4-74:涙の味
いつもご覧いただきありがとうございます。
今でも時々夢に見る。電車の中から突然森の中へ、ぎゅうぎゅうにひしめき合っていた人々がいなくなり、一人だけ放り出された混乱による恐怖。どこだかわからない場所に放り出されると、途方もない孤独感を覚えるのだと、生まれて初めて学んだ。
スマホも圏外、誰にも連絡が取れない陸の孤島。もしこのまま夜になってしまったらどうなってしまうのか。気づけば叫んでいた。自分の悲鳴に混ざるようにしてがさりと草木の揺れる音がして、誰か、とそちらへ縋るように駆けていく。その先にいたのが角の生えた熊で、司は息をすることも忘れ動けなかった。熊に遭遇したら死んだふりがよかったのだったか、いや、それは嘘だったか。なにが正しいのかを判断できず、唇から言葉にならない音だけが短く零れていく。
熊らしきものはぐうっと立ち上がると雄叫びを上げ、その爪で木を殴りつけて破片を飛ばした。司は眼前に飛び散った木くずに悲鳴を上げ熊に背を向けて再び走り出し、追いかけられたのだ。そうして、逃げた先でたまたま遭遇したマクシアのパーティに命を救われた。
その話をラングにはしたことがあった。だから魔獣が怖いのだと言い、ジュマのダンジョンではゆっくりと進むことになったのだった。結局、スライムで調子に乗って先を強請り、コボルトやゴブリンを殺す感触に震える羽目になったことまで思い出した。恥を振り払うようにゆるりと握ったショートソードを軽く振って、深呼吸。魔力を行き渡らせ、すーはーすーはー、呼吸を入れる。
ツカサは目を開く。その前には二メートルを超える大きな熊型の魔獣が悠然と立っていた。
【赤壁のダンジョン】の攻略を始めて五日、【異邦の旅人】はあっという間に三十五階層ボス部屋にいた。地図読みに長け記憶力の良い斥候のラングがいて、アタッカーとして優秀なアルがいて、明かりに不自由せず、魔力残量を気にせずに魔法を使えるツカサがいて、進みが早いのは当然だった。帰りの荷物を気にすることもない【異邦の旅人】は身軽に移動を優先できる。イーグリスウルフの上位版、ラッツルフは二十六階層でしっかりと狩って、その肉質がラングの求めるものであったことは確認済みだ。赤ワインシチューにして味も確かめてあるので、今後、ラングはふらりとこの肉を求めてソロでも来るのだろうなと思った。
さて、目の前のこの状況に戻る。ツカサを前に出して壁際で双剣に腕を置いて眺める姿勢のラングと、頭の後ろで腕を組んで笑っているアルを肩越しに見遣り、正面へ視線を戻した。王者の風格を持つ大熊はじっとツカサの挙動を見守っている。
そもそもなぜこの状況になったのか。ボス部屋を前にして順番を待っている間、ラングが言ったのだ。
「ここはツカサだけで戦え」
ツカサたちの前に一組、後ろにも一組のパーティがあったが、どちらもぎょっとして振り返っていた。まさかパーティ内での嫌がらせか、いじめか、と小声でやり取りされている内容がツカサにも聞こえた。アルは言い方、と呟きながら目元を押さえて天井を仰いでいた。なんでどうしてと尋ねる前に、三十五階層のボス部屋、ボス魔獣は、と攻略本を取り出して確認をする。前の組が入ったら再確認すればいいと思っていたが早い方がよさそうだ。記載を見れば、通常は狼型の魔獣、時折レアで大きな熊型の魔獣が出るらしい。報酬自体は熊の方が豪華、ただ、死亡率も高いと注意事項が記載されている。熊型が出現していた場合は得意なパーティに譲るべし、まで読み上げてツカサは顔を上げた。
「ラングはどっちの魔獣を想定してるの?」
「熊だ」
「レアの方かぁ。俺一人で戦うのはいいんだけど、それはどうして?」
いいのかよ、と前後のパーティから声が聞こえた。また違う意味でひそひそ話をされながらラングの回答を待った。周囲の雑音もラングには響かないらしい。淡々と言葉が返ってきた。
「お前が最初に出会った魔獣は熊だと聞いた。なす術もなく逃げ、冒険者に救われたのだったな」
「あぁ、うん。あの時は本当に死ぬかと思った」
「今はもう、魔獣を恐ろしいとは思っていないだろうが、闇を払う灯を持つ方がいいだろう」
なるほど、それで熊か。攻略本をショルダーバッグに仕舞い、ツカサは頷いた。
「わかった」
