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【書籍化】処刑人≪パニッシャー≫と行く異世界冒険譚  作者: きりしま
終章 異邦の旅人
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4-49:夢の終わり

いつもご覧いただきありがとうございます。


 心残りを解消するための猶予は二日、ツカサは時間が足りないだろうと思っていた。けれど、不思議なことに焦りはどこにもなかった。


 いくらでも話せるはずの旅路も、出会いも、考えも、未来も、決断も覚悟も、嵐の前の静けさに身を置くとどれも話すべき重要なことではないと感じるのだ。

 心の中に凪があった。こうだから、とか、そうだから、とか、説明のしようがない、ただの日常が自分を取り囲んでいた。

 結局、初日も夜更かしすることなく、時計の針が十一時を迎えた辺りでおやすみと各々が部屋へ戻った。

 最期の挨拶というわけでもなく、必ず帰ると伝えるのでもなく、自己鍛錬をし、朝食を食べ、装備の手入れをして、昼食を食べ、エレナやモニカと雑談し、夕食を食べ、風呂に入り、おやすみを告げて三脚コンロでホットワインを作り、飲み、眠る準備をする。

 あの日、イーグリステリアとの(いくさ)前にはあった緊張感が驚くほどなかった。【黒のダンジョン】の様子をこの目で見ていないせいかもしれない。

 出発前夜、ホットワインを手にぼんやりと部屋で過ごしていれば珍しい人物がドアをノックした。はい、と出迎えればそこにいたのはラングだった。


「ラング、どうしたの」

「構わないか?」

「もちろん、どうぞ。ホットワイン作ってあるけど飲む?」

「いや、紅茶でいい」


 マントを腕に抱えた姿、腰には双剣、背中には短剣もある。ということは、長衣の下にもナイフなどがあるだろう。エフェールム邸の中でそうして装備を着けて歩いている姿はあまり見かけなかった。

 扉を閉め、ソファに互いに座り、言われた通り紅茶を出した。ありがとう、と礼を言い一口、ラングはまあまあだ、と感想を零した。


「そこは嘘でも美味しいって言おうよ」

「それでは上達しない」

「褒めて伸ばすっていう手もあるよ」

「お前には要らん」


 まったく、と息を吐いてツカサも紅茶を飲む。少し薄い。確かに、はっきりと美味しいとは言えないかもしれない。まあまあでも気を遣われたのだとわかった。

 ツカサはふと思い出したことがあって尋ねた。


「そういえば、歪みの生きもの(ナェヴァアース)、街の外でも出たんでしょ? 大丈夫だったの?」

「あぁ、風と大地に力を借りて、アルが片付けた」

「アルが? 魔法使えないよね」

「オルファネウル・ネルガヴァントだったか、槍が特殊なようだ」


 人名のようなアルの冒険の相棒。ダンジョンで拾ったと言っていたあの槍は詳細鑑定をしても名称しかわからなかったが、何が特殊なのだろう。すっかり慣れてしまい再鑑定もしていなかった。

 どう特殊なのかと問えば、大地を融かし、草木を燃やす歪みの生きもの(ナェヴァアース)の体液に触れても槍は融けなかったらしい。襲われた他の冒険者を救うため、思わず槍を突き出してしまったのだが、ダンジョンの壁さえも融かすそれを耐えたのだ。不思議だ。

 だが、そのおかげで歪みの生きもの(ナェヴァアース)を狩れたらしい。周囲の冒険者、魔導士に協力を仰ぎ、駆け付けた軍人たちと連携を取り、事なきを得たのだそうだ。


「よかった、協力できたんだ」


 ホッと感想を零せばラングは紅茶をゆっくりと口に含んだ。少しの沈黙、ツカサの会話が終わればラングの本題が来るだろう。

 ちらりとラングを見遣る。何を話されるのかと緊張してしまっているツカサに、ラングはそう間を置かずに切り出した。


「以前、リシトに会いたいと言っていただろう」

「あぁ、うん、言ったね」


 あれは草原だったか、話の流れで興味が沸いて、アイリスに協力を得て会えないかと打診したことを思い出した。かちゃりとラングの手からティーカップが机に戻された。


「オーリレアの一件で少しコツを掴んだ。向こうの世界が止まっている今、アイリスとはやり取りができん。だから、見せてやろうと思ってな」


 ツカサもティーカップを置いた。シェイの夢の中、精神世界に入るための経験がラングに夢見師(レーヴ・)加護(ベネディクション)の使い方を覚えさせたのだ。ということは、今、自分はラングの精神世界への誘いを受けているのか。ツカサはぐっと背筋を伸ばした。

