4-58:辿り着いた軌跡
ごっ、と風が吹いた。アルがその槍で開いていた肉壁が、風の触れた場所からビキビキと凍りついていく。ツカサの魔力に乗ってマール・ネルの力が行き渡る。迫り来る肉壁はぐぐっとその場で動きを止めた。
さっとラングとヴァーレクスが足元を確かめた。少しざらつく氷の表面に踏ん張れると瞬時に判断、ぐっと腰が落ちて全身に力が入る。黒い水が押しやられ末端が凍り、こちらもまたラングとヴァーレクスが飛び出して砕いていく。開幕に比べれば随分と減った。
シュンは泣き叫んだ。
「なんなんだよお前ぇ! その力はなんだよ! あの時もそうだ! あの時だって」
あの街の外でもそうだ、魔法が急に使えなくなった。キフェルへの道中でもそうだ、あの時こいつは後ろに強い奴を二人も。二人も。待てよ、あの二人は、今もいるのか?
ある程度減ったまだらの中のいくつかがぎょろりと動いた。
「不味い、気づいた!」
もう少し削りたかった、こちらに気を向けておきたかった。ぐりんとシュンの首が後ろを向いて、ラングとアルを捉えた。
「お前、オマエらもいたのかよぉ…! 忘れてないぞ、あの屈辱!」
黒い水が矛先を変えて二人に槍を剣を向けた。肉壁を押さえるためにツカサの魔力に力を乗せたマール・ネルはシュンへあまり気を向けられないらしい。ヴァーレクスのタルワールがまた不意を打ってシュンの首へ振り抜かれるが、ガキンと弾かれて舌打ちをする。シュンは振り返りもしなかった。
「ヴァーレクス、こっちにきて!」
ツカサが叫べば一応は来てくれる。思ったより素直なんだよなとやけに冷静に思いながら、タルワールをまた確かめている男へ言った。
「時間がないから説明は省くけど、この面子の中で剣が届くのはラングだけなんだ。あんたも言ってただろ、ラングを温存すべきだって」
「言いましたがねぇ、いずれ斬れるのではないかと期待せずにはいられませんよ」
「あんたの技量はわかってる。悔しいけどすごい。それでも通らなかったのはヒトの剣だからだ!」
バシンッと魔法障壁に攻撃が当たる感触がした。これは攻撃の余波だ。アルが黒い槍に弾き飛ばされて魔法障壁がそのダメージを耐えたことを感じ取る。元々ここに駆け込んできた時、アルは怪我を負っていた。合流直後、怪我は治したがそれまでに血を流しながら動いたせいで精彩を欠いているのだ。くそ、と悪態をつきながらアルはもつれた足をラングのカバーで立て直した。まだ黒い水は多い。覗いたシュンの目のまだらも、多少減ったが健在だ。
ツカサはここから一歩も動かず、この部屋を封じ空間を確保する覚悟を決めた。あの二人が死ぬまで、きっとシュンはもう自分を見ないだろう。ツカサ以上にあの男のプライドを砕いたのは、恐らくあの二人なのだ。
ツカサは隣の男へ言った。
「ラングとアルの援護を頼む。あんたなら、立ち回れるだろ」
ヴァーレクスは暫くツカサを横目に見遣っていたが、ふいと視線を前に向けた。
「仕方ありませんねぇ。肩の礼に一つ、協力しましょう」
ひゅん、ぱしっ、とタルワールを手に馴染ませてヴァーレクスはツカサの隣から駆けていった。アルへ向かって伸びていく黒い槍をそのタルワールで横から斬り払い、庇われて驚いた顔の男を蹴り飛ばしツカサの足元へ転がした。その勢いを利用して飛び、どしりと肩を当ててきたヴァーレクスに、ラングは素直にイラッとした口元を見せた。それを押し返して双剣を構え直す。
「なんの真似だ」
「悪くない気分ですよ、パニッシャー」
ひゅぱっとお互いが剣を振るい、向かってくる黒い槍を斬りながら、ラングはシールドの下で怪訝な顔をしただろう。ヴァーレクスは口元をにんまりとさせて言った。
「いえ、なんでもありませんよ。参りましょうか」
「まぁいい、任せる」
背中を預けたくはないが預けざるを得ない二人は、一度背中をどんと当ててそれを合図にして再び立ち回りを開始した。
アルは魔法障壁の中で少しだけ膝を突いた。ラングとアルに対しての何かがあるのだろう。ツカサには目もくれずにアルがいるところにばかり黒い槍が飛んできて、ツカサはマール・ネルを握り締めたまま魔法障壁の展開も心掛けた。