あっさりと受け入れたツカサに前後のパーティが奇異の目で見てくる。そんなにおかしなことを言っただろうか。ツカサは眉を顰めて逆に前後のパーティを見遣った。その目がじろじろとツカサの頭の先から足の先まで行き来して、目が合うと苦笑いを返される。ツカサは自身の装備を見直した。灰色のマント、その下にはショートソードと短剣、身に着けた革鎧は良いものだが目立たない。顔も周りの同年代に比べれば穏やかで、そのせいか幼く見えてしまうらしい。結果、ツカサは強そうには見えないのだろう。憐憫の含まれた眼差しにプライドが傷つけられた。
「兄さん、絶対手ぇ出さないでよね。日頃の鍛錬の成果見せてやるから」
ラングを見ながら軋むように声を出せばアルが手の甲で口を押さえながら噴いた。さっとそちらを振り返れば顔を逸らされ、揺れる肩に苛立って二の腕を軽く殴ってやった。わはは、ごめんって、とアルがツカサの拳に耐えながら笑い、それもまたパーティの関係性を知らしめる一助になった。厳しい兄と仲の良いパーティメンバー、虐待ではなく大事にされているとわかり、前後のパーティは苦笑を浮かべながら気まずそうに背を向けた。
暫くして扉がガゴンと開いた。前のパーティが軽く挨拶をしながら隙間に手を掛け、中を見て振り返った。
「なぁ、譲ろうか? 熊」
申し出に驚きながら隙間を覗けば中には大きな熊がいた。会話はすっかり聞かれていたので大熊を目的にしていることも把握されている。ラングを振り返ってどうする、と問えば、腕を組んでからそのパーティへ尋ねた。
「熊の方が報酬は美味いらしいが、いいのか」
「いいよ、俺たちは狼を目的にしてるから渡せるなら上り直さなくて済むし、ちょうどいい。でも、危なくなったらちゃんと弟助けてやれよ?」
「その必要はない。こいつは強い」
ひゅう、と後ろのパーティが口笛を吹いて囃し立てた。前にいたパーティは仲良しだな、とツカサの肩を叩いて揶揄いながら道を譲り、扉へ促された。そうして、扉を閉めて今、ツカサは大熊と対峙しているのだ。
ラングからの指示はない。いつかのボス部屋のように魔法を使うなという制限もない。魔法を使って一撃で仕留めるのもあり、使えるものを全て使い、挑むのも許される。ツカサは過去自分を追いかけたものよりはるかに大きな熊を見上げた。【鑑定眼】で覗けばドルロフォニア・ベアーと出ていた。今までの名称のつき方から、この大熊がジャイアントベアーよりもさらに上位種なのだと理解できる。あの時のミノタウロスも怖かったなぁと間の抜けたことを考えていれば、大熊が再び雄叫びを上げた。長く、全身を叩く振動、ツカサはぞくっとしたものに笑みを浮かべた。
驚いた、威圧だ。魔獣も持っているのだ。それはアルが何度も見せてくれていたものと同じで、発する音に威圧が乗っていて相手の気持ちを砕くものだ。こいつは武人だとわかった。ラングが相手取ってきた魔獣同様、理性があり、知恵があり、技術を持った相手なのだ。そして大熊はツカサを侮っていない。それが嬉しかった。
再び、すーはーすーはー、と呼吸をした。体をゆるりと休ませてショートソードを軽く振り、それから構えた。風の短剣は逆手に持って前に、ショートソードは腕を下ろしていつでも振れるように。
大熊は四つ這いになって間髪入れずに距離を詰めてきた。本当に武人のような動きで動物特有の予備動作というものを感じなかった。わっと眼前に迫った大熊は右腕を振るい鋭い爪がツカサを狙う。魔法障壁は展開されているが、腕とは逆側へ大きく一歩踏み出して避けたのはもはや癖だった。大熊の横を通り過ぎる際に氷魔法を使ってみれば、毛皮が特殊なのか硬いのかずるりとずれたように見えた。ガシャン、バギン、と氷がダンジョンの壁でけたたましい音を立てた。
「魔法防御とかは書いてないけど、毛皮自体がなにか特殊なのかな」
などと検証していれば大熊はその巨体からは想像もできない素早さで体勢を整え、左腕を外に払ってツカサへ追撃を行った。つま先で床を蹴って距離を取る、それを見越してか腕を振った膂力を利用して大熊が向きを変えた。後ろに飛びながら大熊に見据えられ、ぞくぞくとした高揚がツカサの総身を駆け巡った。再び右腕が持ち上げられ、重力を己のものとして振り落とされる。爪の奥、毛に覆われた掌を見据え、ツカサは大熊の懐目掛けて大きく踏み出し、その手首にショートソードを振り上げた。やはり毛皮が特殊らしく切っ先を滑らされた。けれど、多少表皮に傷をつけられて黒い毛が飛んだ。手首や足首、関節の中でもその四か所は柔いのだ。ラングが解体をする際、手首足首からナイフを入れるのはそのためだ。
