1-58:知らない場所
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考えることを放棄したツカサの頭が項垂れていき、がっくりと落ちた肩にそっとヴァンの手が添えられた。
「少し、休もう。それから、もう一度話を」
君には、受け止める時間が必要みたいだから、と少しだけ迷ったヴァンの手が、くしゃりとツカサの黒髪を撫でた。ボロボロと泣いているツカサの顔を誰もが見ないように、そっと、本来であれば持ち主であろう【空の騎士軍】の面々が出ていき、一人にしてくれた。
ツカサは茫然自失になっていた。おかしいことはわかっていた。何もかもが変わっている。知っているものが知らないものに変わり、自分にとっての真実が皆にとっての不実となっていた。なぜ、どうして、瞬きも忘れてただ意味のわからない涙だけを零し続け、嗚咽を漏らすことも、呻くことも、何かをするということを忘れた体が動かない。
なくなった。俺が歩いてきた道が、選んできた覚悟が、消されている。どこにもない。
繋いできた縁が、結んできたものが、ツカサの中以外のどこにも存在していなかった。
「【真夜中の梟】が死んだ? 【快晴の蒼】はサイダルに来ていない? ヴァンドラーテは襲われてないけど、アルもここに居なくて、エレナも、モニカも、アーシェティアもいない? これから生まれてくる子供たちは? 渡り人の街は鎮圧がまだ、【黄壁のダンジョン】は停止されず、生徒も……」
ふっと風を感じて顔を上げた。もしかしたら、追い求めた人がいるのではないかと思った。そこに居たのはヴァンだった。その手にトレーがあり、湯気の立つスープと、パン、それからコップがあった。
「何か食べた方が落ち着くよ」
ことり。机に置かれたものに視線はいくがそれ以上の動きが取れずにいれば、ヴァンがパンを千切り、スープに浸し、その切れ端をツカサの口に突っ込んだ。反射でそれを口の中で転がし、顎を動かす。スープを吸って柔らかくなったパンから何かが染み出してきた。スープだ。わかっている。味がしない。なんとなく旨味を感じるような気がして、くしゃくしゃになったパンと、まだかさついている部分の食感とに、奥歯が役目を思い出した。ごく、と飲み込めばもう一度同じようにしてパンの欠片が口の中に運ばれた。次はじわぁっと鳥の出汁を感じられた。美味しいと思った。ボロっと再び涙が溢れ、次は声が出た。
「ほんと、に、会ったこと、あ……っんだよ!」
ぐす、と鼻が鳴る。拭っても、拭っても涙は止まらない。うん、とヴァンから相槌が返ってきて、ツカサは声にならない声で続けた。
「ジュマで、ロナを、シェ……ィさん、が、助けて、くれて!」
「うん」
「俺、マジェタで……叱ら、れて、ラングと、離れ離れ、なって!」
「うん」
「でも……っ、イーグリス、で、再会、して! 【黄壁のダンジョン】、止めて……!」
嘘じゃないんだ、本当なんだ。ツカサが歩んだ道は確かにあって、築き上げた信頼も、絆も、思い出だってこの胸にしかとある。これだけは嘘じゃない、ツカサにとって大事なものだ。
わぁぁ、と叫ぶように泣くツカサの背中を摩り、ヴァンは波が過ぎるのを待ってくれた。
涙にも終わりはある。体中がカサカサになるのではないかというくらい流した後は、冷めたスープがよく沁みる。もそもそと食事を取って完食し、ありがとう、と小さく礼を言うツカサにヴァンは優しく笑ってくれた。
「落ち着いたかい?」
「うん、ありがとう。ごめん……」
「いいさ、構わない。君の涙にも僕は真実を見た気がするよ」
優しい慰めだ。ラングからは態度のみで絶対に出てこない言葉に、少しだけ微笑を返した。天幕の入り口、隙間から薄っすらと明かりを感じた。いつの間にか夜が明けて、朝が来ていたらしい。
「君の血の記憶を、改めて見直したんだ」
ゆる、と視線をヴァンにやれば、透明な水色が先の会話よりは親愛を伴って、こちらを見ていた。
「シェイが言っていた。もしかしたら、君は、今とは違う、何か別の道を……歩んだ君なのではないか、と」
「別の、道」
「ごめん、僕にはシェイの言うことがよく理解できなかったから、言われたことを繰り返しているだけなんだけど」
「大丈夫……、なんとなく、言いたいことはわかるから」
そう、とヴァンは苦笑を浮かべ、息を吸った。
「君の記憶にセルクスがいた。時の死神セルクス。知っているね?」
「うん、俺はその人の祝福を、今は呪いに変わっているけど、持っているから」
「祝福が呪いに変わるなんて、なんとも大変な道を歩んでいるようだね」
「否定はしないよ」
ふふ、と少しだけ笑い合った。ヴァンは言い淀み、そのあとの言葉を続けられなかった。ツカサはそれを不思議に思い、ヴァンの手に手を重ねた。つい先ほど慰められた身でどこまで伝えられるかはわからないが、話す勇気を分けられたらと思ってのことだ。ヴァンはそれを正しく受け取ってくれたらしい。また息を吸ってから言った。
「セルクスが、君と話したがっている」
「それなら、ここに来ればいいのに。セルクスはいつも突然現れるでしょ。……まさか、それができない?」
ヴァンはこくりと頷いた。しかし、そうか、神か。神であれば何が起こっているのかを間違いなく把握している。そこに尋ねるという頭がなかった。冷静じゃない、ツカサは深呼吸をした。
「また怪我でもしてるの?」
「また? あの人、以前にも怪我を?」
