4-42:不思議な縁
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世界を見守る者のことは【快晴の蒼】の親友たちにも言っていないことなので口外はするな、殺すぞ、と五寸釘を打たれ、ツカサとアルは素直に頷いた。
かつて師匠がそうしたように、いずれ一度老衰で死ぬふりをして理から外れ、シェイは後継者を見つけるまで世界を、歴史を見守り続けるのだという。
ツカサは途方もない話に考えるのが嫌になった。
片や、ラングはその人生の離れ方をイーグリステリアと重ねて見ていた。やはりあれも魔力に属するものなのだと改めて実感していた。
五寸釘の代わりと言っては何だが、ざっくりとエフェールム邸でラングとシェイがサシで話した内容を聞きだした。
どうやらシェイはラングが身に着ける装備に懐かしい魔力を感じ、それが記憶にあるものと正しいかどうかを確かめるためにサシでの会話を求めたのだそうだ。
結論、それはシェイに役割を引き継いでふらりと消えた師匠のもので、ラングとシェイは少しだけ懐かしい会話をして、お互いに知己となっていたらしい。
世界を見守る者・デラ・リスタがどうなったのかと問えば、力と役割を譲り渡し、ラングのように正規の方法で世界を越え、残された命をリーマスの悪友の一人となって思う様生きて死んだらしい。
ラングはその人と三十年以上前に出会い、シェイは七年前に別れたという。
時間のずれは世界渡りがあったから、それもまた必然だ、とシェイは言った。だからこそセルクスの報酬がラングにとって意味を成したのだ。
そこにも様々な物語があるだろうが、それはラングとシェイの胸に秘められることになった。懐かしい思い出を語りたくないわけではなく、それぞれが頭の痛い記憶があるからだと言うので笑ってしまった。
なんだかすべてがどうでもよくなって頬杖を突いた。懐かしい、この諦めの境地。出会った当初はラングによく抱いていたものだ。
「ラング、本当いろいろ持ってるね。チートじゃん」
「褒められたわけではなさそうだ」
軽くシールドを傾げ剣呑な態度も久々で、ツカサはそれにも笑った。
不思議だ、世界の危機、神との戦い、黒い雨、新しいダンジョン、これからどうすればいいのか、ありとあらゆる心配事があるというのに胸の中が凪いでいる。
ラングが、アルが、仲間がいれば、なんでもできるような気がした。
「さぁて、そいじゃどうする?」
話に一区切りついたところでアルが頭の後ろで腕を組んで、まるで明日の天気を話すように切り出した。ラングは一旦の方針を打ち出した。
「まずはイーグリスへ、ダンジョンに入るにしてもどの程度の時間がかかるかもわからん。準備はする。生きて戻る奴らもいるだろう、情報を得たい」
「まぁ、ダンジョン行くならそうなるか。それにしたってダンジョンのどこにいるんだろうな?」
「ゲーム的に考えるなら最下層だよね。でも力とか命とか、冒険者を狙ってるなら通路にも出てくるのかな」
「そもそも、ダンジョンが生まれるのは理の内だ。魔力に属しているあの女にとって居心地は良くはないだろう」
「世界を見守る者の観点から一つ」
【異邦の旅人】が目の前で方針を決めているところにシェイが指を一本立てた。すっかり作戦会議に巻き込まれているがそれならばと声を上げた。
「生まれたてのダンジョンってのは、常に成長を続けているようなもんだ。しかもその間、活発に動くせいかダンジョン中の決まりごとが緩い。例えば、ボス部屋にいる魔獣が二、三階層分いるとか、目の前で通路が広がっていくとかな。中に入る冒険者が多ければ多いほど、その命を、動く熱のようなものを取り込んで成長していく。ヴァロキアは冒険者の国だっただろ、あそこで最下層が見えないのは、それだけ多くの冒険者が入り、死に、ダンジョンの栄養になっているからだ」