 ラングが装備を整えてきたのは、いざという時のためなのだ。今身に着けているものの方がイメージの具現化をしやすいのはツカサにもわかる。


「俺も装備整えた方がいい?」

「どちらでも構わん」

「じゃあ、少しだけ待って」

「わかった」


 慌てて寝室に戻った。武器を横に置いて眠るつもりでいたので、装備はそこにあるのだ。興奮で震える指でベルトを着け、短剣を取り落としそうになりながら装備した。寝間着を脱いでシャツを、魔力の服を着て胸鎧を重ねる。マントは、手に持った。身支度を整えて戻ればラングはゆるりとシールドを揺らし、とんと隣を叩いた。向かい合って座ると手を伸ばす必要があり面倒だったのだろう。その姿勢で意識を失いたくはなかったので、素直に隣へ向かう。

 そこにタイミングよく、ノックもせずにアルが入ってきた。


「待たせた?」

「いや、ちょうどいい」

「アル、どうして」

「どうしてって、護衛だよ。寝てる間無防備だろ? ラングが部屋に居てくれって」


 言われて気づいた。ここがエフェールム邸、安全地帯とはいえ、ラングが有事に備えないわけがない。そしてその対策に選ばれるのがアルなのも今は納得だ。ラングが、アルがお互いを相棒と呼び合っているのはもう知っている。二人だけの旅の中で、お互いが実力を認め合う何かがあったのだ。それもいつか聞きたいリストに増やしながら、ツカサはラングの隣に座った。


「では、行くか」

「うん、よろしく!」

「こっちは任せろ」


 アルに頷き、差し出された手を繋ぎ、目を瞑る。ソファに深く背中を預け、深呼吸。シェイの時とは違い、ふぅっと背中から落ちていくのは早かった。

 下腹部がひゅっとする感覚だけは仕方ないものの、落ちるとわかっていたのでそこまで慌てなかった。目を開けば真っ暗闇が広がっていたが、ゆるりと背中を引っ張られてそちらを見れば、ラングが降下の勢いを徐々に殺し、最後はふわりと地面に足をつけられた。


「慣れてきてるね」

「お陰様でな」


 とん、とラングが足を踏み出せば木漏れ日の中に木造の大きな家が現れた。懐かしい、アイリスに見せられた姿のままだ。ふわ、と木の良い匂いが、ハーブが香ったような気がした。すんすん、と鼻を鳴らせばラングがシールドを揺らしてツカサを呼んだ。

 正面玄関から向かって右へ、薪割場とは逆に行けば、畑があった。


「家庭菜園?」

「あぁ、薬草やハーブも育てている。恐らくこれが香ったのだろうな」

「うん、みたい。いい匂い」


 いくつかの区画に分け、畝が、ハーブが広く生息していた。こうしたものを日々の食事に、薬に使っていたのだろう。アイリスが見せてくれた時よりも風や匂いがリアルだ。

 アイリスはここで眠っていて体が置いてあると言っていた。娘から見せられてはいても、実際の感じ方はラングほど鮮やかではないのだろう。

 ぐるりと家を回った。大きいね、と言えば、ラング曰く元々騎士や傭兵の宿舎だったというこの家は、部屋数が多いだけあって建物自体がそれなりに大きいのだそうだ。畑を抜けて井戸がある場所に辿り着き、ラングが足を止めた。


「この井戸の前でいつも鍛錬をしていた」


 家の裏側、土の被ったその下に石畳が少しだけ見えた。かつてここで騎士たちが、傭兵たちが腕を磨いていた場所でラングは鍛えられたのだ。テニスコートが三、四枚分もあろうかという広さがある。この家に十五人は住めるというので、これだけの広さがなければ安心して剣が振るえないのだ。

