4-37:傷
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勝利であり、敗北であった。
女神を女神たらしめる触媒は破壊し、セルクスの印はついた。
残っていた使徒はペリエヴァッテ・ヴァーレクスとその部下数名を除いて片付いた。
街を覆った魔法障壁は最後の一撃で砕けてしまい、城郭を崩し家々を壊したが、怪我人だけで死者がいなかったのは幸運だった。
だが、大敗だ。ヴァンは自陣の被害に強く目を瞑った。
ツカサが目を覚ましたのはあれから四日が経ってからだった。
いつかのように喉が掠れていて息が吸えず、グラスを差し出してくれる人もおらずベッドから転げ落ちた。
水を、と魔法を使おうとすれば僅かな水がぴちゃりと床に落ち、困惑しながら空間収納にあった癒しの泉エリアの水をコップに入れ、飲んだ。
この選択がよかった、すぅっと魔力が戻っていく感覚がして息ができた。
周囲を見渡す。ここは隠れ家のツカサの部屋だ。外が暗いので夜なのだろうか。
「起きたか」
かちゃりと扉を開けて入ってきたのはラングだ。床に落ちた音で見にきてくれたのだろう。いつもの装備とは違い、部屋着のような恰好で廊下からの明かりを背負っていた。
「ラング、体は」
「問題ない、動けるか」
「う、うん」
ふいと背を向けられ無言で来いと呼ばれた。ツカサは立ち上がり、よろめき、何度かたたらを踏んでどうにか部屋を出た。
ラングの後を追い、手すりを必死に掴みながら階段を降りた。リビングのほうから飛び出してきたのはロナだ。
「ツカサ! よかった、目を覚ましたんだね」
「ロナ」
手を貸すよ、と言ってくれた友達の言葉に甘え、肩を支えてもらってリビングに足を踏み入れた。
ラング、ヴァンの二人だけがいるリビングはがらんとしていた。
「やぁ、ツカサ」
「ヴァン、怪我は」
「大丈夫」
「他のみんなは」
「…もう少し時間が必要だ」
ふるりと振られた首に、ツカサはよろけるようにして椅子に座った。ロナがその隣に座って、しばらく沈黙が流れた。
ぱたぱたと窓を叩く雨の音が鼓膜にうるさかった。
「まず、ツカサ、よくやってくれた。君の協力もあって、死者はいない」
ヴァンの言葉にぼんやり顔を上げれば、こちらを見つめている優しい眼差しと視線が合った。死者はいないという言葉が時間をかけて胸に沁みこみ、ほぅ、と息を吐いた。リビングを見渡し、あの日、皆で騒いだ朝食の席が随分遠い過去のように思えた。
ヴァンに視線を戻してツカサは尋ねた。
「みんなは」
「これから話すよ」
大丈夫、とヴァンに手をぽんと撫でられ、ツカサは小さく頷いた。
あの日、ヴァンはツカサたちから離れた後、すぐにセルクスを見つけたという。大鎌を軸にイーグリステリアの爆発を防ぎ、自身を守る目的で張ったものでクルドやアッシュ、ヴァンもシェイも守ってくれたらしい。本当ならツカサとラングも守るはずが、一瞬意識を失ってしまったがために意識から漏れたのだという。謝っていたよ、と聞いて首を振って答えた。
半神のイーグリステリアの腕を落としたために、セルクスの片腕も深い傷を負った。どこにいるかは印があるので任せてほしいと彼の神は微笑んだそうだ。今現在は自身の居場所に戻り静養しているらしい。
「幸運だったことに、イーグリステリアは逃げてくれた」
ほとんどの仲間が昏倒していたあの時、イーグリステリアが逃げることを選ばなければナイフの一本で全員が殺されていた。そこに意識が向かないほど追い詰めたのだと思えばよくやったほうだ。
「力を留めるための触媒はセルクスの血と理の加護の心臓で焼け落ち、灰になった。新しい力を得ようとしても、魔力も魂も留められないはずだ。触媒である聖杯を造るのが大変だと、本人が喚いていたからね。残るはイーグリステリアが今その身に残している力だけ。…しかし、まさかラングの心臓にそんな効果があるとは思わず、本当に幸運だっただけの結果だ」
