4-93:旅立ち
いつからいなかったのか、セルクスの挨拶はなかった。ラングがシールドの中、真珠の軌跡を拭い、少しだけ鼻に掛かった声で待たせた、と言い、ツカサは微笑を返した。それだけだった。
柔らかい朝陽を浴びながらイーグリスへの道を行く。サイダルを旅立ったあの日、握り締めて逃げ出した時とは違い、自分のためではなく、ラングのために、ツカサは仕立ての良いマントを慰めるように握り締めていた。これもまた他者には見せられない姿だった。
淡く切ない色の広がる空の下、ツカサは自分が受けてきた思いやりを兄に贈った。
アルブランドー邸に戻ればちょうど朝食時で、いつもと同じように皆で席を囲んだ。何をしに出掛けていたのかは誰も聞かない。アルはいつになく真剣な表情で食事を取りながら考え込んだ様子で紅茶を飲み、唸った。何やら面倒そうな気配にラングは絡まなかったが、食事の後、ツカサはこそりと声を掛けてみた。
「なに? どうしたの、アル」
「いやさぁ、すごい不思議な夢を見たんだよ」
何が、と首を傾げ続きを待った。アルは神妙な面持ちで首を傾げながら言った。
「ラングと手合わせしてる夢を見たんだ。森の中でこう、ぶんってぶん投げるようにしてさぁ」
地面に叩き落としたんだぜ、とアルは自慢げに笑い、ツカサは目を見開いた。その言葉にもしかして、と思いながらも言葉が出なかった。それを尋ねたところで目の前の男は答えを持たないだろうこともわかっているし、ツカサが見たあの絆も戻って来たりはしない。それならば沈黙を貫くべきだろう。時に沈黙が宝石となるのだ。そうだろう、セルクス、と胸中で呟いた。
また年寄り臭い顔してる、とアルに眉を顰められ笑った。気づけばアルの向こう側にラングが立っていて、音もなく近寄ると相棒の肩を叩き、裏庭に連れていった。聞こえていたのだろう。あれは鬱憤を晴らすのだろうな、と苦笑しながらツカサも鍛錬を強請りについて行った。
そうして、ついに約束の日は来た。氷竜の月、二十五日。時間にして午前十時頃。
渡すもの、贈るもの、残すもの、譲るもの。多くのやり取りがなされ、一分一秒を惜しみながら思い出が刻まれていった。
前夜は眠る気になれなくて深夜まで話そうとしてしまったが、翌日、ラングはリシトを守るために戦いに行く。アルにそこまでにしとけ、と止められて、ツカサはあまりの寂しさに同じ部屋で寝てもいいかと尋ねたほどだった。自分の人生に色濃く存在感を残し、生き方を教えてくれた人の帰還は嬉しくて寂しくて堪らなかった。ラングは別れに慣れておけ、とにべもなく言い、部屋に鍵を掛けた。俺が添い寝してやるよ、とアルに言われたがそれは丁重に断った。なんなんだよ、と怒る姿に少し気が抜けた。
見送る場所は特別な場所ではなかった。森の中でも、エフェールム邸でもなく、アルブランドー邸の地下貯蔵庫だった。後になって考えてみれば人目につかないという点において、これほど適した場所はないだろう。アルブランドー邸に入るには家主の許可がいる。キッチンを通り抜け貯蔵庫へ、さらにその奥の地下室なのだから、関門は多い。
今日この日、大勢の友人たちがラングの見送りに集まっていた。【真夜中の梟】のロナとマーシ、シグレとカイラス。【快晴の蒼】の五名に、フィルと近衛騎士グレン。ヘクターは別れは苦手なんで、と手紙をドアに差し込んであり、本人はいなかった。その内容にラングは口元を少し和らげていたように思う。意外といいことが書いてあったのだろう、見せてはくれなかった。
アルは黒獅子の毛皮を加工し、見送りのための正装か、片側留めの良いマントを仕立てていた。両腕に着けられた小手と合わせ、氷や炎に対し対策を上げていた。すっと身長の高いアルによく似合っていると褒めれば、明るい笑顔が返された。
最後の別れを惜しむようにリビングで皆がラングと会話を楽しむ。世話になった、礼を言う、助かった、本当にありがとう、元気でやれよ。ラングが自身の行動で掴み取ってきた信頼が皆の目元に輝くようだった。これを持っていってくれ、と渡す者もあり、そういった餞別を不要だと突き返すような無作法はしない。ただ、ありがとう、とラングは答え、品々を空間収納へ入れた。
モニカが再び抱き着く場面もあったが、この時は優しく抱き返していて、モニカが号泣した。あの日、私たちを、エレナさんを助けてくれてありがとうございました、と絞り出した声にラングはその頭を撫でてやったくらいだ。デートはいい時間だったのだろう。
