4-63:ハーブのような人
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あら、まぁ。エレナは胸中で口元を押さえ、声が出そうになったのを堪えた。
黄壁のダンジョンが落ち着き、ブリガーディの件が軍の管轄に移った後、商人が一気に動き始めた頃のこと。モニカに付き合って商業ギルドに、商店に赴いたある日のことだった。
あの状況下でも取引を続けた商人はいいが、自衛手段を持たず、足が遠のいてしまった商人は新たに販路を得なくてはならずあちこちで挨拶が行われている。仕方のないこととはいえ、大変な中、それでも取引を続けてくれた人を優先するのは当然の対応。一度切れてしまった縁を取り戻そうと必死な人、やんわりと断る人、もう一度契約を結んでくれる人、商売のスタンスは様々だ。
モニカは卸しに行く側で、石鹸を置いてくれそうな店の紹介を商業ギルドで受けた。その店々に挨拶に来ているというわけだ。実際に持ち込んで見てもらい、そうして気に入れば置くために買い取ってくれる、お眼鏡に適わなければ断られる。そこからさらに上手くいけば定期的に卸すことができる。厳しい現実と向き合う作業だ。こうして頑張る若人を見ていると、ジュマでなし崩しとはいえ店舗兼住居を得られたことが幸運に思えた。あれは石鹸のこともそうだが、街と冒険者からのヨウイチへの償いでもあったのだろう。顔も見たくはなかったが、アルカドスが詫びのように商人を引きずってきていたこともわかっていた。
ふっと思い出を振り払うように顔を逸らした。その視線の先である人物を捉え、冒頭の驚きに戻る。
少しだけ羽振りの良い商人のような服装で、いや、休日の冒険者のようにも見える。周囲の喧騒を楽しみながらゆったりと歩いているのを見て、思わず目が離せなかった。
イーグリスで服を買ったのだろう、周囲との違和感はなかった。向こうは気づいてはいるもののこちらに視線をやらないようにしているので、本当なら知らん顔をしてあげるべきなのだ。
だが、そのまま視線を外すことができずにいれば、向こうが諦めたように小さく息を吐いたのがわかる。ごめんなさいね、と苦笑を浮かべる横顔にアーシェティアが首を傾げた。
「エレナ、どうした?」
「珍しい知り合いを見かけたのよ、ちょっと行ってくるから、先に戻ってて頂戴。今日は疲れたでしょう?」
「お知り合いがいたの? 楽しんできてね」
疲れた顔のモニカとアーシェティアに促され、エレナはまたエフェールム邸でね、と人混みに足を向けた。こちらが人混みに紛れ二人と距離ができた頃、ゆっくりと先導するようにその人が歩き出す。ざわざわと賑わうその中で、目立たず、かといってその存在がなくなるわけでもなく、絶妙に一般人を装っている。いつもするすると人の間を抜けていく人が、他者とすれ違い様、おっと失礼、とお互いに謝りながら道をいく姿は新鮮だ。
カフェに入り、指を二本立てた。許されたかしら、とエレナはその人の後をついていった。
テラスは日差しがきつかったからか、少し奥の日陰になっている席を選び、椅子を引いて待っていてくれた。それに応えて座り、椅子を押してもらった。反対側に腰掛けてメニューを開き、エレナに差し出す。気の利く行動だ。元からそういう人ではあるのだが、こうして見ていると目端の利く商人に思えた。
雰囲気のよいカフェだ。派手な装飾は無いが飾られた花は新鮮、ふわりと顔を打つ紅茶の爽やかな香りもほっとするものがある。風に揺られるレースカーテンは少しだけ自分を特別にも思わせてくれた。
対面でメニューを眺めるその人にそっと声を掛けた。
「ごめんなさい、散策の邪魔をしたわね」
ちらりと窺うように見遣ればこちらに視線は向いていなかったがいつものように小さく首を傾げ、それに瞬きも合わせられる。ゆるりと視線が向いて、不思議な目をしているとエレナは思い、苦笑を浮かべた。いつもの静かな水面のような声ではなく、爽やかな夏風のような声で返事があった。