「…だから、ラングは胸を狙わせたの? セルクスの血がついた毛皮が、そこにあったから?」
「そうだ」
腕を組んで話を聞いていたラングがはっきりと言った。
「そうでなければあんな真似はしない」
「だからって」
「そこまで。結果、君の機転で今こうして言葉を交わせる。思うことがあるのはわかるけど、それはすべてが終わってからにしてほしい。…僕も、限界が近い」
「…はい」
制止するために差し出した手が震えているのを見てツカサは言葉を飲み込んだ。
ヴァンは一度息を吸った。
「僕らが以前戦ったイルが、如何に弱体化していたのかを思い知った。すまない、僕が相手の力を見誤ったせいだ。特殊部隊やマナリテル教徒を利用していることから、あそこまでとは思ってもみなかった。手足になった者たちがいなくても、あの女一人ですべてを蹂躙できただろう。奴らを扱ったことが、逆にイーグリステリアの足を引っ張ったようにも思える」
ぎゅぅっと爪がめり込むほど握られた手はあまりの力に白くなっていた。
それをゆるりと解いて話を戻した。感情を抑え今すべきことに集中したのだ。
「死者はいないが被害は甚大だ。街は南側を中心に崩れ、飛んだ破片や倒壊した家屋に潰された者など、怪我人は多い。そして僕たちもまた、同様に怪我を負っている」
言われ、改めて見てみればヴァンはあちこちに擦り傷ができ包帯も巻いていた。椅子に松葉杖のようなものも立てかけてあるのでテーブルの下で足にも何か処置がされているのだろう。
ロナは怪我こそなさそうだが、戦闘前に着ていたローブがなかった。視線を受けてロナはヴァンに言った。
「僕が話します」
ヴァンは無言のまま頷いて椅子に寄り掛かった。
ツカサはロナを見て話を促した。
「オーリレア組はマナリテル教に脅された人たちに少し邪魔されたんだ。家族を人質に取られているんだ、って言っていたけど、たぶんそれももう死んでるだろうね。それで、マーシとラダンさんが応戦した。オーリレアに入れなくなるからか、あの爆発する魔法がついてなかったのはよかったよ」
机が無傷だったのであまり意識していなかったが、よく見れば壁や家具に凹みや傷があった。
「エーディアさんとシルドラさんはセシリーを守ってくれたよ、そっちにも脅された人が入り込んでたからね」
「どうしてここがわかったんだろう?」
「うん、ある程度魔力を持つ人たちを選んで送り込まれたみたいで、魔法障壁を展開する場所、みたいなものを感じ取ったのかな、って僕は思ってる。正直余裕がなくて返り討ちにしたから、正しいことはわからない」
あの戦いで感じた様々な魔力圧を思い出し、なるほど、と頷く。
「情けないことに魔法障壁にヒビ入っちゃって、最後の爆発で吹き飛んじゃった。それで街に被害がでてしまったんだ」
「ロナはよくやったよ」
「ありがとうございます、ヴァンさん。…それで、他の人たちだけど」
「うん」
悔やみながらもロナは顔を上げて進んだ。
エーディアとシルドラに怪我はなく、今は街の人として食料の買い出しへ。
マーシやラダンも同様で、こちらも街の状況確認に外へ出ていること。
クルドは全身を打ってはいたがロナの手当てのおかげで今は治っていること。ただ、馴染みが悪く動けないでいるそうだ。
アッシュは怪我自体は治っているものの血を流し過ぎていて目を覚まさず、未だ危険な状態であること。
アルは何度か目を覚まし、ラングに食事を強請って先ほど休みに戻ったこと。
そして、シェイ。
「魔力を使い切ったみたいで、ある程度戻るまで目を覚まさないと思う。魔力枯渇で死にかけてたようなものだよ」
「そこまで」
「僕ら、魔法を使いすぎると眠くなったりおなかが空くじゃない? それって体の防衛本能なんだよね。シェイさんはもっとずっと、耐えてたんだと思う。僕に渡してくれたマント、あれに籠められた魔力だってすごかったから」
腕を壊してまで皆の盾に、治療の邪魔にならないよう必要最低限の自己治癒、それからラングの治癒。ヴァンの手当てができないのも当然の疲弊具合だったのだろう。
