3-70:新生
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突然わんわん泣き出したツカサにすっかり涙も引っ込んで、ラングは呆れた様子でそれを眺めていた。
『本来、そうして泣くのは私の方だと、私でもわかる』
『ごめん…』
ぐすっと鼻をすすり、空間収納から取り出したタオルで涙と鼻水を拭って、ツカサは申し訳なさそうに視線を落とした。
はぁ、と何度目かの息を吐いてラングはツカサの頭を強めに撫でた。
『まぁ、お前が代わりに泣いたということで良い』
『やめてまた泣く!』
ぶわっと涙腺に来てしまい叫べばラングはいよいよ気色悪いものを見る顔をした。シールドで全ての表情は見えないが、口元は引き攣り、態度で、雰囲気で敢えてわかりやすくしてくれた。今は有難くない。
なんというか、スキルを持っていてよかったとツカサは心の底から思った。これがあったからこそラングと出会えて旅にも出られた。良い悪いは置いておいて、様々な経験も出来た。
何より、この人の何かを救うことが出来たことが嬉しかった。
失ったものもある、失敗と言われショックを受けたことも記憶に新しい。
けれどそれがなんだ、ツカサはぐすっとまだ滲む視界を強く上げた。
憧れて、背中を追って、恐怖だって覚えたがそれを越えるほどの尊敬をした人からのありがとうの一言は、驚くほどツカサの自信になった。
『俺は、ラングの弟だから』
『知っている』
何を当たり前のことをと言いたげに首を傾げるラングに、首を振った。
『リーマスさんだって、俺の、父親ってことでいいんでしょ?』
その言葉にラングは驚いたらしい。一拍置いてから、ふっと小さく息を吐いた。
『お前のような泣き虫のガキは知らん、と嫌な顔をしそうだ』
『酷い』
『そういう男だ』
ラングは再びばさりと毛皮に寝ころんだ。
ツカサもその横に寝ころんで目元を冷やす夜風に目を瞑った。
『だがまぁ、ぬるい男でもあった。そうかそうかと言いながら雑用を言いつけるだろう』
『人使い荒いみたいだもんね』
へへ、と笑えば隣からまた小さなふっという音が聞こえた。心地良い沈黙に徐々に睡魔が寄って来る。さらさらと揺れる草原の音もまたそれに拍車をかけていた。
けれど、眠る前に一つ決意を告げようと思った。
『ラング、俺、自分に【変換】を使おうと思う』
ゆっくりと目を開く。落ちて来そうな星空がツカサの視線を受け止めて、瞬いた。
『どう使う』
理由も問わない、覚悟も問わない。
ツカサが決めたことに水を差すようなことは言わず、ただ、ラングは方針だけを問うた。
『捨てるのって覚悟がいるよね』
時々、少し思わせぶりな言い回しをするときのラングへの意趣返しだ。隣から呆れたような吐息の音がした。どうやらそれもバレているらしい。ツカサも笑みを浮かべた。
『だけど、捨てた先で、古きを捨てても新しい何かを得ることが出来る。もう戻る場所がないわけで、この先も、その先で、生きて行かなくちゃならないんだ。自分の生き方を変えるのは難しいけど、落としどころを自分で見つけるしかないんだ。ここで生きていくと決めなくちゃ、いつまでも俺は【渡り人】なんだ』
言葉を連ね重ね、音を変えても意味は同じことを、ラングが諭し続けてくれたことが、今ようやく受け止められた。
【渡り人】であることは別に悪いことではない、ただ、それはそれとして誇りを持ったとしても、それを笠に着て生きることは何かが違うと感じた。
だから、ツカサは選んだ。覚悟した。ここで生きることを。
『【適応する者】があった時のように、俺はここで戦って生きられるようになりたい。守りたい人が、人たちがいるから』
殺人を進んでしたいわけではない。戦うことが恐ろしい気持ちもある。そういった気持ちは自分が生き残る上で大事な感情だと学んだ、教えられた。
同様に、守ることに全力を尽くせと教えてくれた人がいる。生きてこそ得られるものがあると教えてくれた人がいる。
変えるのはたった一つだけ。
