4-89:決着
すぅ、はぁ、と静かな呼吸が聞こえた気がした。その瞬間、目の前の存在感が増し、消えた。おかしな現象にぞわぁっと首筋を死神に撫でられた気がした。怖気、恐怖、嫌悪、予感、高揚。どの言葉が正しいのかわからない。それをまるで噛み千切るようにヴァーレクスは顔を体を前に出し、歯を食いしばった。
音はなかった。急に双剣の軌跡が消えた。瞬きの後、気づけばパニッシャーの間合いに居た。それを防ぐために前に出るしかなかった。振りかぶったタルワールは刃を振り抜かず、自身に接敵している相手のマントの下、脇腹を狙い柄頭の装飾を打ち込む形に変えた。ぬるり、と気味の悪い感触がした。内側に打ち抜いたはずの攻撃はマントの仕立ての良い感触を掠り、本体が消えた。はっと気づけばパニッシャーの抱擁を受けていた。感情も殺気もなく、どういう意図でその行動になったのか理解ができない。ただ、不味い。これは不味い。両の手に握られた双剣で背中を斬られる、刺される。下手をすれば己も貫く攻撃すら、この男は成してみせるだろう。
ヴァーレクスは死の恐怖に快感を覚え、ニィッと笑みを浮かべた。気配の変化にパニッシャーが剣を手放し、両手を自由にした。
さすが、だが、逃がさん。
ガバリと抱擁を返す。思ったよりも密度のある体がギシリと軋むことに、この男に人間らしいところもあるのかと思った。ぐっ、と呻く声に通じるのだと理解し、さらに腕に力を込めた。身長差を利用し持ち上げる。足を着けられなければ体の防御はその分薄くなる。腕ごと抱きしめたパニッシャーの肘関節、背骨に突き立てたタルワールの柄頭が支柱となって痛めつけ、折りたい部分が明確になる。痛みか、苦痛か、それから逃れようとしてかパニッシャーの背が反っていく。折る、そう思った瞬間、地を失った両足がガシリと体に絡みついた。ヴァーレクスは、にやりと笑うパニッシャーの口元を見た。
「ふっ」
軽い息の音と共に鎖骨にぐしゃりと衝撃が走った。ぬぅっ、と痛みに呻いたのはヴァーレクスだ。大きく後ろから頭を前に振り、ヴァーレクスの顔面を狙ったパニッシャーの頭突き。咄嗟に首を逃がして位置をずらしたが、容赦なく鎖骨を砕かれた。一瞬緩んだその筋肉の隙間を逃さず、ガードポイントに引き戻したパニッシャーの腕が素早く突き出された。砕いた鎖骨と大胸筋の境、二か所に打ち込まれた衝撃に両者は再び距離を取った。地面を三歩たたらを踏むヴァーレクスと、地面に降り立ちマントをふわりと広げながら着地するパニッシャー。双剣を拾う隙を与えずに前進、追撃したヴァーレクスの剣戟を最小限の動きで避け、片腕でいなし、深緑の円が一瞬見えた後、ゴッとぶつかり合う激しい音がわき腹から響いた。ッチ、とパニッシャーから舌打ちが零れ、双剣を拾うために地面を転がり、間合いの外に出られてしまった。
逃がした、拾われた。しかし、なんという男だ。ヴァーレクスは深呼吸を入れて痛みを逃すと姿勢を正した。一歩間違えれば背骨が折れ、勝敗は決しただろう。だが、パニッシャーは自身の可動域を十分に理解し、最大の威力を出せるまで大きく背を反らし、硬いシールドを叩き込んできたのだ。理解した、あれは人相を隠し、顔を守るための防具ではない、武器の一つなのだ。
加えて、あのおかしな動きは確実にこちらに一撃を入れ、怪我を負わせるための布石だったのだと気づいた。まんまと誘い込まれたのは自分の方だ。タルワールで横からトドメを刺すような無粋な真似はしないだろう、と予測されていたことは嬉しいが、ずくん、ずくん、と血の巡りに合わせて痛む鎖骨のダメージはよろしくはない。
しかし、あのマントが緩衝材になり背骨こそ位置を器用にずらして痛めなかっただろうが、パニッシャーの左肘は今ので扱い難くなったはずだ。ヴァーレクスの衣服の外に防具はなくとも、その下にはあるのだ。打ち込まれた瞬間、ヴァーレクスは脇を締め、屈め、その肘を防具に当てたのだ。パニッシャーの装備、メインのマントが外的理解を及ばせないことと同様に、ヴァーレクスもまた装備についてはタルワール以外をわからなくしている。あの女神との戦いですら防具を着けず、パニッシャーとの戦いへの布石としていたものを、見破られた。内心で舌打ちが零れた。抱き着き、装備を調べられたことに冷や汗をかいたが、想像以上の硬さであったのだろう。双剣を握る左腕を軽く振って馴染ませ、状態を確かめ、すー、はー、と呼吸音が響く。