かつて温泉で見た腕の傷痕は、そうした過去の戦いでついた戒めだったのかもしれない。
椅子に寄り掛かり天井を仰いだまま、ヴァンが言った。
「シェイの使っていた杖はね、イルとの戦いの後、ずぅっとシェイが魔力を溜め続けていたものなんだよ。今回のことであれも壊れてしまったけれど、あれがなければ、セルクスがいたって僕らはただじゃ済まなかっただろう。あの人も制約の傷が酷かったから」
ツカサは膝に置いた手をじっと眺めた。ツカサにとって偉大な魔導士であるシェイがそこまでして備えていた相手。甘かった、ツカサは自分の力を過信していたことに気づいて体から体温が失われる感覚がした。
【変換】という女神も欲しがる能力を使い、皆の突破口になれると、心のどこかで自分に万能感を得ていた。
結局、最後のほうでは【変換】を使うことも忘れ逃げ惑い、背伸びし、撤退すべき時には撤退しろと言われたことに駄々をこね、アッシュは、ラングはその身を犠牲にするしかなかった。
ラングの行動、あれはツカサを守るためにやらざるを得なかったのだ。自分が死んでも、ヴァンの剣が、皆の剣が届くことを信じたに過ぎない。
ラングがとん、と机を指先で叩いてツカサの視線を呼んだ。
「何を考えているかはわかるが、私の決断と覚悟をお前の尺度で測るな」
「…うん」
それだけを答えるので精いっぱいだった。
ラングは小さくため息を吐いた。
『折れるな、堪えろ、受け止めろ』
それは何度もかけられた言葉だ。ツカサが折れそうになった時、もうだめだと思った時、常に手を引き背中を押してくれたラングの言葉だ。
涙の溜まった目を向ければ真っすぐにラングがこちらを見ていた。
少しだけ肺が震え、ずっと鼻をすすり、目元を拭って顔を上げた。
ツカサは僅かにしゃくり上げながら尋ねた。
「ラング、あの糸みたいなの、なに?」
「師匠の武器だ」
短剣にナイフ、さらには糸か。ツカサは興味をそそられた。
ラングは改めて見せてはくれなかったが、いつかその武器での戦闘方法を教えてもらおうと思った。特殊な武器だ、実際に扱うことはできなくとも知っていれば命を拾うこともあるだろう。
そう考えられるようになったことに気づき、少しだけ胸を張った。
「ラングの攻撃は通った、ということは、やはり理の加護の意味があるんだ。相手の魔法障壁すら意味を成さない、強い加護が。僕の時と同じだった」
ヴァンの呟きに視線が集まった。
「僕やアル、それにクルドもだけれど、武器が聖杯に防がれて届かなかった。聖杯がなくても、あの魔法障壁を越えられたかどうか。でも、聖杯を失った今、加護のない面子の剣も魔法障壁さえどうにかできれば…」
「矢はギリギリ届かなかったんだよね?」
「あと少しだった、あれはどうやったんだい?」
「こう、俺の魔力をイーグリステリアの魔力に寄せて【変換】して、偽装したんだ」
「器用なことをするね、いい使い方だ。一瞬抜けたけれど、異物と判断されたか、そんな感じだと思う。精度を上げれば一撃必殺になるかもしれない」
惜しい、あれが届いてさえいればセルクスをもっと早く呼べただろう。それにラングが胸を抉られる必要もなかった。
後悔はすべてが終わった後にしよう。その時には時間は余るほどあるはずだ。
気を取り直し、また一つ尋ねた。
「そうだ、あの、マナリテル教の人、どうして爆発しないで連れてこれたの?」
「あれは気を失わせていたんだよ。死んだら、もしくは自分の意思で発動するみたいで、ラングがさくりとオトしたんだ。目くらましにもならなかったけどね。元々イーグリステリアの力であればこそ、当然の結果だ」
そうなんだ、と苦笑いを浮かべツカサはふと気になったことがあり首を傾げた。
「そういえば、俺たち、どうやってここに戻ったの?」
「それが、ええと、思わぬ人物の協力ってやつで」
「ヘクターは?」
「その」
ロナは言い難そうに言葉を口の中で転がして頬を掻いた。
ツカサは首を傾げラングとヴァンを見た。ヴァンはだるそうに天井を眺めながら言った。