大熊が懐に入ったツカサをそのまま押し潰そうとするのは当然のことで、ツカサは地面に置いた足で氷を創りだし、大熊の体勢を崩させて足の間をトンネルを潜るようにして通り過ぎ、背後に立った。前のめりに落とされた大熊は勢いよく振り返り、小さな怪我をものともせず再び襲い掛かってきた。そうだ、痛いからと体を丸めていれば殺されるだけなのだ。ツカサも手加減をするつもりはなかった。
「うわあぁぁ!」
魔力を込めたショートソードを振り抜く。いつだったか渡り人の街への道中で獅子を討伐した時と同様に水刃が飛んだ。バガンッと硬いものがぶつかる音がして、大熊は後ろに仰け反った。だが、堪えた。袈裟斬りにしたそれは通常致命傷のはずだが、硬い毛皮がそれを耐えさせたのだ。浅い。腕の延長線のように置いたショートソードには変わらず魔力が満ちている。
ぐふぅ、と息を吐いて一歩、また一歩と近寄ってくるその大熊へツカサは敬意を表した。毛皮で防いだとはいえ最大魔力の一撃だ。浅くついた傷、滲む血のその奥、骨を砕いているだろうに倒れ伏すことはない。ゆっくりと振り上げられた腕を静かに避け、落ちた腕を、肩を踏んで飛ぶと体を勢いよく一回転、遠心力と風の短剣で魔力を利用した一撃がまずは毛を敢えて滑り、それを散らした。ぐぅぅ、と大熊が体を起こし、ツカサを振り返ろうとした。その前に背を蹴って飛びもう一回転。水のショートソードが水刃をその首へ叩き込んだ。
骨の隙間を狙い、毛が、血が、飛び散った。ツカサは大熊の体を蹴った勢いで床に着地し、顔を上げた。
どん、ごろり。重たい大熊の頭が少しだけ転がって、天井を向いて止まり、倒れた体は数秒血の海を広げた後、ざぁっと全てが灰に変わって消えた。ツカサは右手の親指を唇に当て、送るもののいなくなった宙に向かってその手を差し出した。討伐報酬とボス部屋そのものの報酬が現れ、空間収納へ入れて振り返った。やるな、とか、よくやった、とか褒められることを期待していたが、アルは頭を抱えていてそれどころではなさそうだった。
「ほらぁ、ヴァーレクスの影響受けてんじゃんかよ…」
「影響ではなく、元からだろう」
「ちょっと、なんの話? 褒めてよ」
ツカサが不服そうに言えばアルは苦笑を浮かべこっちの話、と誤魔化した。
「すっかり腕の立つ冒険者だな。さすが、金級冒険者」
「問題なくといったところだ。少々遊びが過ぎるがな」
「なんかすっきりしない!」
「まぁまぁ、待ってる奴もいるから次の階層に行こうぜ。お疲れさん!」
雑に片付けられて納得はいかないが、ツカサは階段を降りる前に部屋を振り返った。
あの日、殺されかけた時の恐怖はもうなかった。自分があの時とは違い、戦う術を得たことに感動もあれば、命を奪うことに慣れたのだという自身の変化に改めて驚きもあった。殺そうとするから殺すのだ。殺される前に殺すのだ。そんな殺伐としたダンジョンの摂理に動揺もしなくなった自分を少しだけ悲しく、そして誇らしくも思った。
「生きていくんだ、この世界で。なにがあっても生き抜いてみせる」
綺麗ごとは言わない。ただ、その真実だけを胸に抱いてツカサは階段を降りていった。
三十六階層に降りて少し外れた場所の癒しの泉エリアを選び休憩をとった。ボスの後は戦闘を避けるという基本を忠実に守る。
大熊の報酬は事前の情報通り美味しかった。白金貨が二枚、重厚な大熊の毛皮は鞣された状態でドロップしていて、漫画や映画の山小屋でよく見る熊の敷物のような形になっていた。熊の脂や肝、熊の手など、どこかの土産で聞いたようなものもあって、ツカサはどうしたものかと頬を掻いた。三十五階層のボス部屋自体の報酬は魔石と金貨数枚、それから武器だった。H型の持ち手を握ると垂直に刃が前に出る。拳の先に刀身がくる造形で見慣れないものだ。持ち手は綺麗な金細工がされていて美術品としても喜ばれそうだ。短剣と打ち合わせてみれば硬く、強度に問題はない。鑑定をすればジャマダハルと出た。ツカサは不思議な武器が出たな、と昼食を作っていたラングを振り返った。
