4-92:ことば
ラングの師匠であり父である、リーマス・アルブランドー。その人は死んだとラングから聞いている。だが、目の前で息を吸い、空を見上げ、周囲を確認している姿は到底そうとは思えない。
ゆっくりと正面に視線を戻した後、ゆらっと陽炎のようにリーマスが消えた。ラングのマントが揺れたことだけはわかったが、その一瞬の攻防が見えなかった。
ツカサはリーマスの持った短剣で首を狙われ、それをラングが防いだのだ。ツカサの右側から躊躇なく振り抜かれた短剣の間にラングが入り込み、下から差し込んだ双剣で軌道を上に逸らした。ツカサは自分の髪がはらりと散ったことで気づき、短い悲鳴を喉でくぐもらせた。ラングはそれに頓着せず、リーマスの内膝を蹴った。蹴りの力は逸らされてしまったが、ラングが入り込んだことで一先ず手は止めた。ツカサはラングの向こう、長身の男の赤い目がなんの感情もなくこちらを見ていたことに喉がぎゅうっと締まる思いだった。ラングの左手がツカサの腹を押して距離を取らせた。少し離れたところで短剣を手に両腕を広げ、リーマスは肩を竦めた。
『邪魔するな、ラング。このおかしな状況、誰かが原因だろうがよ。俺でもなく、お前でもない、だったらそいつだ』
『リーマス、話を聞け。どこまで覚えている?』
『俺が死んだことは理解してるぞ。……まさかお前、禁忌に手を出したんじゃねぇだろうな』
『あんたのために心臓を黒く染めるつもりはない』
上等、それで? とリーマスは短剣をサーカスの曲芸師のようにぽいぽいと手で遊ばせながら首を傾げた。ラングは双剣を収め、人差し指で地面を示した。
『まずは短剣を収めろ。それから座れ。リーマス、話がしたい』
『お前ねぇ、相変わらず師匠に対しての敬意ってのがねぇな。座ってください、だろ。敬えっつの』
『聞き分けの悪い大きなガキに敬意など必要ない。敬われたくば、敬われる態度を取れ、とベネデットも塩を擦りこむように言っていただろう』
短剣を手に戻し、ぽり、と頬を掻いたリーマスは、はぁーと大きな溜息をついた。そしてまた消えた。深緑のマントが二対揺らめいた。ラングは手のひらで短剣をいなし、逆側から伸びてきたリーマスの腕の間を掻い潜り、懐へ。腕を素早く掴み腰を上げて一本背負い、ツカサは落ちる、と思ったが、リーマスは落ちなかった。振り上げられた脚をそのまま大きく振って勢いをつけると、腕一本でラングを投げ返した。あの不安定な空中での体勢移動、凄まじい体幹の持ち主なのだとわかる。加えて腕一本で投げ返す力の強さにもツカサは口を開けっ放しにしてしまった。正気のラングが背中を地面に叩きつけられる姿を初めて見た。マントという緩衝材、淡い雪のクッション、受け身は取れている。だが、容赦のない大きな音がした。カハッ、とラングから聞いたこともない息が吐かれた。胸倉を掴み返されているラングは微かな息を吸うだけに留め、アクロバティックな動きで腰を上げると足を鞭のようにしならせてリーマスの眼前へと蹴りを繰り出した。リーマスが軽く避けることも想定内だったのだろう、自身を掴んだままのリーマスの鎖骨と肩の間を蹴ると同時、外側から膝を使って肘を蹴り上げた。リーマスはそれも、一番痛いところを少しずらすだけで避けた。ツカサは瞬きを忘れていた。
『体格差考えろ、浅い、甘い。上取られてる時点で力は殺されてんだって何度も教えただろ』
もう一度引きずられながらぐんと持ち上げられたラングは、ふわっと飛んで着地し、マントの雪を払った。ラングは持ち上げられた瞬間、硬いブーツのつま先を振ってリーマスの顎を蹴り、その手を緩めさせて逃れたらしい。リーマスは倒れはしなかったが、ゆっくりと首を戻して顎を摩った。
『はぁん? 何かしらの成功体験を得たな? 前よりも足癖悪くなってるぞ、そんなお行儀悪かったっけ、お前』
『腕よりも足の方が力が強い、腕力で敵わない相手には足を使え、と教えたのはリーマスだ』
『俺じゃなきゃ受け流せないで顎砕けてたぞ、どういう了見だ』