「じゃあ、踏破済のフェネオリアとか、スカイのダンジョンは?」
「ダンジョンの成長速度より、攻略が早かったにすぎない。核に追いついたんだ」
「なるほどな、ダンジョンってそんな仕組みなのか」
アルは感心した様子で頷いた。
「言っとくが、これも外に漏らすなよ」
「秘密が増えていくね」
胸を叩いて言えばシェイは少しだけ眠そうに笑った。だが休ませることはなく、容赦なく会話は続けられた。
「シグレが規制を敷いているならば、冒険者は食われない。ダンジョンはそう深くはならないはずだが…、イーグリステリア自身の栄養が、どの程度かわからんな」
「まぁ兄貴そういうのは得意だし動き早いからな。たださ、どうしてその、理のアレなのに、イーグリステリアはそこを逃げ場に選んだんだろうな?」
「単純にご飯が向こうから来るから、とか? ダンジョンが成長するなら、逃げ場も増えるし、敵から遠くなる?」
「逃げ場はなんとなくそうかもしれないけど、そんな植物の魔獣じゃないんだから、そこにいて来るのを待つだけってのもどうなんだよ?」
「いや、あながち間違いではないだろう」
顎を撫でながら言うラングに視線が集まる。
「理の片鱗を持つセシリーが、ヘクターを使ってここを逃げ出した。その合流を待つことが目的ならば、定期的に食事さえ摂れれば良い、と考えた可能性はある。合流するのが理の片鱗であればこそ、ダンジョン自体もどうにかできるという当てもあるのかもしれん。もちろん、迎撃にも向いているだろう」
「ラング、待って」
「俺もちょっと待ってほしい」
ツカサとアルが制止をかけた。
アルは手をツカサに向けて促し、ツカサが代表で尋ねた。
「ヘクターがセシリーを連れて行方不明なのは把握してたけど、片鱗がとか、なに? 詳細をまずは教えてよ。いつそんな話になったの」
「ヴァンと共に呼び出しを受けた時にだ。イーグリステリアの魔力に触れて目を、覚醒をしたセシリーが、魔力なしのヘクターを操り、合流を目論んでいる、と私とヴァンは見ている」
「そういうのさ、普通もっと早く言わない? ここでのんびり作戦会議してる場合じゃなくない?」
「ヘクターもセシリーも、ラングかヴァンがなんか言ってそれでいないのかと思ってた」
「俺は今初めて、ヘクターとセシリーがいないことを聞いた」
シェイすらも呆れた声で言い、ラングは肩を竦めた。
「セシリーを殺せば良いだけだ。最悪、ヘクターもな」
「はぁー、これだもんな」
アルが両手で顔を覆い、ぐしゃぐしゃと髪を混ぜ、絞り出すように言った。
「くっそ、止めたことは後悔してないけど、結局こうなるのかよ。どうしてただ平穏に生きるってことができないんだ」
「…神様だからだよ、きっと。俺にも、わからない」
わからない。人を操るということも、他の兄弟の世界を奪うということも。
ん? とツカサは今思いつきかけたことを必死に拾い集めた。
「なんか、すごく人っぽかったけど、人じゃない?」
「誰が?」
「イーグリステリアとセシリー、その、上手く言えないけど、神様って人のもの欲しがるかな?」
「…セルクスはそんな感じじゃないけど、あいつもあいつで特殊だからなぁ」
「いや、欲しがるは欲しがるんだけどさ。ギリシャ神話とか、北欧神話とか、日本の八百万とかいろいろあるけど、俺も詳しいほうじゃなかったから、なんだろうな、こう」
「…ラング、通訳頼める?」
「知らん」
「なんていうか、力に固執しすぎてるんだよ!」
ツカサは叫んだ。
「あの日見たイーグリステリアの行動が無理矢理な気がして」
