2-2:契約の本
いつもご覧いただきありがとうございます。
揺蕩う灰をどうすればいいのかわからないまま、これ以上悪いことが起きないように、ツカサはそれを魔法障壁で包み、そっと空間収納へ仕舞った。これだって安全かわからないが、目の届かないところで何かあっても困る。オーリレアで魂を預かったシェイの真似だ。ラングは灰が消えた先が気になったらしく、説明に時間を取られそうで、ツカサは灰色のマントを持ち上げて腰のポーチを叩いて示すだけにした。これが呪い品だとも、アイテムポーチだとも言いはしない。単純に合図だ、とツカサは胸中で言い張った。あとでスキルの説明をするとしたら『そう言った』とこの人は絶対に言うのだ。そういう記憶力がよくて細かくて面倒なところがあるのも、よく知っている。
どこか安全な場所でゆっくり会話がしたいと言えば、【その人】、ラングは南に集落がある、と言った。どうやら大木の上に登っていたのには、この周辺の把握という目的があったらしい。
『歩いていけば半日程度、だが、煙が見えなかった』
『日中はそんなもんじゃないの?』
『煙が上がっていない、火を使っていない、ということだ』
補足された言葉になるほど、と腕を組む。人が生活していれば、昼でも、夜でも、何かしらの火を扱う。煙が上がっていない、ということは、そこで火を扱う生活がないということだ。たしかにそれはおかしい。おかしいが、調べたいとも思った。
『行ってみない? なんでいないのか気になるし、人が居なくても家屋があれば、雨風は凌げるでしょ』
『あまり気が進まない。それならば、木の上の方が安全だ』
上を見上げる黒い仮面を追ってツカサも顔を上げた。
『俺、木登りはまだ習ってないんだよね』
何かおかしなものを見るように見られているのはわかった。仕方ないだろう、ツカサは都会生まれ都会育ち。公園に木はあった。幼少期は登って怒られたこともあるが、それは目の前の太さ直径五メートルはあるのではないかという大木に比べれば背も低く細かった。他にも遊具があったので早々に飽きたのも理由だ。祖父母の家も住宅街だったので、アニメなどで見るような森にはあまり行ったことがなかった。いっそサイダルが初めてだったほどだ。あ、でも、遠足で山には行ったっけ、と少し思い出に耽った。
『迷子だと言っていたな』
『あ、うん』
『それはあの洞窟に限定してのことか?』
ラングが仮面を揺らすのではなく、親指でそこを指し示したことに顔がにやけた。若い頃はそういう動作もしたのか。ツカサの表情にまた気持ち悪いものを見たと言いたげにラングの口元が歪む。咳払いをしてからツカサは首を振った。
『いや、気づいたらここにいたから、たぶんこの近辺もわからないと思う。それもあって集落を調べたいんだよね。ちなみに、俺はこう、上から黒いものがどばーっと降ってきて、よくわからないうちにあそこにいたんだけど、ラングは?』
『同じだ。何か黒いものに襲われ、吞み込まれた。気づいたらあの洞窟にいた。薄気味悪い』
前に転移した時には様々な理由があっての別のパターンだったが、今回は同じらしい。ツカサはちらりとラングを見遣った。握手以降ラングは片手を双剣の柄の置いている。いつものラングならばこういう会話の際、腕を組んでいてもおかしくはない。これはツカサに対し、いつでも剣を抜けるぞ、お前を信頼、信用していないぞ、と示しているのだ。なんだか可愛く思えるのは、年齢は定かではないが、兄の若かりし頃を見ているからだろうか。
『気味の悪い男だ、ニヤニヤと気持ち悪い』
はっきりと言い過ぎではないか。文句を言おうと口を開けばラングはマントをふわりと翻して歩き始めた。方角は南、なんだかんだ、調べたいと言った言葉を真面目に受け止めてくれたらしい。それを追って隣に並び、ツカサはもじもじと声を掛けた。
『あのさ、雑談してもいい?』
沈黙。それを肯定と受け取り、勝手にすることにした。
『その黒いの、いつから着けてるの? ラング、今何歳? もしかして年、結構近い?』
『お前には関係のない話だ』
ピシャリと断られる。なんだか楽しくなってきた。不謹慎だとわかりつつも、会いたい人に会えたことが心の傷を癒していく。いや、それも勘違いだ。ただ傷口を見えないように覆い隠しただけに過ぎない。押さえた手の下から鮮血が滲む感覚があった。ツカサが本当に会いたいのは、五十路を越えた泰然自若とした兄なのだ。【ツカサ】のことを知っている【兄】なのだ。
ゆるりと足が止まった。ツカサの突然の失速に五歩先でラングが足を止めて振り返った。
『エド、どうした』
