4-57:くろいいのち
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「どういう状況だ」
震えるマール・ネルをなだめるように握り締めたツカサにラングが問うた。
「マール・ネルと支点を押さえてる感じ。すごい抵抗を受けてる」
イーグリステリアの叫びによって、ここで育てられていた神とやらが生まれそうなのだ。ぐぐっと力を込めて床を突く杖は必死にそれを抱え込んで押さえているようなものだ。場違いにツカサはそっと呟いた。
「わからないことがあるんだ」
ラングが微かにシールドを揺らした。
「なんで誰かに背負わせようとするんだろう」
半神には成れても本物の神には成れなかったイーグリステリア。短くても幸せな一生というものを探せなかったのだろうか。わかっている、それができなかったからこそ、今こうしてマール・ネルと押さえているものがここにあるのだ。
なぜそれを言うのかはわかる。自分ではどうにもならないからこそ手放すのだ。想いを託すのだ。
ピンチヒッターでバットを預ける相手に、あとは頼む、と涙ながらに言うスポーツ漫画もあった。
殿を務め、あとは任せたぞ、と言うバトル漫画もあった。
どれも胸が熱くなる展開だった。今思い出しても一巻から読み直したくなる。ツカサはそれが創作物の中だからこそ美しいのだと今は理解していた。
ツカサは自分の力を我がことのように利用しようとした実父のことを思い出しながら、ラングを見た。
ラングの実父がただ生きることを願った言葉は、時間を経て呪いから祝福に変わり。ラングの師匠が遺してくれたものが、それを助けた。目の前の男が生きた軌跡は、苦痛と、苦難と、想いと、厳しさと、強さと、優しさと、そして覚悟でここまで築かれてきた。
誰もがそう生きることはできない。人というのは自分に甘く、他人に厳しく、楽な方へ流れていくものだ。
この人が、どう答えるのかが気になった。
「お前が何を悩んでいるのか、私にはわからない」
ラングの静かな声がツカサの暗闇に差し込まれた。マール・ネルにも頬を撫でられる気持ちで顔を上げれば、黒曜石のようなシールドが真っすぐにこちらを向いていた。
「自分でできないからこそ他者に後を託す、それもまた人だ。自分の持っていたものを取り戻すために、子にそれを運命づける親もいる。例を上げればきりがない、よくある話だ。難しく考えたところで誰も正しい答えは言わん。ただ一つの真実など人により変わる。正しい正義など、どこにも無い」
ハッ、と唇が開いた。ラングは常に自分の中に一本の芯を置いている。それを改めて認識した。そうだ、だからこそ、この人からは常に覚悟を問われるのだ。行動の結果を背負うことを求められるのだ。
すぅー、ふぅー、と息をして顔を上げた。これから殺すものが同郷の命だとしても、もう迷いはしない。忘れるな、違えるな、ここに来たのは今大事なものを守るためだ。
ラングはツカサの目に覚悟が灯ったのを見てから杖の先へ視線をやった。
「その状態、いつまでも持つわけではあるまい」
「そうだね、マール・ネルの腕が限界を迎える前にはどうにか対策を決めたいかも」
「イーグリステリアの子なる存在はどの辺りだ」
「杖の下、深い位置にいる」
ラングは双剣で床を斬りつけた。パクッと開いた肉はすぐにバクリと閉じてしまった。視線を感じたのでマール・ネルからの言葉を伝えた。
「イーグリステリアの子を封じてるから、肉の動きを封じるのはちょっと厳しいって」
「魔法と同じだな。シェイの言う通り、有用ではあるが万能ではない」
しかしどうすべきか。ふと思いついて口にした。
