4-80:視線を注ぐ
いつもご覧いただきありがとうございます。
エフェールム邸で、以前も案内され、もはや自室と化した部屋で一日体を休めることになった。季節が変わったからかカーテンの色合いがオレンジに変わっていたり、絨毯が少し厚めになっていたりと用意が細かい。ベッドでふかふかの枕に寄り掛かり、ぼうっとする時間が穏やかに過ぎていく。
【快晴の蒼】はヴァンを残してさくりとイーグリスの街に戻り、ヴァンとアルの二人はツカサの部屋に入り浸った。どうしてなのかと問えば、いつ発狂するかわからないからだそうだ。ヴァンは借りた本のページを捲りながら事もなげに言う。
「あれだけの衝撃、体を温めたくらいで収まるわけがないからね」
ツカサは自分がどうかなってしまうのかと顔を青褪めさせたが、アルに腕を叩かれてそちらを見た。
「なんかあれば殴ってやるから、とりあえず今は横になっとけよ」
「殴ってほしくないなぁ、なんかあってほしくないなぁ。…アルも、ヴァンも、似たような経験は?」
不安を紛らわせるために、ツカサは枕に寄り掛かったままベッドサイドに座る左右の二人へ尋ねた。手持ち無沙汰でもあったので布団カバーをサラサラ撫で回していれば、アルは少しだけ唸ってから椅子を寄せた。
「俺は、そうだな。ラングがやったみたいな殺気でどうのこうのって感じじゃないけど、追い詰められたことはあるぞ。ほら、ガキん時に家飛び出してるから、まぁ、殺されかけたことは多い」
この空の先に何があるか知りたくて、家を飛び出し、当座の資金のためにダンジョンへ行き、オルファネウル・ネルガヴァントを得た。踏破したのだから金級、というのは短絡的だが、転移石も離脱石も手に入らなかった身で、生き残り、結果を出した。その実績と冒険者ギルドで実力を示し、金級を勝ち取った。
「でもさ、その時は知らなかったけど、十五、六のガキが金級ってのは、歩く宝箱なんだよな。ガキだからいくらでも騙せるし、徒党を組んで襲い掛かれば勝てる。そういう目で見られるんだ」
「負けたの? イメージつかないな」
「なんだったら一回奴隷にされかけてる」
「え? マジ?」
マジマジ、とアルは笑い、ヴァンが本を閉じて顔を上げた。興味を惹かれたらしい。
アルはスカイだけではなく、隣国のレテンダ、ウォーニン、アクスフェルドを乗合馬車や依頼を利用し、さくさくと移動したらしい。スカイ国内の利便性はわかるので、二、三年でもかなりの場所を旅できただろう。その事件はレテンダであったという。
「ガキなのに金級になったもんで、ルビノスになってたんだな。そりゃぁもう、今思えば恥ずかしいくらい俺はすごいんだぞって顔してた。だから目をつけられた。スカイの金級のガキにどこまでできるか見てやる、ってな」
「喧嘩になったとか?」
「似たようなもん」
ツカサがオルワートの冒険者ギルドで喧嘩を売られたように、アルもまたその場で力を示したらしい。相手が四人程度、ギルドの中、そういった条件に助けられ、返り討ちにできた。だが、それが組織の末端であることをアルは知らなかった。ふむ、とヴァンが腕を組んだ。
「レテンダって、冒険者ギルド公認で闇ギルドが存在しているんだよね。あいつら認めないけど、貴族の娯楽に地下闘技場があるくらいだから、そういう関連かい?」
さすが情報通な冒険者、いや、軍人、冷静に怖いことを口にした。アルはそれに感心し、肯定を示した。
「そうそう、なんかたぶんそういうアレ。宿に泊まって寝てるところ奇襲掛けられてさ、その宿もまたグルで」
ツカサは心配そうにアルを見た。今ここにいるので最終的には逃れられたのだろうが、自分が気を抜いて眠っている時にそんなことがあるのは嫌だ。アルはツカサに苦笑を浮かべ、話を続けた。
結局縛り上げられ、簀巻きにされ、地下牢に閉じ込められた。腰のポーチからペンダントが見つけられて身分がバレてしまい、高値で売れる、使える、と鉄格子の向こうで笑う男たちに罵声を浴びせ、叫び、どうにか脱出しようと試みた。ペンダントについて首を傾げれば、アルが取り出して見せてくれた。銀色のプレート、片側に紋章が彫られていた。竜の翼が丸を包むような、少し丸みを感じるものだ。
「エフェールムの紋だ、裏側は俺の名前」
なるほど、これは身分証だ。エレナの鍵魔法を強請ったのはこれか、と言えば、そうだ、とアルは笑う。
