4-47:ぬくもり
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前回同様、割り当てられた部屋に向かいほかほかの風呂をもらった。
捻れば出てくる熱いシャワーが気持ちよくて、湯を流しながら両手を使えることに感謝しながら頭の先から足の先まで体を清めた。
どうやら男所帯でにおいに慣れてしまっていたらしく、自分が感じているよりもにおいがあったらしい。石鹸で何度か洗い、お湯に浸かってふぅーと息を吐いた。クルドの、おじさんお年頃なんだぞ、の声が脳裏で響いた。気をつけよう。
風呂上りに冷たい水を一杯もらい、置いてくれていた肌触りの良い服に着替える。こちらも石鹸の良い匂いがして、ほっとする。
ただ、やはり今は魔力の回復が優先だ。ツカサはざばざばと洗った魔力の服を風魔法で乾かし、着直した。
部屋を出ればメルファスがにこりと微笑んでくれた。待っていてくれたのだ。
「ご案内いたします。軽食もご用意しましたので、ゆっくりと話されてください」
「ありがとうございます。本当ならもっと早くいろいろ、お礼を言えたらよかったんだけど」
「きちんと受け取っております。さぁ、お待ちかねですよ」
カイラスよりも柔らかな表情を浮かべるメルファスに緊張を解され、ツカサは廊下を歩いた。
エフェールム邸も少しだけ表情を変えていた。レースカーテンは以前より薄く、それを包むカーテンの色が淡い水色であったり、刺繍が白糸であったり、床に敷かれている絨毯は赤から花緑青へ、夏に合う涼し気な装いに変わっていた。
これが夜でなければもう少し色合いも違っただろう。明日はこの廊下も楽しみにしようと思った。
「さぁ、どうぞ」
「ありがとう」
案内された先はモニカの部屋だった、訪れるのは初めてだ。メルファスが扉を開けてくれて中に入った。淡い桃色のカーテンや若葉色の絨毯など、女性らしい色合いになっていることに驚いた。ツカサの部屋とは雰囲気が違う。
すでに軽食の載ったカートが着いていてエレナとモニカが机に並べ直し、アーシェティアは早速頬張っていた。ふふっと笑えばアーシェティアはごくりと飲み込みながら頬を掻き、我慢できずにもう一つサンドイッチを手に取った。
エレナがほら、とツカサを呼んだ。
「お座りなさいな」
「うん」
呼ばれ、ソファに座る。隠れ家では硬い木製の椅子だったのでこの感触も久々だ。ぐぅっと腹の虫が鳴いて、食事をさせてもらいつつになった。
モニカが切り出した。
「助けてくれてありがとう、ツカサ。助けられたの、何回目かな」
「間に合ってよかった、ラングが先に行けって言ってくれてなかったら、どうなってたか」
生ハムがたっぷり挟まったサンドイッチは美味しい。日本のコンビニで見ていたようなものではなく、薄い生ハムだけで二センチはある厚みだ。生ハム特有のもちっとした抵抗が楽しい。動き回った体が塩分を欲していたので二口で食べてしまった。次は何を食べよう。
「あの人、あの変な生き物を見越していたとでも言うのかしら」
「わからない、でも、ラングのそうしろ、こうしろって勘、よく当たるんだよね」
薄く切ったバケットに挟まれたベーコンとレタスとトマトと固焼きの目玉焼き。大きな口でばりっと頂けばレタスのシャキシャキ感、トマトの甘い水分、しょっぱいベーコンに卵の食感が加わって、口の中が美味しいで溢れる。またこのベーコンの厚みが良い、材料を惜しげもなく使われているサンドイッチは食べ出がある。黒コショウも隠れていた、香りがいい。
がぶりと頬張ったらトマトが滑りそうになって手皿を作る。エレナに皿を差し出されたのでそちらに切り替え、逆側から食べた。
少しの間食事に集中した。モニカもサンドイッチを齧り、エレナはクッキーや甘いものを選び、紅茶を飲んだ。アーシェティアはツカサ同様にもりもりとサンドイッチを胃に収めていた。
果実水を飲んで一息、やっと体が落ち着いた。魔力を使うと本当に腹が減る。
さて、とエレナが視線をやればモニカが背筋を伸ばして尋ねてきた。
「どうして何も言わずにいったの? 本当に何があったの? その目、本当に大丈夫なの?」
ツカサは初っ端から試練にぶち当たった。
