2-18:時を眺めて
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ツカサは、日本から異世界に渡って、ここまでファンタジーな光景に遭遇するのは初めてな気がした。
魔法やラングと歩いた街並み、ダンジョンなど、十分に冒険の世界ではあった。生きるためには働かねばならず、ゲームのようにHPを削り合うこともなく、急所に当たれば死ぬような生と死の現実を突き付けてくる厳しい世界。魔法や理といった不可思議なものはあれど、ダンジョンが既に世界に馴染んでいたこともあり、それはあの世界では人々にとってファンタジーではなかっただろう。ツカサがぼんやりとそう考えたのは、今まさに、説明できない何かに触れているからだ。
明らかに空気が変わった。まるで職人が作り上げたかのように、周囲はいつの間にか森の神殿の一室へと様相を変えていた。黄金色に輝く蔦を巻いた木のアーチ。差し込む木漏れ日は何を反射しているのかキラキラしていて思わず手を差し出してそれを拾おうとしてしまった。さぁ、と吹き抜ける風は酸素を多く含んでいるような、霊峰から下る冷たい風。草原での感覚を思い出して心地よい。先ほどまでいた森とは違う、どこか隔絶された聖域にツカサはそっと、淡く光る大きな虎を見遣った。
『どういうことだ』
ラングは周囲の変貌と空気の変化に警戒心を上げていて、握り締めた双剣は離さずゆっくりと視線を巡らせていた。ツカサはゆるりと【ラング】に習った礼を取った。マントの中で左腕を横に、右手でマントの裾を掴んで横に広げ、左足を少し引きながら腰を落とす。大虎はそれに応えるようにゆっくりと頭を揺らし、礼を返した。ラングはその動作を見て、逡巡、ようやく双剣を収めた。大虎は低く、渋い声を発した。
『驚かせてすまなんだ。名乗ろう、我が名はエントゥケ、この土地を守る者なり』
『俺はツカサ。こっちはラング』
ふん、ふん、と大虎は顔を寄せこちらのにおいを嗅いできた。さすがに大きな虎の顔が近くなると少し怖い。髭の生えたぷっくりした部分に触ってみたい気もしたが、我慢した。んふぅ、と生温い息を吹きかけられ、大虎、エントゥケは体が重いと言いたげにずっしりと座り込んだ。
『気になることは多かろうが、まずは一つ頼みを聞いてもらいたい。死の舟の片鱗を持つ青年よ、どうか、我が身の内に拾い集めた魂を、引き取ってもらえないだろうか』
『あ、そうか、剥き出しじゃないから嫌な感じがしなかったんだ』
ハッとした。そして奪われる寸前とも書かれている。ジュールの街からファトアまで人が多くなっていた。だというのに見かけたのが朝靄の中の一つと、馬型魔物に集まったホーヴニルだけというのは、あまりにおかしな話だった。成れの果ての命をセルクスに代わり、こうして拾い集める者が居たからなのだ。【黒いもの】を光の粒に変えることは悪いことではないだろう。申し出を断る理由もなかった。
『わかった、ええと、どうすればいいかな』
『輝きを持つ青年のその剣で、我を刺し貫けばよい』
大虎の視線がツカサの後ろに注がれ、それを追って振り返った先でラングはシールドを微かに揺らした。
『私だと?』
ラングは理の属性だ。それに、無意識の神すら惹きつける輝きがあるのだった。ツカサは納得の表情で場所を譲ったがラングは動かない。
『そうだ。そして、ツカサが受け止めてくれれば、よい』
『とりあえず言われた通りやってみない?』
『礼儀はあれど味方とは限らない』
ラングは何かの罠ではないかと疑っているのだと気づいた。そうだ、ツカサは【神】に関して、いい神にも悪い神にも接触した経験がある。理の属性の土地神、リガーヴァルでいうところの精霊だと思うが、そうしたものにも関わった。だから、経験則からこれは大丈夫だという確信がある。ラングにはそれがないのでいくら大丈夫だと伝えたところで警戒が完全に解かれることがないのだ。ツカサは話が進まず、とりあえず言った。
『でも、剣で刺せって言われてるだけだし、敵ならそれで怪我を負わせられるし、いいんじゃない?』
そういう話ではない、と言いたげにラングの口元が歪んだ。
『なぜそこまで信頼ができる? 周囲の地形を変えられるほどの何かを持っているというのは、私でもわかる。それは今ここで私たちを押し潰すこともできるということだ』
『あぁ、なるほど』
ツカサは感心してしまった。そうした最悪の事態を考えられるのがラングの生存率の高さなのだろう。ラングがそうして警戒をしてくれるからこそ、ツカサは相手を信じる余裕が持てる。
『その時は、俺が魔法で守るよ』
任せて、と胸を叩けばその能天気ぶりに呆れたか、ラングは盛大な溜息をついた。すらりと双剣を抜いて大虎に歩み寄り、とん、とその剣で自身の右肩を叩き、ラングは剣呑に言った。
『希望はあるか。なければ首に刺す』
『豪胆な者よの、手先で構わぬ、ちくり、程度でな』
大虎は手をそっと前に手を出し、まるで注射針から目を逸らすようにそっぽを向いた。