アーシェティアはモニカとエレナは任せてくれ、と胸を叩き、ラングの前に膝を突こうとして双剣の柄で止められていた。お前の意思で守るのならば、私に誓わず、自身に誓え、と言われ、目を見開いていた。アーシェティアはこれで、さらに強くなるだろうなとツカサは思った。
会話は尽きない、言葉もいくらでも出てくる。一つ流れを作るかのようにフィルが前に歩み出て帽子を外し、微笑んだ。
「どうか、お元気で」
「お前もな。あまり付き人を困らせるものではない」
「あれは正直、ラング殿のせいですけれどね」
フィルとグレンが笑い、ラングはふっと息を吐いた。するりと空間収納から取り出された美しい細剣をフィルに差し出し、ラングはシールドを揺らした。
「取っておけ」
「ふふふ、さすが、商人の扱いを心得ていらっしゃる。わかりました、承りましょう」
「あれ、それ鑑定してないけど、何それ?」
「気にするな」
ラングに肩を竦められ、フィルはにんまりと笑ってそれを腰のベルトに無理やり差し、ツカサへウインクをした。また何か密約か、と思い、ツカサは首を突っ込むのをやめた。グレンがキビキビとした動きで騎士の礼を取り、ラングに深く頭を下げた。ラングはその肩を叩いて労い、それ以上の会話はなかった。
そっと前に出たロナが通信の小箱を開いた。
「エルドさんとカダルさんからです」
箱の中の紙を摘まんで開き、ラングは小さく溜息をついた。そうだな、と小さく呟いてから【真夜中の梟】に向かって言った。
「殺そうとして悪かった。向こうの大陸で出会ったパーティが【真夜中の梟】だったことは、幸運だった」
その言葉にロナもマーシもぎゅうっと唇を噛み、涙を堪えた。
「ありがとうございます、ラングさん」
「体には気をつけろよ」
「あぁ、感謝している。引き続きツカサのいい友であってくれ」
「もちろんです」
ラングが右手を差し出し、これにも驚きながらロナとマーシは強く握り返した。少し鼻を啜りながらロナが下がれば、シグレとカイラスが前に出た。今日は陣羽織に軽鎧の出で立ちで、シグレは灰色の目を細めた。
「貴殿が寝惚けて、私に斬り掛かってきたのが昨日のように思い出せる」
ざわ、と空気が一瞬、緊張感を持った。アルが大変だったよな、とぼそりと文句を言って、カイラスがそうでございますね、と同意を示した。
「貴殿の力を借りてばかりで、恩を返しきれていない。いずれ、必ず」
「背負い過ぎるな。案外とお前が思っているよりも、その荷を分けて欲しいと考える者は多いはずだ」
とん、とラングの拳がシグレの胸を叩く。その手をそっと握り、シグレは額に当てた。最敬礼をもってして応え、頷いた。シールドはシグレの向こう、カイラスを見た。
「忘れるな、主の過労はお前の責任でもある」
「御忠告痛み入ります」
カイラスの胡散臭い笑みが少しだけ寂しそうに滲み、綺麗な礼を取った。ことん、と軽い靴音でヴァンがラングの視線を求め、微笑を湛えていた。
「惜しいよ。僕ら、君との新年祭を二度も逃すんだ。一度目は君が一人でふらっと行ってしまって、二度目は帰郷だもんね」
「まさかこんな濃い付き合いになるとは思わなかったよな。もっといろいろ話せばよかったなぁ。いろいろさ」
「そうだな」
残念そうなヴァンの横からアッシュが強がりのように明るい声で言った。じわっと目が潤んでいるので必死なのだろう。立ち位置の問題はありつつも、だからこそ分かり合えるものもあるのか頷き合う。
「あんたの料理、美味かったぜ」
「お前もな。芋のパンケーキは向こうでも作ろう」
そりゃあいい、とクルドは笑い、二人は握手を交わした。ラングは互いの料理を認め合った同好の士との別れを素直に惜しんだ。
「セリーリャは任せてくれ」
ラダンが胸に手を当てて言えば、少しだけ沈黙が下りた。ラングは空間収納からうさぎのぬいぐるみを取り出し、差し出した。驚きながらも受け取り、ラダンは渡し主を見た。
「誰かが気に掛けているのだと、伝えておいてくれ」
「……必ず」
イーグリスで買ったのか、ラングの手縫いか定かではないが、そうして物に残し託すということの重要性を感じ、ツカサはその姿勢を最後まで学んだ。幼い頃の記憶程あやふやなものはないのだ。
「おい、何かあれば、わかってるな」