「変えてみようか、この肉を螺旋階段にして降りられるようにするのはできるかも。もしくは、逆に、下から持ってこられるかな」
ラングのシールドが揺れ、二歩下がった。視認できればあとはやる、ということだ。ツカサはマール・ネルに手を添えたまま目を瞑った。ブーツの底が触れている場所、肉の床、これを【変換】で変えてまずは剥がして、と考えたところで、マール・ネルが再びぶるりと震えた。
「マール・ネル、どうした!?」
『くそ!』
下がった二歩を一足飛びに駆け戻り、ラングがツカサの腕を掴んだ。ラングの暴言に驚く間もなく、ぎゅんっと空間を圧縮するように肉壁が迫ってきて、それをゆっくりとした気持ちで眺めてしまった。突然のことに理解が及ばず、ぶわっと脳裏に様々な映像が流れ、ワンテンポ置いて圧殺される、と思った。マール・ネルがツカサたちを守るために迫りくる肉壁の動きを封じようとするのがわかる。
「マール・ネル! だめだ! ぐっ」
口元にラングの肩が当たった。マントの向こう硬い筋肉質な腕に顎を押され、痛い。じゅぐっと内臓を潰すような音を立てて肉壁が空気すら飲み込んでツカサとラング目掛けて迫ってきた。肉壁にトーチが消える、食われる。痛いとかそんなことを言っている場合かと胸中で叫び、握り締めたマール・ネルを確かめた。肉壁に押されじゅわっと魔法障壁を吸われ、生身の体がそこに放り出され血の気が引いた。何度張り直しても肉壁が触れれば取れてしまう。それでも張り続けた。一瞬余裕ができてから再びぎゅうっと押された背中に細い何かが当たっていてこちらも痛い。
空気を押し潰し真空になるような、鼓膜が突っ張る感覚が、パンと弾ける前に止まった。狭い空間だけをどうにか残し、イーグリステリアの子も、すぐそこの肉壁も動きを封じ、マール・ネルは懸命に耐えてくれていた。
耳元でラングの力む声が聞こえた。小さなトーチを出せば、本当にギリギリのところで肉壁が動きを止めていた。ツカサのいる空間を守るようにラングが双剣を手に両腕を突っ張り、確保に務めていた。その際に肩が顎に、背中に当たる細いものはラングの双剣だったのだ。この一瞬の抵抗があったからこそ、マール・ネルが封じられたのだ。
「ラング!」
「できることをやれ…っ!」
ぎちぎちと筋肉と武器の軋む音がする。全身に力を込めているラングと、マール・ネルの力が、考え動く時間をくれている。マール・ネルの腕が疲れてしまえば、ラングが呻いた。少しだけ空間が狭くなる。どうすればいい、このままだと死んでしまう。
『どこまでも厄介な女だ…!』
ラングが故郷の言語で吐き捨てた声に少し冷静になれた。マール・ネルを片手に持ち替え手を伸ばし、ラングの背中を圧迫し続ける肉壁に指先を触れさせた。肌が融けたりはしない、食べるのは魔力と、恐らく死体。ならば生きている今、抗わなければ。
何に変える、物体だと不味い、空間を潰してしまう。横で息を吸う音が聞こえて、それだと思った。肉壁を空気に【変える】ことにした。触れた場所から空気へ、びくりと抵抗を受けたものの、わたあめを押した時のような柔らかい感触がした後、それが広がっていく。それと同時、空気になって余裕ができた場所を再び潰すように肉壁が迫ってくる。【変換】を使い続けるツカサに対し、これまでにつくられた体内の広さがそのまま圧殺を目論んで迫り狂う。ツカサの背を守るラングの腕も、マール・ネルの腕も震えを見せた。じくりと右目が痛んだ。
「イタチごっこだ! いつまで【変換】すればいいんだよ!」
『叫べ…!』
「叫んでるよ!」
『叫び続けろ! 聞こえる!』
「何がだよ!」
「ここだ! 頼む! 来い! アル!」
ラングの声に鼓膜が痛かった。思わず首を竦めたところで、スパンッと小気味のいい音がした。