『問題ない、砕くつもりだった』
はぁー、と再びの深い溜息、ようやく短剣はマントの奥、恐らく、腰の後ろに戻された。リーマスはマントを尻に敷くようにしてどすりと座ってから、ちょいちょいと指先で近寄ることを要求した。ラングはツカサを顎で呼んだ。恐る恐る近寄り、ラングにかなり寄って毛皮を敷いて座れば、俺にも、と強請られた。どうぞ、と毛皮を貸し、リーマスは座り直してから顎を撫でて眉を顰めた。癖のある撫で方だ。親指と人差し指で撫でるのではなく、親指だけで輪郭を撫で、次いで下唇の縁を撫でる。じぃっと観察してくる視線に居心地が悪い。
『ツカサ、リーマス・アルブランドーだ。私の前任のパニッシャーであり、師匠』
『初めまして、リーマスさん。ツカサです』
『ほぅ、お前の知り合いにしちゃあ、礼儀があるな』
『私の弟、あんたの息子だ。アルブランドーの名を与えた』
リーマスは思ったよりも表情豊かな人だった。きょとん、と大きく目を見開き、梟のように首を横に傾け、ツカサをまじまじと眺めた。長い指がひょいひょいとツカサとラングを指し、最後にリーマス自身を指した。それが何の意味を持つのか不明ながら、隣でラングが頷くのでそれだけで会話ができているらしい。
『なんでまた。リシトだけじゃ満足できなかったのか? そんなに子供が好きだったのか』
『話を聞け。少し長くなる。ツカサ』
『あ、もしかして説明させるために連れてきた?』
『そうだ』
目的はそれだけではないだろうが、なるほど、とツカサは乾いた笑みを浮かべた。ツカサは掻い摘んでになりますが、と前置きを置いたうえでサイダルでの出会いから語りだした。
脱線をしたりもした。ラングの教え方の厳しさへの文句も出た。けれど美味しい料理や配慮、覚悟を教えてもらって今まで生きてこられたこと。草原での冠雪の荘厳な光景や、そこでの改名など、ツカサは旅路を楽しそうに語って聞かせた。リーマスは黙って、少しだけ目を細めてその話を聞き、何度か頷いていた。
一通り話した。厄介で強大な敵に対し、ラングが引き継いだリーマスのナイフが勝敗を分け、決着がついたこと。ツカサの結婚式の幸せな光景のことまで話し、最後はヴァーレクスとの決闘を聞かせ、喉が掠れた頃、終わった。
いつの間にかラングが簡易竈で湯を沸かし、ハーブティーを淹れてくれていた。有難くコップを受け取り、息を吹きかけて冷ましながら啜る。リーマスはゆっくりと月を仰ぎ、腕を組んで唸りだした。
『まったく理解が追いつかない。とりあえず、お前がリスタと同じように、その、なんだ、何かを越えた、というのはわかった』
『それで十分だと思います』
ツカサが苦笑交じりに言えば、思ったよりもいい奴だな、と大きな手のひらが何かを誤魔化すように項を摩っていた。それから赤い目が細められてラングを見た。
『で? 俺はどうしてここにいる? 生き返った……ってわけじゃあないだろう。俺のマントは俺の背にあって、お前の背にもある。裁断しないと引き摺っちまうったって、上手く使いまわしたもんだな、ちび助』
『無駄に図体がでかいだけの子供には何を言われても響かない。リーマス、あんたが死んでいる事実は変わらない。ただ、少しだけ、時間を貰っただけだ』
『ほんっと可愛くない弟子だ……。何のための時間だよ』
『鋼線の扱いを、改めて教えて欲しい』
ゆっくりと立ち上がったラングは空間収納を使いこなし、腕を振っただけで手に装備を着けた。元々装備が分かりにくいようにしているため、あの時もどうやっているのかと思っていたが、器用なものだ。
ラングが腕を捲ると、二の腕までぴったりと伸縮性のある革のような装備が這っていて、独特の手甲が白い月光の明かりでよく見える。見えにくいが指先に人形使いのような装飾があり、拳頭のところに僅かな膨らみがあるので、あそこから鋼線自体は出るのだろうな、とツカサは何となく思った。