ヴァンが挨拶をさせてくれなかったから、と言ったところで納得するだろうか。
「ええと、ごめん。何から話せばいいのか、ちょっと、待って、ごめん、まとめさせて」
「いいよ」
モニカの了承を得てツカサは腕を組み、絨毯に視線を置いて汗をかいた。
素直に、ヴァンがすぐに出ようと言ったから、と言ってもいいかもしれない。あれはヴァンの個人的な見解であり経験で、モニカは違うかもしれない。
そもそも、制約下でどこまで説明できるのだろうか。エレナはシグレから聞いた上で話ができるが、モニカは同席をしたこともない。まいった、これは説明が難しいかもしれない。
ツカサは一先ず、謝罪と確認をした。
「突然出ることになってごめん、俺も急なことで、その、気が回らなくて。モニカたちはどこまで聞いてるのかな」
「ラングさんとアルさんが夜の間に、その次の日にツカサが出ていった。詳細は戻ったら聞けばいいけど、一応国の要請で動いてる、って」
「そっか」
なるほど、わかった。シグレも、ラングも、説明と謝罪をツカサにぶん投げたのだ。
シグレに関して言えば場所を貸しただけで元から知らぬ存ぜぬを通すつもりだったはずだ。そこについて感謝はあれど、恨みは少しだけだ。
問題はラングだ。最近わかってきた、ラングは女性からの叱責を逃れようとするところがある。確実に苦手だ。そのためだけに先に行けと言ったのだと思いたくはないが、説明を面倒くさがる癖が最近全面に出ていると感じた。追いついてきたら少し話し合いが必要かもしれない。
それはそうとだ。今現状、女性三人からの視線を一身に受けている状況をどうにかしなくてはならない。
ツカサはゆっくりと顔を上げて、また下げた。
「ごめんなさい」
そこから、何がごめんなさいなの? と続くことをツカサは知った。
しどろもどろではあったが、本当に国の要請であったこと、ヴァンの誘いを受けて、自分の魔力を追いかけてくるだろう敵からイーグリスを守るために飛び出したこと、神についての話を端折りながら、ツカサは機密事項なのだと多くの情報を濁して説明をした。
難しかった、まさか世界を守るために戦いに行っていたんだよ、と言ったところで、納得するのはエレナとアーシェティアだけだ。エレナは事態がどれほど深刻なのかを理解していて、ラングが引き受けたことにも諦観を以て受け入れた人だ。アーシェティアはただ沈黙を貫いている。
ほぼすべての情報が機密事項で済まされたことにモニカは不服そうだったが、説明もなしに飛び出していったことは一先ずお許しを得られたようだ。
その後一生をかけて文句を言われ続けるとは、この時はまだ知らなかった。
「それで、じゃあ、目は?」
「俺のスキルで【変換】っていう珍しいのがあるんだけど、ちょっと使いすぎたみたいで、その反動みたい」
「痛くないの? 目、真っ赤だよ。瞳は白いし」
「うん、大丈夫。見た目はよくないけど視力もちゃんとある」
ほぅっとモニカが息を吐いた。それから、エレナと、アーシェティアと顔を見合わせてから、笑った。
「おかえり、ツカサ」
「おかえりなさい」
「ご無事でよかった」
ようやくもらえた言葉に、じわっと胸に広がった嬉しさをどう表現すればいいのだろう。ツカサは笑い返した。
「うん、ただいま、モニカ、エレナ、アーシェティア。本当に心配かけてごめん。この後も、ダンジョンに行かなくちゃならないけど、少しだけ休めるから」
「…うん」
「三人が過ごしてた時間も教えてよ」
「うん、あのね、エフェールム様と契約して、お花を卸していただけることになったの」
「どういうこと?」
エレナとモニカ、アーシェティアがふふっと三人だけで笑い合った。置いてけぼりを食らって、ツカサは苦笑を浮かべた。
モニカの頑張りを聞いて誇らしくなったり、アーシェティアが騎士団と毎朝鍛錬をするようになって、結構モテているらしいと聞いたり、エレナの冒険者証から【異邦の旅人】が抜かれていたり、この短い期間であった小さな変化と大きな変化を四人で語り合った。
そうか、エレナは離脱したのだ。ラングから覚悟しておけと言われていたことが、自分のいない時に成されていた。それを少しだけ寂しいと思いながら、エレナの新しい出発を祝わなくてはならないだろう。どう言えばいいのかわからず、ただ瞑目をして言葉を選んだ。けれど、結局形には成せず、ふと、ツカサはエレナを見た。