「おらああぁぁ!」
ズバンッと肉壁が割れて血だらけのアルが飛び込んできた。右に左に槍を振るい、肉壁に斬り込みを入れていく。アルの通った後、肉は割れて押し開き、十分に空間が確保された。マール・ネルが泣きそうなほど嬉しそうな音を出した。ラングはふぅぅ、と一度息を整えてすぐさま双剣を構え直した。アルは槍で肉壁を斬り開きながら叫んだ。
「状況教えろ! 壁が急にきて、びびった!」
「イーグリステリアは倒した! この場所の主が死んだから潰れようとしたのかも!」
「もしくは最後の栄養を与えようとしたか、だ。その怪我は」
「痛いけど無事! ヴァーレクスは左肩がいかれてる、ツカサ!」
治癒魔法を使って治療を行えば、ありがと! と朗らかな声が飛んできた。アルが槍を振るい続ける限り、肉壁はここを閉じないだろう。数度の呼吸でどうにか自分を立て直し、ツカサはマール・ネルと床下へ向かって封じる力を向け直した。その横にヴァーレクスが立った。
「パニッシャー、これは腹をくくった方がいいでしょう」
あぁ、そうだろうな、とツカサは臍を噛んだ。こちらが肉壁の動きを封じるのに回した僅かな時間、力、その隙間を縫って目を覚ましたのだとわかる。ラングが指示を飛ばした。
「アル、場所の確保に務めろ。ヴァーレクス、手を貸せ」
「あいよ!」
「わかっておりますとも」
「ツカサ、もういい」
肩を叩く手に小さく頷いた。そっとマール・ネルを持ち上げれば、どくんと鼓動が響き、床が開いていく。ざっと後ずさってそこに現れた真っ黒な小さな泉を注視していれば、隣にラングが立った。
「あとは私がやる。フォローを頼むぞ」
「わかってる」
真っ黒な泉の中から飛び出した腕がびちゃりと縁を掴んだ。
黒い何かが縁を掴んでプールから顔を出すようにぬろりとその頭を見せた。すぐさまラングはその首を斬り落とそうとして泉の抵抗を受けた。意思を持つタールのようなそれは細いロープのようになってラングの手足を狙う。それを双剣で斬り払いその場を飛び退いた。双剣に滴る黒いものはぽたりと落ちた。あの黒い生きものに触れているものだけが、意思を持つのだろう。
ラングに意識がいっているうちにヴァーレクスがタルワールを首に振り抜けばそちらの剣はガキンと音を立てて通らなかった。眉を顰めて距離を取り、ヴァーレクスはタルワールを思わず確認していた。
ツカサは確信した。
「一応形に成ってる! 神っぽい何かだ! 加護がないと剣が通らない! 気をつけて!」
腕に力が入らないのか何度も落ちては縁を掴むその姿が、攻め時はいまだと思わせる。相手の状態が整う前に先手を打つのは勝利の定石だ。
ツカサは魔法障壁を張り直した。アルが肉壁を防いでくれている今、取り込まれなければ奪われないだろう。それに、こうして生まれているのだ。育てるための栄養はもう求められない気がした。直感と予想で迷わずに行動をとるツカサに黒い何かの意識が向いた。
おまえ、と声が聞こえた。くぐもった音で明瞭ではなかったが、確かにツカサに向けて発せられた音がした。その意識の隙を突いてラングが床を蹴った。先ほどとは違い黒い泉が大波のような分厚さで襲い掛かった。斬り払うこともできた、だが、こちらも直感で全身を覆われるのは不味いと感じた。ラングは大きく距離を取り大波を避けた。やりにくい、近寄ることができない。間合いに入ることさえできれば一切の躊躇なくその首を刎ねてやれるというのに。思わずため息が零れた。
「お、まえ」
溺れながら話すような音がした。右耳が熱い。ツカサはその生きものが自身を捉え、悪意を持ったことがわかった。この右耳の痛み、覚えがある。
