2-16:真意
いつもご覧いただきありがとうございます。
水のショートソードは無事に取り返した。腰に戻しながら、器用に外されたなと悔しさが滲む。相手が子供であろうと容赦をしない【ラング】の対応が、こういう世界では正しかったのだと納得もいった。ツカサは海外旅行にも行っておらず、日本でもスリに遭わなかった。今日のことだって不運な出来事で今後一生ないかもしれないが、それでも経験をすると【あるかもしれない】という警戒心が育まれる。したくはない経験だった。
「盗む相手はよく見て選ぶんだね」
強がりを込めて言えば、氷漬けの少年少女は野良犬のように唸ったり、悲劇のヒロインのようにめそめそ泣いていたりと各々が何かを自己主張している。トト、と呼ばれていたリーダーのような少年が叫んだ。
「盗られる方が悪いんだよ! 間抜け面!」
「取り返されるのも当然だろ」
ツカサは間髪入れずに言い返し、ぐるる、と唸るような少年に肩を竦めた。これ以上相手にしなくてもいいか、と振り返れば、ラングはゆっくりと双剣を抜いていた。
『ちょ、ちょっと、ラング?』
『盗人は腕を斬り落とすものだ』
処刑人。そうだ、ラングは二十二と若いが既にその称号を受けている。冒険者を取り締まる役目を担うラングにとって、盗みを働く者もまた、処罰の対象にあたるのだろう。信賞必罰、その相手の年齢など気にするだろうか。いいや、しない。ツカサは慌ててラングの腕を掴んだ。
『ちょっと待って、もういいよ、どうせ街を出ていくし、氷漬けなら暫く何もできないだろうから』
『甘いことをぬかすな。スラムのガキであろうと、川で身を清め、できる限りの努力をすれば、皿洗いでも肉体労働でも仕事はある。特に今は訳の分からない壁を増やしている最中だ、手が擦り切れようと一日一食の糧は得られるはずだ』
でも、こんな年端もいかない子供だよ、と続けようとして、それが懐かしい日本の感覚であることに気づき口を噤む。ロナだって孤児院にいながら街でちょっとした仕事をしたりして冒険の準備を整え、生きるために働いていた。あれもまた恵まれていたのだとわかってはいる。目の前の子供に同情するのもまたツカサのエゴだ。綺麗事を言うつもりはない。助けるために手を差し伸べることは、最後まで関りを持つ覚悟がある時だけだ。それに、ラングがこのために手を汚すことが嫌なのも本心だった。その手がたとえ血に染まっていようとも、こんなことで赤を重ねていい手ではないはずだ。
『そうしないのもこの子たちの選択でしょ。ラングが手を出さなくても、いずれ、もっと痛い目を見るよ』
じっと視線を交わし合う。ラングは小さな溜息をついて双剣を腰に戻した。
『そういった視点は学ばせたようだ』
『そうだね、もっと、穏やかに、優しく教わったよ』
腕を組んでじとりとラングを見遣れば軽く肩を竦められた。氷漬けの少年少女たちはまだ何か叫んでいたが無視をして、このスラムから出る道を探さなければならない。
『壁を上がって戻るしかないかな? 壁と壁の間も狭いし、この並びをずっと行けば通りに出られるかな』
『壁を越える方が手っ取り早い。少々面倒なことになった』
え、と振り返ればその手に木の棒や瓦礫を持った、汚れた衣服の人々が暗がりから現れていた。薄曇りの月夜、ぼんやりとした月光の中、浮かび上がる黒ずんだ肌、ぼさぼさの髪、歯が抜けたのか喧嘩でもして折れたのか隙間のある口。なのに目だけはギラギラと欲望に燃えている。目元が窪んで正気とは思えない人もいた。魔獣や魔物は大丈夫でも、ゾンビのような人というのは本能的に忌避感がある。顎を引いたツカサの代わりにラングが一歩前に出た。
『この家の並びもまた防壁か。この壁を越えてきた者は獲物のようだ』
言われ、建物の壁を見遣ればこちら側には窓がなかった。道理で暗いわけだ。ということはかなり昔からこのスラムはあるのだろうか。成り立ちについて思いを巡らせている場合ではない。
『えーっと、こういう時は逃げるの一択だと思うんだけど……』
『お前、壁はどの程度早く駆け上がれるんだ』
『魔法を使うから早いと思うけど』
『ならば先に上がれ』