エド。自分で名乗っておきながら違和感に笑う。一時期その名を持ってはいたが、ラングに呼ばれるなら本名の方がいい。けれど、ツカサは過去に何かあって、今こうなっている可能性を思いついてからどう対応するのが正しいのかを測りかねていた。ラングをどう守ればいいのか。変えてはならないのならば、どう変えないのが正解なのか。
間違えられない。行動一つで仲間を、家族を失ってしまう。そもそもシュンが何をしたのかもわからず、セルクスは思わせぶりなことを言い残して崩れた。ツカサはかくりと膝をついた。
『おい。本当にどうした』
こういう時、言葉遣いは若くても、ラングの静かな声は変わらないな、と思った。ツカサは俯き、視界が滲んで地面がよく見えず、自分が泣きそうになっていることはわかった。出会って早々、サイダルを逃げ出した時にも情けない顔を見せて、ここでもこれか、と自嘲気味な声が零れた。目の前で膝をつき、少し迷った末にラングの手がツカサの肩に置かれた。そこにある優しさは同じで、ツカサはその手に手を重ね、顔を伏せたまま、ぎゅっと握り締めた。
『話したいことがあるんだ。でも、それをどう話せばいいのかがわからないんだ』
『話せばいい』
『一つ間違えたら全部失うことになりそうで、怖いんだ』
ラングの手が引いていく。それを握り締めて引き留めることはできず、ツカサは手から力を抜いた。それから、ぐっと目元を拭い、涙を誤魔化して顔を上げた。
『ラング、俺はね、ラングを守りに来たんだよ』
真っ直ぐに黒い仮面の奥の双眸を見据え、言ったツカサの言葉を、ラングは一笑に付したりはしなかった。気質や性格そのものの根本が同じであることに小さな安堵を得て、ツカサは続けた。
『守れって言われただけで、どう守ればいいのかわからないし、そもそも、ラングは、さっきも強かった。だけど、俺には、見せたように不思議な力がある』
手のひらを差し出してそこに氷の花を咲かせる。ラングの形のいい薄い唇が少し開き、驚きを露わにしていた。それもまた新鮮だな、と思いながらツカサは氷の花を砕き、パサリと細かい氷粒をさらさらと落とした。ラングは困惑しただろう。それでも、ツカサの真剣な声と対応に、真摯に答えてきた。
『守られる理由がない。道理がない。私にはそれを受け入れられない』
『ギルドラーは信頼が全てで、報酬がなければ動かないから、だよね?』
『そうだ。ただ善意で動くというのであれば、悪いがここで別れる』
『もう、報酬はもらってるんだ』
ツカサはポーチから金貨と白金貨を二枚ずつ取り出した。会話した夜空の下、先行投資だと渡されたものだ。
『お金だけじゃなくて、技術とか、生き方とか、料理の仕方とか。返せないくらいの報酬を、もう貰ってるんだ』
『依頼主が誰だか知らないが、なぜそんな話になっているのか、私には何も理解できない』
『いつか話すから、絶対に』
ラングの手を取り、ツカサは強く握り締めた。振り払われはしないが、返されることもない。ツカサはただ真摯に言った。
『覚悟が決まるまで、少しだけ待っていてほしいんだ。それまで、一緒に、ここがどこなのか調べよう』
ラングはツカサの言葉をじっと見極めているようだった。昔、ツカサが心折れてしまった時、ラングは話してくれた。信頼していた者や、頼りにしていた者からの厚意が実は欺瞞だった、そうした経験があると。先ほど共に戦った、剣を交えていた相手と手を組むことを躊躇しないギルドラーでも、相手が善意と見知らぬ報酬を前に依頼を請けたのだと言って自身を守ろうとすることは、経験に無いのだろう。困惑が手から感じられ、ツカサはそれでもその手を離さなかった。
『頼むよ、俺はきっと、役に立つよ』
また暫くの沈黙の後、ラングは息を吸った。ツカサの手を握り返し、ラングからそれを離される。
『ならば契約を結べ』
トン、と腰のポシェットを叩いてラングが一冊の本を取り出した。次いでインクとペン。ラングは座り込んで膝に本を乗せ、さらさらと記載をしていき、ツカサに差し出した。懐かしさにまた目頭が熱くなるが、ぐっと堪えた。
ギルドラー、パニッシャー・ラングは誓う
エドを殺さないことを
エドは誓う
ラングと敵対せず、協力し、守ることを
『問題がなければ、署名をしろ。ページのどこでもいい。追記は今ならできる』
十分だと思った。ペンを受け取って名前を書こうとし、本にそれを弾かれた。最初に書いた時にはなかった反応に驚いていれば、気づいたら短剣を手にしたラングに押し倒されていて、首筋に刃が添えられていた。しっかりと膝で胸元を押さえ、伸ばした逆の足で急所である股間の近く、腿の付け根をつま先で押さえられ、痛みに悲鳴が上がった。膝とつま先に体重を掛けられているので胸は苦しいし、脚の付け根は本当に痛い。