 ふわっと風が吹いて、庭の向こう、森への入り口にフードを深く被った人物が浮かび上がった。長いマントは地面すれすれ、口元だけがにんまりと見えていて、深々と腰を折った。


「あいつはチェーニ、私の使っている情報屋だ」


 あぁ、と思い出したように頷いた。ふっとその姿が消えた。ラングに話がある時、チェーニという人物はこうして森から現れ、そして戻っていくのだろう。また風が吹き、次は三人の人物が現れた。

 少し茶色が混じった金髪の男、青丹(あおに)色の髪の男、錆色の髪の男。

 茶色が混じった金髪の男は一番小さく、むすりとした顔で目つきが悪く見える。けれど歩き方や立ち方がラングに似て見えた。

 青丹色の髪の男は真ん中の身長で、やや垂れ目で穏やかな面差しをしている。羽織っているマントから騎士剣の形が見えた。

 錆色の髪の男は一番身長が高く、耳の前で少しだけ髪をまとめていて糸目だった。防具はなく、両腰にショートソード、腰の後ろに短剣とラングに少しだけ似たスタイルだ。


「小さいのがリシトだ」


 ラングが見ていた記憶をそのまま再現されているのだろう。高身長の男がリシトに絡み、面倒くさそうにあしらわれている。垂れ目の男は高身長の男を煽り、仲は良くなさそうだ。

 ツカサはリシトをじっと眺めた。装備は軽いが身に着けているものは良いものだ。腰に吊り下げられている剣は細身で、ラングが持っているものと似ている。そういえば昔使っていたものを譲ったのだったか。ふむ、と腕を組んだツカサと同じタイミングでラングも腕を組んだ。少し恥ずかしくなって、ツカサはゆっくりと腕を解いた。


「垂れ目がフュター、糸目がソエル。リシトのパーティだ。ソエルはかつて私を殺してはく製にし、最強になりたがっていたが、やりあう前に私が引退したのでな、その弟子のリシトに目をつけて度々剣を交えていたらしい」


 あぁ、と納得した。ソエルの武器スタイルがラングに似て見えたのは憧れていたからだろう。しかし、剣を交えたということは、命のやり取りをしたということだ。


「そんな人とパーティを組んだの?」

「ギルドラーではよくあることだ。剣を交えていればこそ、相手の実力は知れる」


 なんとも理解に苦しむ関係性だ。リシトがぱっと笑顔を浮かべてこちらに走ってくる。それを追ってまだグチグチと言い合っているフュターとソエルもこちらへ向かってきた。


「ラング、帰ってたのか!」

「おかえりなさいませ、ラング様。ソエル、あなたはあっちに行っていなさい邪魔ですよ」

「うるさいぞ腰巾着、お前がどっか行ってろよ。ラング、今日こそは俺と戦ってよ!」


 ツカサとラングを三人が通り抜けてそのまま消えていく。それもまたラングが彼らに声を掛けられた過去だったのだ。ツカサはもしや意思があるのではないかと思い、ドキドキした胸を押さえた。


「行くぞ」


 ラングに促され、また家を回りこむ。薪割場だ。手斧が切り株に叩きつけてあり、すぐそばに薪を積むための小屋がある。薪風呂なのだろう、外にストーブが置いてあり、その周辺はレンガ造りになっていた。

 こちらの庭にはロープの張られた木もあった。それが洗濯物を干す場所なのだとわかったのは、女性が現れたからだ。

 ふうわりとした長い黒髪、柔らかい微笑。ふとアイリスと雰囲気が被った。


「ナーリャだ」

「アイリスさんの娘さんで、リシトさんのお嫁さんだね」

「そうだ。それから、イザベラ」


 ふっとナーリャの横に現れた長身の女性はサバサバとした印象を受けた。アイリスの弟子、ナーリャの姉弟子で、いろいろあった結果アイリスの世話もあって共に移住したのだそうだ。ざっくりとした人物紹介は面白かった。ナーリャは繕いものが下手らしく、彼女の衣服をラングが縫ったこともあるらしい。