よっこら立ち上がったリーマスはラングと並ぶとやはり身長が高い。ヴァーレクス以上に高いその身長はラングとは優に十五センチは差がある。手のひらが大きく、指、手足が長く、背中の広さ、見える範囲での筋肉のつき方、今まで見た誰よりも戦うことに恵まれた体をしているように感じた。
ちらりとツカサはリーマスの装備を見た。こちらも【鑑定眼】を使わないで目視で確認できる範囲に留めたのは、今までの経験があったからだ。開幕、首を取られそうになったのも大きい。
ラングが羽織っているマントと同じものがリーマスの背中にもある。あの高身長を以てしても長く、踵ギリギリまで裾が下りている。先程のやり取りのとおり、あの裾を裁断してラングは胸元を隠す部位に変えているのだ。心臓を守る鎧は胸当てだけだが、覗き込む体の折れ方、衣服の皺からその下に鎧があることもわかる。そういったことを確認できるようになっただけ、成長したな、と自分で自分を褒めながら立ち上がり、邪魔にならないように少しだけ下がった。
『扱いってもな。お前筋力が足らないから自分の体を支えられなくて、とりあえずサイズだけ調整して渡しはしたが、って感じだっただろ』
『ロストアイテムを手に入れて筋力の課題は解決した。何度かこれを使って難を逃れている。だが、まだコツが掴めない』
『へぇ、外専門にこだわっていた癖に、いつの間にそんな柔軟になったんだか。大人になったな』
ッチ、と響いたラングの舌打ちに、こら、とリーマスがそのわき腹を殴った。しっかりと手で受け流してラングは右手の力の腕輪をこれだ、と差し出した。
あぁ、そうか。ツカサはラングの回避力の高さの理由を垣間見た。リーマスのじゃれ合いは内臓を壊そうとする一撃必殺だった。腕の振り、握った拳の形は固く、当たれば肋骨から内臓まで響くだろう。そういったものを常に避けなくてはならず、そうでなくては生きられなかったからこそ、ラングは否応なしに回避力が上がったのだ。あれは本当に生き延びるために培った技術だったのだ。ツカサはぞぉっと青ざめた。手加減の上手い師匠でよかった。そうしてツカサがぶるりと震えている間に力の腕輪の確認は済んでいた。
『良いロストアイテム拾ったな。とりあえず、じゃあ、その辺の木に引っ掛けてみろ』
さくりと始まった鍛錬に、ツカサはハーブティーのコップを両手で抱えながらそれを見学した。ラングは大きく腕を振って木にそれを当てた。月光の白い光を反射した鋼線がピンと張っている。リーマスはまた顎を撫でてから、わかった、と呟いた。ラングは鋼線を元に戻し、それを眺めてからリーマスは手首を摩り、ツカサを見てぼやいた。
『しっかし、死人の俺が言うのもなんだが、暗殺者の技術をこんなガキに見せていいもんかね』
『教えると約束した。約束は守る』
『はいはい、ギルドラーは信頼が全てだ、だろ? ベネデットに躾けられちゃってまぁ』
『ズボラでのらりくらり責任を果たさない師匠を見ていたから信用が、信頼が大事だと、私は学んだんだ』
『ったく口が達者なのは変わらないな。ズボラな師匠でわるぅございましたね。おい、お前、ツカサだっけ?』
ツカサは突然声を掛けられてびくりと震えてしまった。
『特等席で見せてやるから、こっち来い』
『は、はい!』
『リーマス、言っておくが私のような回避力を求めるなよ。ツカサは死ぬぞ』
『やーらーねぇっつの! わかってるよ! リシトだってフュターだってお前とは違った。ちゃんと個体差ってやつは理解してる』
リシトの祖父に当たるリーマスは、孫であるリシトにも手ほどきをしたことがあるのだろう。それであわやがあった上で、ついに、ようやく学んだのだろうか。だとするならば、ラングへの容赦ない対応は特殊な甘え方だ。
『よぅく見ておけよ』
リーマスはマントを持ち上げると腰の後ろで弛んでいた一本の革ベルトに差し込んだ。それが戦闘時のスタイルなのだろう、長い脚が晒され、ロングブーツが姿を現した。レッグホルスターの要領でつけられたベルトに刺さったナイフはラングが引き継いだものだろう。ラングも同じ装備方法を選んだわけだ。ラングがマントやひらひらした衣服で武器を分かりにくくするのとは逆で、リーマスは装備を晒している。それは本命の武器が鋼線だからこそ、敢えて見せているのだ。何を一番の武器にするかでこうも見せ方や目的が変わるのか、とツカサは感動を覚え、自身が何を本命にするのかを考える必要性を感じた。