斬れる場所は既に知られている。ヴァーレクスもまた、先程パニッシャーの装備の詳細を知った。下準備は互いに、徐々に、徐々にできている。パニッシャーの構えが変わった。右を上に持ち上げ、剣先を背の方へ。左を前に出し、構えた。
ツカサはそれを、見たことのない構えだ、と身を乗り出した。
ヴァーレクスはふぅー、と深い息を吐いて、タルワールを上段に構え、その柄頭に手を添える動きを加えた。
暫く、どちらも動かなかった。朝日が昇りきり晴れやかな青が空に広がっていた。冬を前に、だからこそ高く透き通った青。冷たい空気がさぁっと吹き抜けた。
すーはーすーはー。微かな呼吸音。パニッシャーの体が力を蓄え、そして消えた。
タルワールでいなしたことは我ながらさすがだ。気配や殺気で察知のできない、もはや経験と危機感知でしか捉えることのできない相手が左手の双剣で斬り掛かってきたのを、タルワールで叩き潰す。数回の打ち合いの後、さらにそれをいなし、パニッシャーがするりと回転を加えるのは、自身の腕力とヴァーレクスの肉体の硬さを比べた際、それを入れなければ斬れないと冷静に判断、理解しているからだ。回転、横から、ヴァーレクスの視線が動いた瞬間、パニッシャーはぎゅっと回転を止め、剣先を後ろに回していた右腕を自身の頭の上を通してから振り抜いた。その一線はヴァーレクスの首を確かに捉えていた。
ぱっ、と、血が散った。
「足の長さに救われたな」
双剣の間合いから逃れたヴァーレクスに感心したような声が届いた。脚を伸ばせば距離が出ない。失うのが首か顔であれば、顔の方だ。跳ねるために身を屈め、頬から鼻筋まで斬り裂かれながらヴァーレクスは大きく後ろに飛び、逃れたのだ。一息吐く間も与えずパニッシャーは瞬時に接敵してきた。そうでなくては。やや草の生えている地面は足跡を残さない。深緑のマントという、防御に有利で動作に不利な道具もありながらその軌跡を読ませない。独特の歩法、完全なる暗殺者のそれにヴァーレクスはタルワールを上段に構え、自身を研ぎ澄ませた。
再び、どちらからともなく剣を打ち合わせた。
剣戟は流される。手数はパニッシャーが多く、速い。だが、軽い。人であればこそ、いずれ打ち合いに腕が限界を迎える。体格、体力を考えれば有利なのは自分の方だと理解している。リーチに関してもそうだ。足の長さ、腕の長さ、双剣とタルワールの長さを鑑みても間合いが広いのはヴァーレクス。とはいえそれをわからない相手でもないだろう。
打ち合いは長く続いたようで、実際には短い時間のことだった。
この男の余裕はなんなのだ。単なる好奇心でもあり、純粋な謎を前にした子供のような疑問だった。殺気が無いので切っ先が読めず、感情が見えないからか剣が軽くも重くも感じる。相手取っているものが何であるのか、ヴァーレクスはやがてその考えすら邪魔に思い、全てを捨て去った。
そうして、もはや音すらも遠く、ただ真っ白になっていき、研ぎ澄まされていく。目の前の相手を仕留めるために自身が武器になるような、不可思議な現象がヴァーレクスには起こっていた。
す、とそこに静かな声が差し込まれた。
『フィオガルデ国属レパーニャの街、パニッシャー・ラングが汝へ告ぐ』
聞き慣れない音に、ハッと息を吸った。正気に引き戻されたヴァーレクスの目がしまった、と見開かれた。パニッシャーが叫んだ。
「この決闘、勝たせてもらうぞ!」
一瞬の攻防だった。ヴァーレクスが振り抜かれた剣を一歩引いて避け、一歩踏み込む。逆の腕で振られた剣に対しヴァーレクスは左腕を盾にして捨てた。パニッシャーの動きに合わせ左腕を下げ逸らしながら刃を受け、威力を落とした剣先を筋肉と骨で捕まえた。動きを押さえたところへタルワールを右から振り抜く。足を踏み込み、膂力と遠心力の全てを持ってパニッシャーの、その首へ。
