1-41:血肉に変えて
「エレナさん、ヨウイチさんの子供を身ごもっていたんだって」
運ばれてきた昼食は既に冷めている。防音魔法障壁の中、重たい空気が満ちていた。
夕食の買い出しに屋台を巡ってくる、と言い訳を置いて、【真夜中の梟】と合流した後、聞かされた話の惨さにツカサは言葉を失っていた。
出会った時、エレナに子供はいなかった。ということは、きっと、その時に。運命は残酷で、迷宮崩壊が自然消滅したのはそれからたった一か月後のことだったらしい。せめてあと一か月何もなければ、ヨウイチも生きていて、エレナもまた。そう思うとツカサは悔しかった。
「エレナさんとヨウイチさんは結構長く旅をしてて、前にも子供を授かったことがあったらしいんだよな。でも、旅が、ほら、俺たちまだスカイ国内しか知らねぇけど、こっちに比べて、向こうの大陸って、マジックアイテムを余程抱えてなけりゃ、まぁ妊婦には厳しいだろ」
「そうだろうね」
「だから、その時も……。それで馬車を買ったらしいんだよ」
荷物を持てる、寝起きも荷台でできる。何よりも揺れるかもしれないが、歩かずに済む。そうか、エレナがたくさんのクッションをマジックバッグに入れていたのは、そのためだったのだ。だが、足である馬が奪われ、迷宮崩壊に巻き込まれ、夫も、その子供も失ってしまった。憎い街がそのまま夫の墓標になったことは知っていた。けれど、それ以上にあの街は辛い思い出の場所で、エレナはジュマに囚われていたのだろう。
スカイを目指すツカサとラングがエレナにとって何であったのか。せめて救いであればいい、とツカサはそっと胸の奥で呟いた。
黙とうを捧げるようなツカサの沈黙に、ロナはその手に手を重ねて優しく呼び戻した。
「エレナさんに街が、冒険者ギルドが家を差し出して、そこからはツカサの知っている石鹸屋さんだね」
「未亡人ってことで後妻に、友達から、結婚を前提に、いろいろ誘いはあったみたいだけどな。あの、ほら、おきれいになってたけど、あの感じで、結構モテたみたいだぜ」
ツカサはマーシのわたわたとした身振り手振りに少し笑い、びっくりしたよね、と感想を零した。そのモテる女を射止めたラングに、イイ男にはイイ女かぁ、とぼやけば、次はマーシが笑った。ロナは果実水を飲んでから溜息をついた。
「アルカドスさんはエレナさんが落ち着いたら娶ろうとしてたんだって。傷心の時に付け込むような真似をしないのはさすがだけど、不器用だからねぇ、あの人」
「俺はそもそも殺されかけてるから嫌いだ」
「ツカサのそれは当然だな!」
マーシに肩を叩かれ、その後ロナと同じように手に手を重ねられた。子ども扱いされているような気がして、そっと両手を引き、ツカサも果実水を飲んだ。
エルドとカダルはかなり赤裸々にあったことを話してくれたそうだ。エレナの憔悴具合を見かねたエルドが妻にする、と言い始め、カダルが殴り飛ばし、二度とこんなことで俺にお前を殴らせるな、と涙ながらに怒ったという。相変わらずかっこいい人だとツカサは思った。
迷宮崩壊後、街の慌ただしさと怪我人の手当てにエレナが頼まれれば引き続き石鹸を作り、とぼんやりしたまま過ごしているうちに、二年、三年が経過した。詳細は知らないが、窓から叩き出され、結果、アルカドスの求婚兼夜這いは失敗したらしく、それが公然の秘密になった。ただ、凝りもせず、アルカドスは往来で妻になれと言ったことも多く、皆がそれを知るところではあったらしい。エレナはアルカドスを相手にもしなかったそうだ。
そうしたこともあり、エレナは一度街を出ようとしていたらしいが、当時のギルマスにそれとなく阻まれたという。ヨウイチを前線に置いて死なせたのは当時のギルマスも同じだ。もちろん、死んだのは他の冒険者もそうだが、元々そこにいた冒険者と、流れを引き留めたのとでは重さが違う。当時のギルマスもまた、何か許しを得られるものが必要だったのだ。街の衛生面で助かっている、とか、今度皆で食事に行こう、とか、エレナに残る役目と約束を差し出していたらしい。