当然のようにラングは容赦なかった。双剣を逆手に構え、両手で柄を握り、全体重を掛けて思いきり剣を突き刺した。ちくりと言ったではないか、と大虎の声が唸り声と重なり合って響いた。剣を抜かねば血しぶきは飛び散らない。だが、刺された場所から風船の空気が抜けるように黒いものがぶわぁっと噴き出し始めた。清浄で澄みきっていた空気は一変、何かどろどろとした粘り気のあるものに変わり光が遮られていく。恨みのような、悲しみに暮れるような音を立てながら混ざり合い、溶け合った黒いものの波が周囲を飛び回り満たしていく。ツカサは灰を集めることを想像していたがこれは想定外だ。
『ちょっ、灰じゃないの!? これ全部斬るの!?』
何十どころではない。何百、何千と抱え込まれた魂が、ラングの剣の先から、大虎の体からどんどんと溢れてくる。
『引きずり込まれる! 悪いが、手は貸せん!』
剣がずる、ずる、と大虎の手に沈み込んでいくのを、ラングは両足を踏ん張って堪えていた。大虎は大虎で咆哮を上げており頼れる人が誰も居ない。ツカサはさっと周囲を確認し、状況を把握しようと努めた。
美しい空間にすら収まりきらなくなってきて、ビキリと木が割れるような音すら響いた。どうすればいいんだ、やり方なんて知らないぞ、とツカサはぐるぐると解決策を考えた。セルクスはどうやって誘っていた? 笛を、ない。大鎌を、ない。あるのは頬の紋様だけ。この数を葬送の儀で光に変えていくのは時間が掛かる。まさか【変換】を使うのだろうか。魂一つまともな形に変えるだけでも負荷が大きいというのに、スカイを覆ったあの黒い雨を晴らした時など右眼の色も失って鼻血を吹いて倒れたんだぞ。言っている場合か、やるしかない。ツカサが意を決し顔を上げた瞬間、亡霊を見た。
こちらをにんまりと眺める藍色の瞳、時の死神、セルクス。
周囲の音が聞こえず、時が止まっているかのような錯覚を覚えた。目の前に立つ亡霊は唇を動かして囁いた。ツカサはそれを確かめるように、口にした。
「旅人よ、今ひと時の安息の眠り、揺れる舟の揺り籠でその身を癒すがよい。水の流れは時の流れ、喉を潤し、渇きを癒し、焼けた骨の熱を冷ますだろう。その眼が、再び世界を見るその時まで、静かな水辺で旅人に微睡を与えん。……おやすみ」
ツカサはそこまで繰り返して、ハッ、と息を吸った。叫んでいたわけではない。それでも、肺から何から息を全て吐きだすようにそれを言い、自分の声が不思議な響きを持って波になったのはわかった。その声に呼応するように黒い何かはボロボロとその身に纏っていたものを落とし、微かな光の粒に変わり、ツカサへ降り注いだ。
星が降ってくると思った夜もあった。暗くて、深い青の海に眩く散らされた光を見上げ、感嘆の声を上げたこともあった。手を伸ばせば掴めるのではないかと試したこともあった。
きっと、星が降るというのは、正しくこういうことなのだと思った。
温かな光は冷たく、さらさらと一筋の光の軌跡を描き、ツカサがそっと広げた両腕の間、胸へと誘われていく。
ツカサは不思議なものを見た。幸せそうに笑う人々、悲しみに暮れる人々、怒り、苦しみ、憎み、愛し、頽れる人々もいれば、もう一度立ち上がる人々もいる。多くの人生がツカサの傍を通り抜けていく。そこに小さな感情の欠片を残し、覗かせ、生きた人生が贈られる。
頑張って生きたんだ、と微笑む人もいれば、まだ生きたかった、と突然の死に涙を流す人もいる。
あの時こうしていれば、と後悔する人もいれば、あの選択は間違いではなかった、と胸を張る人もいる。
次はもっと上手くやるんだ、と意気込む人もいれば、どうせ次も変わらない、と諦めている人もいる。
幸せだった、と目を潤ませる人がいれば、不幸せだった、と嫉妬を目に宿している人もいる。
きらきら、どろどろ。つやつや、かさかさ。ふわふわ、ごわごわ。同じような幸せでも触り心地が違う。同じような不幸でも悲しみの深さが違う。一つとして同じ軌跡はなく、誰もが何かを抱えてその生を生きた。
ツカサは風を伴って駆け抜けていく誰かの人生をただ眺めていた。
セルクスがなぜ、ただの死神だとか、命の神と呼ばれなかったのかがわかったような気がした。時の死神は特別なのだ。死した人々の時を運ぶからこそ、その名が付いているのだ。送る魂の人生と感情をひと欠けら受け止めて、その胸にその人が生きた証を積み重ね、記憶する。そうして笛の音を聞かせて瞼を閉じさせ、次の生へと誘っていく。迎え、見送り、そしてまた見守る。死神という名を冠するにはあまりにも優しい神だったのだと思った。あの人間くさい対応も人の生を見てきたからなのかもしれない。
最後に、ふっと子供が横を駆け抜けていった。
おとうさん、おかあさん、と嬉しそうな声で両腕を広げ、その先で両親がしゃがみ込んで子供を出迎え、父親が高く掲げ上げた。それに母親が寄り添い、こちらに背を向けて光の方へ三人で歩いて消えていく。
暗闇に一人残されたツカサは、頬を濡らすものを拭えずにいた。
この暗闇は、常にセルクスが見ていたものなのだろう。