「ラング、器用だもんね」

「最初からできたわけではない」


 ふぃ、とラングが正面玄関に向かい、その後を追う。


「前にも言ったが、リーマスがズボラを極めたような男だったのでな、必要があって身に着けていったものだ」


 ぎぃ、と扉が開き、ラングは中に入った。お邪魔します、とこの扉を潜るのは三回目だ。

 以前、アイリスに見せてもらった通りだ。だが、ラングの夢の中では赤ん坊を乗せた揺りかごはなく、毛皮を被せた椅子には男が座っていた。


「よぉ、おかえり。今回も生きてたか」


 ざんばらに切ったやや青みがかった黒髪、後ろの長いところを一つに結び、手にした本から顔を上げ、血を煮詰めたような、濃い赤の視線をこちらへやっていた。やや垂れ目か、涼やかな目元はゆっくりとした瞬きで余裕があった。

 長い手足、鍛えられた体、少しの皺を湛えたその微笑は何故か挑発を感じるものだった。

 ツカサはごくりと喉を鳴らした。存在感がすごい、ゆったりした動作で椅子に預けていた背を戻しただけだというのに、隙がなく目が離せない。

 そしてだからこそわかる。これがラングの師匠、リーマスだ。ラングの中に焼き付いた圧倒的な存在感と力が、こうして記憶にも再現されているのだろう。


「あれがリーマスだ」


 改めて正解を告げられ、うん、と頷く。ふと、首を傾げた。


「…アルに似てる?」

「お前もそう思うか」


 ほぅ、と感心した様子でラングが言った。うん、ともう一度頷いて返せばラングも頷いた。


「飄々としているところか、手足の長さかわからないが、ざんばらの髪のせいもあって雰囲気が似ているように思っていた。実際、全く人となりは違うのだが、お前もそうだというのならば勘違いではなさそうだ」

「うん、なんだろう。なんか似てる」


 ふふっ、と笑ってしまい目を瞑った一瞬、空気が動いた。椅子に座っていたリーマスはキッチンに立って、鼻歌を歌いながら鍋を混ぜていた。


「リーマス」


 隣のラングからではなく、違う方向からラングの声がして驚いて振り返り、ツカサは闇の中にいた。


「見せすぎたな」


 隣からまた声がして、ふっと体が吹き飛ばされた気がした。ラングの家が消えていて、二人しか残らなかった。見せたくないものがあって、リーマスから連鎖で浮かんだものを隠したのだろうとわかった。どうして、とは聞かず、ツカサはラングを見た。


「ありがとう」

「あぁ。ところで、お前の故郷は?」

「興味あるの?」

「見せたからには、見たいものだ」


 それもそうか。ツカサはほんの数年前の記憶を懸命に掘り起こした。記憶が薄れていくというのは本当のことらしい。さて、どこをどう見せればいいだろうか。そうだ、少し驚かせてやろうと思った。


「いいよ」


 手を差し出せばラングはその手を握った。

 パパーッとクラクションが鳴ってラングがハッとした。おかしな物体が凄まじい速度で迫ってくればそうもなるだろう。ツカサも現実ではないとわかっていても驚いた。思わず離しそうになった手をラングが引いて、助けてくれた。そのまま歩道に逃れ、行き交う自動車を呆然と眺めていた。先ほど自分たちを通り抜けたリシトたちのように、ぶつかることはないだろうが、ふぅ、とツカサは流れた冷や汗を拭った。


「あれはなんだ」

「車、自動車。俺の世界ではあれが馬車の代わりなんだよ」

「生きものなのか?」

「違う、なんて言えばいいのかな、ガソリンって液体で、ええと、動くんだ」

「仕組みは詳しくないわけだな。しかし、すごい光景だ」


 ラングは上を見上げ、一面ガラス張りのビルに感嘆の息を吐いた。ツカサは首都の一部を思い浮かべたのだ。通学路の交差点やいつも行くコンビニが混ざっていたりと若干ごった煮感はあるが、ラングには全てが物珍しいだろう。

 色の変わる信号機、自動車、バイク、トラック、自転車、建物の隙間から見える高架鉄道、歩道をスマホを眺めながら行く人々、話しながら歩く人々、スーツに身を包み忙しそうに早歩きをする人、ベビーカーをゆっくりと押す人、イヤホンからジャカジャカと音楽を零す人。服装も様々で種類が多い。身に着ける貴金属も、鞄の種類も、靴も、何もかもが目新しいのだろう。ラングのシールドは左右に何度か揺れていた。