頭の奥が少しずつチリチリと焼けるような感覚がした。武器に選ばれたわけではない使用者にも負担をかけているらしい。アッシュが言い損ねていたことを置いておいても、こういった副作用があるからこそヴァンは進んで提案をしなかったのだとわかった。ヴァンはツカサが【変換】を使用し倒れる場面にも遭遇している。決して死なせたいわけではない、使わなければそれに越したことはない、と考えたのだろう。提案するまでのヴァンの苦悩が想像でき、なぜ早々に最終武器を渡さなかった、などとくだらないことを考えてごめん、と胸中で呟く。厳しいけれど、あの人も優しいのだ。
マール・ネルからの心配の声に、大丈夫、と小さく返した。アルはその状態を横目に見遣り、耐える勇者を心配するのは戦士の恥、と置いておいて、別件を尋ねた。
「ツカサ、血ってどうにかならないのか」
「創れないって習った。血は命だからって、シェイさんが言うんだからたぶん無理。【変換】で変えるにも、何を変えればいいのか、そもそも、今、余裕ない!」
「まじかよ、だよなぁ! クソ!」
何度目かの悪態をついてアルはごそりとポーチから小瓶を取り出した。あれはラングから使いどころを間違えるなと渡されていたものだ。
「わかってんだよ、今なんだよ、だけど生理的にきついんだって…!」
ぶるぶると震えながらアルはきゅぽりと栓を抜いた。それがなんなのかを問う前に、シュンの雄叫びに意識を呼び戻された。
ラングは自身がシュンの敵視を集め、ヴァーレクスに黒い水を斬らせる方針で動いてくれたようだ。随分減っていた。あと二百人いるかどうかだろう。
歴戦の冒険者たちと戦闘狂は既に察しているかもしれないが、後で話さなくてはならない、謝らなくてはならない。あの黒い水が全て、誰かの命だということを伝えなくてはならない。
恐らく、一つの生きものとして、一応の神として創られたシュンという自我を持つ依り代から、溢れた命が行き場を無くして縋りつき、殺される恐怖に本能で抗っているのだ。もういい、生まれなさい、というイーグリステリアの行動が不完全なままここに存在させたのだろう。それが吉と出るか凶と出るか、ツカサは吉だと考えていた。
黒い水はいくつもの名前が重なってノイズのようになっている。文字が見えない理由も、ノイズになっていた理由もわかった。バラバラになった魂の欠片だったからなのだ。
目の中にあるいくつもの目、色を変え形を変えそこにあったものが入れ替わって消えていく。シュンを殺してもまた誰かがその依り代の主導権を握れば、戦況が変わる。少なくとも知っている相手を敵に据え置く方が対処はできる。激情型で、【異邦の旅人】と個人的な因縁のあるシュンだからこそ、今戦えるのだ。
ツカサはこうして命の成れの果てを見たからこそ、魂を輪廻に還す神がいる意味を知った。この黒く溶け合った命たちが輪廻に還れるかどうか、それは神のみぞ知る。
「いらねぇよ、いらねぇよ、俺が輝けない世界なんて。もう、全部ぶっ壊してやる! みんな死ねぇ!」
ぶくっ、と黒い水の一部が膨れ上がった。オーリレアの外であった、命を燃やす攻撃が来ると理解した。魔法を止めなくては、動きを止めなくては、マール・ネルと即座に相談をする。この空間を保ちながら、片手をシュンへ回せるか。ごめんなさい、と回答を得てツカサは魔力を全放出した。
爆発を乗り切れるだけの魔法障壁を各自へ展開、壁に展開していたマール・ネルの力をこの空間全体へ回す。全ての動きを少しずつ封じる算段だ。頭の奥の熱が増していく。ぶつっ、と何かが切れる音がして鼻血が零れる。構っていられるかその程度どうということはない。だがそれでも、時間がない。
待ち針をいつもなら指で飛ばすが、そんな悠長なことをしている暇はない。目視でここ、とあたりをつけて魔力で作った待ち針を刺す。大きな塊ならば無理だろうが、一つ一つの魔力、命ならばツカサの方が上回っているだろう。
爆発しそうなところからふつ、ふつ、とそれが収まっていくことにシュンは自分が受けたものを思い出し、再びツカサへ振り返った。