「構わない、いずれ貴女には見つかるだろうと思っていた。彼女たちに言いふらさないでくれただけマシと思うさ」
あら、とメニューで口元を隠した。雰囲気も違えば口調も、少し声も違う。貴女と呼ばれたのは初めてだった。
「器用なものねぇ…。全くの別人だわ」
「そう見えなくては困る。メニューは決まったか?」
「えぇ、そうね、この紅茶とケーキのセットをいいかしら」
「もちろんだ。すまない、注文をいいだろうか?」
にこりと微笑んで店員を呼べば、ぽっと頬を染めてウェイトレスがやってくる。できるだけ愛らしく聞こえるような声を心掛けたのだろう、ウェイトレスは小さく喉を鳴らしてからメモを手にした。
「いらっしゃいませ、お決まりですか?」
「あぁ、こちらのレディにこのセットを。ミルクや砂糖、ハチミツは?」
「そのままで結構よ」
「あとは、こちらのケーキを。同じセットでいい。頼む」
かしこまりました、とお辞儀をしてウェイトレスはやや上目遣いにうっとりとその人を眺めてから小走りに奥へ行った。まるで違う対応に驚きを通り越して呆れてしまった。
「悪い男だこと、そうして何人のお嬢さんをダメにしてきたのかしら」
「人聞きの悪いことを言わないでくれ。円滑に対応をしているだけだ」
くすくすと笑えば肩を竦められた。少しの沈黙の後、そっと身を乗り出して尋ねた。
「貴方、いつもこうしてこっそり散策をしているの?」
「…必要があったとはいえ、顔を見せたのは悪手だったかもしれないな」
「すごいのね、雰囲気も全然違うから驚いたわ。顔を知らなければ横を通っても気づかないわね」
「そうでなくては困ると言っているんだ」
誰かの目を気にすることもなく、誰かに命を狙われることもなく、ただ楽しむだけの散歩ができるように、細心の注意を払ってのことなのだろう。それは常日頃、この人がつくり上げてきたイメージというものがあるからこそ成せる自由なのだ。それにしても、ここにいると思わせたり、いないと思わせたり、存在感のちらつきというものが目の前に居ながらに感じられる。卓越した技術だ。一度見たら忘れられないような良い男なのに、勿体ないとも勝手に思う。
そう、良い男なのだ。本人のために詳細は省くが、エレナはじっとその人を眺めてしまった。視線に対し、少し居心地悪そうに居住まいを正す姿も珍しく思えて小さく笑う。別人として接した方が都合がいいのだろうと判断して、エレナは、はいはい、と頷いてみせた。
「今の貴方をなんて呼べばいいのかしら」
「通りすがり、少しの関り、もしくは話が合って茶を共にする。それだけの相手の名前を覚える必要はないだろう」
「あら、そういう時こそ名前を名乗り合うものだわ」
「好きに呼んでくれて構わないさ」
一度は四十を越え、内面は成熟した大人であるからこそ、見目若いこの年齢でのその笑みは危険だと思った。青年にはない大人の色気というものが溢れている。エレナがどうということではなく、その人を見ていた他の若い娘たちが危険なのだ。
「貴方、少しは手加減なさいな」
「何の話だ?」
形のいい眉が顰められ、あぁ、もう、とエレナは眉間を押さえた。ちらりと見遣れば何食わぬ顔で空を眺め風に目を細めていたので、気にするだけ労力の無駄だと感じた。こうした態度もまた、いつものあの人とは被らない。たとえツカサに見かけられたとしても同一人物とは思わないだろう。むしろ、その場合いろいろと面倒なのはエレナの方だ。母として接しているだけに、あの父親の件もあって変な溝ができてしまいそうだった。それはいやね、と息子の顔を思い浮かべてエレナは同じように風を追って窓を見上げた。
沈黙が苦痛ではない人というのは貴重だ。随分と昔、こうして二人で夕食を食べて、食事がくるまで沈黙を通したことを思い出していた。あの冬の食事は温かく、そして、改めてこの人の優しさに触れた夜だった。淡々とした態度は相手に誤解を与えることもある。一線引かせるものもある。だが、心地よい距離感を保ってくれるのは信頼にも繋がるのだ。