腕も見やすくなったリーマスは腕を振るうと少しだけ指先を動かし、手から伸びる鋼線を調整し、ラングとは違い、それを広げてみせた。ふわぁっと漁に使う網目状になったそれが美しい天幕のように煌めき、指先の動きで一本の糸になっていく。いつの間にか端を木々に引っ掛けていて、ピン、と張ったその上にリーマスは飛び乗り、歩いてみせた。ぽん、と跳んで、ふわっと乗り直す芸当などは、昔、父に連れられて見に行ったサーカスを思い出し、ツカサは目を輝かせた。それに苦笑を浮かべ、リーマスはお辞儀をした。
『真似するなよ、俺の靴は特別製だからな』
言い、足先の向きを変え指を動かし、斜めに緩く角度をつけた鋼線を滑り降りる。シュィ、と何か金属を滑るような音がしたので、靴底も同じような素材なのかもしれない。地上に戻ったリーマスは一本に紡いだ糸を解き、木にひゅるりと鋼線を巻きつけ、ぎゅぅっと引き絞った。
『鋼線の長さは覚えてるか?』
『伸縮性込みで五十メートル』
『そうだ。この鋼線の強みは死角から巻きつけ、引いて、切る。それだけだ』
ギチ、と木が堪えた音を出した後、鋼線がひゅぱっとリーマスの手元に戻り、消えた。木は胴を輪切りにされ、ゆっくりとずれ、そして落ちた。思わず駆け寄って切り口を確認すれば、のこぎりで切ったような跡もなく、美しい断面図だった。
『引っ掛けることが目的じゃない。切ることが目的の武器だ。切っ先の小さな刃は確かに端を留めるためのものだが、お前の使い方じゃ鋼線が傷む』
『なるほど。何度かそちらの目的で使ってしまった、手入れをしないと不味そうだ』
『ハリファは生きてんのか?』
『あぁ、老いたがな』
『じゃ、俺の部屋がまだあればだけど、入って左手にある黒い箱の中から、銀色の石を持って手入れを頼みに行け。鋼線を支えられる特殊な部品には、特殊な石ってな』
ふむ、とラングが顎を撫でた。思い出しているのだろうと窺え、ツカサはすっかり冷めているハーブティーを飲んだ。そろりとリーマスの手元を覗き、ただの薄い手甲にしか見えないそれをしげしげと眺めた。面白そうにリーマスは手首を回し、指を動かした。どういう構造なのだろう。
『気になるか?』
『うん、五十メートルも鋼線が入る体積もなさそうなのに、どうやって収納されてるんだろう』
『ははぁ、お前、細かいこと気にする性質か? ラングの弟にぴったりだな』
え、そう? と照れれば、褒めてない、と返され摩っていた項を誤魔化すように掻いた。
『これもまた、ロストアイテムを組み合わせてつくられてるんだぞ。つくりあげた技師は口封じに殺されてる。俺も構造は知らない。だから、製作者でもないのに手入れができるハリファは天才だと、俺は思ってる』
ごく、と喉を鳴らした。リーマスの赤い目が光の加減で黒く見えた。口元に浮かんだ笑みが怖い。瞬きの後、リーマスは敢えて顔を上げて月光の下に顔を晒し、にぃっと大きな口に弧を描き、目元がにんまりと笑った。怖いが、怖がらせるつもりはないらしい。なんとも不器用な人だ。
『お前ロストアイテムには詳しいんだろう?』
『多少はね、そういう不思議なものを知ってるっていうだけで』
『十分だろ。物事には想像力ってのが必要なんだ。戦いもそう、相手がどう動くか想像し、予想し、それに対し、対処をしていく。そうして答えが一つになった時、相手を殺すんだ』
ふと、ラングの師匠だと納得した。説明の仕方がよく似ている。微笑んだツカサをリーマスは眉を顰めて眺め、ラングに尋ねた。
『ラング、こいつ見た目より老けてるのか?』
『時折、爺くさいのは事実だ』
目の前で失礼な会話をされ、むっとした。皺を口元、目元に浮かべてリーマスが大きな口を開けて笑った。
