が見えたらそれはそれで不味い。
「オルファネウル! 次でどうにか決めるぞ!」
アルは落下に身を任せて槍を長く持ち、大きく構えた。足を踏ん張ることなどできないが腕を大きく振ってその膂力を使うつもりだ。ムカデが何度目か飛びつくように跳んできて、アルは思い切り槍を振った。穂先が当たった感触があった。甲殻の一部、けれどやはり穂先がぶるりと震えて弾き飛ばされた。その反動で体が回転を得てしまった。
「あの! ムカデ! 絶対! 倒すからな!」
ぐるぐると回る視界の中でムカデを探す。バチッと目が合った。アルを正面に見据えムカデの牙が大きく開き、毒爪が真っ直ぐに迫ってきていた。槍を振るう腕が逆側に持っていかれている。不味い、やられる。アルがそれでも抗おうと、槍を呼び戻すように腕に力を入れた時だった。
甲高い鷹の鳴き声が響いた。
回転を得て捻っていた体が何かに攫われる。昔、グリフォンに握られた時と似た感触。アルは自分の体が闇に向かって突進していき、そこからぐぅんと壁に沿って上がっていくのを感じた。槍だけはしっかり握っているものの、息ができない。
バッ、と抜け落ちた穴を出て、先ほどの広い空間に戻ってきた。残っている床に下ろされ息を整え顔を上げる。茶色の大きな鷹が覗き込むようにアルを見ていた。ムカデの次は大鷹か、ここはなんなんだ、と槍を握り締めたところで声が掛かった。
「危ないところであったな」
「しゃべっ、そうだな、ありがとな、マジで助かった」
やや痺れを持っている腕で槍を背に戻し、アルは二ッと笑ってみせた。話せる鷹と出会ったのは初めてだが、それに驚いているよりも敵ではないのなら、まずは礼だ。精霊とも付き合いがあるのでこういうことはあるだろうとも思った。何を言うべきか悩んでいれば穴の奥からギィィという叫び声が聞こえた。
「邪魔者が入りそうだ、移動をしよう。乗れ」
「いいのか? 鷲掴みされないだけ有難い」
しかし、どこに乗ればいいのだろうか。などと考えていれば鷹が背を向けてくれたので立つようにして乗った。それから羽ばたいて飛び上がり、そうするとアルはその背中に寝転ぶ形になった。こうなれば身を起こせる。
「ヒトの子よ、振り落とされるでないぞ」
どういうことかと問う前に大鷹は翼で風を叩き、天井の方に空いていた穴へ飛び込んだ。大鷹が飛べるほどの広さはあるものの、自然崩落したらしいこの穴には障害物が多い。アルは容赦なく飛んでいく大鷹の背中から落ちないよう、必死に羽毛を握り締めていた。
暫くして雪のにおいがした。外が近い。最後のひと羽ばたきをしたあと、翼を閉じて体を捻るようにして穴を出た大鷹は雪の中で再び翼を開いた。あの洞窟でのことがあって、空気が美味いような気がした。しかし、上空でこんなに風が静かだろうか。風の精霊ウィゴールに力を借りて飛ぶ時、それなりに風を体に受けるのだが、本来の上空はこういう感じなのだろうか。考えごとをしていれば大鷹が滑空を始めた。
「俺はアル。さっきは助かったけど、どこ行くんだ?」
「我はホムロルル、この谷の土地神、神獣、精霊というやつだ」
へぇ、と感嘆すれば大鷹・ホムロルルは山を越えながら言った。
「ヒトの子よ、暫し力を貸してくれぬか」