「そういえば、オーリレアにしばらく滞在してて、マリナさんと会ったよ。依頼品は渡した」
「あぁ、そうだったわ! ありがとう、マリナがイーグリスに来てくれたのよ。少し顔を合わせて、お茶の約束を果たして、一家揃って今はイーグリスの宿にいるわ。黒い雨からこちら、私たちはエフェールム邸を出られなくて会っていないけれど」
聞けば、シグレから外出禁止を言い渡されているらしい。この状況下、守るのであれば確かにこのエフェールム邸がいいだろう。マリナがここに到着した報には胸を撫で下ろした。
「よかった、無事に着いてたんだね」
「貴方、かなりの額を渡したわね?」
「一か月ゆっくりしてほしくて」
エレナは苦笑を浮かべてツカサを見遣った。
実際、今のツカサにはそう大した額ではなく、骨休めしてほしいだけだ。ツカサの金をどう使おうがツカサの勝手だけど、とエレナは息と共に肩を下ろした。
「あまり甘やかさないで頂戴。あの子どうしても、無意識に甘えたなところがあるから」
「次は気をつけるよ」
マリナが言っていたエレナの姿が少し見えた気がした。きっと口うるさく見えただろうな、とツカサは思った。
こんこん、と扉がノックされた。はい、とツカサが反射で答えればカチャリと開けたのはモリーンだ。
「失礼いたします、ラング様、アル様がご帰還なされました」
絶対殴ってやる。ツカサはがたりと立ち上がったが、それより早く動いたのはエレナだった。その背中に言葉を失い、今握った拳が緩む。
「今はどこに?」
「お部屋へご案内いたしました。少々汚れを落としてから会話したいとのことです」
「そう、申し訳ないわね、モリーン。ラングの部屋へ連れていってもらえるかしら。エフェールム邸は広くてわかりにくいの」
「申し訳ございません」
つい、とモリーンは深く頭を下げた。
「エフェールム邸の平和を守ることもまた、私の役目でございます」
汚れを落とす、ということは、風呂に入るということだ。シールドを着けているラングが来訪を喜ぶとは思えない。エレナはぎゅうっと拳を握り締め、それからソファに座り直した。
「ごめんなさい、冷静ではなかったわ」
「いえ、恐れ入ります。ラング様、アル様は準備が整い次第声をかけたいとのことです。ヘクター様とセリーリャお嬢様はお体が弱っているご様子でしたので、ご依頼通り保護をさせていただきます。皆さまを後程応接室にお呼びいたしますので、今しばらくお待ちください」
「ヘクターはわかるが、セリーリャお嬢様とは、なんだ?」
アーシェティアが首を傾げ、モリーンは顔を上げて答えた。
「【異邦の旅人】のお三方が旅の途中で保護をされた、三歳の女児でございます」
「ツカサ、説明しなさい?」
先ほど許されたはずの空気が再び緊張感のあるものに変わり、ツカサは両手で顔を覆った。
――― 厳しい取り調べの後、ラングとアルの準備が終わり、話がしたいとの伝言を受け、全員で応接室に移動した。
セリーリャのことは災害孤児として保護をしたのだと説明した。事実でもあるので問題ないだろう。【快晴の蒼】のラダンが運営する孤児院に引き渡す予定だと言えば、無責任ではないか、とアーシェティアに眉を顰められた。言い訳がましくなってしまったが当初保護をしたのはラダンで、どさくさに紛れて誘拐されたのを助け出したのだと捕捉をしてどうにか許された。誘拐させたのが本人という点を除けば、これもほぼ事実だ。
廊下での会話は少なく、この後どのような会話があるのか多少の不安を抱えながら、扉をノックするメルファスの背中を見ていた。
中から、入れ、と返ってきて扉が開いた。
素早くエレナが中に入り、右手を振りかぶった。慌てず、わかっていたかのようにするりとその腕を掴んでラングは首を傾げた。
「エレナ、何の真似だ」
「何の真似ですって?」
もう片方を振りかぶって同じように掴まれ、その手を振り払おうとするエレナに微動だにせず、ラングはそれを眺めていた。ツカサが慌てて中に入れば風呂上がりの少し湿った空気が部屋にあった。ラングもアルも、風呂をそこそこに身支度を整えてここに来てくれたのだろう。