「覚えてる? 味方に引き込めって言った人の話」
「剣士? まさか」
「そのまさかだよ」
がちゃりと扉が開いてマーシが、ラダンが戻り、最後にぬるりと長身の男が入ってきた。置いてあったタオルで髪を拭い、肌を拭き、黒く汚れたそれを籠に入れ、それぞれがリビングの面子に気づいた。
「ツカサ!」
「あぁ、目覚めたんですねぇ」
「お前!」
忘れるわけがない。アズリア王都アズヴァニエルで自身とミリエールを斬り捨てた男だ。ガタリと立ち上がってよろめき、机を支えに立ち直した。魔法を練り上げようとして頭に痛みが走り、ロナに軽く押されて座り直した。
「ツカサ、無理しないで、また倒れちゃうよ」
「おや、どこかでお会いしましたかねぇ」
「忘れたとは言わせないぞ! アズヴァニエルでミリエールと、俺を、斬っただろ!」
「王都で…? いやはや申し訳ありません、雑魚のことなどまったく覚えておりませんねぇ」
「この…!」
「座れ」
再び立ち上がろうとしたツカサを机を軽く押すだけで座り直させ、ラングは今戻ってきた三人を見遣った。
「不本意ながらそいつと、生き残った部下共がお前たちをここへ運んだ」
「どうしてそんなことを」
「主に反旗を翻すのだそうだ」
眉を顰めれば長身の男は優雅に、深くお辞儀をした。
「元、女神の剣、ペリエヴァッテ・ヴァーレクスと申します。パニッシャーからお誘いを受け、こちらの陣営に与することとなりました」
「そうしろと言ったのは僕だけれど、とても複雑な心境だよ」
机に肘を置いて頬杖を突き、ヴァンが吐き捨てた。ヴァンにしてみれば必ず討ち取るとダヤンカーセに約束した件もあり、思うところは多いのだ。けれど、大局を優先するために己の意思を堪えているのだろう。ツカサはその様子にぎゅっと唇を結んだ。
ペリエヴァッテは肩を竦め片腕に抱えていた荷物を机に置いた。ため息を吐いてラダンとマーシも机に荷物を置く。
ラダンは複雑そうな顔で言った。
「こいつの部下である特殊部隊の奴らが、全員をここに運んでくれたのは事実だ」
「どうしてまた、何が理由でこっちに味方するんだよ」
「私は、私のままで戦い続けたいのですよ」
ちらりとペリエヴァッテの視線はラングを見ていた。
「変える、変わるということが正しくどういう意味か私にはわかりかねますがねぇ、今この場に立つまでに磨いた腕を、技術を、私は失いたくないのですよ」
なるほど、なんとなくだが言わんとすることがわかった。
ヴァンが精霊の力を借りて届けた声は、この男にも届いたのだ。そのうえでラングが何か言ったのではないだろうか。じっとシールドを見つめればその奥から視線が向けられたのを感じた。
「我慢しろ、こいつは今しばらく使える」
「でも、こいつ、俺のこと斬ったんだ」
「堪えろ。数秒前まで剣を交えていた相手と手を組むなど、冒険者であれば普通のことだ」
「それはラングの基準でしょ」
面倒そうに肩を竦められ、ツカサはむすりと不貞腐れた顔をした。自分の命を奪いかけた相手と手を組める神経がわからなかった。冒険者と冒険者の在り方が違うせいか、そもそもラングという男と所謂世論の違いなのか。どちらでもある気がした。
ヴァンはよろりと立ち上がりラダンの肩を借りた。
「僕はここまでにさせてほしい、もう、限界だ。ラング、話を任せて、いいかな」
「構わん」
ありがとう、と言いながらヴァンは足を引きずり二階へと上がっていった。扉の閉まる音がするまでそれを聞いて、それからほうと息が出た。
隣に腰掛けるペリエヴァッテに微動だにせず、ラングは言った。
「女神イーグリステリアのやり方や、力の与え方というのをこいつから聞いた」
「えぇ、えぇ、先行投資の情報です」
「相手に触れて力を与えているらしい。取り戻すときも触れねばならんそうだ」
「つまり、私は未だ彼の女の力に守られ、彼の女の力が届かないのですよ」