「見事だ」
その言葉の後、ヴァーレクスは脇腹に冷たいものを感じた。左腕に刺さったままの剣は主を失い、捕まえたはずの右腕がいつの間にかヴァーレクスの左脇に短剣を差し込んでいた。自ら武器を手放す、そうだ、そういうことのできる男だった。鎧の隙間、切っ先は深く、そして。深緑のマントがヴァーレクスの体を撫でた。振り抜かれたタルワールはパニッシャーの肩を撫で、それを回転の力で逃がされ、逸らされた。まるで道化師が踊るようにパニッシャーの握る短剣はするりとヴァーレクスの脇腹から抜かれ、草の上に赤が散った。くるり、くるりとパニッシャーが短剣に付着したヴァーレクスの血を払いながら再び向かい合うようにして止まり、構えた。
たっ、たっ、と軽い後退の後、ヴァーレクスは傷を押さえることもなく、雄叫びを上げながら再びタルワールを上段に構え振り下ろした。
「パニッシャアアアァァ!」
「うおおぉぉぉ!」
タルワールの真骨頂、上段からの振り下ろし。パニッシャーは正面からそれを受けてみせた。シュイン、と再び火花が散った。まるで火打石を火打ち金に当てた時のような光の散り方。ヴァーレクスは己のタルワールを剣を使わず、防具であり武器であるシールドで受け流した男に感服した。死の恐怖を乗り越えていなければできない芸当、しなやかな筋肉と体の回転で、真っ向から技術を受け切った男の顔を、その火花の中、ヴァーレクスは見たような気がした。ずぐりと胸にやや斜め下から刺し込まれた短剣は何の感情も殺気も持たず、無慈悲に、ただ素早く引き抜かれ、血が、飛んだ。
あぁ、くそ、と口元に笑みが浮かんだ。体から力が抜けていき、ハッ、と息が零れる。大きく倒れようとした胸倉を掴まれ、ゆるりと膝を突き、地面に柔らかく横たえられた。
「……そん、な、慈悲を……掛けるような、ガラでは……かふっ、ない、でしょ……う」
「よく戦った」
勝者からのそんな賛辞を誰が嬉しいというのか。見上げた青い空に黒いシールドが見える。良い空なのだ、その頭を退けろ、と目を細めれば、通じたのかそれが退く。
「……惜しい、もっと、せめて」
共に戦う時間があれば、その癖や強さに対しもっと鍛錬ができた。その強さの片鱗を学ぶことができた。そして、くだらない会話と真っ直ぐに自分を眺めてくる弟子を、温かい食事を、もしかしたら楽しめたかもしれない。あの槍の男と背中を合わせたあの時も、違う楽しみがあった。
誰かの下に居た者が、初めて触れた、【仲間】というもの。それを惜しいと考えたことに、ヴァーレクスは小さく口元が歪んだ。群れはあれほど嫌っていたというのに、どういう心境の変化か、と己で失笑が浮かぶ。
左腕に刺さったままだった剣を抜き、そのままどさりと隣にパニッシャーが座った。短剣の血を拭っているのか、ごそごそと動く気配を感じる。とん、とん、と幼子を寝かしつけるようにパニッシャーの手が体に触れた。あちこちの傷口を撫でるのはやめろ、痛い、追撃かクソが、と文句を言いたかったが声はもう出ない。
ぼんやりと視線を送ればそれに気づき、黒いシールドが僅かに傾く。それは悪手だぞ、と目を細めれば、また前を向く。そうではないかと思ってはいたが、間違いない、そのシールドで死角を反射して見ているのだな、と問いたかったがそれを聞くために息を使うのは勿体ない気がした。
恐ろしい男だ。その双剣ですら布石、こうして戦ってみれば短剣こそがこの男の技術の本命なのだとよくわかる。どこまでも手札を明かさない。最後の最後まで手の内を見せず、意外性と機転、柔軟な発想で翻弄された。完敗だ。ヴァーレクスは心地良い脱力に指を開いた。
ふと、雪のように静かな声が歌のように囁いた。
「良い朝だ、……生まれ変わるにはちょうどいい」
生まれ変わる、か。確かに綺麗な空だ。空を綺麗と思ったのは生まれて初めてですねぇ。
痛みを失い、穏やかな心地で言葉を返したつもりだった。だが、音も出ず、息も吸えず、ただ緩やかに何かが抜けていく。遠くで地面を蹴る音がした。
「ラング! ヴァーレクス!」