シェイが唐突に掛けた声はラングの心臓にかかわる話だ。ツカサは視線を交わし合う二人を交互に見遣り、ラングの反応を待った。ふ、と小さな息を吐いてラングは胸に手を当て礼を示した。
「礼を言うぞ」
ッハ、とシェイは鼻で笑い、ヴァンの背を押した。あいてて、雑に扱わないで、とヴァンが前に出た。少しの笑いを誘ってからヴァンはそうだなぁ、とわざとらしく考え込んだ。
「ううん、詩を歌おうか、それとも軍師としての挨拶をしようか、それとも冒険者として……」
「くどい」
「酷いなぁ、別れを惜しむばかりに口数が多くなってしまっているんだよ。本当容赦ないんだから」
「私に前置きは要らん、と言ったはずだ」
ヴァンは、はいはい、と肩を竦めてから透明な水色の目をラングへ向けた。
「あとは任せろ」
「あぁ、頼んだ」
固く握手を交わし、互いにその腕を引いて抱き合う。僅かな時間ではあったがそこに真摯なものがあった。離れる時も同じだけ颯爽としていた。ラングのシールドはソファに座り続けるエレナに向いた。かた、こと、と皆の足が退いて道をつくり、ラングは目を合わせないエレナの前に跪いた。雪のように静かな声が尋ねた。
「見送ってはくれないのか」
「大事な時は見送らせなかったでしょうに」
「そうだな」
そうっと窺うようにラングの手がエレナの手を取り、両手で包んだ。冷たい指先にラングの温もりが移り、エレナは拗ねた顔をようやくシールドの方へ向けた。
「子供じゃないのよ」
「知っている」
包まれたままの手を引き抜くことも、払うこともできず、エレナは視線をそちらへ向けた。傷だらけの手、けれど、確かに誰かを守る手は温かくて優しい。もう一度シールドの奥の双眸と目を合わせ、エレナは深い溜息をついた。
「ラング、あなたには振り回されてばかりよ」
「そうか」
「いやだわ、本当に嫌いよ、あなたのそういう、たらしっぽいところ」
くく、と何人かが笑い、誤魔化すように咳払いが続いた。エレナの指先がラングの頬を撫で、僅かに微笑を浮かべるラングに皆が驚く。いや、くすぐったくて誤魔化しただけかもしれないと思いながら、見てはならないもののような気がして、皆示し合わせたかのように背を向けた。だから、その後に何があったのかは知らない。次に聞こえたのはエレナの諦観を含んだ明るい声だった。
「いってらっしゃい」
「あぁ、いってくる」
あの日、逃げ出したラングが答えたことにツカサは泣きそうになった。そうして目を潤ませていれば音も気配もなくラングが横に居て、何度目かわからない変な声が出た。
「今年も新年祭は無理そうだ」
「そう、だね」
「これを」
えっ、と短い声を上げながら差し出されたものをつい受け取った。手記だ。革で十字に括ってあり、贈り物として成り立っている。
「見てもいい?」
「構わん」
ぱち、と革の留め具を外して中を見れば、そこにはラングの故郷の文字で様々な薬の調合方法が記載されていた。薬草や毒草の特徴が事細かに記載されていて、味や香り、それを摂取、調合し服用した際の反応まで。ラングの綺麗な文字で、少し拙い挿絵があって、ツカサは夢中でページを捲り、顔を上げた。
『私の故郷の薬草、毒草で記載をしているが、【鑑定眼】のあるお前ならば、置き換えて読むことも、調合することも可能だろう』
マブラの外でのことが思い出された。覚えるまで採取だけをやり続けたラングの経験や知識の髄がここに詰まっていた。これは秘伝書だ。毒に体を慣らすほど精通している人が書いた世界にたった一つだけの、重要で貴重な書物だ。
『お前には魔法があることはわかっている。とはいえ、有用だが万能ではない。こういった知識はあっても困らないものだ』
『なくても困らないけど、あっても困らないのは、お守り、なんだよね』
『そうだ』
『俺、これはお守りになんてしない。必ず俺の人生に役立ててみせるよ、大事にする』
『背伸びはするなよ、調合というものは繊細なものだ』
『うん。……ラング、俺を弟子にしてくれて、弟にしてくれて、生き方を教えてくれて、ありがとう』
本を抱きしめて真摯に伝えればラングに肩を叩かれた。もう一度頷こうとした眼前に手のひらが差し出された。赤いビー玉がそこにあって、差し出されたのだから受け取れということだとは理解した。そっと摘まみ上げれば何かが見えたような気がした。
『もしかして、記憶の宝玉? 透明だったはず』
『血というものは、記憶だ。試したら上手くいった』