「あぁ、まぁそりゃみんな感じてると思うけど。本人正しいみたいに言ってたけど、神になるってそんな命奪って魔力重ねて成れるなら、目の前で師匠が四百年生きて後継者探したって言ったこいつ、なんなんだよ」
「引き合いに出すんじゃねぇよ…。詳細は長くなるから省くが、世界を見守る者はこれでも理由あって存在している役割なんだ。俺は、世界を見守る者は最終的に代々引き継いだ目の魔力で長く生きるから【死】という理に【嫌われて】はみ出てるだけだ。とはいえ、首を切られたり致命傷なり、流石に死ぬときは死ぬ、残るのは目だけ、万能の神には成れねぇさ。あいつがそう言えるのはそこに触媒があり、他者のスキルを食えるからだろ」
「いや、だから、ええと」
「はっきり言え、思いついたことで良い」
ツカサはその思いついたことが怖くて言い難いんだ、と息を吸い、ラングに促され、小さな声で言った。
「…逆なんじゃないかな、俺たち、動いてるのがイーグリステリアだからそっちがメインだと思ってたけど、イーグリステリアが本体じゃなくて、セシリーが、本体、だったりして」
しん、と言葉が消えた。
ツカサは慌てて言葉を紡いだ。
「あの、こう、なんていうか、イーグリステリアは力を集めることが目的で、セシリーのほうがこう、それの受け皿、みたいだなー、と。いや、どっちにしろ中身と容れ物が一つにならないと意味がないとは思うけど、…だとすると、ほんとに不味いかもなーと」
「俺は、まだ、理解が、追いついて、ない」
アルは一言ずつはっきりと言った。ラングはその横で舌打ちをして顎を撫でた。
「なるほどな、あり得る話だ。二百年、ついに待っていた時が来たというのは変わらんが、主体が変わる。父である全ての理の神が差し向けた家族を犠牲にしたか」
吐き捨てるように言ったラングの言葉にツカサとアルは顔を見合わせる。それからラングを見れば言葉が続いた。
「三歳児の足では移動がままならず、イーグリステリアに自身と似た容姿の者を敢えて追わせ、連れてくる、もしくは家族に走らせ近いところまで移動をしたと見ればいいか。覚醒などではなく、単純に互いの生まれが遠くて動けなかっただけかもしれん。そうであれば、マナリテル教徒があの人数でスカイ各地へ散ろうとしていたのも辻褄が合う」
「加えてセシリーは、一人一人操れる者を確かめ、ヘクターが選ばれた。ラングも加護がなければ危なかったかもしれねぇな。もしそうなっていたら厄介どころの話じゃなかったぞ」
シェイの言うとおり、ラングが操られたと想像しただけでぞっとした。夢現な状態でアルの腕を斬り落とすような人だ、敵対するのは不利でしかない。
こほん、とアルは咳払いして話を戻した。
「うん、なるほど。それで、ラングに抱っこを強請って失敗してたのかもな。今のあいつの問題はダンジョンの入り口が兄貴によって閉鎖された、ってところか。それにイーグリスまではちょっと移動距離がある。ヘクターだってへばってるだろうし、操っているセシリー自体が道をわかるかどうか。今の今まで時間があったのは奇跡かもな…」
「途中でヘクターから乗り換えられているかもしれんな」
「馬みたいだな」
「実際そうなのだろう」
ふぅ、と全員が息を吐いた。
「合流地点は冒険者が教えたようなものだ」
「だろうな、ダンジョンは噂になるから」
「中に入る前に本体をどうにかしないと。そもそも今も外にいるかわからないけどさ、待ちくたびれて出てくるかもしれないし。さっきラングも言ってたけどダンジョンっていう理の中なら魔力であるイーグリステリアの力も、エネルギーとして吸収されたり、消滅の可能性もあるよね?」
「それ、あり得るぜ」
ずず、と壁を滑りながらシェイが頷いた。
「消化吸収ができず、歪みの生きものになったとしても、そのほうがマシだ。ツカサ、ちょっと来い」
「はい」