『俺、ツカサ・アルブランドーになる』
ラングは少しの間を置いて尋ねた。
『それはこの世界で生きるにふさわしい名か?』
アルブランドーの名はラングの故郷のものだ。この世界で生きる覚悟としては少し違うのではないか、とラングは言っているのだ。
ツカサはガバリと起き上がって文句を言った。
『いいの! こういうのは覚悟が大事なんだってこと! それにアルブランドーの名を名乗って良いんでしょ!?』
『あぁ』
すぱりと返って来た肯定にツカサの叫びは止まる。
『ただ、お前の名をアルブランドーに【変換】する前に、一つだけやっておけ』
『何を?』
『ミツミネ・ツカサの名を、何かに残すんだ』
サイダルを出て名乗った名前を、ラングが覚えていたことに目を見開く。
『覚えてたんだ』
『まぁ、印象的だったからな。世界、丸から丸を、線を越えて来た未知の場所で、そういう物語が故郷で多いからと平然と受け入れている奇妙な少年の名は、私の中にも良く残る』
そう思われていたのだと知り苦笑が浮かぶ。けれど嬉しかった。ラングも体を起こすのを見守ってからツカサは首を傾げた。
『でも、何かに残すって何に残せば?』
『なんでもいい。功績を成せと言っている訳ではない』
ううん、と少し唸った後、参考までに尋ねた。
『ラングは、ラングって本名なの?』
『今はそうだが、かつては違う』
『じゃあ、ラングの前の名前はどうしたの?』
ツカサの問いにラングは自身の手を眺めた。
『父母の墓に、父の骨と共に埋めた』
相変わらずの重さにツカサは瞑目した。ぎゅっと拳を握り締めて目を背け逃げたい気持ちを堪え、踏み込む。
『それでいいの?』
『卑しい名を捨て、一人の人間として生きろ。たとえ名が変わり、生きる道が変わろうと、お前が生きてさえいれば何も思い残すことはない』
ふ、と息が零れた。
『不思議なことに、片や呪いにもなった言葉は、年を経て純粋な祝福になりもする』
座り直して膝に肘を置き、頬杖を突く姿が焚火の明かりの中で一枚の絵画のように見えた。
『様々な経験が私にそう思えるだけの度量を与えてくれた。新しい景色の広さが、出会う人々の言葉や行動が、私に経験と知恵を与えてくれた。ここに来てからもそうだ』
『ここでも?』
『そうだ。何せ私は故郷では三国しか行き来していなかった。海も初めて見た』
『え、意外! いや、海はうかれてたって聞いたけど』
『ツカサ』
『なに?』
『世界は広いな』
さぁ、と風が流れた。
ツカサが感じているのと同じことをラングも感じるのだと思うと、胸に込み上げるものがあった。心臓の辺りが締め付けられて、目頭が熱くて、少しだけ息が苦しくなる。しまった、また泣きそうになっていると自分で気づく。本当に泣き虫なのかもしれない。
そんなツカサの様子にも気づいているのだろう、ラングは口元を僅かに緩ませ、笑みを湛えているように思えた。その姿に驚きつつも、距離が近づいた気がして嬉しくなった。
はぁー、と諦観か、自嘲的な笑みを含んだ息を吐いて、ラングは後ろに両手をついて星空を見上げた。
『まったく、信じられない経験ばかりだ。異世界、魔法、理に神、故郷では縁のなかったあれこれに触れて、何も知らなかったのだと無知を突きつけられる。だが、不思議と嫌な気持ちはない』
『なんか、わかる気がする』
『私の世界は、随分と狭かったのだなと気づいた』
『俺なんて本とか夢の世界の話だったからね』
ツカサも両手を後ろについて、お互いに少しだけ笑った。
『俺の名前、何に残そうかな。どんなふうにすればいいと思う?』
『そうだな。自分が迷ったとき、初心に立ち返ることの出来る何かが良いだろう』
『初心かぁ』
考え、悩み、夜風に吹かれてハッとした。
『そうだ、うん、そうしよう』
『決まったのか』
『うん、日記に残すよ。旅の間もよく見直してたし、今も書き続けてるから』
『そうか』
『よし、そうと決まれば』
『【変換】を使うのは明日の早朝にしろ』
『どうして?』
