2-0:美しい光
不可思議な出来事に遭遇した。眉唾ながらダンジョンから人が消えるという話も聞いたことはある。どうせ、それはダンジョンで殺人があって、死体がモンスターに喰われて消えたのだろうと思っていた。それを否定し、いや、実際にあるかもしれないぜ、と言ったのは師匠だった。
『考えてもみろよ、リスタの野郎は……一応女だから野郎はやめておいてやるか、うるさいしな。あいつはホラ、世界を渡って来た、なんて堂々と言うだろうが。まぁーその理由がまた……』
『あの話、信じているのか?』
『信じざるを得ない、って感じだ。だからな、頭固くすんなよ、もしかしたらあるかもしれない、でいる方が、突拍子もない事態に対処できるもんだ。固定観念ってのは、いつだって首を絞める』
『……あんたが作り上げたこのスープみたいに? 酷い味だ』
『馬鹿にしてんのか殺すぞ。そういうのは黙って食ってご馳走様って言っとけクソガキが! そんなだと女にモテねぇぞ。大体、感謝が足りねぇんだよお前はよ!』
余計なことまで思い出し、ふぅ、と息を吐いた。まずは装備の確認、両腰にある双剣、腰の背面に隠し持った短剣、アイテムが百種類入る自分専用のロストアイテムであるポシェット。顔を隠すためのフードと、黒い仮面、シールドと呼べと言われた代物の縁をなぞり、左側に着けてある浄化の宝珠を指で揺らした。マントをばさりと払い直し、失くしたものがないことを確認し、まずは一つ安堵。しかし、ここはどこだ。
ぐるりと見渡した。暗くて、だが、ゆっくりと明滅を繰り返す見慣れない紋様。じっと観察を続けるとそれが一定の規則を持っていて、一方向に流れているように思えた。その先が奥なのか出口なのかと考え、なんとなく、奥だろうと思った。ここがどこかはわからないが、洞窟はなるべく早く出なくては不味い。息ができなくなったり、突然崩落があったりと外を歩いている以上に死の誘惑が多く、それが人を逃がさない確率も高い。何より、食事と水の問題がある。ポシェットの中には水筒と干し肉、乾燥野菜くらいは多少入っているが、そう長い旅をするつもりもなく、すぐにレパーニャに戻る気でいたので少々心もとない。そもそも、ただの荷運びでこんなことになると誰が思うだろうか。
『言ったところで始まらないな』
まずは現状の打開策を得なくてはならない。考えることをやめるな、生きることをやめるな、と自身に言い聞かせ、じっと息を潜める。周囲を探るよりも自身の息が大きくてはならない。微かな風の動きを感じ、それがやはり壁の明滅、その波が来る方だと確信を得てそちらへ足を向けた。
歩きながら少し考えた。いったい何があったのだろうか。荷運びの帰り、さぁっと降り始めた雨が嫌で木々の下へ逃れた。空が黒くて気味が悪いと見上げていれば、どこからかねちょりと粘性を伴った音がし、スライムかと剣を構えた。この近辺でスライムが出るなどと聞いたことはなく、もし変化があるのであれば、冒険者組合に報せなくてはならない。
暫くして姿を現したのは青年だった。真っ黒なローブに項垂れた顔、黒い髪は雨で濡れ、その雫か、影のせいか、頬を黒いものが伝っているように見えた。雲が厚くなったのか、急に暗くなったように感じ、緊張感を持った。
何者だ、と問う前にそいつが何かを言った。言葉が理解できず、他国の者だと理解した。暗殺者か何かかと思い、すーはー、と呼吸を入れた後、瞬時に接敵、その首を刎ねた。はずだった。スライムを斬り落とした時の弾力のような感触も、人の皮に刃を当てた時の一瞬の抵抗や骨のゴリッとした感触もなかった。技術を磨いてこそいればそれらの抵抗すら感じずに剣は通るものだと習ったが、違和感にそいつの体を蹴って距離を取った。
落としたはずの首は笑い声をあげ、距離を取るのに蹴った体はゆっくりと立ち上がり、首を拾い、再び乗せた。アンデッドか、と再び剣を構えた。アンデッドならば火で焼くのが一番いいのだが、この雨では火はつきにくい。それを待ってくれる相手でもないだろう。であれば、死肉に還るまで斬り刻むしかない。地面を蹴ろうとし、自分の体が重いことに気づいた。降り注ぐ雨の雫が体中に沁み込んでいて、どういうわけか黒いねちょねちょしたものが纏わりつき、四肢を押さえ込まれるような感覚を覚えた。
『なんだ……!?』
ぐぐっと腕が動かされ、握った双剣を自身に向けさせられる。がくん、と自身の腹を裂くところだった。剣先をどうにかずらし、鞘に収めることに成功し、膝をつかされる。黒い雨はついに全身に回った。無理矢理上げさせられた顔を、先ほど首を落としたはずの青年が覗き込み、愉悦に歪んだ表情をこちらへ向けていた。
腕を、足を、黒い何かで、まるで罪人を縛り上げるように体中を締め付けられ、肺から息が零れた。
青年はまた何かを言った。ゲラゲラと笑い、何か、大きな感情を抱え込んでいるらしく、涙すら浮かべて罵詈雑言らしきものを浴びせてきていた。
『何を言っているのかわからない。わかる言葉で話せ』
そう返してやれば、青年はぐしゃぐしゃと髪を掻きむしり、両腕を広げて叫んだ。それに合わせて自身の両腕が操り人形のように広げさせられ、磔にされるような屈辱を味わう。これにはイラッと来た。