 ツカサは夢の中とはいえ、懐かしい光景に目を細めた。そう、この雑踏の中で生きていたのだ。友達とよく行っていたファーストフード、ちょっといいコーヒーショップ。あの脂っぽい匂いも、コーヒーの香ばしい香りも再現されていて、おなかが空いてくる。

 楽しかった。目標もなく、ただ、そこで息をして、食事をして、勉強をして、将来どうするかもわからないまま、ただ生きていた。命を懸けるほどのめり込むこともなかった。友人とくだらない話をして、その日常を楽しんでいた。大小様々な悩みはあれど、それでも、平和で、幸せだった。

 もうないのだと思うと少しだけ寂しかった。それでも【適応する者】のスキルを失った時ほどではない。

 今は、アルブランドーの名が生きる道標だ。


「そうだ、今なら会わせられるかな」


 繋いだ手をそのままに、ツカサは記憶を辿り、家に移動した。

 マンションのドアの前、五階なので手すりの向こうは高い。ラングが不思議そうに手すりの向こう、眼前に広がる光景を眺めていた。時間を進めてみれば街灯が、自動車のライトが、家々の明かりが夜を照らす。ランタンなどとはまた違う煌めきにラングは少しの間それを眺め続けていた。ツカサは朝焼けを思い出し、ラングに見せた。数度、旅行や学校の行事で早朝に出なくてはならなかった時、ドアを開けて視界に飛び込んだ朝日を覚えていた。ビルの隙間を縫って、家々の屋根を、窓を照らすそれは、ラングには見たことのない景色だろう。

 暫くして、三峰の表札、ツカサはドアノブを掴んでガチャリと音を立てた。ラングが音に振り返ったのでどうぞ、と手を揺らす。


「入って、俺の実家」

「ここが? どういう造りだ」

「横長住居の、それがもっと横に広がってて、頑丈で、上に重なってるやつ。建物の中が同じように区切られてるんだよ」

「規模が違うのだな。ツカサ、ここまで来たらもう手を離していい」


 本当に大丈夫かと少し不安だったが、そろりと手を離して家の中に先導した。ごそごそとブーツを脱いで中に入り、くるりと振り返る。


「ラング! 靴脱いでね。スリッパどうぞ」


 玄関の上がり(かまち)に足を掛けようとしたラングににやりと笑って声を掛ける。玄関に置いてあったスリッパをマットの上に置けば、ラングはため息を吐いて腰掛け、ブーツを脱ぎ始めた。その背中に笑って、懐かしいフローリングを踏みしめながらキッチンへ向かい、冷蔵庫から麦茶を取ってグラスに注いだ。

 ぱたんと冷蔵庫を閉じればひよこのマグネットでメモが貼り付けてあった。最後に見たメモまで再現されていて、それを覚えていた自分にも驚く。洗剤、卵、ソーセージ、ラップ、ミニハンバーグ、おかずカップ、と書かれた母の文字を、思わず手に取って見つめた。そういえば、異世界で食べた最後の弁当にもミニハンバーグが入っていた。


「良い家だ」


 珍しくぱたりと足音を立てながらリビングに来たラングはゆっくりと家の中を見渡した。キッチンにいたツカサを振り返り、ほぅ、と興味深そうな声が零れた。視線の先に調理器具があるのがわかり、笑う。


「使い方聞かないでよね、俺そんな詳しくないよ」

「似ているものはわかる。料理は母親が?」

「そう、俺故郷では調理実習とバイトしか経験なかったから」

「それは残念だ。開けても構わないか?」

「どうぞ」


 ラングは電子レンジの扉を開けて中を覗き込み、引き出しを開けて箸やナイフ、スプーン、フォークの種類の多さに頷き、鍋の種類にも興味津々だった。食器棚にある茶碗や湯呑に頷き、形が様々な皿やグラスにも顎を撫でていた。