ラングが使えると言った意味を理解した。あの爆発の中でも無傷だったことから、その力というのはかなり有用に思えた。加えて特殊部隊にもその加護はあるのだろう。あの魔力渦の中でアッシュが戦う必要に迫られたのはそのためだ。
ツカサは自分の感じた違和感を尋ねた。
「こっちも殺してるけど、あんた悲しくないの? 悔しくないの?」
「悲しい? 悔しい? なぜそのようなことを感じなくてはならないのです?」
「仲間なんでしょ、特殊部隊も、マナリテル教も」
「ふふ、ふははは! パニッシャー、この子供は何を言っているのです?」
「触るな」
肩を撫でようとしたペリエヴァッテの手を打ち払い、ラングは席を立った。うふふ、と涙を流すほど笑うその肩が気味の悪い揺れ方をする。
マーシが包みからリンゴを取り出して齧りツカサの肩を叩いた。
「無駄だよ、マジでこいつ、ただの戦闘狂だ」
「どういうこと?」
「特殊部隊の隊長だと聞いてたけど、この人の中ではそうじゃないらしいよ。マナリテル教もただ利用してただけみたい」
余程ツボに入ったらしい。うふふ、と気味の悪い笑い声がしばらく続き、はぁーと息を吐いてペリエヴァッテは前髪を掻き上げて整えた。
「勝手についてきただけの雑兵に、何故私が心を痛ませねばならないというのでしょうねぇ」
「…その割に使うだけ使ってたけどな。まぁ運んでもらえて助かったけどさ。俺たち、オーリレアにいて外の状況わからなかったし」
ツカサは愕然とした。部下が海を渡ってまで付いてくる慕われた男だと思っていた。そうであればこそ、あの時自分を斬り捨てた男に少なからず敬意を持てるかとも思ったが、これはだめだと感じた。
「考えるだけ無駄だ」
ラングは淡々と言い、窓の前に立った。
「一先ず、そいつは味方ではないが敵でもない。敵を同じくしている間は大人しくしている」
「えぇ、それはもう。パニッシャーと戦うためならば」
「ラング?」
「すべてが終われば相手をしてやると契約をした」
そういうことか、とツカサは頭が痛くなってきた。そんなことで協力するというペリエヴァッテにも、それを報酬に取引を持ち掛けるラングにも久々に眩暈がした。
ロナが優しく背中を撫でてくれて納得するしかないのだと思った。
ツカサは話題を変えた。
「そういえば、ヘクターは?」
「セシリーを連れて、行方不明」
「え!?」
まさかの情報に咽てしまった。老人の背中を労わるように、ツカサはとんとんと叩かれて息を整えた。
「どうして」
「わからない、あの戦いの最中、エーディアさんとシルドラさんが一瞬目を離した隙にセシリーを連れていなくなっちゃったみたい。魔法を展開する僕が特に狙われてしまったから、本当に、一瞬だったはずなんだけど」
ロナの視線は窺うようにラングを見ていた。
窓の外を眺め続ける背中は何も語らず、ツカサは幼い少女の安否が気にかかった。
だが、体は心より本能に忠実だった。心配する気持ちは真実であるのに、空気を読まずに、ぐぅ、と腹の虫が鳴った。ロナが苦笑し、ぽんともう一度背中を叩いた。
「いろいろ心配なのもわかるし、気になることがあるのもわかるよ。でも、少し食べて、ツカサももう休んだほうがいいよ。僕はシェイさんに魔力を送りに行ってくる」
「うん、ありがとう。マーシ、何か食べ物ある?」
「まぁ、買えるもん買ってきただけだけど。ちゃんとした飯はシルドラたちが買いに行ってるからさ」
がさりと取り出されたパンを差し出され、ツカサはそれを受け取って首を傾げた。パンには黒いシミがついていてまるでインクが滲んでいるかのようだった。
「汚れてる?」
「あ、あたってたか。悪い、別の食べて」
他のパンを差し出されこちらも受け取り表も裏も確認、汚れていない。
ロナが窓を見ながら言った。
「あれから、ずっと降ってるんだ」
その言葉に釣られて窓を見れば、夜だと思っていた暗さの理由を正しく理解した。
「黒い雨、止まないんだよ」
空から降り注ぐ黒い水が、ぱたぱたと窓を叩き続けていた。
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