ハッ、と目を見開いた。血は一定のサイクルで入れ替わるともいうが、そういう現実的な話はいいのだ。生きた証は常にその身を流れ、消えないだろう。血は命なのだ。ツカサは首を振ってもう一度宝玉を覗き込んだ。ラングが血を注いだ直近の出来事からゆっくりと巻き戻るような感覚がした。ここにはラングの人生が籠められているのだ。
『いろいろ話して聞かせてやりたいこともあるにはあるのだがな、わかるだろう』
『ラングが話せるようになるのを待つ間に、俺が老衰で死ぬかも』
『そうだ』
ツカサは笑い、ラングの口元が微笑んでいることにまた笑う。ゆるりと、常に目標としていたその手が持ち上がり、とん、とん、とツカサの肩を叩き、腕を叩き、最後に胸に拳を当てられた。
『何があろうとも生きろ。その命、捨てることは許さん。リーマスの子として、我が弟として、恥じることの無い一生を歩み続けろ』
『はい、必ず』
力強い声で、ツカサは覚悟を持って答えた。次いで、差し出されたラングの手に息を呑み、高揚を覚え、胸を張り、強く握り返した。ラングから初めて対等に扱われた握手だ。硬く、節を感じるその手は戦い続けてきた男の手だ。けれど、自分を守り、技術を教え育ててくれたものだ。短い握手だった。もう大丈夫だな、と言葉もないのに言われたのだとわかる。ツカサは笑って頷いた。
周囲から誇らしげな笑いが零れた。言葉はわからなくともツカサとラングの絆がわかり、面映い何かを感じ取っているのだ。そうした優しい人々に囲まれている幸運にもまた、ツカサは胸を張った。
「時間だ」
いつの間にか合流していた静かな時の死神の声が皆を呼んだ。穏やかな藍色の目が一同を見渡し、その腕は地下へと誘った。時間が、扉が繋がるのだと理解する者と、別れが来たのだと理解する者があった。家主であるツカサを先頭にぞろぞろと貯蔵庫へ、そこから地下貯蔵庫への階段に足を踏み入れ、トーチで照らした。まだ何もない地下貯蔵庫。これからワインや保存のきく食材を入れていく予定だが、このままにしておきたい気持ちにもなった。それなりに広い地下貯蔵庫ではあるのだが、この人数で入るとかなり狭い。その中に皆がいるか指差し確認をした人間臭い神様は、咳払いをしてから最後の問いを掛けた。
「別れは十分か?」
「時間は決まっているはずだ」
「そのとおり。では扉を繋ごう」
横笛は美しい大鎌に変わり、とーん、と石突が音を鳴らした。どこからかメキメキと音がして、最奥の壁に、ばくんっと空間が開いた。するすると光り輝く蔦がアーチ形の扉を象るように生え、白く輝く美しい扉がそこに現れた。
一歩を踏み出したラングに続き、アルも並んだ。よっとラングと肩を組み、アルは頬を掻いた。
「アル?」
「戦いに勝ったら、俺も手伝うって約束したからさ。約束は守らないと、だろ?」
ラングの肩を叩き、アルはにかっと笑った。気づくべきだった。突然ラングの故郷の言語を学びたいと言ったことも、【異邦の旅人】のリーダーがツカサであったことも、ラングがリシトへの分骨や遺品をアルに任せると言ったことも。ツカサはいっぱいいっぱいで気づかなかったことに首を振った。いや、気づかないようにしていただけなのだ。深呼吸をして顔を上げた。自分がされてきたように、男の決断を、覚悟を引き留めるような無粋な真似はしたくなかった。
「わかった、ラングをよろしくね。迷子にならないように、しっかりね」
「言うようになって。任せとけって」
どんと胸を叩くアルに、もう怖いものはない。へへ、と笑ったアルは少しだけ気まずそうに兄シグレを見た。
「兄貴、行ってくる」
「行っておいで。いつでも、戻っておいで」
シグレはただ優しい顔でそう言葉をかけ、アルを安堵させた。ありがと、と少し幼い返事をし、アルは軽く手を振った。
「ツカサ! 手紙、送るからな」
「え?」
「ツカサ」
どういうことか聞こうとした声を遮ってラングに名を呼ばれ、目を瞬く。
「いってくる。また会おう」
返事を待たず、ラングは白い光の中に消えていった。
「おい、待てよ置いていくなよ! この先どうなってんのかわかんないし、なぁ!」
慌ててその後をアルが追いかけ、白く輝く扉はいつものように光の粒子を残して消えた。残された一同はぽかんとし、ツカサは一人笑顔を浮かべた。
「うん、いってらっしゃい、また会おう」
約束は守られるだろう。なぜなら。
「ギルドラーだもんね」
そして時は流れ――