 ややしばらく探検していたが、ツカサが手に持ったメモに首を傾げる。文字がわからないのだ。


「これ、母さんのメモ。買い出しに行く予定だったやつ」

「この箱は?」

「冷蔵庫、オーリレアの隠れ家にも似たようなのあったでしょ? 中が涼しくて保存がしやすいんだよ。これは氷作ったり、凍らせたりもできるんだ」


 扉を開けて中を見せていけばラングは手を入れて冷たさの差にあちこちを撫でて確かめていた。そこに麦茶を入れたグラスを差し出せば、ありがとう、と受け取ってもらえた。


「なるほど、便利で快適、安全に守られていた、か」


 いつだったかツカサが話したことを覚えていたのだろう。麦茶の入ったグラスも少し回し眺めてから一口飲み、美味い、と言った。


「座ってよ」


 ダイニングテーブルの椅子を勧め、ラングはそれを受けて椅子を引き、座った。そこからはリビングのソファやテレビが見えて、窓から外も見える。ツカサの部屋は玄関から入ってすぐ右手、リビングを回って両親の部屋があり、小さな収納部屋もある。綺麗なフローリング、これも母が定期的にワックスをかけてくれていたからだ。ラングは椅子に座り、いまだ不思議そうにしながら麦茶を飲んでいた。


「ツカサの実家や故郷は一例だろうが、イーグリスや渡り人の街(ブリガーディ)はこれを失いたくなかったのだな」

「そうだね」

「あの板は?」

「テレビ、俺の記憶が再現されているなら、何が映るかな」


 リモコンを手にして電源を点ければ、天気予報士が今日の天気と気温を伝えていた。


「司、朝ごはん食べて早く行きなさい」


 ツカサはハッと振り返った。鞄を肩に掛けて母がそこにいた。


「わかってるよ」


 ソファにだらりと沈んだだらしない座り方でぶっきらぼうに答える自分もそこにいた。

 ふぅ、と苦笑を浮かべながら優しい笑みを浮かべて、母が続けた。


「お弁当、あんたの好きなミニハンバーグ入れてあるから、気圧に負けない、ね?」

「うるさいな、頼んでないだろ。さっさと行きなよ」


 はいはい、と答え、母がヒールを履いてつま先を整える。

 いってきます、の声に、いってらっしゃい、がとても小さく返される。

 ぷつん、とテレビの音が消えた。ラングがゆっくりと立ち上がり、ざぁっと家が消えていく。

 タタンタタン、タタンタタン。繋ぎ目を通る度に電車が立てる一定のリズム。網棚に置かれた鞄、前に抱えられたリュック、足元で挟まれたスクールバッグ、スマホに視線を落とす人、腕を組んで眠る人、小説を読む人、折り畳んだ新聞の別面を見るためにかさりと音を立てる人。つり革を掴んで、あの日のツカサがそこにいた。

 誰かがなんだあれ、と呟き、スマホに視線を向けていたり、席を譲りたくなくて寝たふりを決め込んでいた人が顔を上げて窓の外を見た。ツカサも、ラングもそちらを見た。

 朝焼けが今来たのかと見間違う程の赤い光。曇天を突き破って落ちる何か。


「なんだあれ」


 司も呟いた。電車はスピードを落とすことなく、車内だけが騒然となっていく。

 赤い光が消えれば、また暗闇に立たされていた。脱いだはずの靴も元通り、夢は終わったのだ。


「あれがお前の転移だったのか」

「うん、そう」


 あの時、イーグリステリアが罰を受けたのだろうか。あの時、同じ電車にいた人たちのどのくらいが転移したのだろうか。あの時、何か一つ違えば、ツカサは今ここにはいなかっただろう。

 どれほどの幸運に恵まれていたのだろう。じっと暗闇を眺めて動かないラングを見て、ツカサは拳を握り締めた。


「ラング」


 名を呼べばゆっくりとラングのシールドがこちらを向いた。その黒曜石のようなシールドの向こう、双眸を受けて、ツカサはじわりと滲んだ涙を堪えきれず、瞬きで零しながら笑った。


「俺の師匠に、兄になってくれて、生き方を教えてくれて、ありがとう」


 僅かな驚きの気配をラングから感じ、ふっと優しい息の音がして、ツカサは目を閉じた。 



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