シェイは左耳からピアスを外すとツカサに差し出した。
「魔法石だ。ティリ・カトゥーアという種類で、魔力を回復させ、意識すれば溜められる」
「え、それなら」
「俺は前線には、もう出ない、出られない。貸してやる、必ず返せ。あと、この服も出発するときには返す、俺が寝ていたら、剥ぎ取っていけ」
うと、と目が閉じていく。指から滑り落ちそうになって慌ててピアスを受け取った。
「ガキが…死ぬなよ…」
それを最後にシェイは再び眠りに落ちた。ぎゅっと握り締めたピアスが温かい気がした。後で左耳にピアス穴を開けなくては。
ラングがシェイをベッドに横たわらせ、布団をかけてやり、振り返った。
「事が起きている時点で考えるだけ無駄か。真実はあいつらだけにしかわからん。私たちも動くぞ。ヴァンたちへの情報共有はツカサに任せる」
「俺?」
「そうだ、私は言葉足らず、アルは理解できていない」
「今はできてるって! まぁ、でも確かに説明ならツカサが適任だな、頼んだ。ついでに耳に穴開けてもらってこいよ、たぶんアッシュ辺りがそういうの器用だろ」
「うん、わかった」
ツカサは左耳を撫でて頷き、部屋を出た。
パタリ、ぱたぱた、トントン、とツカサが階下へ降りていくのを聞きながら、いまだ解除されない防音の宝珠の中でアルは腰に手を当てた。
「それで? 次は何の悪だくみだよ?」
「人聞きの悪い」
「わざわざツカサを追い払っただろ、流石にラングとの付き合いも長くなってきてるんだぞ」
「試したいことがある」
それ見たことか、やはり悪だくみがあるんじゃないか、とアルはそちらを半目で見遣った。
ラングはするりとナイフを取り出して徐に己の掌を斬りつけた。ナイフの軌跡をねっとりと血が辿り、掌に溜まる。それをシェイの口元に持っていき、ぽたりと垂らした。意図がわからず、ただ人の血を飲ませることの不気味さにアルは顔を引き攣らせた。
掌一杯の血を口の中に落とし、飲ませ、変化がないことにアルがほぅっと息を吐く。
「びっくりして止め損ねた、何がしたいんだよ?」
「私の血がどこまで私のものなのかを知りたい」
「難しいこと言うなよ。シェイに飲ませた意味は?」
「この血がドラゴン、竜だったか、それと混ざっているならば、何か薬になるのではと思ってな。大昔、その血肉を人が求めるだけの何かがあったのではないか、と」
なるほど、言わんとすることがわかった。ラングは己の血が薬として、魔力の回復や、傷ついた手足を癒す何かになっているのかを確認したのだ。
起きてさえいれば一応の許可は得ただろうが、説明も面倒で眠った今、シェイに試したのだろう。
ものぐさだな、とアルはそっとシェイを窺った。手を持ち上げて裂傷の痕を確かめる。これは治っていないように見える。本人に治す気がないとも聞いていた。布団をめくって足を確認する。最後に、ラングに蹴り飛ばされて転がっていった傷だ。これはツカサが、運び込まれてからはロナが治しているはずだ。
パッと見の変化がないように思えてアルは布団を直し、首を傾げた。
「特に変化はなさそうだけど」
「私にはあった」
言われてラングを振り返れば、差し出された掌に傷がなかった。血で汚れた掌に対し、切り傷がどこにもないのだ。治癒力の向上なのだろうか。
その手を覗き込んでいればラングがごく自然な動作で横からナイフをアルの腕に突き立てた。殺気もなく、一瞬の息む予備動作もなかった。
チキンにフォークを突き立てるように、当然のように刺されたもので一瞬呆気にとられ反応が遅れた。痛みも遅れてやってきた。バッとナイフを払って腕を引いた。
「いって! 何すんだ!」
そう深く刺されたわけではないが、一センチほどの傷口から血がじわりと滴る。ラングは再び自身の掌を斬りつけると血の滲んだ手でアルの怪我を掴んだ。