そもそも、イーグリステリアが創りだし、生む、この神の元になった命はどこにあったものなのか。当然ながらそれは、シェイたちと話していたようにイーグリステリアが食らい、抱えていた魂が元だろう。このダンジョンだった場所であやふやな理のルールの穴を掻い潜り触媒にして、その身の力を全て使って生みだすこの命は、この神は、どの魂が主になっているのだろうか。
ツカサの脳裏で、ツカサの知る一番最後に食われた魂が思い浮かんだ。ダンジョン側が冒険者の確保ができていたというのならば、ダンジョンそのものを侵食するしかなかったのならば、それが最後であるとなぜか確信があった。
「ここ、どこ、だよ」
掠れた声、だが、確かに聞き覚えのある声。ツカサは歯が震えそうになったのを食いしばって堪えた。
ぎょろりと開いた目は気味が悪かった。いくつもの色の瞳が所狭しと重なって、目全体がまだら模様に見える。集合体恐怖症の人が見れば悲鳴を上げてしまうだろう。あちこちを向いていて常に動き続けている。
髪はざわざわと形を変え定まることはない。それは含まれている魂の全てがうねっているからだろう。ただ、体だけは定まっている。見覚えのある男だ。でろりと黒い水が取れれば、そこにいたのはあいつだ。こちらを見て、まだらの中、一対の目がツカサを捉え、不愉快そうに歪められた。
「…お前、なんで、ここにいんだよ。ここは、どこなんだよ」
「ダンジョンの体内。あんたは魂を食われて、死んで、産み落とされた」
「あ? 俺が死んだ? なに言ってんだ? お前、ここでなにしてんだ、答えろよ!」
先ほどよりもはっきりとした声で問われ、ツカサは背筋を伸ばして答えた。
「あの時も言ったけど、俺の生きる場所を守るために、俺の覚悟のためにここにいる」
ふわっと灰色のマントが魔力に揺れた。たった数日前、だが、あの時とは違うのだ。少しだけそれっぽい台詞を言いたくなったのは、相手が同郷だからだろう。ツカサは叫んだ。
「今度こそ終わりにしてやる、シュン!」
「何が覚悟だ死んどけ雑魚がぁ!」
ざぁっと黒い水がツカサへ襲い掛かった。魔法障壁の展開はそのまま、トーチを投げて視界の確保を広く取り、アルのランタンの明かりが霞む。黒い泉ごと浮かび上がったシュンはツカサに憎悪を向けていたが、まだらになった目の中の一つがぎょろりと背後を見た。黒い水は背後のラングに標的を変え、小さな舌打ちが響いた。
ピンときた。故郷でやり込んだゲームでもあった。いや、ゲームと同じ目線で考えるのは危険だが、攻略法という意味でのことだ。誰にでもなくツカサは叫んだ。
「黒いのを斬って! まずはそれから!」
ツカサは【鑑定眼】を用いてよく視た。ざぁざぁノイズが走るステータスボードではなく、シュンという男を注視するためだ。
「なにがなにやらですよ!」
ヴァーレクスがタルワールで伸びてきた黒い水を斬り、ラングが双剣で細切れにする。その結果を視て、ツカサは確信した。あぁ、そうしなくてはならないのだ。
「黒い水を全部斬ろう!」
ショートソードを構えて水刃を放つ。斬り落とされたものは床に落ちてそのまま動かなくなる。それもそういうことなのだ。
「理由!」
「言えない! アルも気をつけて!」
「わかった!」
言えば、シュンに気づかれる。今ツカサに対して憎悪を真っすぐに向けているからこそ、中途半端に動く黒い水を対処ができる。たとえば、自分の持つものに気づいてしまい、黒い水を手足のように使いこのエリアを埋め尽くされては困る。それができなくなるまでとにかく削るしかないのだ。ラングの剣を届けさせるためにも今は準備をしなくてはならない。
「料理と一緒だ、下拵えをするんだ」
肉を柔らかくするためにハーブなどを揉みこんだり、ナイフで切り込みを入れたり、叩いたりするのと同じだ。