そういうわけでいろいろと相手にとって面白い素材になってしまったアルは、奴隷紋を刻まれそうになったらしい。ヴァーレクスからの説明でそれが生殺与奪を握る手段であることは知っている。ハラハラと続きを待てば、アルは一度深呼吸をした。
下卑た笑みを浮かべる奴らに囲まれ、両腕を縛られ、奴隷紋を刻むための契約書が体に当てられた。契約のための呪文が唱えられ、激痛が全身を苛み、悲鳴が響いた。その時誰かが、あ、という短い声を上げた。オルファネウル・ネルガヴァントを持った男だった。どういうわけかその腹には槍が刺さっていて、男はふらつき、その穂先が何人かの腕を切った。ふわ、と浮いた契約書。アルはその隙に目の前の男に頭突きを喰らわせ、こちらへ千鳥足で来る男の腹を蹴って槍を外した。飛び跳ねた槍は都合よく溝に引っ掛かりこちらに穂先を立て、それで縛られていた縄を切った。そこから、アルは無我夢中でよく覚えていないらしい。今なら、オルファネウル・ネルガヴァントがアルを守ったのだとわかる。アルもそうだろうな、と笑った。こほんと咳払いの後、話はもう少し続いた。
気づけば鉄の臭いが充満した地下の中、アルは血だまりに膝をついていた。槍を握っていた腕がぶるぶると震え、何も入っていない胃から何かを吐きだす。脱水症状で涙も出なかった。全身が熱くて堪らなくて、思わず血だまりを啜りそうになったほどだった。どうにか立ち上がり、血で滑りながらも槍を持った。地下から脱出するまでに何人も殺した。この一連の殺しが、アルにとって初めてのそれだったという。
「いやぁ、出た時は夜で、必死にそこ離れて…誰かに見つけてもらって、あったかいスープもらって、たぶん寝たんだろうな。さっきも言ったけどよく覚えてないんだよ」
元々良い家の子だったアルにはなかなか衝撃的な出来事だったのだろう。それから、アルは自身を誇示しなくなった。年相応、実力相応の態度と行動をとるようになり、そうしたヘマをすることもなくなった。年齢が若いことだけはどうにもならなかったが、それは成長と共に解決された。
「そのスープくれた人たちは良い人たちでよかったね」
「本当にな! 絶対おかしい奴だったからな俺、血まみれ、槍とそれに引っ掛かってるポーチ、獣みたいに唸ってたんじゃないか?」
わはは、と笑うアルに釣られてしまった。本来ならそんなふうに笑っていいことではないのだが、本人がそうして受け止めているので同じように返すしかなかった。一頻り笑った後、アルがヴァンを見た。
「そっちは? 【快晴の蒼】って攻略踏破数とパーティ内でバカ騒ぎしてるって、仲が良い話は聞いても、黒い話はないよな」
「僕らは夢を与える広告塔、そういうのは流れないように気をつけているからね。仲が良いのも本当、僕ら全員、同じ相手が原因で死にかけてるし、極限の状態で命を預けたから、ちょっとした家族、兄弟みたいではあると思うよ」
ツカサはそれがわかる気がした。【異邦の旅人】はツカサにとって、親友であり、仲間であり、兄弟であり、家族だ。随分昔、不思議で心地よい関係性だと思ったことがある。ヴァンはふぅむ、と下唇を掻いた後、身を乗り出した。
「僕の衝撃的な体験は、恥ずかしいから、秘密だよ?」
人差し指を立てられ、ツカサとアルは頷いた。
「辺境伯子息、変人、悪魔の子、忌み子、様々な名前で呼ばれたけれど、同時に祝福の子とも呼ばれたことがある」
ヴァンは物語を語るように話してくれた。その子は望まぬ力を持ったことで友もできず、精霊は力加減を知らず周囲を傷つけ、それを避けるために結局一人を選んでいたこと。そんな子供にある人が声を掛けた、祝福の子、と。少年は自分を認めてもらえた気がして嬉しくて、その力のことをその人物に見せ、話し、懐いていった。
「さくっと結論から言うと、宗教団体だった。僕は生贄にされるところだったんだよ」
ツカサはちらっとアルを見て、そちらが同じような顔をしていることを確認した。ヴァンは平然と続けた。
