4-48:未来を憂う者
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問題が、課題が多すぎる。各所から上げられる報告書と陳情を一度目を通すだけで覚え、処理し、こうして作業して何時間経ったのだろう。こんなことをしている場合ではないというのに。
懸念していた通り歪みの生きものもその姿を現し、紫壁のダンジョンの最下層で学んだやり方で対処を行った。各軍へ伝えた情報がどの程度活かされているのか確認するのも怖いが、読み進めなければならない。なのになぜだ、陳情書の方が多いのはどういうことだ。ただでさえ、ここ数週間の災厄で治安の悪化も目に付くというのに軍そのものが悪しきものと化してしまえば、いったい誰が民を守るのか。自警団か、傭兵か、冒険者か、ならば軍の存在意義とはなんだ。三軍【夕闇の騎士団】は解体することが決められたが、一先ずは事態の対処を優先するため、保留になっている。
「平和ボケどころの話じゃない」
天幕の中、手を、目を止めずに報告書を頭に流し込みながら軍師が呟く。不意にぐしゃりと報告書が潰される。また陳情書、それも他軍の兵士による、他軍の軍師に対してのものだ。目の血管が切れそうになった。いや、恐らく切れているだろう。
そっと頭を垂れながら言ったのは幼い頃から傍にいる影だ。
「…僭越ながら、主、少し休まれてはいかがでしょうか」
目だけがじろりと男を見た。そう長い時間ではなかったが、ゆるりと視線が外されて男は再び影に戻った。天幕に残されたのは軍師一人だ。
自軍への指揮は恙なく、各所の定時連絡でも民を守り、大きな怪我を負った者もいない。魔導士隊は特に、現地で出会う魔導士に対処法や技術を教える機転もできている。歪みの生きものを相手取るのも、リシェットを長に持つ彼らだからこそ、皆が皆、対処のための知恵と力を持っている。いざという時に備えた教育と訓練は、こういう時こそ輝いてくれる。
歪みの生きものへの対応ができないのならば、この機に乗じようとする盗賊や山賊、荒くれものの対応をしろと二軍以下の各軍へ通達をすれば、ものの見事に抵抗を受けた。曰く、そんなことは傭兵団や冒険者にやらせろ、だ。もう一度、軍の存在意義について目まぐるしく思案し、別の陳情書が握り潰された。
お前たちよりも、冒険者の方がはるかに、民のために、人のために、動いてくれている。
もっと強く、もっと強引にやっておくべきだった。今更後悔したところで遅いが、本当に頭の痛い問題だ。
連携が甘い、上下関係がただの敵、それぞれを尊敬するための機会もなく競い合わせる。この仕組み、二百年前の始まりはそれでよかったのだろう。目先に【渡り人】という脅威が事実あったのだから、同じことが起きないようにという仲間意識が当時はあったのだ。
だが、時代が変われば、時が進み過去が薄らげばこそ、そこを補填するための、変革するための何かが必要なのだ。だからこそ軍師最高司令官の任に就いて早々、軍師は軍の在り方について変革を提言し、自らが率先して壁を崩そうとした。だが、国政に忙しいという言葉で後回しにされたことは忘れない。
正直、その観点から言えばアズリアは好都合な道具だった。戦争のない時代を長く過ごしたスカイに、戦争を仕掛ける相手がいるのだと知らしめることは、気を引き締めることにも繋がった。
同時に、海上戦に奔走したのはツカサに聞かせた通りだ。今後のためにも負けるわけにはいかなかった。
軍師は己の正装である帽子を外し、それを睨んだ。軍師最高司令官の証である白い装束は、王家から直接賜ったものだ。特にこの帽子は国王陛下より直接拝領した。じっと、それを睨んだ。
「…必要か?」
先を見通せない者を長に据えておくことに意味があるだろうか。構わん、任せると言いながら、最後の鍵を渡さない相手からそれをどう得ればいい。簡単なことだ。奪うのだ。
どす黒い思考に染まりかけた時、不意に空気が動いた。
「物騒な顔をしている」
すぅ、ふぅ、と息をして、帽子を机に置いた。横を見れば椅子に腰かけた時の死神が困ったように笑っていた。釣られて同じような顔を返した。
「やぁ、怪我は随分よくなったようだね、セルクス。ラングに感謝しないと」
「あぁ、そうだな。やはり本腰をいれて体を休めると治りが違う」
時の死神はこの戦いから手を引けと言われたあの日から、自らのいるべき場所に戻り、じっと回復に務めた。おかげで目に見える怪我はほとんどが治った。全ての理の神がセルクスの嘆願に了承を返したことで、セルクスへ少しだけ力が分け与えられたことも理由だ。怪我が治りさえすれば消えてしまうこれがあるうちに、いまだ前線にいる彼らの手助けがしたかった。