ギルマスが代替わりし、ツカサも会ったあのモーリス・アルバネに変わった後、新ギルマスはエレナに対し、丁寧に詫びを告げ、街を出るなら支援する、と言ったそうだ。その頃にはエレナの気持ちが萎えて、折れていて、移動が面倒になっちゃったの、とそのまま住み続けることを選んだという。ギルドマスター・モーリスもヨウイチと並んで戦った一人だ。だからこそ、エレナに対して幸せになって欲しいと願ってくれていた人だった。
ツカサは苛立ち混じりに言った。
「みんな、勝手なことを言うんだね。誰もエレナの気持ちを考えてなかったんじゃないの」
「僕とマーシもそう思った。知らなかったとはいえ、僕たちも悪いことをしたなぁって、反省したよね」
「ま、それも今更ってやつだけどさぁ。正直、エルドとカダルと、俺たちと話してくれてたのも、エレナさんが優しいからだ」
ね、と二人で苦笑を浮かべてから、マーシが頬を搔いた。
「俺もロナも知らなかっただけで、エレナさんがツカサたちとジュマを出るまで、店に商人連れてきたり、ダンジョン帰りにマチルダとかと石鹸買いに行ったり、アルカドスはマジで、やり方はどうかと思うけど、気に掛けてたみたいだぜ」
「その割りには店ぶっ潰すぞとか言ってたけどね」
ツカサがむすりと言えば、マーシに小突かれ、僕が話すの? と少し気まずそうにしながら、ロナが言った。
「あのね、ツカサ。ツカサってヨウイチさんに色合いが似てるらしいんだよ。黒髪に、黒目、その、独特の顔立ちっていうか。珍しいでしょ?」
「冒険者としての理由もあったけど、亡き夫に似ているガキを庇われたのも理由の一つで、頭に血が上ったらしいぞ。エレナが街を出るって言って、三日程度でお前らと出ていって、アルカドス、マジで抜け殻だったってよ。俺もちょっと見たかった」
「あれ、思いきり私情も入ってたってこと!? いや、元々、理不尽な私怨だとは思ってたけど……!」
あれほどの怖い思いの理由の一つがそんなことだったのかと思うと、脱力感が襲ってきた。まさかラングもそのためにあの大立ち回りをする羽目になったとは思うまい。とんとん、と再び二人が手を重ねてきて、同情されていたのだとわかった。ツカサは二人の手を握り返してがっくりと机に突っ伏した。
あの当時、そうした複雑な人間関係の話を聞かされて、なるほど、そうか、と納得できた自信はない。今、自分の妻が子供を身ごもっているからこそ、ヨウイチの無念だけは想像ができた。知っていたかどうかはわからない。ただ、自分がもしそうなったとしたら、と考えると、怖くなった。ぶるりとした震えがわかったのだろう、ロナとマーシは顔を見合わせ、手を握り返してくれた。
「ツカサ、僕たちが話せるのは当事者だったエルドさんとカダルさんの視点だけ。あとは、街が見ていたエレナさんとアルカドスさんの出来事だけ。エレナさんの気持ちと、覚悟は、エレナさんだけしか、知らない」
「わかってる。少しだけ、聞いたことはあるんだ。それを俺は胸に秘めておきたい」
ごめん、と言えば、ロナから優しく笑みが返ってきた。
「それでいいよ。きっと、エレナさんはツカサだから話したことだろうから」
話してくれた理由が、自分の情けない英雄思考のせいだとは到底明かせない。ツカサは根掘り葉掘り聞こうとしないでくれた友人たちに感謝を述べて、ようやく戻ってきた食欲に腹が鳴った。三人で苦笑を浮かべ、夕食の買い出しもしないといけないからね、と一先ず動くためのエネルギーを摂取することにした。
まるでジュマの過去話をやっつけるように、冷めた料理を口に入れ、咀嚼し、ツカサは飲み込んだ。いずれ、この話もまた、自分の血肉となるのだろう。