その日、星読みを教えてあげようと言われ夜ベッドから抜け出した。精霊の力を借りれば部屋から抜け出すことも、少年には造作もないことだった。満月が明るくて星がよく見えない夜、今ならそんな日を指定するのはおかしいとわかるものの、浮かれた子供の時分、それがわかるはずもない。手を引かれ連れていかれた森の中、満月の照る小さな隙間に祭壇が用意されていた。さぁ、星が見えるように寝転んでご覧、と促され、素直に寝転んでしまった。間髪入れずに手足にナイフが刺された。子供の柔らかい手足など切れ味の悪い短剣でも力任せに振り下ろせば簡単に祭壇へ縫い付けられる。暴れれば暴れるだけ痛くて、泣き叫び、さらに痛みが増していく。
その時、ヴァンは自分を殺す宗教家と、聞き慣れない音を永遠に繰り返す者たちの愉悦に歪んだ眼差しを月光の下で見た。
「その時助けてくれたのが、僕の師匠とその仲間たち」
「精霊じゃなくて?」
「そう。なんで助けてくれなかった、って後で聞いたら、どうやら僕の血で酔っていたらしい。理の加護を持った血にそんな効果があるとは知らなくて驚いたよ。大きくなってからは【同化】もできるようになって、そういうことなくなったけど」
ツカサはそれを覚えておこうと思った。ラングは基本的に回避を主にしているが、血が流れた場合、咄嗟に精霊に力を借りられない場合があるということだ。ツカサがそう考えていればヴァンは自分の手のひらを差し出した。よく見なければわからないが、薄っすらと傷があるような気がした。
「師匠と一緒にいた魔導士の人が治してくれたんだ。でも、この恐怖と失態を忘れるな、って、両手の傷痕はそのまま。脚は歩けなくなるから、って全部治してくれたんだ」
ぎゅっと握り締められた手は暫くそのままにされ、やがてゆっくりと開かれた。
「ツカサが僕やアルのような経験をする前に、ラングの殺気で恐怖を経験できたことは、幸運だったかもね」
その言葉の真意をどう受け取ればいいのかツカサにはわからなかった。言葉通りでもあるだろう、もしかしたら、怪我を負い、無我夢中で誰かを殺すような経験をしなくて済んだことかもしれない。暗殺者に狙われた時、ツカサは盾にも救われ、遊び感覚で済んでもいた。それが今はとても恥ずかしくてヴァンには話すことができなかった。
「気は紛れた? そろそろ目を瞑ってごらん、眠れると思うよ」
ヴァンの柔らかい声に小さく頷き、体を滑らせて頭の位置を枕に直した。
「ここに居てやるからさ」
「そう、交代でね」
余程心配を掛けたのだな、とツカサは苦笑を浮かべ、とろりと睡魔に落ちていった。
自覚はないが、何度か覚醒して迷惑をかけたらしい。最終的にラングを呼びつけて夢見師の片鱗で深く眠らされたのだそうだ。最初からそうしてくれてもよかったのに、と頬を掻けば、言いたいことがわかるのかヴァンは首を振った。
「体の拒絶反応は無理に押さえ込んではならない。一回でも、二回でも、それを発散したのだという事実があってこそだよ」
透明な水色がじっとツカサを見つめ、頷くのを待った。そういえば、ラングも同じような対処をツカサにしたことがある。泣き、叫び、それをラングはただ沈黙を以てして受け止めてくれた。度合いや種類の違いはあれど、そういうことなのだろう。ツカサの視線に納得の色を確認してからヴァンはにっこりと笑った。
「顔を洗って食事を取ったら、応接室で待ってるってさ。これは忠告だけど、おなかが空いていても、今朝は少しにしておきなね。絶対戻すから」
「そんなこと」
「言うこときいとけよ、マジだぞ。俺もスープ吐いた」
「…わかった」
食い意地の張ったアルの真剣な声ほど、説得力のあるものはなかった。
軽めの朝食を済ませた後、メルファスがこちらにお着替えください、と服を差し出してきてくれた。珍しく服装の指定まであったようで、七分丈のシャツにシンプルなズボンを身に着ける。病院の入院服みたいだな、と思いながら応接室の扉を叩いた。入れ、とラングの静かな声がして中に入った。着替えている間にアルもヴァンもこちらで待っていたらしい。紅茶とおやつを摘まみながら軽く手を上げて挨拶をされた。ラングはここでもフードにシャツにいつものズボンの、ゆったりとした格好で構えていた。手足の動きが見えやすい格好は、毎度のことながら逆に違和感を覚える。振り返る動作の一つ一つもよく見える。
「来たか」
「お待たせ? えっと、何するんだろう?」
「威厳が欲しいと言っていただろう」
お、と目を見開く。ついになめられなくなるのか、とツカサはわくわくとその教えの答えを待った。
