2-53:兄弟喧嘩
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まったく知らない誰かが勝手に兄と呼んでくる違和感に、どうにか折り合いをつけようとしていた。無警戒に慕われることが初めてで、兄として接してやってもいいと思ったこともある。実際、その心地よさは自身の警戒心を失わせるほどで、このままでは不味いという危機感もあった。何か大きなものを背負っているらしい青年の背中が、足が膝が、心が頽れるのならば、支えてやってもいいと思っていた。その気持ちがエゴであると気づいたのはいつだったか。
それに、【兄】と比べられれば比べられるほど、自らに足りないものを知ってしまい、力のなさに、なす術のなさに絶望していく感覚もあった。トドメだったのはモリフリアという病だった。
ラングはかかり、ツカサはかからない。常に気をつけて、気をつけさせていたのは自分だと思っていたラングは、その時、多大なショックを受けたのだ。
挙句、ツカサは己を知る人がこの世界に居ると知り、喜びに満ち溢れていた。その顔を、出来事を、よかったな、と笑ってやれなかった自分に嫌悪感を抱いた。そこに、自分では気づかぬふりをしていた甘えを指摘され、心底腹が立った。だから殴った。
『【兄】に重ね合わせやがって! ブラコンが!』
ツカサは左わき腹からどふっと重い音がしてうめいた。右ストレートを入れてやるつもりで打ち込んだ拳がラングの左腕で逸らされ、開いたツカサの左わき腹へ斜め下から角度をつけて拳を叩き込まれた。ビキビキ、ビリビリ、内臓に痛みが走り体がそれを逃がそうと叩き込まれた方に折れる。追い打ちにラングの左ストレートが飛んできて、右腕でどうにかガード、後ろに後退して脇腹を押さえる。何発目のクリーンヒットだろう、ツカサは苛立たし気に叫んだ。
『いってぇ……! ねぇ! 考えてた喧嘩じゃないんだけど!』
『数分前まではやる気満々だっただろうが。なんだ、痛いのが怖いか? もっと手加減してやってもいいぞ』
愛犬を呼ぶように両手を叩いてから腕を広げ、ラングはわかりやすく挑発してくる。わかってはいるが頭の奥がカァっと熱くなるほど苛立つ。
『腹立つぅ……!』
ツカサは、ふっふっ、ふぅー、と息を吐いて痛みを堪え、もう一度駆けていく。
『重ね合わせるってなんだよ! ラングはラングで、【ラング】は【ラング】だ!』
右、左、右足を踏み出して相手の足を踏む、その勢いを乗せて引き戻したと見せかけた左ジャブ。ラングは全てを手のひらで受け流し、踏み出された右足の奥に左足を差し込んで回避、左肩でツカサを弾き飛ばした。得意の体当たり、ショート版だ。再び距離を取り、呼吸を整える。こんな鍛錬でもない殴り合い、そもそも人生で初めてだ。しかも相手には一撃も入れられていない。息も乱していないラングが問いかけてきた。
『お前は一度だって私を見たことがあるのか』
『何言って、見てるよ!』
『だったらわかるだろう、【兄】じゃない』
ぐっと喉が詰まる。ツカサは目を逸らしたい気持ちでいっぱいだった。自分が支えてもらっていたことも、ラングが【兄】としていようとしてくれていたことも、気づいていた。新しい場所、見知らぬ場所、ラングは大丈夫だと言ってくれていたが、ツカサが折れ、涙し、失ったと嘆いていたことが、ラングにそうあることを強要していたのだと気づいた。
『それは、ごめん! でも、だったら言ってよ! ラングだって【兄】って呼ばれて、居場所を得てたんじゃないの!?』
ッチ、と零れた舌打ちは図星を突いたからだとわかった。ツカサは叫びながら駆け寄り、振り上げた拳をそのまま、倒れ込むように姿勢を下げてラングの腰へタックルを決めた。捕まえた、と思った矢先、首の後ろを掴まれ、倒れた勢いを利用してラングが足を振り上げ反動をつけ、そのまま放り投げられた。背中に雪のクッションがあってこそのやり方だ。柔道で似たような技があったような気がする。放られた先でゴロゴロ転がり、雪を纏い、冷たいと嘆く間もなく立ち上がる。ラングは既に立っていた。
『足癖、最悪』
『褒め言葉だ』
指を折り曲げる挑発が入り、ツカサはそれをやり返した。鼻血と口端が切れて血だらけの顔で笑う。
『たまにはラングから来なよ。受け身で待ってるばっかりじゃモテないよ』
『くだらない』
さく、さく、ざっ、ざっ、ざざ、速度に比例して音が変わり、腕を大きく振ってラングが勢いよく飛び込んできた。タックルか、拳か、蹴りか、ぐっと腕をガードポイントに置いて身構える。ふっとラングが消えた。ガードポイントに置いていた腕の死角を突いて、スサァ、と雪を散らしながらラングがスライディングを決めてきた。
『噓でしょ!? うわぁ!』
ワイヤーアクションか、と言いたいほど綺麗な流れでツカサの左側に滑り込んだラングは、ぐっと身構えて力を入れていたツカサの左足を掴み、片腕を膝に入れ、ぐいっと持ち上げ、傾いた体にトドメを刺すように右足を払ってきた。浮いた足首はよく跳ねる。ならばこのままラングを背中で潰してやる、と思い肘を振り下ろしたら、その先にもいなかった。ラングはツカサをぶん投げ、持ち上げる動きのまま既に立ち上がりツカサを見下ろしていた。雪でよかった、土なら肘を痛めていた。