『痛い! なにそれいたい!』
『嘘を吐いたな』
『まままま待って! ゲホッ! 何!? どこが嘘!? ど、どういう仕組みなのあれ!? い……っ!』
痛い、足の付け根が、堪らなく痛い。ぐりっと踏みつけられて絶叫が上がった。魔法障壁を展開して圧し掛かっていたラングを弾き飛ばし、ツカサは付け根を押さえてヒールを使う。脂汗がすごかった。瞬時に接敵したラングの短剣がガキンッと音を立て、魔法障壁に阻まれて舌打ちが聞こえた。危ない、張っててよかった魔法障壁。
『確かに不思議な技を使う』
『待ってって! 言ってる! 痛めつけられてたら! 話すことも、できないでしょ!』
『たいした演技力だった、嘘つき野郎め』
『本当のことを話してる!』
『ならばなぜ弾かれる』
放り出された本へちらりと視線をやって、ツカサは叫んだ。
『エドの名前を、ツカサに変えて! エドも俺の名前だけど、ツカサが本名なんだ!』
もう一度書いて! と叫び、ツカサは痛みはなくなったが忘れられないそれを宥めるように足の付け根を撫で続けた。ラングは動くな、と短剣を差し向けた後、エドの名をツカサに変えて書き直し、本を放ってきた。ツカサは自分のペンを取り出してそこに書き込み、正しく書けたことに、ほら、と両手を広げてみせた。ふわっとページが光り、契約が成されたことを知る。寄越せ、とラングの手が揺れる。ツカサは本を軽く放って返し、呻きながら立ち上がった。
『なぜ名を偽った』
『エドも俺の名の一つなんだよ。弾かれるとは思わなくて、少しショック』
ラングは契約の成されたページを開き、剣呑に黒い仮面を揺らした。
『追記したのか』
『だって痛かった!』
ギルドラー、パニッシャー・ラングは誓う
ツカサを殺さないことを、傷つけず、痛めつけないことを
ツカサは誓う
ラングと敵対せず、ただ協力し、守ることを
『追記した内容を見せる頭はなかったのか。記載者である私であれば破棄の方法もありはするが……』
『そもそも、その本がなんなのか説明もせずに、差し出して確認して署名しろっていうのもどうなの』
『聞かれれば答える』
『じゃあ答えて。あ、破棄しないでよね! 殺さないなら守れるでしょ、そのくらい!』
『破棄はしない。これはお前を縛るためのものだからな』
懐かしさにかまけて【鑑定眼】を怠ったのは自分だ。使えばよかったというのはツカサの胸中で反省はしつつ、平然と問いかけを待つばかりのラングにも腹が立ったので聞いた。ぱたん、と本を閉じてポシェットに仕舞い込み、ラングは答えた。
『契約の本、記載した内容が真実であれば、署名した当事者間で契約が結ばれる。真実ではない場合、先ほどのように契約ができず弾かれる。破ろうとすれば、破った側の心臓が壊れる』
ドキッとして胸を撫でた。あの時、随分すんなりと条件を呑んだなとは思ってはいたのが、ラングはその契約の本をもってして、ツカサの望み、【自由の旅行者】の著者が探せる、契約を果たせる、つまり生存しているのかを確かめたのだ。
――まぁ、死んでいるのなら無理だが
果たせる契約である、とか、あの言葉の後には、きっと何かが続くはずだったのだ。ツカサにはそれを遮って叫んだような記憶がある。加えてツカサが嘘を吐いていないことも確認し、協力者として相応しいと判じたのだろう。本当に、冷静に恐ろしい人だ。あの時のラングよりも熾烈ではあるが、やろうとすることは変わらない。そして、ラングがその心臓をツカサを守るための契約に差し出していたのだと知った。
『そういう大事なこと、本当、最初に言ってほしいよ』
ラングはそれを契約の本のことだと思っただろう。ツカサは深呼吸をして、ラングを見た。
『エドも俺の名前なんだ。騙すつもりはなかったんだ』
『他の部分で偽りがなかった。信じてやってもいい』
『ありがとう』
『それで、今後お前の名はどちらで呼べばいい』
先ほど殺そうと追い詰めた相手と、さらりと協力体制に移行したラングに苦笑を浮かべた。これだからギルドラーは。
『ツカサ、って呼んで。詳しいことは、さっきも言ったけど少しだけ待って。一先ず集落を目指そう』
『いいだろう』
『あと、すごく痛かった。一言謝ってほしいな』
『お前が嘘を吐かなければよかっただけだ』
『だとしてもあれは酷いよ!』
マントを翻して先を行くその背中に文句を言い続け、ツカサは駆け足に追いついてその隣に並んだ。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やリアクションをいただけると励みになります。