何事にも動じず、動じたとしてそれを毛ほどにも感じさせない在り方は安心感を与えてくれ、素直に頼ることができた。柔軟に物事を捉え新しいことを吸収することに抵抗のない姿は、自身の狭量さに恥ずかしくなることもあった。
だから、若者たちはこの男に憧れる。懐く。心酔する。
「危なくて悪い男なのよねぇ。いえ、いい男だからなのかもしれないけれど、心配だわ」
「…さっきからどうしたんだ」
あらいやだ、と唇を押さえて笑ってみせれば苦笑を返される。口元の微かな皺は大人の魅力もしっかりと湛えていた。事情があるとはいえ、これで自分より年上なのだから許せない。
「おまたせいたしました」
先ほどとは違うウェイトレスがケーキと紅茶のセットを運んできて、それをゆっくりと、丁寧にセッティングしていく。ちらりとエレナを見て、親子か、商売の相手か見極めようとしているのだろう。少しだけ揶揄いたくなったが、先手を打たれた。
「本当にハチミツはいらなかったのか? おかあさん」
まぁ! と笑いださなかったことだけは褒めてやりたい。じろ、と睨んだはずが目が笑ってしまった。
「えぇ、いつもハチミツなしなのは知っているでしょう?」
「親孝行なんですね」
トレーを手にふふ、と笑いかけられ、その人はにこりと微笑んだ。
「買い物に行った妻に置いていかれてしまってね、こうしてティータイムに付き合ってもらっているんだ」
「あ、あら、そうなんですね」
とてもやんわりとお断りを告げて、さぁ、いただきましょう、と促され、そうね、とフォークを手にした。ウェイトレスはごゆっくりどうぞ、と教育の行き届いた会釈をしてふらふらと立ち去っていった。
「本当に悪い人、かわいそうだわ。それに誰がおかあさんなのよ」
「悪い男だというから追い払ったんだ、善意だ」
もう面倒になったのでフォークでケーキを刺した。イーグリスのダンジョンでとれるカカオという豆を使ったチョコレートケーキだ。黒くしっとりとした生地の上にぽふりと生クリームが乗っている。一口いただけばほろ苦い香ばしさの後に甘味が広がり、くどくなく、後味は苦みが勝って舌の奥でふうわりと良い香りがした。焦げを感じるような不思議な香りが息となって抜けていく。紅茶をつっと含めば、馥郁たる二重奏がこれまた深いため息になった。
「美味しいわね」
「あぁ、美味しい」
その人は白い生地にたっぷりの生クリーム、赤いイチゴがちょんと乗っているケーキだった。ぱくりと食べ、紅茶を飲み、本当に美味しそうに食べている。その様子が可愛く見えるから困る。
「貴方、甘いもの好きよねぇ」
ホットワインにもベリーやハチミツを好んで入れるのはそういうことなのだ。肯定も否定もせず紅茶とのマリアージュを楽しんで、その人はイチゴを掬った。
「ここは、美味しい食べ物が多いことだけは、困る」
「あぁ、そうねぇ。特殊だわよね」
「…帰った時に、それだけは惜しいと思う」
「故郷はどうなの? 甘味」
そうだな、とまた一口ケーキを食べてから話してくれたところによると、この人の故郷ではシチューなどの煮込み料理や焼き物は多いが、甘味はハチミツが主で、あとは果物に頼っているという。砂糖は高級品、庶民は特別な日のお祝いなどに、頑張って手を伸ばすものだそうだ。ベリーや甘い干しブドウなどはちょっとしたご褒美に持っておくようなものらしい。なにせブドウはワインになる。日持ちし、年を通して楽しめる嗜好品になるのだからそちらに持っていかれやすいのだ。品種により干しブドウにしてもえぐみが強いものもあり、それを昇華し、生かすなら確かにワインだ。そういうわけで、この場所はかなり至福らしい。
味わうようにしてケーキを食べ終え、ふむ、と紅茶を飲み切って、そっとメニューに再び手が伸びた。