思い立ったが吉日と手を打ち合わせたところに制止をかけられ、ツカサは首を傾げた。
『草原の掟に倣え、夕闇や夜は不吉だ』
『朝日は神聖で、一日の始まりを告げる神様?』
『そうだ、朝日に照らされた冠雪というのも美しいものだ』
月光の下で青白く輝き、星々の海にそびえる海底のようなそれに視線を置いた。
『それに、新しい人生を歩むならば、始まりは朝が良い』
『それは自論?』
『経験だ』
ラングがラングの名を冠したときもきっとそうだったのだろう。すっくと立ちあがり、防音の宝珠を切ってラングはテントを出した。今夜はそちらのテントらしい。
『湯を沸かし、体を洗って清めろ。日が昇るまでにミツミネ・ツカサの名にけじめをつけておけ』
『わかった』
『今夜は別々で休む。お前は自分のテントを出せ』
『えっ、あ、うん』
そちらの快適なテントで眠る気でいたので動揺した。
さっさとラングはテントに引き上げ、ツカサは草原の夜に取り残された。
ゆるゆると寄り掛かって来ていた睡魔が驚きのあまり離れていったようだ。
さらさらとここ数日で聞き慣れた音に囲まれて、ツカサはぼうっと空を見上げた。
じっと見ていると夜空を埋め尽くす星がツカサに向かって落ちて来るのではないかと錯覚してしまう。
こんな美しい景色を見られたのも、ここに来たからだ。
利便性に優れた街に閉じこもっていては見られなかった景色。感じられなかった風。それに気づけるかどうかは恐らく賭けだったのだろうが、ラングがその機会を与えてくれた。
故郷だったら見られなかった。キャンプなどにも興味を持たなかったので一生縁のなかった光景かもしれない。
焚火に薪を足して、ツカサは魔獣避けのランタンを取り出した。日本人であるツカサの眼は光を集めにくく、暗がりで文字を見るには向かないのだ。
マブラで書き始めてから日記は徐々に増え、ページ数のばらつきもあっていつの間にか十冊を超えている。眠る前に一言だけでも書き込み、書けなかった日は翌日に、文字で埋まっていくそれは自分の軌跡を記しているようで充足感も得られた。
最初の日記を手に取る。空間収納に入っているので劣化はない。向こうの大陸でラングが買ってくれたものだ。製本技術の甘さから書いている内に緩んでしまった括り紐。それすらも懐かしい。
ラングが手を置き、自分の涙が落ちたページだけはどうしても書き込む気になれず、今も空白のページだ。
ここが良い気がした。
――― さて、どう書こうか。
ツカサはイーグリスで入手したペンを手にした。インク筒の入っているペン、所謂万年筆というやつだ。ペン先が開かなければインクを補充すれば使えるのはやはり使い勝手がいい。
書き始めは少し悩んだ。自分のために書くのに、せっかくならそこに意味を持たせたくなった。
あとで恥ずかしくなるかもしれないが、それだってきっと良い思い出になるだろう。
ツカサは素直に書きたいことを書くことにした。
始まりは、そう、少し勿体ぶって。好きだった異世界物の小説のように、それっぽく。
期待に胸を躍らせたことや、現実がそこまで甘くなかったこと。
旅に不安を抱いた始まりの自分に別れを告げるために。
どこにいるかもわからない母がいつか見つけてくれるように。
もしも日記を見る機会があれば、恨み辛みも書いているがラングが懐かしんでくれたらいい。
いろいろ考えていたら思った以上に芝居掛かった文章になってしまった。
異世界転生、異世界転移。
たくさん読んだラノベに、よくある話だ。
誰だって憧れる。
誰だって夢を見る。
何かの拍子にそんな選択肢が与えられれば、それをつかみ取り、活用し、大成功を収める。
可能ならスキルなんて上等なものをもらって、美男美女に囲まれてハーレムを築き上げたり。
王侯貴族に負けず劣らず優雅な生活を送る。
あぁ、夢みたいだ。そんなこと。
そう、正しく夢だった。
結論から言えば、すごく苦労した。
俺はたいしたスキルに恵まれなかったし、持っていると言えば異世界転生のhow toくらい。