「ラング、これ使える?」
尋ねた先で少しだけ間を置いて、あぁ、と短い首肯が返ってきた。どうしたのかと再度問う前に手からジャマダハルを奪われ、ラングは離れた位置に立った。【異邦の旅人】しかいないこの場所で、ツカサとアルは何事かとラングを見守った。
『この武器は斬ることよりも突くことに特化している。鎧の隙間を狙いやすい武器だ』
ゆらりと滑らかに構え、ラングが舞踊を舞うかのようにジャマダハルの技を見せてくれた。深緑のマントが動きに合わせて円を描き、ラングの舞踊はとても丁寧に披露された。斜め下から持ち上げた腕は鎧の隙間を狙ったもので、ビシッと動きを止めた際の拳の突き出しは一点突破を示したものだろう。相手の武器の払い方、突き方、斬り方、一通り技術が収められたそれは両手を下ろしたところで終わりらしい。ツカサにジャマダハルを返し、再び簡易竈の前に座ったラングは少しだけ視線を伏せたのだろう、シールドが僅かに下を向いていた。アルがその様子に首を傾げた。
「どうした?」
「いや、少し思い出していただけだ」
ごとりと鍋の位置を直し、ラングはポットを差し出してツカサに癒しの泉エリアの水を酌ませた。火を起こし、軽く沸いた湯にざくざくと野菜を放り込んで暫く待つ姿勢だ。煮込み料理を作るということは、ボス部屋の後、今回は長く休憩をとるつもりらしい。ツカサは手伝うよ、とその隣に腰掛け、もう一つ簡易竈を置いて火を起こしながら尋ねた。
「思い出したってなにを?」
答えが返ってくるかはわからないが、返ってこなくてもいいつもりで言えば、ラングは感情のない声で答えた。
『父を殺した武器だ。だからこそ、覚えた』
ツカサは言葉を失った。そうか、だからラングはあれほど見事なジャマダハルの技術を身に着けたのだ。相手の技を知ることは、相手への対策を得るということだ。軽い言葉は返せない。ツカサが黙り込んでいればアルがきょとりと胡坐をかいた脛を抱えるようにして座り直した。
「殺し、殺した? なにを殺したって言った?」
「なんでアルもそういう物騒な単語は聞き取れるの」
「ラングがそうやって教えたからだろ」
確かに、ツカサが教えた時も殺す、殺した、という物騒な単語ばかり先に覚え、【真夜中の梟】を殺そうとしたのだった。今ならそれが危機回避のために必要な覚え方だったというのも理解できるが、頭の痛い記憶を思い出して眉間を揉んだ。ラングはその横でさして気にした風もなく、二十七階層で集めた鶏肉を鍋に入れた。ぼとぼと、肉の落ちる音でツカサの視線を呼ぶと防音の宝珠を叩き、ツカサに防音魔法障壁を使うことを要求してそれが張られるのを待ってからラングは話した。
「私の父が、あの武器で、その技で殺されたんだ」
「…っなるほど」
アルは口を半開きにした後、なにかを飲み込むようにして呟き、口を閉じた。わかるよ、とツカサはぎゅうっと肩身が狭そうなアルの腕を撫でてやった。しかし、ラングが素直に自身の過去にまつわる話をするとは思わなかった。ツカサがちらりと視線を向ければシールドの向こうでラングも見ていたらしく、バチリと合うものがあった。
「私も前を向いているということだ。それに、仇の暗殺者はこの手で殺した」
そっか、と短い返事を返した。よかった、とも、さすがだね、とも言うことはない。同意や同情することだけが相手への優しさではないともう知っている。ただ変わらず隣にいて、いつもと同じ態度で居続けることがどれほど難しくて有難いことなのか、ツカサはここまでの道のりで学んできた。そうした点でアルが言葉を飲み込み、沈黙したのも同じことなのだ。ラングはそんな沈黙の中、塩味のスープを作り上げて全員に配った。
スープは美味しかったが、ほんの少しだけ塩味が強く、ツカサはなんだか涙のような味だなと思った。
最後に向けて書き溜めしたいので、更新頻度がもう少し感覚開くと思います。予定では五日に一回とかそんな感じで…。
その間、お気に入りの章やイベントのところを振り返っていただけたら嬉しいです。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やいいねをいただけると励みになります。