それに比べれば胸糞悪い作業ではあるが、これは互いの大事なものと、意地と覚悟と命を懸けた、代表者による小規模ながら世界規模の戦争だ。イーグリステリアの想いがどこまで残っているかはわからないが、絶対に負けられない戦いなのだ。覚悟ならもう、決めてきた。
シュンはいまだ少し濁った声で軋むように叫んだ。
「なんでお前が俺の前にいんだよ! マジェタでもそうだ、訳知り顔でダンジョンブレイクがどうのこうの言って俺の功績にケチをつけやがって!」
風魔法で黒い水を切り裂く。ぎゅうっと申し訳なさが胸に浮かび、それを瞬きで振り払う。この現実から目を背けてはならない。この手でやったことの結果は、背負うのだ。
「スタンピードが起きた後だってそうだ! お前だけ逃げやがって、卑怯者がよぉ!」
「そうだ! 罵られるのを覚悟のうえで逃げたんだ! 俺は言っただろ、あんたを待ってる人がいると思うって!」
「誰も! 誰も待ってなかった!」
叫びに合わせて黒い水が鋭い槍となってツカサに降り注いだ。防御に徹しそれをやり過ごそうとした横からラングとヴァーレクスが交差するように飛び出し、斬り払ってくれた。その隙間からアルが槍を突き出していたように、ツカサはアイシクルランスを放った。螺旋を描いた氷の槍がシュンを狙い、それを黒い水で防がれた。だが、また一部剥がすことができた。
ツカサは対処に追われながらも会話は続けた。
「誰もって、どうして」
「あいつらは俺の力だけが目的だった」
黒い水は激しく攻め立ててくるというのに、シュンとツカサの会話だけは静かだった。潰すために迫りくる肉壁を開いて、それ以上場所を奪わせないように走り回るアルも、黒い水をタルワールで振り払うヴァーレクスも、双剣で舞い続けるラングも、戦闘の最中、ただ耳だけを傾けていた。
「笑っちまうよな、王女様は言ってたぜ。俺の収納がないなら、魔法がないなら、ただの使えない一般人だってよ。扱いに困るって言ったんだぞ!」
ツカサはかつて自分がそうだったからこそ、そう言われる悔しさがわかる。どうにか握り締めた短剣の重さだって辛かった。戦うことを知らない体に、戦うことは痛いのだと教え込まれ、泣きべそだってかいた。けれど、生き残るために覚えたもの、鍛えられたもの、償いというバフはあったがツカサ自身が培ったものだ、軌跡だ。シュンが同じようにできていたなら、失わなかったはずだ。
それに、あの後すぐ戻ったならば、印象は違ったのではないだろうか。ロナとマーシから聞いた感じだと、シュンは捕縛され護送され、公の場でもかなり反抗的だったらしい。同じパーティの人から剣を向けられ、あわや、ということもあったそうだ。
すまない、だが、償わせてほしいと言葉にできたなら、変わったのだろう。イーグリスと渡り人の街と同じだ。それができないからこそお互いに平行線、事を構えるしかなくなった。
「俺はさぁ、お前のところに行こうとしたんだ」
黒い水はシュンの感情や危機に対して動くらしく、話しながらツカサへその矛先を向け、飛んでくる。ショートソードで払い、魔法で焼き、刻み、ツカサはシュンの言葉に耳を傾け続けた。
「俺のところに? どうして、いつ」
「マジェタから出て会っただろ、あの後だ!」
純粋に疑問だった。あれほど敵対していたというのになぜツカサのところへ行こうとしたのか。視界の端でラングの双剣が振るわれ、また黒い水が切り離された。
「良い生活してたんだろ? いいもん食っていいもん着て、強い仲間とお気楽になぁ!」
ツカサはイラッとした。
「同じ日本人なんだ、少しくらい助けてくれたってよかっただろうが! お前、だって、お前俺より強かったんだろ!?」