「テメェ、次は何をしたぁ!」
「なんだろうなぁ! 教えるわけないだろ!」
指向性を持った爆発が待ち針の速さを越えてツカサを襲い、魔法障壁にびりびりと振動が走る。この余波だってきつい。魔法障壁外にいる二人にも衝撃が走るのがわかる。
「ごめんな、一番無理させた。行くぞ、ラング!」
アルは隣でごくりと喉を鳴らし、小瓶をポーチに仕舞い込んだ。ぐいっと口元を拭い、吐きそう、と言いながら魔法障壁を飛んで出た。
「待たせたな、こっちを見ろ!」
アルが叫べばシュンは鼻で笑った。ボッと爆発した一部の衝撃がアルを襲う寸前、その槍が音を置いて振り抜かれた。槍の軌跡はそのまま黒い爆発を斬り開き、海を割ったようにして真っ直ぐにシュンへの道を創る。いつの間にかアルの背後に回り込んでいたラングがその道を駆けていく。残った黒い水、黒い命をタルワールで刻み、ラングの行く先を邪魔するものはヴァーレクスが斬った。
「来るなよ! 卑怯だぞ三人がかりで!」
ラングが辿り着く前に黒い波が押し寄せる。ツカサとマール・ネルの力で動きが鈍り、ヴァーレクスとアルが再び道を創り直した。
「もしや、数えられていないのは私ではないでしょうねぇ?」
黒い水を斬るついで、下から振り抜いた剣でシュンの眼前にそのタルワールを見せつけ、ヴァーレクスがぎらりと目を光らせた。シュンはその男を見て一度歯を食いしばってから叫んだ。
「お前、護衛の癖に何してんだ! こっち側だろ!」
「もう違いますのでねぇ」
振り下ろされたタルワールはやはりその刃をシュンへは届けられなかった。何かの防御壁を受けて弾かれる様子にシュンは勝ち誇ったように笑った。
「雑魚が。俺に剣は通らないらしいなぁ」
「試してみよう」
ふわっと音もなくヴァーレクスの陰からラングが姿を現しナイフを振った。咄嗟に黒い槍がシュンの身を守り、ラングは手を弾かれたかのようにナイフを手放す。わざとだ。ツカサは気づいた。黒い水がそれを奪い取り、嘲笑うように揺れた。
「ざまぁないぜ、他の武器も貰ってやる!」
「命、なのだな?」
ラングが確かめるように尋ねた。振り返りはしないが、ツカサは自分に向けられたものだとわかった。
「お前が気に掛けるのならば意味があると理解している。手応えからしてもそうだと判断したが、どうだ」
「そうだよ」
「十分か?」
「十分すぎる」
ラングはゆるりと指を動かした。釣りをするように腕をぐぃっと引けば、黒い水の中にナイフがあるのがわかった。鋼線を巻いておいて、こうすることで長く持たせるつもりなのだ。
「形見なのでな、そのままくれてやるわけにはいかん」
「させるかよ!」
シュンの嘲笑に合わせて黒い水がさらにナイフを引き込んでいく。僅かな間をおいて、黒い水はびくんっ、と震えた。ツカサは抵抗を見せた部分へ待ち針を刺していく。あぁ、嫌な手段だ、けれど確実だ。
短い時間の綱引きだった。黒い水がぷくりと膨れ、地面に叩きつけた水風船のようにバシャバシャと割れていく。ぎょっとしたシュンはその身を仰け反らせた。
「なんだ!?」
「どうした、返してもらうが構わないか?」
「お前か!? ツカサか!? 誰だよ!」
シュンはナイフを離せばいいのか、掴んだままがいいのか迷いを見せた。最後には手放したが、それはシュンにとっての運命の分かれ目だった。
ラングがひょいと鋼線を引いて回収した物。ジョーカーのナイフ。それの意味するところは毒だ。草原で見たその威力、剝き出しの魂に効くかどうかは賭けだったのだろうが、ラングは行動で結果を手に入れた。
毒が回り命が消えていく。怯え、震え、困惑し、状況を正しく把握できない声が響き渡る。いくつかの魂は解毒魔法を使える者だったのか抵抗しようとシュンへ縋るようにその身を寄せた。だが、ツカサが許さなかった。待ち針で魔力を封じ、解毒魔法をシュンに与えようとするのを防いだ。そうして黒い水は四人の見守る中、シュンの叫びを伴奏に全てが床に広がって動かなくなった。
ラングは顔色一つ変えなかった。そうするべきだと判断したからそうした。それだけだ。
「なんで、寒い、なんだったんだ、どうして」