「悪い、もう一つ付き合ってほしい」
「私はもう十分だわ、紅茶のおかわりだけにするわね」
「わかった。すまない、追加を頼みたいのだが」
傷心のウェイトレスにエレナが食べたケーキと薄焼きの生地を何層にも重ねたケーキを頼んで、その人はそれもぺろりと食べてしまった。
「よく食べるわねぇ」
「たまにだからな、こういう時くらいは食べる。男一人、愛らしい店には少し入りにくいんだ」
「ならまた付き合いましょうか?」
「そうだな、それもいい」
軽く言ったことで、それが約束だとは思っていなかった。ふふ、と笑ってじゃあまた、と店の外で別れ、エフェールム邸でいつものあの人に会って、泡沫の夢だったのだと思う程度には現実味のないひと時だった。
ゆっくりとあの日のことを思い出して、エレナは目を開く。
怪我を負って戻ってきたらしい男連中が束の間の休息をとって【黒のダンジョン】へ出立した。また勝手に決めて勝手に死地へ行く。
【異邦の旅人】を抜けたことをはっきりと釘を刺され、頬を叩くことも許されず、もし死んだとしたら殴れなかった憤りを抱え、その苛立ちを以てして生きろということなのか。心残りを理由に生きる道の辛さなど本人が一番わかっているだろうに、残酷だ。一目見て弱っているのが知られてしまうほどなのかと思うと、悔しかった。痩せたな、などと言われなければこの手はあの狙いをつけやすかった頬に届いていたはずだ。一瞬で見抜かれた。そういう男だとわかっていたのに、改めて悔しい。
必ず生きて戻ってきなさい、と声を掛けさせなかったあの後ろ姿が優しくて冷たかったことは、一生忘れてやらない。
【黒のダンジョン】から【異邦の旅人】が戻った。そして、事変は終わったにもかかわらず、二日休んで【赤壁のダンジョン】にいくと落ち着きのないことを言った。モニカのことをどうするのかと思っていたが、そこは彼女が自らの手で掴み取っていたことに安堵した。語り明かした翌日、ツカサとアルは引き籠って体を休めろと言われ暇を持て余していた。
それを苦笑を浮かべて見ていれば、エレナはモリーンに声を掛けられた。曰く、あのカフェで待っていると、と伝言を預かったらしい。
暫くなんのことかわからずに考え込み、あの泡沫の一幕を思い出した。
「そうね、言ったことは守る人だったわ。ありがとう、それだけで十分通じるわ」
お辞儀をして下がっていくモリーンを見送り、ツカサにも、モニカにも、アーシェティアにも、アルにも見つからないようにそっとエフェールム邸を抜け出した。もしかしたら、このためにあのおかしな指示をしたのだろうか。
歪みの生きものの出現で崩れた石畳や歪んでしまった柱などを直す音があちこちからしていた。住民は挫けず、軍人が、魔術師が協力して大地をならし、整え、風に力を借り、魔法で支えながら共同作業が進んでいた。人の強さだ。壊れたならば作り直す。生きているのならば動き続ける。そうして何度も立ち上がってきた人々の営みが今ここに繋がっているのだ。
そんなふうに感慨深いなにかを感じていれば、目の前にその人がいた。今日は冒険者の風体だ。一瞬誰だかわからず通り過ぎ、こほん、と咳払いされて振り返り驚いてしまった。
「お待たせしたかしら」
「いや、今来たところだ、というべきだろうな?」
ふふ、と笑った。以前とはまたがらりと雰囲気が違う。品の良い商人風の空気はどこにもなく、ちょうど銀級に上がったくらいの、余裕を持ち始めた冒険者そのものだ。
「まだ歪みの生きものは時々出るそうですから、護衛をさせていただきます」
「そういう設定ね、わかったわ」
胸に手を当て少し雑な冒険者の礼を受け、もうなにもかもが面白くてエレナは笑ってしまった。先日のカフェから少し歩いて別の店に入り、席までエスコートを受けた。メニューを開いて差し出され、本当にできた男だと思いながらエレナはそれを開く。
「今日はいくつ食べるの?」
「まずは一つ食べてから決める」