素直に言えば、共に冒険をしてみたいという私利私欲もあったが、それも見透かされたうえでの帰れ、だったのかもしれない。手厳しい、と胸中で呟き、目の下にくまを作った友を見遣った。本人が自身と自軍と対策を練っていても、今まで耳を貸さなかった者たちが現実にぶち当たり、苦労を掛けてきているのだろう。労わるような声が出た。
「随分と荒れているじゃないか」
「人というのは、上手くいかないものなんだよ」
達観した様子で言う友に、机をとんとんと叩いて座ることを促した。影にいた男は天幕自体を出ていって、二人だけにしてくれたようだ。時の死神は横笛で机を叩き、こぉんと木管楽器のような温かい音を響かせた。時の籠の中、なんでも話せるようにしてくれたのだと理解した。この時間は歴史にも残らない。
「君こそどうしたんだい、セルクス」
「いいじゃないか、たまには私も神ではなく、友として在りたい時もあるのだ」
「なんだいなんだい、いつもの僕の態度に不満でもあるのかい?」
「ははは、そういうんじゃないさ。ラス、お茶をくれるかな」
はいはい、と紅茶を慣れた手つきで淹れる友に目を細める。少しだけ表情から険が取れて肩の力が抜けただろうか。いい香りの紅茶が置かれ、礼を言って一口いただく。素晴らしい香りだ。好きこそものの上手なれとはよく言ったものだ。
「あぁ、美味しいね」
「よかった。それで、何度も聞いて悪いけど、本当にどうしたの?」
「少しだけ厄介なことになってしまった。とはいえ、それを誰に伝えればいいのかわからなくてね。君なら悪いようにはしないだろうと思い、零しにきた」
「セルクスでもわからないって、何があったの?」
ふむ、とセルクスは少しだけ言葉を選び、話した。
「魂丸ごと消滅させるものだと思っていたのだが、どうにも、生き残ってしまったようでね」
「セルクス、わかるように話してほしいなぁ。僕は君と違って、その本を見れないんだよ。まさかラングたちが失敗した…?」
時の死神が持つ特別な本、記憶の結晶、知識の塊。ヴァンはここにあるのだ、と言われるそれを見たことがない。
そうだった、とセルクスは紅茶を置いて苦笑を浮かべた。
「神の失敗、或いは失策、もしくは運命。私はツカサをそう評しているのだ」
「…様々な意図がありそうだね?」
「それはもう、多くの意図を、意味を持っている。呟くように言ったつもりだが、ラングがどこまで覚えていてくれるかは賭けだった。結論、その賭けには一先ず勝っている」
友は少し首を傾げた。敢えて遠回しに言っているのはわかるのだろう、じっと続きを待ってくれていた。
「セシリーはセリーリャと名を変え、生きている。いや、正しくは動いている、か」
「まさか、本当にラングが仕損じたのか? だとしても名を変えるなんてどういうことだい?」
「ツカサの生来の優しさと甘さの結果だ」
「…【変換】か」
「そうだ。神の力はなくなった、イーグリステリアとしての魂も、約束通りクリアヴァクスが回収し、消した。けれど、魂のない体に力の残滓がわずかばかり残っている」
それは、人なのか? と友が視線で問うている。さぁて、と目を細めてやれば眉を顰められた。
「悪さはもうできないさ。イーグリステリアだった時の記憶もクリアヴァクスが持って行った。魂がないからこそ私にはもう、何も手出しができない。ふっ、そうなるようにクリアヴァクスが仕向けたのだろうが、いったいどういう風の吹き回しか」
「あの人にそんな優しいところ、あったかな」
むぅん、と友が唸る姿にくすりと笑みが浮かぶ。
だが、確かに意外ではあるのだ。時の死神に成ってから、そう簡単に消されない立場なのをいいことに彼の神にあれこれと口出しをして、妻の惚気を聞かせ、息子を抱かせ、温もりに、ヒトに触れることを無理強いしたことであの神は少しずつ向いている方向が変わったとは思う。とはいえ、他の世界に迷惑をかけた子らへの慈悲は一切持たなかった。イルは最初から最後まで、結局全ての理の神の視線一つ与えられなかった。
だというのに、だ。いったいなにが全ての理の神の考えを、行動を変えたのか。
それもまたツカサという【変換】が理由なのだとしたら、いずれあれを刈り取るのは自分なのかもしれない。
今はまだ良い方に作用しているので大鎌は置いておく。
「その子、どのくらいその力というのがあるんだい? 影響は?」