ひぃ、と血の混ざる生理的な嫌悪感にアルが腕を引いて再び逃げた。
ラングは己の掌を眺め、握ったり開いたりした。そこに、もう傷はないのだろう。
「なんなんだよ、ラング、ツカサが怒るのそういうとこだぞ! やる前にどうしてそれをやるのか、何がしたいのか言えよ! 今のはなんだ!」
「痛みは?」
「そりゃ」
痛い、と続けようとして口を開き、固まる。先ほど確かに刺されて傷ついた腕から痛みを感じなかった。バッと自分の腕を見遣り、ゴシゴシと血を拭う。
「嘘だろ」
肌についたラングの血はべっとりとのびても、そこに穴は開いていなかった。塞がった、いや、治っていた。
すごい、と思うより先に、不味い、と思った。これは人に知られてはならないことだ。
「…絶対、それ使って誰かを治そうとするなよ」
「そうだな」
「それから、ナイフを、しまえ」
このままだとどの程度の怪我までいけるのか試してきそうだと思い、アルは言い含めるように人差し指を向けながら言った。ラングは肩を竦めてそれを空間収納に戻したが、アルは不服そうに鼻を鳴らした。
「痛かったぞ、謝れ」
「すまん」
素直に謝ればいいというものではない。
だが、ここで文句を言い続けるだけ時間の無駄だと思った。非常にわかりにくく厄介ではあるが、これでラングは素直に謝意を示しているのだ。
ツカサが何度も言う、師匠の顔を見てみたい、をアルも最近はよく思う。
ふぅと息を吐いてアルは眠り続けるシェイを見遣った。
「ま、一番哀れなのはシェイだしな」
眠っている間に他人の血を飲まされ、勝手に経過を観察された魔導士にアルは深々と頭を下げた。自分より不幸な人がいることを喜ぶのは悪趣味だが、今は許してほしいと思った。そうでなければ今自分に起こったことをやり過ごせる自信がなかった。
シェイの言った、長い人生を耐えられるか、という言葉が、改めてアルに深く突き刺さったのだ。
怪我の治りの速さは死の危険から本人を遠ざける。血を失ってもすぐに立てる足は死から逃げられる。
そうして長く生きれば生きるほど、ラングが見送る人はどれだけ増えるのだろうか。息子も、孫もいると聞いた。それらが年老いて死んでいくのをゆっくりとした時間の中で見送ることが、置いて行かれることがアルには想像もできないほどの孤独を感じさせた。
生きられるだけ生きればいいと言った自分の言葉が無責任に思えた。
どん、と横から腕に拳を当てられた。いろいろ考えていたらそれなりに長い間頭を下げ続けていたらしい、ラングに気づかされた。
「気にするな」
どこまでを察しての言葉なのかが読めなかった。
けれど、アルは不安と罪悪感を押しやって、にっと笑ってみせた。
「悪い、ありがとう。俺たちも下行くか」
腕に拳を当て返そうとすればするりと避けられて、アルは文句を言いながらラングと共に部屋を出た。
その時、眠り続けていたシェイの体の中で異変が起きていることなど、二人は知る由もなかった。
――― 階下でのツカサの説明はそう長くかからず終わった。パーティメンバーの性質のせいか、説明する能力だけはどんどん上がっていく。
セシリーが本体である可能性も視野に、イーグリスへ戻りがてら探すこと、見つからなければ他の冒険者やシグレに協力を仰ぎ外を探し続けてもらい、その間に【異邦の旅人】はダンジョンの中のイーグリステリアを討つ方針であることを伝えた。
ヴァンたちも少し慌ただしくしながらしっかりとツカサに向き合ってくれた。
アッシュはさくりとツカサの左耳に穴を開け、ピアスを通して離れた。じくじくした痛みを治してピアスを撫でれば、体の奥底からぐいっと力を感じた。装備一つで変わる魔力の感触に改めて驚いた。