「パンケーキ、美味しそうね」
「あぁ、三枚か、悪くない」
ふふ、と声が零れる。至極真面目にメニューを見て文字を追っているその顔が、あのシールドの中にあるとは思えなかった。あまり見ていても文句を言われるだろう、エレナもメニューに視線を落とした。
またウェイトレスを多少ダメにしながら注文を済ませ、対面でその人は落ち着かない雰囲気を装った。先日の余裕ある商人の欠片はどこにもなく、女性の多いカフェに居心地悪そうな様子がよくわかる。手を組んで口元を隠し、足先が落ち着きなくぱたりぱたりと音を立てる。ウェイトレスの通る気配に視線を取られる。そうした仕草がカフェに不慣れな冒険者をつくりあげていた。
釣られ、エレナもつい本気で言ってしまった。
「少し落ち着きなさいな、冒険者が甘いものを食べるのだってよくある話よ」
思わず出た言葉にエレナは自分でも驚き、目が合って小さく笑い合う。よっと体を起こして椅子に座り直しリラックスした姿勢で肩から力を抜き、その人は首を摩った。
お待たせしました、とパンケーキが届いた。ふわふわのパンケーキが三枚、ホイップクリームがたっぷり、ベリー類が散らばっていて見た目も綺麗だ。ことんと置かれた皿の上でふるんと揺れるパンケーキから香ばしく甘い香りが漂う。お好みで、とダンジョンでドロップするシロップが添えられ、紅茶が最後に置かれた。ごゆっくりどうぞ、と下がるウェイトレスを見送って、二人でいただきます、と声を揃えた。
まずはそのまま、上に載っている生クリームと一緒にいただく。あんぐと大きな口でパンケーキを頬張る成人男性も見慣れると可愛く思えるのは、年だからだろうか、とエレナは一瞬遠い目をした。いや、きっとなんだかんだ所作が綺麗だからなのだと思うことにした。エレナもぱくりと一口、ふわっとした生地はほんのりとけるようなしゅわりとした食感もあった。外の香ばしいカリカリしたバターの風味、噛まずにぷつぷつ潰れていくパンケーキの柔らかさが口内を満たし、じゅわぁっと卵とミルクの優しい風味が抜けていく。
ちらりとお互いに目を合わせ、ふっと笑った。美味しい。これにベリーを載せて食べてみる。きゅっと引き締まる酸味とベリー独特の爽やかな香りが相まってこちらも良い。
ついとシロップをひと回し、真似をしてひと回し。ダンジョンで出るメープルシロップというものだ。シロップがじゅわりと滲んだパンケーキを切って食べれば、また食感が変わる。じゅわぁっと蜜が溢れ口の中が甘さの洪水になる。鼻を抜けていく甘さに混じるシロップの少し香ばしい香り。最後にじんと苦みが残るのがまた堪らない。
口の中の幸福が終わればそっと紅茶を迎える。すぅっと茶葉の香りが吹き抜けて、さぁっと綺麗になった。
「美味い」
「えぇ、美味しいわね」
二人はあっという間にパンケーキを三枚食べきってしまった。エレナはすっかり満腹だったが、その人はまたメニューと睨めっこを始めた。
「よく入るわね」
「たまにだからな。毎日は食べられない甘さだ」
だとしても、パンケーキ三枚もそれなりの量だ。再びウェイトレスに声を掛けてエレナの紅茶と自分のケーキを頼み、ふぅ、と息を吐く。その姿に多少の疲れを感じ、身を乗り出した。
「さすがにお疲れかしら? 甘いものがほしいのもそのせい?」
「連日連夜、奴ら容赦なく連絡をしてくるからな。もう関わり合いたくないとも言っているのだが」
誰のことかと首を傾げて問えば、すいと指がヴァンという名を書いた。あぁ、とエレナは身を戻した。機密に触れない程度話を聞けば、今後の立ち回りについてどうするつもりだと聞かれているのだという。故郷に帰ることは決まっている。その時期について神から預かった伝言、それまでに何をするのか、それは所在を把握しておきたい軍人からすれば当然の質問でもあった。わかっているからこそ、放っておけと言いながら律儀に対応しているのだろう。