「時間が足りないところも、教え切れていないものも多いが、一先ず基本だけは叩き込んだ。眼の良いお前のことだ。時間は掛かるだろうが、いずれ体得できるはずだ」
「もちろん、鍛錬は続けるし、必ず使えるようになってみせるよ。あの、それで、どうすればいいんだろう」
「お前に礼儀作法を教える」
礼儀作法、とツカサは思わず繰り返した。それがお辞儀をすることであったり、胸に手を当て礼を示すことかと問えば、そうだ、と端的なラングの答えが返ってきた。ツカサは思わず叫んだ。
「えぇ、最後の最後に礼儀作法!? 地味過ぎない!?」
「地味なものか、重要な技術だ」
納得がいかずアルとヴァンを見れば、アルはきょとりとしていたがヴァンの方は深く頷いていた。ツカサは不満ではあるがまずはラングの主張を聞いてみることにした。
「なんで礼儀作法?」
「相手はお前の態度を、所作を見る。【赤壁のダンジョン】で見せたはずだ」
確かに、ラングが少し猫背で自信なさげな空気を醸し出しただけで、若い冒険者が引っ掛かってはいた。だがそれは姿勢の問題であって礼儀作法ではないと思えた。それに、言ってはなんだが、日本人としてそれなりに礼儀作法は身についているはずだ。その点をぶつぶつと言っていれば、ラングがブーツを鳴らしながらツカサに詰め寄ってきた。思わず二歩下がり、ラングはぴたりと止まった。
『私がリーマスより優れていたものが、何かわかるか』
『え、いや、わからないけど』
『礼儀作法だ』
足を揃え、右手を胸の真ん中へ。左足で小さな半円を描いて右足の斜め後ろへ。左手を前からくるりとひっくり返して横へ広げ、腰の位置を変えずに上体をゆっくりと倒す。視線はツカサに置いたまま、それが同じ速度でゆっくりと戻され、呆気にとられた。よくわからないが、きちんとしている、と思った。ラングはその反応を確認し、いつものように両腕を下ろして構えた。
『礼儀作法というものは、自らの身分を示すものでもある。礼を取れる者を、貴族が侮るか? 胸を張り立っている者に、冒険者が肩を当てて通るか?』
ラングと訪れたジェルロフ家を思い出した。ラングは冒険者然として対応していたが、その芯に礼儀作法を見たからこそ、貴族であるジェルロフは丁寧だったのか。もちろん、ラング自身の強さにもある程度きづいてはいただろうが、一つの要素だったということだ。それに、ラングは人混みをするすると抜けていく。ラングの立ち方もあったからなのか。言われてみればラングは随所で胸に手を当てた礼や、型の違うそれを披露していたように思う。それを見て眉を顰めた人はいなかった。
「今の、夜会の礼?」
ヴァンが紅茶を手に尋ね、ラングはそうだと答えた。紅茶を置いて立ち上がったヴァンは、ラングとは違う礼をとって見せた。右手を胸の前、手は当てず少し浮かせたまま、左手の指を揃えて腰に当てると右足を引き、腰は折らずにそのまま膝を曲げて腰を落とした。こちらもまた単純ながらピシリとしたものを感じた。
「ははぁ、呼ばれた意味がわかった。スカイの貴族としての作法と、軍人、軍師としての作法を見せろということだね」
「差し支えなければな」
「構わないよ」
ラングは座ったままポリポリとクッキーを齧るアルのことも指を曲げて呼んだ。
「お前もだ。覚えてもらうぞ」
「え、なんで? 俺ガキの頃にちょっとやったし、いいよ」
「黙って立て」
ず、と重い威圧が発され、アルは渋々立ち上がってツカサと並んだ。前に立たされた二人はちらりとお互いに視線を交わし、ラングとヴァンへ視線を戻した。目の前の本日の講師たちは早速作戦会議中だ。
「なにからやる? 多分、求めていることの系統からして、僕は軍人としての立ち方から叩き込んだ方がいいよね」
「話が早くて助かる。一度見せてもらえるか」
「いいとも。背面の動きの確認をお願いしていいかな。同じ方法でいこうか」
「そのつもりだ」
テンポのいい会話に置いていかれてしまう。ヴァンはラングに向かって二回立礼を取ってみせた。前と後ろからそれを確認し、次にツカサとアルに対して説明をしながらそれをやってくれた。真似をすることなど簡単だと高を括っていたのだが、そんなことはなかった。肘の角度が違う、腰が曲がっている、指先が揃っていない、など、あちらこちら指摘を受けて体がぷるぷると震えてしまった。中腰も続くと辛い、右腕に意識を持っていかれると左腕の指摘を受ける。じゃあラングはできるのかよ、とアルが泣きそうな声で叫べば平然とやってのけた。ヴァンは素晴らしい、と拍手した。悔しい、ツカサとアルに火がついて、そこからは必死だった。背中が曲がっている、足を開くな、肩を丸めるな、顔を上げろ、上げ過ぎだ顎を引け、筋肉を意識して動かせ。細かく角度を調整され、途中アルが発狂したりもした。