感動をしていればヴァンがツカサ、と名を呼んだ。
「すでに起こってしまっていることだから、僅かな日数の差などもはや問題にはならないだろう」
もちろん、事態は常に動いているから柔軟にね、と続けられ頷く。
「歪みの生きものは僕らに任せて、イーグリスで少し体を休めてから、準備をしてダンジョンへ行くように。疲れは能力を発揮できなくなるからね」
「うん、わかってる。そのつもり」
「君を強引に連れ出した僕が言うのもなんだけれど、恋人と母親にはしっかりと謝るんだ。僕のせいにしてもいいけれど、それは悪化させるからお勧めはしない」
「…状況を見て対応するよ」
「…経験から言ってるんだ、まずは怒られて、それから謝って、かつ、反論をしないことだよ」
首を傾げれば苦笑を浮かべるヴァンの後ろからアッシュが顔を出した。
「忘れてるみたいだけど、ヴァンは貴族だぞ。婚約者がいるんだよ」
「あ、そうか! 辺境伯だっけ?」
「まだ婚約者、だけどね」
ラノベや貴族物では幼い頃に婚約をして、学園卒業などで結婚をしている物語が多い。それは家を残すためでもあり、血を残すためでもあるはずだ。
ヴァンもそれなりにいい年だろうにまだ婚約止まりなのは何故かと問えば、軍人だから婚姻は結べないのだという。特に、軍師最高司令官や【空の騎士軍】の隊長格であることは、二親等まで危険が及ぶ可能性もあり、子がいたとしても婚姻は出来ないのだそうだ。
実際、遠い過去に妻子が殺された者や、兄弟が他国の間者に吊るされたことなどもあったらしい。今でこそ法も厳しくなり国に守られるが、ある意味の慣習なのだと説明を受けた。それもあって彼らは日頃【快晴の蒼】を全面に出して名乗っているのだ。
目の前の人が婚約しているとは到底想像もできず、ツカサはついまじまじと眺めてしまった。
こらこら、とヴァンがツカサの肩を叩いた。
「君、そういうところ容赦ないね」
「いや、ごめん。ええと、どんな人?」
「そういうところだよ」
呆れたように言われ、ツカサは苦笑いを浮かべて頬を掻く。けれど気になったのだ。婚約とは、結婚とは、どういう感じなのだろう。
夜勤のある父、正社員として働く母、時間のすれ違いは多かっただろうが不仲だったようには思わなかった。この世界に来て父は再婚していたが、と今年あった衝撃的な出来事の一つを思い出した。
ヴァンは肩を竦めてツカサをソファへ促し、隣に座るようにとんとんと叩いた。大人しくそれに従って言葉を待つ。
「僕は二十歳から軍師だったし、その合間に冒険者もしてる。家にいることって本当に少ないんだ。ここ数年は年に一、二か月、長くて四か月いるかどうかでね。手紙のやり取りはあるんだけどさ」
「今もここにいるしね」
「そう、だからね、いっそ帰ってくるなって怒られてるんだよ、今」
ぎょっとしてしまった。本人は微笑すら浮かべているのでそこまで傷を負っていないようだが、向こうでアッシュが苦笑しながらヴァンを揶揄うように指さした。
ツカサはそうっと尋ねた。
「でも、仕事でしょ?」
「軍師はな。でもよ、冒険者は好きでやってるんだぞ。そりゃ怒られるだろ。帰ってくる度にぼろぼろだしな。俺たちも殺されるかと思ったことあるしなぁ!」
クルドがわははと笑い、ヴァンは居心地が悪そうに首を縮めた。
ツカサは心配そうに尋ねた。
「もしかして、仲悪いとか? 家に帰りたくない理由があるの?」
「それはないない。ヴァンの婚約者、押しかけ女房気質で、なんだかんだ仲は良いぞ」
「…貴族なんだよね?」
「いやぁ、君なら通じると思うけど、僕は悪魔だからさ。どの家も悪鬼羅刹に娘を嫁がせるのは嫌がるんだよ。僕は王家公認で夜会にも出ないほうだったし」