暫く、ラングが鋼線を扱い、リーマスから細かい指示を受けるのを眺めていた。指導する側、される側、そこにラングとツカサと同じものがあって、じわっと感動が滲んできた。ラングもまた、こうして強くなったのだと思うとツカサは自分もきっとそこに至れるのではないか、と思うのだ。こうした前向きな気持ちすら、ラングはきちんと計算づくでここに連れてきたのだろう。どこまでいってもその手のひらで転がされている。けれど、不快ではない。
『よし、あとは鍛錬あるのみ。ハリファに一式、見せるのを忘れるなよ』
『わかった』
装備した鋼線一式を空間収納に仕舞い、ラングは手を握ったり開いたり、感触を確かめていた。リーマスは再びよっこら座るとツカサのことも手招いた。
『もう少しだけ時間がある気がする。雑談させろよ』
『あぁ、はい、何を話します?』
『お前驚くほど物怖じしないな……。シェバだってベネデットだって、もう少し警戒するけどな』
『こいつは私との初対面からこうだ』
へぇ、と面白い玩具をいじるようにリーマスの指がツカサの腕をつつき、肩を掴んだ。かくん、と肩が抜けてぎょっとしていれば、リーマスの後頭部をラングがかなりの強さで殴った。ゴッ、と痛い音がしてリーマスは、イテェ、と頭を抱え、じろりとラングを睨んだ。文句を言う前にラングからの叱責が飛んだ。
『関節に変な癖をつけるな。脱臼には注意しているんだぞ。誰も彼も、あんたと同じおかしな体だと思うなと、何度言えばわかる』
『ラング、師匠を殴るな! お前、ベネデット直伝の拳骨だけは上手くなりやがって!』
『リーマス。私は、リシトの時にも、随分と、言ったはずだ』
『……悪かったよ。ちょっとじゃれただけだろ……』
底冷えするようなラングの声に、リーマスは気まずそうに殴られた頭を掻いた。師匠が弟子に負けている。ツカサはぶつぶつ言い続けるリーマスの手で、すこん、と肩が戻るのを感じて、驚きが過ぎてから痛みが走り、滝のような汗が流れ落ちた。ヒールを使い、慌ててリーマスから離れ、再びラングのやや後ろに座った。えぇ、とリーマスは残念そうに胡坐をかいて唇を尖らせた。
『まぁいいや、で、お前ら二人で家に戻るのか? 部屋はあると思うしな』
リーマスの中ではここに家があるわけではなく、嫁を連れて皆で帰る、という認識なのだろう。ツカサは首を振った。
『俺は、この世界に残ります。家もあるし、家族もいるし』
『私はリシトを助けに戻る』
リーマスは目を見開いた。リシトを助けに、というところが引っ掛かったらしい。どういうことだ、と聞いてくるので再びツカサが説明を担った。曰く、神のおかげで最悪の事態の一歩手前で止まっているが、このままであればリシトとその周りにいる者が死ぬだろうこと。今回、戦いの報酬をもって救いに行くのだということ。
『だったらこんな悠長にしてる場合か? すぐにでも行ってやれ』
『戻る時間が決まっている。慌てたところで意味はない』
視線がツカサにも来たので頷いておいた。納得はいかない様子だったが、自分にはどうにもできないことだと分かっているのだろう。リーマスは胡坐をかいて手をひらひらと振った。リーマスが落ち着いたのを見計らってラングが言った。
『リシトが結婚し、子供が生まれた。男にはあんたの名をつけた』
『俺? 暗殺者にでもするつもりか? エトヴィンの名にすりゃいいのによ』
『フィオガルデでは、危険すぎる。あんたの名にしたのは、あんたのように強くなってくれたらいいと思ったからだ』
リーマスは面映い気持ちをどう処理していいかわからないのだろう。照れ隠しか取り出したナイフで少しの間地面を掘っていた。それから、そうか、と小さく呟いて口元を緩ませていたので、嬉しいのは間違いなさそうだ。
雑談をしようとは言ったが、その後、暫く会話はなかった。ツカサは何度かラングとリーマスに視線をやって何か話さないかと見ていた。こうした沈黙の取り方もよく似ている。これに関してはラングがリーマスに似たのだろう。もしかしたら、顎を撫でる動作もリーマスを見ていてついた癖かもしれない。ツカサも時々、ラングと腕を組むタイミングが同じで気恥ずかしくなったものだ。技術だけではなく、共にいることで移る何かもあるのかと考えると面白い。そんなツカサの呑気な考えは、リーマスの夜空のような静かな声で星に紛れた。