何かを失う、それは、生きていれば必ずあり得ること。ツカサはここまでの旅路で嫌というほど学んできた。人にできるのは、必死に抗い、守り、この小さな手のひらで掴めるものを、大事にすることだけだ。願わくば、エレナがこの先、何を失うこともなく、幸せでありますように。ラングの代わりに、必ず、皆を守ってみせる。
重い空気を振り払うように、屋台や飲食店で持ち帰りをたくさん買った。余れば、お互い時間停止機能のあるアイテムポーチや空間収納があるので、分けたっていい。マーシが酒の種類に喜びながら買ってはツカサに持たせ、すっかり買い物バッグ扱いだ。ごめんね、と言いながらロナも同じように持たせてきたのでもういいや、とツカサは笑った。たくさんの食事を買い込んで家に戻る道すがら、ロナがそうだ、とツカサに尋ねた。
「ねぇ、僕たちもラングさんやアルさんに手紙書いてもいい? 封筒一つだけなら、入らないかな」
「シグレさんがでっかいのくれるらしいから、大丈夫じゃないかな。来週中には書けそう?」
「それだけ時間があれば大丈夫! カダルさんたちに伝えた時に、お祝いの言葉を、って返事来たから、届けたくてさ」
「あ、でも、子供のことはエレナが手紙に書いてからだから、お祝いの言葉はどうかな。エレナに聞いてみようね」
うん、とロナが笑い、その向こうでマーシがそういえば、と身を乗り出した。
「エレナさんとラングの子ってことは……ラングの顔のヒントがあるってことだよな!?」
「それ絶対エレナの前で言わないでよね。それ、気にして、エレナ、一人で生むつもりだったんだから」
「エレナさん、覚悟決まり過ぎだよね……」
それは否定しない、とツカサは眉間に皺を寄せた。
「とにかく、どっちも無事に生まれてくれればそれでいいよ。モニカも、エレナも。本当に……本当に俺父親になるの!?」
ツカサはハッとして二人を振り返り、叫んだ。今になってようやくきたかぁ、とマーシが笑い、ロナが実はカダルさんもそうなんだよ、と言い、さらに盛り上がった。何かあった時、一緒に喜んだり騒いだり、労わってくれたり慰めてくれる友人がいることの大切さを胸に抱きながら、ツカサは自宅の門を開いた。ロナが思い出したように言った。
「イーグリスの初夏祭りがそろそろあるらしいね」
「あぁ、夏を連れてくる女神ファッシャルのお祭りだってね。去年はいろいろあって開催できずじまい、俺たちもオーリレアにいたしね」
「こっちの大陸に来て初めての祭りだから、ロナと行こうぜって話しててさ。ツカサもいかねぇ?」
「ダメだよマーシ、こういうのは奥さんと行かなきゃ」
そうか、とマーシは気づきを得た顔で頷いた。マーシはツカサの横に移動し、家に入る前にそっと聞いた。
「なぁ、冒険者の嫁になってくれる女の子いない? ヴァロキアに居た頃はカダルが一人でモテてたから全然出会いが無くて、彼女できなかったし、俺も可愛い嫁さんほしいんだよなぁ」
「そう言われたって、俺もそんな、紹介できるほどの交友関係はないよ。野郎ばっかり」
「あの子は? ツカサんちに居る身長の高い、きりっとした女子、アーシェティアだっけ? あの子綺麗だよな」
「エレナ曰く、想い人がいるらしいよ」
出会い! とマーシは鳴き声のように叫び、不思議そうな顔でアーシェティアが玄関を開けた。
「何を騒いでおられるのか」
「何でもないよ、たくさん買ってきたから、今日はたくさん話して盛り上がろうねって。ただいま」
「おかえり、ツカサ殿。皆おなかペコペコで、待っていた」
ぞろぞろとアルブランドー邸に皆が入り、たくさんの食事を広げ、思い出話や出会いの話に花が咲き、楽しい夕食会になった。
今日この日のことも、余すところなく、ツカサは日記に認めようと目に、胸に焼き付けた。
両天秤が幸せにだけ傾くことを、なぜ、神様は許してくれないのだろう。
ただ、あの人間臭い神様の言葉を、そっと、思い出していた。
死が汝らの頬を撫でるその時まで、たとえ苦しみがあろうとも、確かにその胸で感じる幸せを糧に、生きるのだ。