『必ず、お前にツケを払わせる』
嘲笑を浮かべながら頬を張ろうとした青年の手にタイミングを合わせて噛みついてやった。こいつ、素人だ。狙いが甘い。人を殴り慣れていない。簡単に指を捉まえられた。こちらにも頬を叩かれる痛みはあるが、反撃がないと思って喰らう反撃の方がダメージは大きい。口の中にどろりとした黒い液体が滴り気持ち悪く、吐き出して捨てた。
青年は次こそこちらを殺すつもりらしい。いったいこいつは何なんだ。首に巻かれた黒いものが大勢の手を模した。首に添えられ、徐々に力が込められていく。息が止まるのはまだしも、首の骨が折れては不味い。首に力を入れて抵抗はするものの、息を吸えなければその力もまた落ちていく。
こんなところで。こんなことで。いや、いつだって死はそこにあるのだが、まだ。
『リー……ス……』
助けを求めたところで、居るわけがない。あいつは今頃新しい調味料を試してのんびり過ごしているはずだ。くそ、とシールドの中で目が霞んでいく。悔しい、こんなことで頼ろうとするなどと。二度とあいつの名など死の縁で呼んでやるか、と悪態をつく思考が続いたのは、もう一度息が吸えたからだ。
青年を誰かが斬りつけ、体中を縛っていたものが緩み、地面に腕をついた。一気に息を吸うのではなく、ゆっくり、深く、素早く、浅くを繰り返し即座に整える。顔を上げれば長身の男がそこに居た。
それが誰なのかを確認する前に、青年だったものが黒い波となってこちらに流れてきて、その濁流に呑まれた。そこで記憶が途切れている。
いったい、あれは何だったんだ。理解が追いつかない。あんなアンデッドは見たこともなく、それに呑まれてこんな場所に来るのもわからない。もしや死んだのかと思いもしたが、この体の熱と血の脈動は生きている証だ。事態の解明をしたい気持ちはあるが、耳に届いた足音に、そっと壁に寄った。
こちらに向かって駆けてくる。足音は一つ、音の重さから男。長距離を走れる、鍛錬した音だ。何かを一直線に追うような、そんな音。徐々に近くなる。そして、ふわっと何か白く輝く軌跡が目の前に現れ、消えた。それを追うように腕が伸びてきて、素早く腕を出し、絡めとり、押さえ込もうとした。
『動くな』
その相手はまだついていた片足で思いきり飛んで腕を払い、素早くこちらへ向き直った。良い動きだった。ショートソードか何かを抜こうとした挙動へ靴底を当てて行動を封じ、上を取った強みを生かし、そのまま体重を掛けながらこちらは双剣を抜き、ゆっくりとその首へ添えてやった。青年の背後にランタンのような明かりがあり、こちらの姿が露わになる。その明かりが何かは知らないが、この仄暗い青の中では眩いほどの輝きだった。
『もう一度だけ言う、動くな』
目を眇め、青年を眺める。黒い髪、右眼は白く、左眼は黒い。あの時自身を襲った青年と似通った風貌をしているが、別人であることはわかる。なんというか、人畜無害そうな、こちらの気が抜けてしまいそうになるほどの間抜け面というのか、敵意がまったく無く、かつ、こちらへ希望を込めた眼差しを注いでくる。剣先に力を込めてやれば、抗わずに顔を上げ、ぎゅっと噛みしめた下唇に幼ささえ覚えた。時を同じくしてここにいるのだ、何か情報があれば重畳。
『お前は何者だ。ここはどこだ』
『俺は、ただ迷子で、ここがどこかも、知らないんだ』
『迷子だと? こんな場所でか』
『目を覚ましたらここに居たんだ、俺だって知りたい。そっちは知ってるの?』
ッチ、と舌打ちが零れた。なかなか鋭く切り込んでくる奴だ。嘘を吐いている可能性もあるが、この程度であればいつでも殺せると思い、剣を引く。明かりから離れるように距離を取れば、青年は、あの、と声を掛けてきた。立ち去ろうとしていた足を戻し、振り返る。
『もしよければなんだけど、俺、明かりを動かせる。その、一緒に出口を探さない?』
自分で迷子だと言っただろう、何を言っているのだこいつは、と思ったのが正直なところだ。それに、誰かと行動を共にするのは得意ではない。いや、師匠からはそれも改善するように言われてはいたが、それは今だろうか。
そんなことを考えていれば、ぞわりと嫌なものを感じた。まるで服の中を覗かれるような不愉快な感覚だ。咄嗟にナイフを投げれば、その先でキンッと甲高い音を立てて弾かれた。これには目を見開いた。青年は慌てて自己弁護を叫んだ。
『ごめん! どこにいるかわからなくて、よく視ようとしただけで!』
『今のはなんだ』
『魔法障壁、魔法だよ。えっと、ロストアイテムで扱うようなものを、俺はロストアイテムなしでできるんだ!』
そっと青年が差し出した手のひらに、青年の背後にあるのと同じ明かりが浮かんだ。それをまるで草花の綿毛を飛ばすように吹いてこちらへ寄せ、明かりがじわりと強まっていった。不思議な何かを見ている。けれど、美しいと思った。だから、足を踏み出し、青年に寄っていった。
『まほうなどと聞いたこともないが、有用そうだ』
その言葉に、青年はじわりと微笑みを浮かべ、小さく頷いていた。
何かを堪えたようなあの微笑が、胸に小さな爪痕を残したような気がした。
―― の日記より 抜粋