シュンのまだらな目が水分を湛えていた。何かが溢れたかのように滲み、ぶわりと零れ、呼応するように黒い水が波状に広がった。魔法障壁でその波をばしりと弾いた。向こう側で剣士が二人それを払い、魔法障壁で被害に遭わないことも確認した。あちこちに気を回すのは神経を使う。べっとりと纏わりつくような黒い水が縋るように爪を見せ、襲い掛かってきた。風魔法とショートソード、水刃でそれを拒否してツカサは改めてシュンを視た。まだだ、もう少し。
「なんで助けてくれなかった! 助けてくれりゃぁ、俺だってあんな思いしなくて済んだ!」
そう、ツカサと合流し、戦力を得て、装備を整えて、それからならマジェタに戻ったってよかった。自尊心を奪われ、生理現象の自由すら危うい扱いを受けずに済んだ。グランツが許可をしなければ。どうして止めてくれなかったんだ。俺はなにも知らなかった、なのに責を問われ辱められた。この世界のルールなんて俺が知るわけないだろうが。お前は知っていたのだろう、この世界でどうすればいいのか。それをどうして独り占めするのか。シュンの恨み辛みは叫びになって発せられ、ツカサは毅然と言い返した。
「知ろうと思えば、いくらでも知ることができるんだ。誰かからの教えを待っているから、知ろうとしないからそうなったんだろ!」
「どうやって知ればよかったっていうんだ! ここは、日本じゃないんだぞ!」
「当たり前だ! 異世界だってことくらい、わかってただろ!」
感情の波として鋭い槍になって向かってくる黒い水は徐々にその体積を減らし始めた。ツカサは悔しさに叫んだ。
「あんたが、あんたのそばに居てくれた人を大事にしてたなら! きっと誰かが教えてくれてたよ!」
「NPCごとき、なんで俺が大事にしなきゃならねぇんだよ!」
「そう言うから話にならないんじゃないか!」
シュンの激情を受けながら、ツカサはゆっくりとマール・ネルを持った右手を前に差し出した。
「俺は恵まれてた。あぁ、そうだよ、本当に恵まれてた。だけど、だからって安穏な道を歩んできたわけじゃない。泥だらけになったし傷だらけになったし、死にかけたこともある。苦しい思いも後悔もたくさんある。忘れられないことだって、数えきれないほど、ある!」
考えることをやめるな、自分を全てにするなと突き放してくれた人がいた。
学ぼうとする姿勢を崩すな、少しでも生存率を上げてほしいと励ましてくれた人がいた。
背伸びをするなと肩を叩いてくれた人がいた。
厳しいことを言い悪役になったうえで、預かるとその胸を貸してくれた人がいた。
答えは年月を経て自然と出るものだと、慌てることのないように諭してくれた人がいた。
あなたを生かそうとしてくれた人たちを、あなたが裏切らないで、と泣きながらに存在を肯定してくれた人がいた。
自分の甘さから、その覚悟の強さを知ることができず死なせてしまった彼女のことを、一生忘れることはないだろう。
「たくさん助けてもらったよ、それは事実だ」
「ガチャに成功した自慢かぁ!? 少しでも俺に、その運があれば!」
「運があったのも確かだ! でもな! 生きることを、その道を決めるのはいつだって俺自身だった!」
誰かがこの道を行けと言ったわけではない。あの日、世話になったあの場所を逃げ出したのも、この人を師匠にと選んだのも、他でもない自分だった。
マール・ネルと呼吸を合わせ、その力を魔力に乗せた。
「いい加減、大人になれよ!」
それはまるで過去の自分に訴えかけるかのように。ツカサの雄叫びが響き渡った。
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