「なんでこんなこと俺までやらされるんだよ! もうやだ! 俺はやめる! 冒険者なんだぞ! 必要ないって!」
「金級冒険者なんだから立ち居振る舞い見られているのはわかってるでしょ。せっかくならかっこよく生きようよ。アルは身長も高いんだしコツさえ覚えてしまえばかなり変わるよ」
ヴァンが手を替え品を替え語る美味い話にアルはまんざらでもなくなって再び鍛錬に戻ったが、似たようなやり取りが四回はあった。ツカサは普段使わない筋肉を使うことでじっとりと汗をかき、風呂に入りたい気持ちでいっぱいだった。言われた通りに礼儀作法の勉強を続けているが、疲れは疑問と不満を抱かせる。アルがヴァンに食って掛かっている声を聞きながら、ツカサはぽつりと尋ねた。
『本当にこれで、なめられなくなるものなの?』
ラングがシールドの中で眉を顰めたのがわかる。僅かにシールドを揺らしツカサに近寄ると肩甲骨の下あたりを強く押して背筋を伸ばさせ、腹を押して位置を調整、思わず前かがみになりかけた肩を後ろに引いて、前に戻ると顎を掴んで上げさせた。
『明日は今日学んだことをイーグリスの街中と、冒険者ギルドで試させる』
実際に体験しろということか。頷けば顎を上げていた指が放された。
『背筋を伸ばし、胸を張れ、そして顔を上げろ。これが基本だ。簡単だが、効果的、それだけでも人は対応が変わる』
ラングの日頃の在り方を思い出し、確かにそうかもしれないと思った。常に姿勢の良いラングは立ち方が綺麗で、それでいて隙が無い。それをかっこいいと思ったことも多い。
『なめられたくはない、ぞんざいな扱いを受けたくもない。ならば、相手にそうさせる隙を与えなければいい。冒険者としての立ち居振る舞いの奥に培った技術があれば、余程鈍感でない限りお前に一目を置くだろう』
『わかった。鈍感が相手だったらどうすればいい?』
『かかわるな。叩きのめせ。もしくは殺せ。では続けるぞ』
暴論、と突っ込む前に次に進んでしまい、ツカサは諦めの境地で一瞬目を瞑った。ラングは剣などの武器とマントを取り出していつものように装着すると、ツカサにも同じように装備をさせた。
『マントというのは、視覚を利用して相手を引き付けることもできれば、それを使って表現をすることもできる良い道具だ。もっとも視覚的に影響を与えやすいというのはわかるな?』
『うん。ラングのマントは体や装備をわからなくするために効果的だし、振り返る時とか、敢えてマントを揺らしている時もあるよね』
『そうだ。加えて、相手に想像させるための道具でもある』
ラングは内側からマントを掴んで右手を胸の前に、左手を少し前に出して膝を折った。マントの中で礼を取ったのだろうと思い、真似をする。ハッとした。ツカサは今、ラングがマントの中で礼を取った、と勝手に想像したのだ。ツカサの表情に小さく頷き、ラングは左手に持っていたマントを放した。マントがするりと離れ、左手が剣の柄を握っていたことに驚く。もしやとラングの右手を見れば、よろしい、と言いたげにそちらもマントが放され、手元が露わになった。いつの間にかそこには短剣が持たれていた。ラングが礼を取れる人物だとわかっているからこそ、そうだろうと想像した目くらまし。知らなくとも相手が礼を尽くしていると思わせることさえできれば、通じる手だ。
『上手く使え』
『わかった』
双剣とショートソード、短剣、それぞれ長さが違うので、これもまた練習が必要だなと思った。
礼儀作法の講義は遅くまで続き、その日もエフェールム邸でお世話になることになった。普段の鍛錬以上に疲れたのは、きっと頭をよく使ったせいだ。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やいいねをいただけると励みになります。
リアクションあるのは嬉しいですね、いつもありがとうございます!