アルは椅子に腰かけてキッシュなどの食事を食べながら軽く手を上げてツカサに挨拶した。それに頷いて返し、改めてラングとエレナを見た。
「貴方、一発殴らせなさいよ」
「断る、殴られる道理がない」
「道理がないですって?」
「ないだろう。私はお前の夫ではない、ジュマでのことと重ねるな。パーティを離脱したことも聞いている」
さぁっと顔が青くなったのは、恐らくその場にいる全員だ。メルファスですら微笑を湛えたまま固まっている。カイラスの右腕としてエレナたち残留組に接してきていただけに、内心では激しく動揺していたのではないだろうか。
はっきりと拒絶を伝えるラングの声に冷たさはない。いつものように事実を伝えただけなのだろう。だが、言い方というものがある。この点に関してはアルを見習ってほしい。
ツカサは意見を言おうとして、その前にエレナが言った。
「元仲間が危険を冒したのよ、それも息子を巻き込んで。文句の一つ、平手の二つ入れたくなってもおかしくないでしょう」
「面倒な。過保護なことをするな」
「もう一発増やそうかしら」
「お前には無理だ。それより、痩せたな」
ゆるりとラングがエレナの腕を離した。
そして再び叩こうとして目測を誤ったエレナに軽く腕を回して、くるり、ふわりとソファに座らせ、シールドを揺らした。イタズラはもうやめろと言いたげなその態度にエレナは深い息を吐いてソファに座り直した。ラングが許さない限り、その頬を張ることはできないだろう。許しているならば最初の一発を受けている。
ツカサはちらりとモニカを見てしまった。その視線に気づかれることはなかったが、叩かれてもいないのに頬を掻いて誤魔化した。
ラングは上座に座り、それを見て全員が座った。シールドが上がって鼻先が見えていたので、最初からエレナが平手を選ぶことを予想していたのかもしれない。ということは、あれはラングによる罠だ。とはいえ、立場をお互いに、仲間に明確にするのはラングらしい。エレナが傷ついていなければいいが、と窺えば、大丈夫そうだった。エレナもラングという男の性質はもうわかっているのだ。
痩せたな、という言葉を経てエレナを見れば、確かに前よりも細くなったように思えた。自分のことに必死で気が回っていなかったことを申し訳なく思った。いつもこうだ、と我ながら恥じ入る思いだった。
メルファスがお茶を淹れて部屋を辞すのを無言で見送り、パタンと扉が閉じて、誰かが声を発するのを待った。
ぎ、とソファの革が擦れる音を立て、ラングは膝に肘を置いた。防音の宝珠は使われなかった。
「早速だが本題に入る。仮で【黒のダンジョン】と呼ぶが、南にできたダンジョンの情報を連携する」
「いや、待って、それより先に話すことあるよね?」
本題を切り出そうとするラングに、ツカサは眉間を揉みながら口を挟んだ。アルが苦笑を浮かべ同じように口を挟んだ。
「【黒のダンジョン】周辺で情報収集したら、まぁ結構やばそうでさ。兄貴に依頼はしてるけど、食料を手に入れ次第、ダンジョンに行くことになる」
「二日は休めるようにする。お前もここで歪みの生きものを相手に大立ち回りをしたそうだからな。魔力の回復を待たねばならんだろう」
「それ、兄貴が礼を言ってた。頑張ったな」
褒められ、口元が緩みそうになって咳払いをした。モニカが横からそっと手を握ってきてそちらを見遣った。不安そうな顔で、指先が冷たい。
「ダンジョン、やばそうって、ツカサ、また」
右目を見られているのがわかる。ツカサは微笑を浮かべて首を傾げた。
「目の色が違う俺は、嫌い?」
「そうじゃないよ! ただ、怪我しないで欲しいだけ」
「ごめん、わかってる。でも行かなくちゃ。俺がいないとラングもアルも、もし怪我をした時に治せる人がいないから。魔法を防ぐための魔法障壁だって、俺がいないとだめなんだから」
とん、と胸を叩けばモニカはちらりとラングとアルを見た。苦笑いを浮かべるアルと、少しだけシールドを揺らすラング。ふぅ、とモニカは深呼吸してから姿勢を正した。
「わかりました、冒険者の妻になるなら、これも慣れないといけないよね」