『あぁ! もう! なんなの!?』
『足癖が悪いというからだ』
『事実でしょ!』
文句をつけている間に再びの接敵、ツカサが起き上がろうとするところに硬いつま先が振られる。同じように掴んでやろうとすれば肩に鈍い痛みが走った。素早く蹴りの軌道が変えられ踵が落とされた。痛い、が、構っていられるか。痛みは筋肉で押さえられるんだ、とツカサは雄叫びを上げながら落とされたラングの足を掴み、低い姿勢のまま前に進んだ。舌打ちが聞こえた。ズサァッ、とラングの背が雪について、そのまま押しやって少し引きずってやった。ガバリと上に乗りあがる。初めてマウントを取った。そんな感動に打ち震える暇もなく、素早く顔面をガードするラングの腕に右、左、右、左、拳を振り下ろす。
『俺にとって、【ラング】は兄さんで、守れって言われて、そりゃ守るけど! ラングは【ラング】なんだ! 若くったって、いつだって俺に前を向かせてくれる姿が【兄さん】なんだ!』
ぐんっとラングの足が勢いをつけて振られ、ツカサが拳を戻したタイミングで逆に押し倒された。ツカサが次はガードをする。殴り方を知っている人が落としてくる拳は重くて痛かった。
『私は! その【兄】じゃない! わかっているんだぞ! お前が私を見るたびに! あれが足りない、これが足りないと比べていることを!』
ツカサは足の間に居るラングの体を挟み、横になぎ倒し、再びマウントを取った。殴られた腕も痛かったし、鼻血も零れていたし、殴っている拳も痛いしで堪らなかったが、ここでやめる気はなかった。
『それは! ごめん! 俺にとって! 大きな人だからつい! 確かに甘えてたよ! でもだからってラングを見てないわけじゃない!』
落として引き戻す前の手首を掴み、横に倒され、またラングがマウントを取る。次は素早くツカサの足を抜け、しっかりと腹の上に陣取られた。容赦なく拳が降り注ぎ、ガードしている腕が痛い。
『嘘つき野郎! 嘘つき野郎!』
ラングの声が震えていることに気づき、ツカサはその顔が見たくて顔面のガードを外した。バキリと拳が入り、逆側に入り、目元が腫れてくる。痛みに生理的な涙も零れる。けれどツカサは目を開き続けた。
『嘘つき野郎……!』
ゴツ、と拳が左頬に当たり、ラングの息が震え、肩が震えていた。ツカサの胸倉を掴み、ゴツ、ゴツ、と何度も黒いシールドを当て、唸るようにラングが息を吸った。
『お前のことを、誰も知らないように、私のことを知る者も、いない……! 私はお前を見ている、だが、お前はいつも私の向こう側を見ている……! 私が居てもお前は私を見ない! それがどれほど苦痛だったか! 失ったのならわかるだろう!』
うん、わかる、と瞬きで頷いた。
『加えて、将来できる仲間も、友も、弟も、失う? 私が? そんな素晴らしい未来が待っているとわかった傍から、失うと言われて、どうすればいいんだ……!』
私の失態で、とラングが悔しさを滲ませた、掠れた声で言う。ツカサは殴り、殴られ、赤く腫れた片手をよろよろと持ち上げて、ラングの背中に回した。
『ごめん』
ぽん、ぽん、と叩き、ぎゅうっとラングの服を握りしめた。
『ごめん。認めるよ、確かにラングの向こうに【兄さん】を見てた』
ぐ、うぅ、とラングの息が怒りに震えている。そこには悲しみも混ざっているように感じた。
『でもね、ラングのことを、俺は見てる、見てたよ。ラングが俺のことを見ようとしてくれてたように、俺もラングを見てたよ』
もう片方の腕を持ち上げて、感情の高ぶりに熱を持つ背中を、痛む指を広げ、両腕で抱きしめた。
『我が強くて、頑固で、見栄っ張りで、強がって見せちゃって、意識がないとがむしゃらに近くの人を倒そうとする、弱虫で臆病者。ちょっとかなりそれなりに、乱暴者で、強くて、真っ直ぐな……、今だって、かっこいい、俺の、光だ』
ぐす、とツカサの声もまた震えた。
『ラング……生きててよかった……! 本当によかった……! 未来だって守りたいけど、何よりも、ラングに死んでほしくないよ、幸せになってほしいよ……! ラングも、【ラング】も大事なんだ、大好きなんだ……!』
うわぁあん、と泣き出したツカサの声に、ラングの緊張が解けていく。ふ、ふふ、と小さく笑い、ゆるゆるとツカサの顔の横にシールドを落とし、その耳元でラングが嗚咽を零すのを聞いて、ツカサはまた泣いた。
素直に泣けない【ラング】の代わりにいつも泣いていたような気がする。草原ではその機会を奪ってしまったような気がしたが、【ラング】がそれでいいと言ってくれて、ツカサは思い切り泣いた。
笑えない【ラング】の代わりにいつもアルが笑っていたような気がする。ゆっくりと、笑っていいのだ、笑いたい、と思った【ラング】の変化と小さな笑みを、あの軌跡を。
死線を越え、修羅場をくぐり抜け、血と苦痛にまみれた生を生きたラングがようやく手に入れたものを守りたい。それが導き手である自らの運命ならば、必ずや果たしてみせる。
だけど今だけは、二人で子供のように、素直に情けない声を上げて泣いていたかった。