唯一技術を教えた弟子が息を切らせて駆けつける音が、これほど耳に心地よい音だとは思わなかった。ちらりと視線を向けた先で、涙をぼろぼろと零すその顔を見て、不思議な満足感が胸に満ちた。惜しまれる生を生きてきたわけではないが、人間というのはどうにも、単純な生きものらしい。
「……死ぬの?」
「いずれ死ぬ」
パニッシャーの言葉に弟子はぐぅっと喉から何かを堪えるような音を零し、拳を握り締めた。お得意の治癒魔法を使わないのはこの決闘の意味を正しく理解している証拠だ。それでいい。
ツカサ、お前は少しでも私の技術を見ることはできたか? 学ぶことはできたか? 負けてはしまったが、パニッシャーに何回か攻撃を当てている、あの一撃を、その剣筋を、この男に当たったものを、覚えてくれたか? ……泣き続けていると、また小僧と呼ぶぞ。
「ヴァーレクス……全部見てたよ、見たよ」
言葉にはなっていなかっただろうが、通じたことに笑みが浮かんだ。最期の一息はこの言葉に使おう。
「パニッシャー、申し出を受けましょう」
「いいだろう」
するりと立ち上がり、パニッシャーはヴァーレクスに馬乗りになった。
「ラング、何を」
『下がっていろ。ここからは暗殺者の領域だ。二度言わせるな』
ツカサは唇を噛み、ゆっくりと後退した。パニッシャーの指が何かの儀式のように動いた。ヴァーレクスはそっと目元を撫でてから口元に覆いかぶせられたパニッシャーの右の手のひらに目を瞑る
「安らかな眠りを、戦友、ペリエヴァッテ・ヴァーレクスに」
言葉の後、両指が首に掛かり、そっと力が加わっていく。ヴァーレクスは閉じた瞼の中で赤い光と穏やかな闇を見た。
ツカサの後ろ、駆け付けた面子の目の前でパニッシャーの背中が、肩が脱力した。少しの間を置いてゆるりと立ち上がり、体を退けたパニッシャーは、親指に唇を当て、その手の人差し指と中指の甲をヴァーレクスの体に触れさせた。葬送の儀、振り返ったパニッシャー・ラングに皆が息をのんだ。
「終わった。遺体は任せる」
「……わかった。ラダン、検死と、遺体の修繕を」
「了解」
ヴァンの指示で医療箱を持ったラダンが駆け寄り、脈を、首を、傷口を確認した。
「……死んでいる。傷の修繕をし、清め、書面通り埋葬する」
「頼むよ。勝者であり生存者であるラング、怪我は?」
「返り血だ」
言いながら短剣を、双剣を拾い、腰に戻した。血で汚れた右手を布切れで拭うとそれも空間収納へ入れ、さぁ、と吹き抜けた風に誘われて空を見上げ、ラングはふぅーと深い息を吐いた。その体が脱力を伴い、戦いの終わりを報せた。そっと隣に駆け寄れば、小さく喉が呻くような音を零していた。ツカサはラングの左腕を取り、肩に組ませた。眉を顰める気配に言った。
「わからないけど、なんかこうしたいんだ。だから、今は肩を預けてて」
「逆側もいるか?」
「要らん」
駆けつけたアルの腕を払い、ラングはツカサに体重をかけた。それにホッと息を吐き、ツカサは顔を上げて前を向いた。涙の跡は風に吹かれヒリヒリしていたが、きっとこの痛みも忘れないだろう。
失うもののない人生など無い。ただ、何も得られない人生というものも無い。この日、ツカサはそのどちらをも経験し、再び一歩を踏み出した。
勝者の背を見送り続けるヴァンの背に、ラダンが声を掛けた。
「ヴァン、修繕が終わった」
「そうか」
手についた血を拭い、針と糸を医療箱に片付け、ラダンが立ち上がった。
「……なぁ、ヴァン、言っていいことかわからないんだが」
「ラダン」
ぴしゃりと掛けられた声に、ぎゅっと唇を結んだ。ゆるりと動いた透明な水色が、静かにラダンを見据えた。それから仲間たちを一瞥し、ヴァンは言った。
「皆、何も言うな。何かを言えばそれは戦士への侮辱になる。僕たちは書類通りの対応をするまでだ。返事は?」
「……了解、しました」
口を噤むラダンの肩を叩き、ヴァンはヴァーレクスを布に包み、片付ける指示を出した。手早い軍人の手配であっという間にその場には遺体も、決闘の跡もなくなった。
ヴァンは暫く、快晴の空を仰ぎ、目を細めた。
「良い、空だね。そうは思わないかい?」
呟きは不安定な風に攫われ、どこかへと運ばれていった。