ぶわっと首筋が熱くなった気がした。【黒のダンジョン】の話もあるが、これは切り出すいい機会かもしれない。ツカサはモニカの手を握り返して、あのさ、と切り出した。
「俺、モニカに伝えないといけないことがあるんだ」
突然の告白にアルが目を丸くして、エレナは不安そうに二人を眺め、アーシェティアは首を傾げ、ラングは微動だにしなかった。
ツカサは自身の持つ【変換】について説明した。何かを変えられること、それは物だけではなく人もそうで、今までにも生き方を変えられるようにしたり、心持ちを変えられるようにしたり、様々な理由はあれど、自分にとって都合の良い力の使い方をしたこと。
自分が気づかずに使っていたかもしれない可能性に気づき、怖くなったこと。
「モニカをここまで連れてきたのが、俺の勝手だったら、どうしようかと」
アズリアで寂しくて、不安で、好きになるように変えたのかもしれない。そこまではっきりとは言えなかったが、皆が皆言いたいことはわかったらしい。アルは流石に食事をやめて膝に手を置いてじっと黙り込んで、エレナは自分の胸元をぎゅっと掴んでハラハラしていて、アーシェティアはモニカを心配そうに見つめている。
ラングはソファにゆったりと背を預けて腕を組み、ツカサを眺めていた。
カチ、コチ、と振り子を揺らして時間の経過を知らせる音が空しい。握り締めた手は汗をかいて、握られたモニカは気持ちが悪いだろう。それでも、ツカサは怖くてその手を離せなかった。
「ツカサ、覚えてる?」
ふと声をかけられ、そろりと顔を上げた。モニカは優しい笑みでツカサを見ていて、その柔らかい視線に少し目が泳いだ。
「えっと、なにをだろう」
「私、記憶喪失の人が記憶を取り戻した後、記憶を失っていた時のことをどのくらい覚えてるかってわからないけど。エドって呼んでた時に、一緒にお祭りに行ったの覚えてる?」
「あぁ、豊穣祭? 覚えてるよ」
アズリア王都アズヴァニエルでエドとして過ごしていた時間、怪我が治って動けるようになってから行った王都の祭りだ。年に三回、規模は大したものではないが節目節目にハルフルウストに感謝を捧げるためのもので、王都全域ではなく中通り一本だけで行われていた。小麦を使った屋台が多く、美味しくいただいた記憶がある。
ラダンの講義を受けた今なら、その規模の小ささが豊穣の女神ハルフルウストの王都での信仰規模の縮小に伴ってのこととわかる。恐らく、王都以外ではもっと賑やかだったのではないだろうか。
エドのリハビリにもいいだろうと休憩を多く挟みながら道を行って、モニカが案内してくれたことを思い出す。あの時に空間収納さえ思い出していれば、と唇を噛めば、モニカの指に撫でられた。
「あの時、エドは私の手を離さないでくれたんだよ」
「人がすごかったから、はぐれたらと思って」
「私もね、そうだった。この人とはぐれたら、この人は右も左もわからないで、どうにかなっちゃうんじゃないかって。でもね、嬉しかったの」
どういう意味だろう。ツカサは首を傾げて続きを促した。
「エドはね、しっかりと私の手を握って、人波を割るように前を歩いてくれたの。そのおかげで歩きやすくって、背中がかっこよくて。私、そんなかっこよくて優しい人を好きになったんだよ」
にこ、と笑って手を重ねられて、ツカサは肩から力が抜けた。
ツカサは記憶を失っていながら憧れの背中を追い続けていた。霞んだ視界、自分を守る体、腕、常に前を歩くその背中を、ツカサはどこかで覚えていた。
それを少しでも自分のものにできていたならよかった。そのおかげでこの子に好いてもらえたならば、【変換】のおかげでなかったのならばそれだけでいい。
「うん、俺も、命の恩人ってだけじゃなくて、何があっても明るくて強いモニカを好きになったんだ」
ぽわ、とモニカが赤面するのを見て急に恥ずかしさが浮かんだ。
コホン、オホン、とアルの咳払いが響き、ハッと二人して手を離した。それににやりと笑いながらアルは揶揄うように言った。
「心配事がなくなってよかったな? でもそういうの、二人の時にやってくれよ、こっちが恥ずかしいぞ」
「うん、ごめん」
「幸せそうな顔しちゃってさぁ! ツカサ、お前ちょっとラングに似てきてるから気をつけろよな」