『お前の人生を後悔はしてないか』
『していない』
ラングの即答があって、リーマスは目を伏せ、少しだけ微笑んだ。
『俺は後悔してるよ。お前は頭が良いから学者の道も選べただろうに、俺のところに来ちまったから、戦うことしか教えてやれなかった』
『それを求めたのは私だと、以前にも言った』
『わかってるんだけどな。どうしようもないんだ』
『くどいな、リーマス』
言い方、と文句を言いながら顔を上げたリーマスへ、ラングは口元を微笑ませていた。
『私はここに来て、ツカサから教えられた。あんたがどれほど私を生かそうとしていたのか、その想いを知り、受け取った。父の剣を、双剣にしてくれた意味も、ようやく知った。装備を譲り、与え、技術を惜しげもなく教えてくれて、……ありがとう。あんたと共に食事を作り、食った日々が、過ごした時間が、歩んだ道があったからこそ、ここまで辿り着けた。私がここまで生きてこられたのは、リーマス、あんたのおかげだ』
ありがとう。ラングの手がリーマスの手に重ねられ、リーマスはそれを強く握り返した。戦いに適した肩が小刻みに震え、淡くなった月光の傾きが影を落とす。落ちた真珠は大地への恵みに変わり、似たような傷痕を持つ男たちの手を滑って落ちていく。顔を上げ、柔らかい笑みを浮かべ、父が子を慈しむように見た。
『生きろ。生き延びろよ。それだけでいい』
ラングはゆっくりと、強く頷いた。
『息子よ、卑しい名を捨て、一人の人間として生きろ。たとえ名が変わり、生きる道が変わろうと、お前が生きてさえいれば何も思い残すことはない』
『そうだ、それも忘れるな。……いつかお前が何も考えずに気を抜ける場所が見つかると良いんだけどな』
『リーマス、安心してくれていい。もう見つけた』
ラングのシールドがツカサを向いて、涙を浮かべたリーマスもそれを追った。
『ツカサが私を導いた。ここに、私が料理を、会話を、……冒険を、ただ楽しめる場所が、あったんだ』
は、はは、とリーマスは笑い、満足そうに、そうか、と呟いてゆるりと立ち上がった。
『ならいいんだ。知らない間にできた息子だけど、お前にいい弟ができて安心だ。俺も、シェバも、ベネデットも、ずっと、ラングの殺伐とした生き方が気掛かりだったんだぜ』
『ベネデットはまだ生きている』
『しぶてぇなぁ! あいつ!』
涙を拭いながら叫ぶリーマスにラングも立ち上がった。ツカサも釣られて立ち上がり、白む空の明るさに輪郭を失っていくリーマスを泣きそうな顔で見ていた。
『死んだ後にこんな時間が得られただけ、俺は幸せだったさ。ラング、お前を育ててよかった。お前と出会えてよかった』
『私もだ、リーマス』
『もっと我が儘を言うなら、お前とダンジョンに行ったり、ただの旅を、くだらない日々を楽しみたかったけどな』
すぅっと動いた動きをツカサは目で追えなかった。気づけばリーマスはラングを強く抱きしめていた。
『はは、ちび助がでかくなりやがってよ。初めての抱擁が死んだ後とは洒落にもならねぇけど、悪いもんじゃないな。……また会おうな、ラング』
ラングはその背を同じくらい強く抱き返した。これは、ラングがこの先の人生で二度と見せることのない表情なのだと思い、ツカサはそれを焼き付けておこうと誓った。
『いつかそこへ辿り着いたら、いくらでも旅の話を聞かせよう。……父さん』
『そうだな、それが遠い未来であることを祈ってるぞ、ラング』
じゃあな、と最後は少し出掛けるだけの軽い声で言い、リーマスは光の粒子となって消えていった。ラングはその軌跡を追って淡い紫の空を見上げ、腕を下ろした。
ツカサはその背中をじっと眺め、風に運ばれる真珠がなくなるまで、ただただ、見守り続けていた。