ラングは、とか、一緒に、とかいう時間が惜しい。ツカサは建物に向かって走り、風魔法を器用に踏んで壁に手をつきながら屋根に上がった。その行動を切っ掛けに群衆がラングに向かって襲い掛かったが、冷静に銀貨を一枚放り投げてみせれば、その放物線を餌を待っていた獣の目が追った。きらめきに気を取られている隙にラングは短剣を片手に、まるで梯子を上るようにするすると屋根まで上がってきた。
『どうやったのそれ』
『指を軽くかけて壁を蹴り、短剣で位置を直して上がっただけだ』
やってみようとすると難しい技術だろうとはわかった。屋根の上で下を眺めれば、銀貨を奪い合い殺し合いが起きていた。氷漬けにした少年少女もまた、その身を固めていた不思議な氷を奪うために鈍器で殴られ、血を飛ばし地面に倒されている。氷漬けにしなければ、と思う気持ちと、そもそも俺からものを盗むからだ、という腹立たしい気持ちと、俺が奪われなければ、と悔やむ気持ちが混在し、ツカサは頭痛がした。そっと、周囲の獣たちにバレないように子供にヒールを使い、大きな怪我だけは治した。彼らがこの後どうするのか、どうなるのか、それはツカサには手の出せない領域だ。やらなければこの結果にはならなかった。選択の結果。ツカサは今の自分の選択に視界が揺れる気持ちだった。
あの時、シュンに何ができたのだろう。
『このまま屋根を伝い、門まで行ってしまおう。誤って路地裏などに入ってしまえば面倒な街だ』
思考に沈みかけたツカサに静かな声が掛かり、引き上げられた。うん、そうだね、と返し、ツカサはちらりとスラムを眺めた。もはや銀貨はどこに行ったのか、お互い殴り合って昏倒した人々が折り重なり、そこに地獄を見た気持ちだった。一度強く目を瞑り、色の違う両眼を開き、ラングに頷いた。ラングは何も言わず先導し、人目につかないところで飛び降り、薄暗い街のランタンの明かりの中に戻った。スラムに比べれば明るく少しだけ目を眇めた。ラングは軽く肘でマントを揺らし促してきたので、そっとそれを握り締める。ツカサもまたマントを着けているので手元は見えにくく、並んで歩いているだけに見えるだろう。
『ねぇ、ちょっと聞いてくれる?』
呟けば浄化の宝珠が揺れ、聞いていると示してくれた。ツカサはありがとう、と言ってからぽつりと呟いた。
『俺のいた場所は、故郷でも、過去でも、恵まれていたんだと思う』
滞在していた街でもスラムは見なかった。そもそも保護者として共に居てくれた【ラング】が上手にツカサを促してくれていたように思う。スラムについて言及したのが【赤壁のダンジョン】であったことは、そこに至るまでの旅路でツカサが受け止められると判断されたからだ。危険を危険と理解し、想像し、避けられる。そこに至れてこそ、ようやく手を離せる。けれど、【ラング】は決してそうしたことを具体的な言葉では伝えてこなかった。言われて気づくこともあれば、自分で気づかねば学べないこともある。厳しいが、だからこそツカサは気づこうとする視点を育てられたとも思う。
『……気づいたのが今っていうね』
遅すぎたかな、と自嘲気味に言えば、少しの沈黙が下りた。この沈黙もまた苦しくはない。
無事に南門に辿り着き、身分証を提示。夜なのに出るのかと問われ、宿がなかったので仕方なく歩くことにしたと答えた。同じような理由で夜露を凌げる木の下を探しに行く人がいるのだろう、そうか、物取りには気をつけてな、と言われすんなりと街を出ることができた。
馬車の車輪でできた溝を避けながら歩き続け、同じようにファトアの街を出てきた人々が徐々に減る。深夜を回り、さすがに皆休むのだ。ツカサはラングのマントを握り続けていた。あの日のように、眠さに揺れ、千鳥足になることはない。ラングは足を止め周囲を窺い、森の中へ入っていく。休むのだろう。
『まだ歩けるよ?』
声を掛けてもマントは進み続けるのでツカサはそれに引っ張られるようにして森へ入った。また暫く歩き、街道も見えない位置に来てからラングは振り返った。少し開けた場所、枝が重なり雨が降ったとしても避けられるだろう。
『ここで休む』
『あ、うん、じゃあ、焚火起こそうか』
ツカサはゆるりと手を離し空間収納からクズ魔石と薪を取り出して手際よく火を起こした。ポットに水を入れ焚火に埋め、とりあえず湯は確保できるようにしていれば、その間にラングは木々にロープを結び、布を被せ、屋根を作ってくれていた。ツカサは地面に毛皮と布を敷き、防音魔法障壁を張る。なんだかんだ役割分担ができていた。湯が沸いてハーブティーを二つ、お互いにふぅ、とそれを冷まして、時間を潰すようにコップの中身と向き合った。