「え、どこが?」
「首傾げて続き促すとことか、びっくりした」
「そんなことしてた?」
ツカサは不思議な心地で首を傾げ、モニカを見遣った。してた、と言いたげに頷くのを見て、少し照れて頬を掻く。
「話を進めるぞ」
すぱりとラングが切り出し、ふわふわし始めた空気が緊張感を取り戻す。ついとシールドがモニカを見た。
「冒険者の妻になるのなら、覚悟を持って参加しろ」
「はい」
モニカはシールドの奥の目をしっかと見据え、頷いた。
すぅ、とラングが息を吸って、皆がそちらへ視線をやった。
「【黒のダンジョン】は名の通り、中が黒い。常我々の明かりとなっている魔法苔、光苔もまだ少ないそうだ。生きて戻った者たちの証言はこれだ」
カサリと紙が取り出されて机に置かれた。口頭での情報だと聞き漏らしたり聞き返すことがある。そういった時間のロスをしっかりと無くす対策だ。これは以前にもカイラスがしていたことだが、やはりそうなのだと思った。
皆で覗き込んで黙って読み始めた。
壁は黒い
魔法苔僅少、ランタン、トーチが必須
罠はないが突然ダンジョンが動いた
前を行っていたパーティが突然消えた
十階層までは魔獣が出ない
魔獣暴走の前兆か?
女の声がする
十一階層からは魔獣が出る
魔獣が見たことのないもの
気持ち悪い、二度と行かない
闇が深い
ダンジョンの構図や地形についてより、感じた不安を書き連ねてあるような内容だ。
今は迷宮崩壊と魔獣暴走に備え、シグレの要請に応え、冒険者が【黒のダンジョン】付近で野営をしているらしい。
「確かなことはわからないが、ダンジョンは今まさに成長をしているのかもしれない。【異邦の旅人】は核を、あの女を目指して進むことになる」
「できれば三人で行きたいところだけど、もう一人混ざると思う」
「誰? アーシェティア?」
「いや、アーシェティアはここの防衛。ヴァーレクスだよ」
ぴくり、と手が震えた。そこでなんで、どうして、と叫ばなかったことを自分で褒めてやりたかった。
「置いてきたんじゃなかったんだ」
「こっちも急いでたからな、わざわざ声かけるのも面倒…時間がなくて」
ごにょ、と言葉を濁したので正直置いてきたかったのだろう。特殊部隊の部下が報告したか、隠れ家に飛び込んでヴァンが面倒になって伝えたか、どちらかだ。
ラングは腕を組んで吐き捨てた。
「なんにせよ、あいつは盾として使えるはずだ。不本意だが連れていく」
「了解、わかった」
「とはいえ、ヴァンもまたあいつには用があり、外の指示が終わり次第来いと言いつけてある」
何をだろう。ツカサは素直にそれを尋ねた。
「特殊部隊の生き残りが勿体ないだろう。イーグリスの防御人員に回せるよう、ついてきた者たちの扱いを考えろと依頼をした。それが済めば来るだろう。とにかく、明日から二日休む、三日後の朝に出る。魔力の回復に努めろ」
「うん」
ラングはするりと立ち上がり、全員を見渡した。
「私は先に休む、夜更かしは今日だけにしておけ」
以前は早朝から鍛錬をするので夜更かしはするな、と言われた場面で、逆のことを言われて目を見開く。それだけ【黒のダンジョン】への警戒心を上げているのだろうか。思い残すことのないようにしろと言われた気持ちで胃がきゅうっと縮まる感覚がした。
ラングが扉を出ていくのを見送ってからアルも立ち上がった。
「俺も休む」
「アルは話さないの?」
「んー、俺はいいかな」
さす、とうなじを撫でて、アルは苦笑を浮かべた。
「冒険者って、それぞれ自分の中でジンクスってのがあると思うんだよ」
ジンクス、ツカサは言葉を繰り返した。何かをする前に必ずやることや、考えることなど、様々な形のものがある。ツカサは自分にとっては何がそれなのかをふと考えた。その思案から顔を上げさせるように、アルが明るい声で言った。
「俺、そういう願掛けは大事にする性質なんだ。ちゃんと帰れるように、話はとっとくようにしてる」
んじゃな、と部屋を出ていくアルの背を眺め、ツカサは喉が渇いた気がした。
ホットワインが無性に飲みたかった。
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