「お前が誰かを頼ることを知っていたならば、心広く受け入れていたならば、この結果は得られなかった」
両腕を抱えガタガタと震えるシュンに対し、ラングが双剣を手にゆるりと近づいた。
「お前が冷静であったならば、立場は違っただろう」
「なに、言って」
「感謝するぞ。お前がお前自身を人だと思っていたからこそ、こうすることができた」
哀れなほど体を震わせるシュンは、たった一対だけ残った黒い瞳で縋るようにラングを見ていた。目の前の表情の見えない黒いシールドが、トーチの明かりの中光を背負って黒く映るその姿が、シュンにはどう見えていたのだろう。
すぅ、とラングの静かな呼吸が聞こえた。
『フィオガルデ国属レパーニャの街、パニッシャー・ラングが汝へ告ぐ』
つ、と処刑人の腕が持ち上げられた。
『無知なる魂よ、汝に課せられた運命を終わらせるために、死神としてお前の安らぎとなろう』
「なに言ってんだ、おい、ツカサ、助けろ、助けてくれよ! 同じ日本人だろ! 俺、死にたくない! 死にたくない! 幸せになりたい、ただそれだけじゃねぇかよ!」
ツカサに、アルに、ヴァーレクスに、そしてラングに視線をやって、シュンは最後に這いつくばって逃げ出した。ツカサは目を逸らさなかった。
『己の生き方の責任を、その命を以て贖うがいい』
いっそのこと優しい剣だった。感情を持たない剣は美しい線を描いて、シュンに苦しい思いをさせなかった。ぽんと軽く放り投げられたボールのように放物線を描き、重い音を立てる前にざぁっと白い粉になって消えた。毒で死んだ黒い水もしゅわしゅわと音を立てて泡立ち、消えていった。
一瞬、この戦いを振り返ってみれば、激しく、ドラマティックな戦いではなかった。一つ一つやれることをやって、やるべきことを成しただけの戦い。見聞きした人によっては卑怯と罵られる方法で勝利を掴んだようなものだ。それでいい、そもそも戦いに綺麗も汚いもないだろう。ツカサは感涙を零すことも、仲間と抱き合って無事を喜ぶこともしなかった。
終わった。いつだったかそう思い、ソファに深く背を預けたことがあった。だが黙祷を捧げる暇も、勝利を喜ぶ余裕もない。
周囲からガラガラという崩落の音が響き、アルが呟いた。
「不味い、崩れてるぞ。シェイたちは?」
「外にいる。魔力を感じなくなった」
「そうか、ならいい。さてどうする」
ツカサはティリ・カトゥーアから送られてくる魔力が消え、シェイたちが離脱したのだとわかった。
イーグリステリアも、シュンもいなくなったこの場所は、もはや持たせる者もいないのだ。ツカサとマール・ネルが押さえているからこそ今の形を保っているが、その外側はすでに何でもなくなっていた。氷の向こうに闇だけが広がっている。理も曖昧なダンジョンに成り損なった、何かの体内だった場所。飲み込まれればどこに放り出されるか、そもそも生きていられるかもわからない。
ラングは素早く帰還石を取り出した。
「ツカサ、負担をかけてすまんが、ダンジョンに変えられるか」
「やる」
ここだけをダンジョンに変えることができれば帰還石が機能するだろう。マール・ネルの力を解いて一瞬のうちにやらなければならない。今までの集大成だな、とツカサは一度深呼吸をしてから頷いた。
「俺のタイミングでやるよ」
「全員寄れ、互いにどこかに触れていろ」
ラングはツカサに、アルはツカサとラングに、ヴァーレクスはラングの肩を掴んだ。
「いくよ」
マール・ネルと息を合わせ、解いた。凄まじい速度で迫って来る闇を前にツカサは自分の周囲の空気を伝いダンジョンに【変換】した。悠長なことを考えている時間も無いのだが、ふわっと四人の周りの空気が癒しの泉エリアのような温かさを持った。
途端、ダンジョンのこどもが現れて牙を剥いた。愛らしいこどもの顔が割れて大きなスライムのように広がって飲み込もうとしてきた。
そうだよな、お前も生きているんだもんな、生きていたいよな、とツカサは冷静にもう片方の腕を向けた。ラングの静かな【帰還する】が聞こえた。
「ごめんな」
ばつん。光が消えた。