幼い頃の苦労を垣間見たツカサに苦笑が向けられる。それが原因で貴族らしい婚約がなかったということか。実物を見れば皆詰めかけただろうが、当人がその機会を作らなかった。
ではどういうことなのだろう。ツカサは素直に首を傾げた。観念した様子でヴァンは言った。
「ダヤンの船に乗っていた時に出会ったんだ。一応あれで他国の侯爵家の次女でね。さて、もっと話してあげたいけど、続きは時間のある時にしよう。今はそれだけで勘弁してよ」
「船に乗っていた時って、お嬢様があの海賊の船に?」
「言っただろ、時間のある時にね。そう、君の結婚式とかさ?」
「えっ、ツカサ、結婚するの!?」
ロナの興奮した声にぐっと言葉が詰まった。ヴァンはにやりと笑って立ち上がり、アッシュを指さした。
「ほら、君の親友だって興味津々、それに話を聞いて面白いのは僕だけじゃない。シェイは公爵家嫡男のくせになんでか相手すらいないけど、アッシュだって紆余曲折あったし、クルドにも長年腕を競い合ってる女剣士がいるし、ラダンは…ちょっと悲しい話になるかな」
「巻き込むなよ」
「アッシュが揶揄うからだぞ」
「やめろ、出会いのない俺に刺さる。いいんだ、孤児院で子供はいっぱいいるからな…」
男同士の軽い感じで笑いが起きて、ヴァンはツカサの肩を叩いた。
「いくらでも話せる時間を作るためにも、頑張ろう。ところで【変換】を試さないかい?」
「そうだった」
いろいろあって、もはやダンジョンも出来ているとあって諦めてしまっていたが、歪みの生きものが少しでも減るならばそれに越したことはない。
ぱたぱたと降り注ぐ黒い雨を振り返り、一度深呼吸をしてから扉を開けた。
目を覚ましてからずっと隠れ家の中にいたので外に出るのが久しぶりだ。黒い雨に当たりたくなくて魔法障壁を傘代わりに身に纏った。これも随分器用にできるようになった。
一歩出れば魔法障壁に当たる雨がガラスを流れ落ちるように地面を目指した。ツカサはそっとしゃがみ込んで地面に触れた。
黒い雨はそこに命を感じなければ魔力も感じない。だが、これは災厄の始まりなのだとあの人は言った。
いつも【変換】を使う時に悩んでしまう。無害なものに変換するのはいいのだが、降り注ぐ黒い雨が終わるまで地面に手を突いているわけにはいかない。ふと、考えた。空気も触れているものだろう、それでいいのではないか。
【変換】を使用せずに立ち上がったツカサに【快晴の蒼】も【真夜中の梟】も顔を見合わせた。
「空気を、触れる、掴む、水が含まれてるからそれを伝って、たぶん、いける。黒い魔力の中の命を一つに変えたように」
そうだ、そう考えれば単純に使い方の問題だったのかもしれない。自分がそれを触れると思っていなかっただけで。
空気は変えず、空気を伝ってそこに触れている黒い雨だけを変える。じわ、と前頭葉の奥が熱を持った気がした。
黒い雨を払うような、爽やかな夏の、スカイの風に変われ。
ぐっと何かを掴んだツカサの手元からヴァンの夢の中で感じたあの青い風がぶわっと広がり、それは空を覆う雲を払い、久々の晴天を呼び込んだ。
風は止まらなかった。
家々の間を駆け巡り地面の黒い水たまりを吹き飛ばし、焼けた跡を残す大地を駆け巡りスカイ中に心地よい風が吹いたことを、後に吟遊詩人は【蒼き風巡るオーリレア、花の叙事詩】として歌うことになる。
さぁっと雲の消えた空に気持ちよくなってもう片方の手を空に伸ばし、ツカサは自分の中で何かがぷつりと切れた音を聞いて、後ろに倒れた。
面白い、続きが読みたい、頑張れ、と思っていただけたら★★★★★やいいねをいただけると励みになります。
コロナになったので2週間くらいお休みします。体調次第では延びるかもしれません。
さようなら秋休み…。
皆様、マスク、手洗い、うがい、しっかりなさってください。




