2-23:お湯
いつもご覧いただきありがとうございます。
ラングは魔法というものがかなり有用であり器用であることに改めて驚いていた。洗い場に運ばれた湯は木桶の半分、普段であればそれだけで十分に贅沢なのだが、ツカサがいると足りないと思うから困る。同じことを思ったのかツカサはそこに魔法で湯を足して、なみなみにしてくれた。それから防音魔法障壁を張って、ツカサは洗い場を出ると部屋に私物の洗濯用の大きめの木桶を出してこちらにも湯を用意した。手を差し出され、ん、と揺らされた意図がわからなかった。
『洗濯物、脱いだやつこっちにちょうだい』
『自分で洗う』
『いいから、ラングだって体あっためないとでしょ! これから冬になるっていうし、水は意外と冷えるんだからちょっとは素直に言うこと聞いて! ほら、寄越して、早く! でももだがもなし!』
椅子に掛けてあった緑色のマントが人質のようにバシャリと洗濯桶に突っ込まれ、ラングは肩を竦めた。装備についてもよく知っているというツカサはラングが双剣や短剣、胸当てなどをベッドの上に置いた後、そちらには目もくれず指一本触れようとはしなかった。なるほど、よくわかっている。それを確認してからラングはブーツを脱ぎ、中に布を入れようとしてツカサに取り上げられた。乾かせると言われ、前日、自分の髪を乾かした手法を思い出した。あとは洗い場で脱ぐことにして中が見えない程度、会話ができる程度、扉を少しだけ開けた状態にし、ラングはたっぷりと湯の入っている木桶の横で服を脱ぎ始めた。小さな机と脱衣用の籠があるので服はそこに入れればいい。
『まったくもう、ほんと、そういうところだよ。あのテントがあれば別にいいけどさ、いや、まぁ泥だらけでもないし俺の鍛錬服洗うより楽なんだけどさ、ほんとに……』
ぶつぶつと言いながらじゃぶじゃぶ水音がして居心地が悪い。今まで潜入をして怒られたことなどなかった。情報を持ち帰れずに師匠に散々馬鹿にされた経験はあるものの、危ないだとか、危険だとか、心配をされることはあまりない経験なのだ。肩のあたりに変なもぞもぞ感があり、ラングは思わずそれを手で払った。シャツとズボンを脱ぎ、水の滴る茶色いマントを乗せ、お言葉に甘えて籠をゴトリと扉の外に出せば、大きな溜息が聞こえた。近寄ってきても扉をそれ以上開けることはない。籠だけを回収してツカサの気配が離れていく。
『一応、変装はしたってことね』
感心してしまった。マントを変える意図はわかるらしく、ツカサはまたぶつぶつ言いながら茶色のマントも洗濯桶に突っ込んだようだ。鈍く、広く面を叩く音がした。独り言ちながらツカサは洗濯の工夫を楽しんでいるのか、汚れた水は収納して後で捨てることにして、あ、脱水できるかも、やっぱりぬるま湯の方が汚れ落ちるよな、これ素材何? となかなかうるさい。ラングは備え付けの手桶でまずは頭から湯を被り、冷えた体を無理やり温め始めた。その水音を聞きながらツカサが切り出した。
『組合で聞いたんだけどさ、ファトアの街の変な城壁、あれ、魔物を防ぐためみたい』
『ほう、黒いものへの対処ではなかったのか』
時間を無駄にしない姿勢には好感を抱く。時折、石鹸は、湯は足りるかと世話を焼かれながら話を聞いたところ、思った以上に情報収集が上手いのだとわかった。
冬が近く、今年は夏が暖かかったので冷え込むだろうこと。冬場の移動方法について、旅芸人たちに接触し、情報を得た方がいいだろうこと。先の見えない崖側から魔物が大移動している、大虎曰く、森の主たちが逃げるように促したそれらが人にとっては魔獣暴走と考えられ、ファトアの城壁が造られ始めていること。
それから、守護騎士が先の見えない崖を目指していること。恐らくその手前の村や町で異端者を捕縛するのではないかと噂になっていること。
『商人の中の噂だからどの程度の信憑性はわからないけど、先の見えない崖側に出ていく守護騎士は確かに見てるしな、と思って』
『そうだな。守護騎士といえば、ここの教会にも一人居たぞ』
『え、そうなの? 何かわかった?』
あぁ、とラングは机に置いた収納のポシェットから紙を取り出して扉の隙間から差し出した。手のひら側を見せるようにし、手の甲は見せない。
『何これ』
『羊皮紙の写しだ。書き写すよりも早い方を選んだ。滲んだが、読めるところはあるか?』
差し出した右手から紙が持っていかれ、ツカサはそれを見て唸った。
『文字が逆、透かせばいいのかな、待ってね。【鑑定眼】も使うから』
トーチ、とツカサが明かりを求める際の呟きが聞こえた。強い光を当てて裏側から読む、工夫のできる奴だと何度目か感心しながらラングは湯に体を沈めた。温かい。
『うーん、文字は結構滲んでて、それに回りくどくて読みにくいけど、神獣を捕獲せよ、かな。もの自体は【秘匿文書の写し】って出てる』
『秘匿にしては普通に置いてあったけどな。ところで、しんじゅうとはなんだ?』
『あの、ほら、大虎さんみたいな。たぶんそういう、ちょっと普通の獣とは違う、神聖な生きもの、かな』
『この世界ではどういう音なんだ』
「神獣」
ふむ、とラングは湯の中で腕を組んだ。当てはまる音の場所があった。
【神獣】を見たーーー者がおりまして!