『私は』
ラングが意を決した様子で発した声にツカサは焚火の向こう側を見た。シールドは焚火のオレンジでゆらゆらとその光を映し、その奥が見えることはない。ただ、ゆっくりとコップに向いていた視線がこちらを向いたのはわかった。
『言葉が上手くない』
うん、知ってる、確かに、とツカサは少しだけ揶揄うように返した。ラングは小さく唸った後、一口ハーブティーを飲んでそれを置いた。
『こういう時、何を言えばいいのかわからない。一つ、お前に寄り添えることがあるのだとしたら、形は違えど、一度、私も過去を失っているということだけだ』
『うん』
そうだ、ラングは実父の弟によってその立場を追いやられ、実父と逃げ、その先で失ったのだ。名も捨て、ただ生き延びることを願われて、生きている。ツカサは視線を落とし、コップの底で横たわる茶葉をじっと眺めた。さら、とマントの揺れる微かな音がして隣にふわりと座ったラングに視線を向けることができない。
『お前が何に悩んでいるのかがわからないんだ。道標もある、行動の指針もある。けれど、何がお前の胸に棘を残しているんだ?』
棘、と繰り返す。そんなものたくさんだ。今までの決断や行動が間違っていなかったかと常に不安を抱え、未来がどうなのかもわからず、ただがむしゃらにここまで来ていて、誰も「それが正しい」「それで大丈夫」と肯定してくれることもない。大勢の命と未来が肩に乗っていて、たった一人で解決まで辿り着かなくてはならない。心強い仲間たちはどこに行った。せめて一人、ツカサのことを知ってくれている人が居さえすれば、それだけでも違うというのに。誰も居ないのだ。もしかしたら自分だけが空想の世界で生きていて、この現実が本物で、これが無駄なことなのではないか。
『怖いよ、本当にこれでいいのかわからないんだ。正しいのかわからないんだ。今、もし、生きている人がいるのなら、俺が戻そうとすることで死んでしまう人もいるかもしれない。そんな命を奪うようなこと、それは、それは俺だって身を守るためにしてきたけどさ! どうなってるかわからないけどさ……!』
気づけば、ツカサは感情を吐露していた。泣きじゃくりはしないが、ボロボロと零れる涙。胸を締め付けるきりきりとした痛み。息の吸い方はどうだったか思い出せない。
『正しい正義など、どこにもない』
は、と息が吸えた。その言葉は聞いたことがあった。時間を掛けてツカサの中に沁み込んだそれは、少しだけ若い音で再びツカサに差し出された。顔を上げれば黒いシールドはこちらを向いて、その奥から視線を感じ、見つめ返した。
『だが、真実を追うことはできる。なぜこうなったのか、どうしてお前は奪われたのか。知ろうとすればこそ、得られる答えはあるはずだ。私はそれがどのような道だろうと、ついていってやる』
だから頑張れ、と言われでもしたら嫌だな、と思った。
『その前に、一度盛大に折れておけ』
折れるな、堪えろ、受け止めろ。
ツカサを支えてきたものがいつの間にか呪いに変わり、きつく締めつけてきていたものが、ゆるりと優しく解かれる気持ちだった。
あぁ、そうか、そうだったのだ。別に、あの言葉は常に自身を律せよという言葉ではなかったのだ。口下手な【兄】が精一杯伝えてくれていたではないか。立たねばならない時は立て、だが、一度として泣くことを、弱音を吐くことを責められたことはなかった。黙って言葉を聞き、ツカサの駄々を受け止め、その上で寄り添ってくれた温もりを思い出して、ツカサは肩を震わせた。
とん、と背中を叩かれて、もうだめだった。ひぃ、うわぁ、あぁ、と情けない声を上げながらぼたぼたと落ちる涙が熱くて重くて体が折れていく。腕を差し込まれることもなく、背中を撫でていた手が肩に回り、あの日のように強く握り締められた。
慟哭が泣き疲れ睡魔に落ちて消えるまで、ラングはただ、ツカサの隣で焚火を守り続けた。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やリアクションをいただけると励みになります。
 