「でも本当にどうするつもりなの? 帰る時期も聞いてないわよ」
「新年祭の少し前になりそうだ。時間を合わせるらしい。それ以前でも以降でも駄目だと言われた。詳しい日程はセルクスが直接伝えに来るそうだ」
「そう、じゃあ、氷竜の月の最後の方かしら。結婚式はちゃんと居られるのね」
「あぁ、雪花の月の後半だったか。風から聞いた。まだ正式な誘いは受けていないが約束は守るさ。ギルドラーだからな」
ふふん、と少しだけ得意げな様子で言うのでまた笑う。いつものシールドの姿も、先日の商人の姿も、中堅の冒険者の姿も、全てこの人なのだろうが、それぞれの違いが間違い探しのようで面白い。まるで料理に使うハーブのように、場面と用途によって添える香りを変えるかのようだ。
会話が止まったところでタイミングよくケーキと新しい紅茶が届いた。チーズを使ったケーキに、リンゴのタルトだ。チーズのケーキがいたく気に入ったらしく最後の一口は大事に食べていた。リンゴのタルトは少し甘すぎたようで紅茶の減りが早い。ラングならどちらが気に入ったかも相手に悟らせないだろう。またゆるりとした時間が流れた。
「あなた、奥様とかはいなかったの?」
その人の故郷のギルドラーがどのような冒険者を指すのか、エレナに正しいことはわからない。けれど、人と接することの多い冒険者だからこそ、恋もまた多い。その人はゆっくりと椅子に背を預けた。
「別に隠すことでもないが、守れなくて、死なせてしまった」
「…そう、そうだったの」
そっと手を伸ばして温もりを分けることはしない。それは相手を酷く傷つけることもある。守って死んだヨウイチと、守れなくて死なせてしまったその人の大事な人、どちらが苦しいと比べることはできない。ただ、ここにいるのは自分を守るために夫を失った女と、守れずに妻を失った男がいるだけだった。故人を偲ぶことくらいは許してほしい。
「どんな方だったの?」
「吟遊詩人だった。女一人、世界を渡り歩くことを生業に、詩を歌って、自由に生きていた」
自由だからこそ歌の実力も技量も求められる。それに応え、魅せ、各地の詩を覚え、時に王侯貴族の前でも歌うような腕前だった。出会いを聞けば、酒場で歌っていた女を酔っ払いから守った、というとてもありがちな出会いだったという。それ以上は沈黙を貫かれてしまったので語る気はないらしい。最後死ぬ時まで話すのは嫌なのだろう。どれだけの時間共に過ごしていたのかはわからないが、大事な思い出なのだと察せられた。
「ままならないわね。ただ幸せになりたいだけなのに、生きることはどうしてこんなに辛いのかしら」
幸せになりたい、ただそれだけじゃねぇかよ、と叫んだ声が耳に蘇る。
「誰かの幸せを邪魔するものというのは存在してしまうものだからな。おかしな話だとは思うが、片方が幸せならば片方は不幸せになる。秤が並ぶことはないのだと、師匠に言われたことがある」
「厳しい人だったのね。綺麗事を言わない現実主義だったのかもしれないけれど、弟子に夢も持たせないのは徹底したものを感じるわ」
弟子であるツカサに対してもそのスタンスを貫くその人の源流と、裏付けられた経験に触れ、エレナはそっと紅茶を持ち上げた。
「いつか誰かが、貴方の傷を癒してくれることを心から願っているわ。私以外の誰かがね」
あぁ、と短い返答を得てお互いに紅茶を一口。ん? とその人が首を傾げた。
「今、私は振られたのか?」
「さぁて、どうでしょうね」
反応にくすくすと笑っていれば、仕方なさそうな優しい笑みを浮かべ、敵わないな、とその人が囁いた。
本年も旅路にお付き合いいただきありがとうございました。
新年はお休みを頂戴し、次回の更新は2025/1/6となります。
また来年も引き続きよろしくお願いいたします。よい新年祭をお迎えください。
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