うん、と相槌を打ちながらこっそりと思案から戻り、藍色の目を向けた。
「魔力も理もない、本当の意味での抜け殻だ。人の寿命で四十年ほどか、じわじわと世界へ溶けだして、やがてぱたりと倒れるだろう」
「四十年か…」
自身の人生を考え、その四十年という時間を計っているのだろう。小さな会話を深く読み解こうとするからこそ、この友と会話をする意味がある。あちらこちらで種まきに勤しんで申し訳ないな、と気づかれないように胸中で囁く。
さて、友の悩みも聞かせてもらおうか。
「ラス、先ほどは物騒なことを考えていたようだが、どうするのだ」
「そんなに悪人面してた? …しないよ、今はね」
机に置かれた軍師帽へ感情のない眼差しが注がれた。声を上げ続け、仲間たちと変えようと奔走した疲れと、怒りと、悲しみと、絶望と、諦観が全て綯い交ぜになり、そしてどうでもよくなった男の目だ。国を取ろうと思えば取れる余裕が、逆に今、この男を一歩手前で留まらせているのだ。
仲間はこの男のために命を懸けられる。その部下はその隊長たちに、自分たちを守り続ける軍師に命を懸けられる。走り、叫び、未来のために行動し続ける軍師に誰が光を見ないというのか。
加えてこの男には理の加護がある。スカイに対しありとあらゆる勝利の布陣が整っている。指先一つで最強と名高いスカイを奪えるのだ。そもそも最強を率いているのがこの男なのだから。
セルクスの視点からしても、もし、今各軍との協力体制が整っていたのならば、イーグリステリアとの戦いは、オーリレアで片がついていたかもしれないと思えた。軍師が他軍を頼れなかったのは、偏に軍師の忠告を重く受け止めなかった王家のせいでもある。
王太子が謝罪した記憶もセルクスには見えるが、時すでに遅し。しかしそれもまたヒトである。案外、目に見えない脅威に対し、事前に備えられる者は少ないのだ。備えられる者こそ、生き残れる者だ。
軍師は低い声で言った。
「平和な時間が長すぎたんだ。せめて備えることすらできないとは情けない」
「君たちは実際にイルという脅威に立ち向かったからこそ、だな」
「国王陛下とフィルは少なくともイルの存在を知っているのだから、もっと危機感を持ってもらいたかったよ」
自分の淹れた紅茶で気を静め、軍師は目を瞑った。ぎゅうっと眉間に皺が寄っているので眼精疲労もすごいのだろう。思わず声を掛けた。
「大丈夫か?」
「…うん」
むすりとした声で返されその肩を叩いて慰めた。ありがとう、とそれをぽんと叩き、軍師は目を開いた。
「幸か不幸か、今回のことで必要なことに気づいた他軍の兵士たちもいるようだ。今後はそういった危機管理能力を持っている人材をもっと登用して、記録も残し座学も用意したい。どうにも軍師連中は無駄なプライドと頭が固すぎるけど、死んでも構わないと思われている策指揮は部下にも伝わるものだ。やがて離反と陳情が増え、罷免される」
「軍師最高司令官殿はどうされるおつもりかな?」
「さて、どうでしょう?」
にやりと笑い返され、おや、と目を見開いてしまった。覗いても構わないが、これはこのままにしておこうと思った。軍師もそういった覗き見は好まない。友人関係ではいたいのだ、
軍師はすいと姿勢を正し、天幕の中、どこか遠い場所を眺めて微笑んだ。
「言い続けるし、行動し続ける。それはこの地位に立った僕の責任だ。いずれ煩いと首を切られるだろうが、どこかで、誰かの胸に、片鱗が残りさえすれば…」
小さな熱が何かに燃え移り広がれば、それが誰かの暖かな焚火になるだろう。
遠くを眺めていた視線が今に戻ってきた。セルクスは楽しみを見つけた子供のように目を輝かせた。軍師の強い声は続いた。
「フィルの時代は持つ、僕が持たせる。ただ、僕が死んだ後、百年後、二百年後、きっとスカイはなくなっているだろう。そうならないためには王家に、後継者に頑張ってもらうしかない」
「スカイがなくなっていたら、君はどうする?」
「死んでいるのにどうにかできるわけないだろう?」
「言葉を変えよう、どうなっていてほしい? なに、希望で構わんよ」
変な質問、と言いながら、軍師は逡巡、そして言った。
「血に関係なく王として立てる者を探し、立たせる。探せば必ず、その時代、その素質を持つ者はいる」
あぁ、そうだろうな。セルクスは答えに満足気に笑みを浮かべた。
これだからヒトは面白いのだ。
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