「あの、【イーグリステリア事変】の時に、イーグリステリアを殺そうとして、半神だったから制約で怪我が、こう」
「……マナリテル教の教祖、イーグリステリアは、神なのか?」
あぁ、そうか、【渡り人の街事変】で現在もここに居る、かつ、ヴァンドラーテの蹂躙がない、となれば、イーグリステリア自身がこちらには来ていないのか。ツカサは状況に少し頭がこんがらがったが、ヴァンが書いてくれていた紙を眺めた。
「魂のことがあるから、セルクスに伝えてほしいところだけど、今、向こうの大陸ってどうなっているんだろう」
「マナリテル教の動きということであれば、ヴァロキアとアズファルは大規模な暴動が起こっている、というのは把握してる。アズリアが鎮圧を理由に各国の問題に首を突っ込もう、としていることも掴んでる。だから、できるだけ早くここを収めたいのだけれどね」
ヴァンの視線が天幕の向こう、イーグリスの方角を見た。ツカサには不思議だった。なぜ、スカイ最大の戦力を持つ【空の騎士軍】が未だ渡り人の街を鎮圧できていないのか。ツカサたちが【黄壁のダンジョン】から戻った時は、目を覚ましたらすべて終わっていた。
問えば、ヴァンは隠さずに答えてくれた。【黄壁のダンジョン】を迷宮崩壊させたことが、【渡り人】の感情を二分しているらしい。
「そこまでやる必要があるのか、とイーグリスのやりように異を唱える者が増えてきている。捕らえ、処断した傍から新しい反乱軍が生まれるようなものだ。渡り人の街側から魔獣を、西門に盛大にぶつけられたことで、防衛に対しての不安も煽ってしまったらしい。統治者は停止するために冒険者も派遣したのだけど、どうやら最下層のボスが厄介らしい。そうして、失敗し、対策に追われている」
【黄壁のダンジョン】の最下層ボスは、偶発的産物の鵺だったはずだ。囁き、惑わせ、騙し、殺す。ここまで聞いたすべて、【異邦の旅人】が関与して防いだものだ。物事一つ、止め方ひとつ、処理の仕方一つ、何かが噛み合わなければあの時もそうなっていたのだろうか。
「それに、渡り人の街を支援する他国の商会の関与がわかった。そうでなければあの街がここまで持っているわけがない。……そうしたことへの対応にも追われていてね、てんてこ舞いなのさ」
疲れた笑み、よく見れば目の下にもくまがある。ツカサは、あの時、あの商会がどこのものなのかを聞いておけばよかったと思った。知っていたなら情報を渡せた。善意に甘えた結果だ。
「渡り人の街に魔獣を操るスキルを持った人が居たんだ。ルー、っていう、【渡り人】。【黄壁のダンジョン】から、渡り人の街を通って、西門に当てるって作戦があったことは、さっき話した、俺の時間での学園の魔獣騒動があってわかったんだ。商会はどこの国とか、名前とか、聞き損ねたけど、ブロリッシュレート商会で【離脱石】を大量購入した奴がいるはずだよ」
「……そうか。ルー、ブロリッシュレート商会だね、すぐに調べる」
ありがとう、と礼を言われ、今伝えた情報がどこまで正しいか、少しだけ不安になった。そうした顔色を察し、ヴァンが笑う。
「大丈夫だ、ちゃんと確認をしてからすべて対処するとも」
「そうして。それで、セルクスの件は」
話を脱線させたのが自分なのでツカサは自らそれを戻した。ヴァンがそうだった、と居住まいを正した。
「セルクスから言われた言葉をそのまま繰り返すから、そのつもりで聞いて」
「うん」
いったいなぜそんな前置きがあるのかと思ったが、ヴァンが口にしたのはツカサにとって懐かしい、日本語だった。
『君が【変換】を渡さなかったことを、それを世界へ使わなかったことを、私は称賛する。そして、すまないが、助けて欲しい。ヴァンと話した後、その日の夜、二十時、月の見える場所で待っていてくれ』
少しだけイントネーションにぐらつきはあるものの、ヴァン自身、考古学者として言語が得意だからか意味のわからないところはなかった。【変換】について把握している。今の事態もわかっている。その上でセルクスが助けを求めている? ツカサはじっと腕を組んだ。その様子にヴァンが心配そうに首を傾げた。
「どこかおかしかったかな、必死に覚えたんだけど」
「あ、ううん、大丈夫、通じた。ありがとう」
「僕たちは関わるなと言われているんだけど、その理由は、今の伝言の中にあるのかな」
「ない。俺に伝言を残した理由も、なかった」
そうか、とヴァンは小さく答え、トレーを持って立ち上がった。
「部下には声を掛けておくから、好きな時に旅立ちなさい。もし、ひと時の休息が必要なら、天幕も貸そう。誰かに声を掛けてもらえればいい」
「ありがとう、助かる。……でも、なんでそこまで?」
今目の前にいるヴァンはツカサのことを知らないと言った。赤の他人、すれ違ったこともないというその人が、どうしてそこまで心を砕いてくれるのかがわからず、ツカサは思わず尋ねた。ヴァンはにこりと笑みを浮かべた。
「誰も知らない、何も知らない、たった一人、知らない場所に放り出される苦しみを、僕は知っているからね」
【自由の旅行者】。ヴァンの書いたその旅記は、世界を追いやられたその先で、ヴァンが協力者と出会うまでの苦悩も綴られていた。ヴァンはツカサにかつての自分を重ね合わせ、そして、自身が手を差し伸べられたように、それを返そうとしているのだと気づいた。ツカサはただ胸に手を当て、深く、丁寧に頭を下げた。
次回は8/25に更新です。