【神獣】ーー!? どこでだ!
『教徒と守護騎士が神獣を探している、見つけたような様子だった。慌ただしくどこかへ走り去った隙に、その写しを取ってきたんだ』
『なるほど、あれだけ堂々と空を駆けていれば目撃者もいるよね……。でもなんで神獣、土地神……慣れないな、精霊を探すんだろう。他には何かない?』
ラングはざばりと湯から出ると収納のポシェットから地図を取り出して差し出した。ツカサが受け取り、それを覗き込んだ気配を扉越しに感じてから言った。
『責任者の部屋らしきところに、その印をつけた地図があった。それも写してきたんだが、どう思う?』
『そうだなぁ、さっきの神獣の話からすると、それを見かけた話とか、噂の目印みたいな? 故郷でも俺は魔力持ちだから全然知らないけど、この世界、こんなに精霊が目撃されるものなのかな』
おおよそ考えることは同じらしい。ラングは次いで、教会で祈る者の多くが救いを求めており、死を望んでいないことも話した。
『そうだよね、死にたくないよね』
呟くように言ったツカサの声が少し固く思え、ラングは眉を顰めた。そんなラングの表情はわからなくとも水音がしなくなったことで湯を上がったことを察したらしいツカサが、タオルを差し出してくれたので有難く受け取る。機微に聡い青年は、気遣いも驚くほどの丁寧さだ。少々気まずさが増す。
暫く会話はなかった。ツカサは再び洗濯物をやり始め、パシッと生地をはたいて伸ばす音が聞こえていた。ラングはラングで体をしっかりと拭い、冷える前に違う服を取り出して服を着替えた。
収納のポシェットには身の回りのものが多く入っていて、百個程度では趣味のせいもあり到底旅には枠が足らない。いずれその中に収められるようになれば、お前の旅は楽になる、と師匠には言われているが、そう言った張本人は百個入るロストアイテムを二つは持っているのでそんな言葉がラングに響くわけもなく、腹いせに一つ隠してやったらそこそこ本気で殺されかけたことを思い出し、口元が歪んだ。その後、ギルドマスターが拳骨を二発落とし、師弟喧嘩で街中を壊しながら走り回るなと叱られた。街中の修理を手伝わされたことも赤面を伴って思い出した。
あの時は納得もいっていなかったが、隠した方のロストアイテムには師匠が大事にしているものが入っていたらしい。何が入っているのかは今も知らない。きちんと返したが、大人げない師匠は暫くラングの食事から塩を抜いていた。それから、ラングは自分で塩を持つようになった。
数年前の恥を叩きつけるように残り湯を使って洗濯物を済ませ、上に吊るされている紐に掛ける。さすがに下着を誰かに洗わせるのは嫌だった。湯を抜き、フードにシールドを着けて出れば、すっかり水の無くなった洗濯桶と、すっかり乾いているマントや衣服が置いてあった。暖炉にはいつの間にか火が入っていてポットがしゅんしゅんと湯気を立てていた。ハーブティーを淹れているツカサからコップを揺らされ、もらいたいと答えた。受け取り、椅子に腰かけ、部屋の中を見渡して快適さに息を吐いた。
『ありがとう。……便利なものだな。それだけで金を取れる』
『有用だけど万能じゃないからさ。髪乾かそうか?』
『すまないが頼む』
喉を潤していたハーブティーを置き、少し首を前に出してツカサの手を受け入れ、風が通り乾くのを待つ。
『そういえば、ここ数年不作が続いているらしいよ』
それから、水が濁り始めているって言ってた。指先で髪の具合を確かめて手を引き抜きながらツカサが言った。ラングの脳裏に浮かんだのは井戸に膜を張っていた黒いものだ。
『理の力、大虎さんを見ても精霊の弱体化が思いつくんだ。……いったいこの世界どうなっているんだろう』
『そうだな。それに、動物だけではなく、魚や、草木も命あるものだろう。黒く膜を張っていた井戸もあった』
『あぁ、あったね。つい命っていうと、特に俺が受け止めているものが人の命だから忘れがちだけど、自然にも命があって当然だよね。命があんな形になっちゃうんだったら、新しい植物だって育つかどうか』
世界全体で死んだものが世界を黒く濁していっているということか。その中でも大きい命が人であるからこそ、精霊は世界を守るために抱え込んでいた。ツカサは考えごとをしながらそうして言葉を紡いでいき、ううん、と思案に沈んでいく。面白い青年だ。ラングが触れたことのない世界に明るく、柔軟に物事を受け入れ、様々な予測を立てていく。どういう経験を経てこうなったのか興味を抱いた。
一旦、それは置いておいてベッドに移動し、ラングは双剣を手に取り、手入れを始めた。
『草木自体はまだ枯れていなかったが、あの森、魔物は移動したとして小動物がいなかった理由が、既に死んでいたからだとすれば、不味そうだな』
『黒いものが知らないところで水を濁らせてたり、変なバケモノになってたりするかもしれないしね』
『それもそうだが、何よりも食料不足が気に掛かる』
その不思議なロストアイテムの中にたくさんの食料を持つ青年は、この危機がよくわかっていないらしい。シャー、シャー、と音を立てながらロストアイテムである砥石で刃を撫でた後、刃先を確認し、ラングはシールドをゆるりと上げた。
『食うものがなくなると、人は自身が食うために、相手から奪うことを考える』
サッとツカサの顔色が変わった。ラングは双剣を鞘に収めて呟いた。
『いずれ戦乱に陥るだろう。この世界から早く抜け出さなくてはならないな』
移動する、逃げる理由だけが積み重なっていく。