泥水も啜った。血反吐も文字通り吐いた。体中が砕かれるような苦痛にも見舞われた。
それでも俺は生き残った。
運が良かった。人との出会いがよかった。
あの人と出会い、そして旅ができた。
俺の一生の宝物、一生の幸運。
日記を書けと言ってくれたあの人が、居てくれたから今俺はここにいる。
道に迷った誰かの希望になるように。
絶望の淵に立たされた誰かが、顔を上げられるように。
いつか俺が死んだあと、ここに居たのだと残りますように。
遠い場所に行ってしまったあの人が、何かの折に見つけられるように。
この日記を俺の一生の師匠であり、戦友であり、親友であるラングに捧ぐ。
――― ツカサ・ミツミネ
「あ、しまった」
カリッ、とペン先を上げる。
「兄ってのが抜けた!」
ツカサはガリガリと頭を掻いて、早速のやらかしに身悶えた。消しゴムの使えないインクペンは、いつも間違えたら二重線で訂正することにしていた。だが、このページにそれはしたくない。
いや、アルブランドーの名を貰ってからが兄弟という節目なのだと考えれば、まだ師匠で、戦友で、親友であることは間違いではない。
勢いとノリに任せて書くことの恐ろしさを感じながら、一旦はこれでいいと自分を納得させる。三峰司として残しておきたい言葉はここに記した。
思わせぶりな文章も、いずれ、きっと意味を持つ。
三峰司の最後の日記を新しい日記帳にも書く。今日感じたこと、ラングから聞いたこと、泣いたこと、自分の中で驚くほど穏やかに答えが出たこと。
取り留めもない書き方は少しずつ明日への期待に言葉が跳ねていく。
三峰からアルブランドーになることに、緊張も覚える、寂しさも、嬉しさもある。顔も知らないリーマスへの想像も膨らむ。
ふとペンが止まり、両親に思いを馳せる。父は新しい家庭を作り、母はどこにいるかもわからない。これからの旅の道中で母を探していくつもりだが、ツカサの中では諦めも強くなっていた。仕方のないことだと思うことで、自分の胸を慰めているのだ。
頭を振って思考を追い出す。考えても答えの出ない問いは、それも日記に預けよう。
ツカサは随分と遅くまで三峰司と話し合って、別れを告げた。
――― 翌朝、まだ日が昇らず薄っすらとした青の中でラングはテントから出た。
東を見ればこれから太陽が顔を出そうと体を伸ばしているところだった。ラングは空間収納から水を出して顔を洗い、歯を磨いた。体は昨夜テントの中で拭いて清めた。
隣を見ればツカサのテントがもそもそと揺れ、ひょこりと眠そうな顔が出て来た。
「おはよう」
「おはよう」
「顔を洗って歯を磨き、朝の清めを済ませろ。今朝は水だけだ」
「うん」
ツカサは言われた通り桶に水を入れて冷たい、と言いながら顔を洗い歯を磨く。タオルで拭えばさっぱりした。
じっと東を眺めて立っているラングの隣に立てば、その先の光に目を細めてしまう。じわじわと太陽が顔を出すにつれ、空に広がる色が変わっていく。山々を染める赤はなく、あまりの明るさに尾根が黒く染まる。水平に白と黄色の光が走り空にも黄色味がかかる。ざぁっと風が吹いてマントがはためいた。
「こちらを向け」
声を掛けられラングへ向き直る。ラングは北に立っているので、朝日に照らされてオレンジに染まる冠雪がまるで王冠のように見えた。ぞくりと背筋を走ったものがなんなのか、ツカサにはわからない。
『三峰司』
「は、はい」
『汝へ新生の名を与える』
ふわりと頭に手を置かれ、僅かな力で座ることを求められ、膝を突く。
大きくて暖かい手、いつもツカサを導いたその温もりに目を閉じる。
『古き名を誇れ、汝をここに辿り着かせたその名を。古き名に別れを、汝がこれより歩む道の誉れにせよ』
手が退いて、シュゥ、と音がした。ラングが双剣を抜いてツカサの肩にとんと置いた。
それを合図にツカサは自分の胸に手を当て【変換】を使った。機械的な声に被せるようにラングの声が響いた。
『暗殺者であり処刑人であるリーマス・アルブランドーの名を継ぐ、ラング・アルブランドーが汝へ告ぐ。汝、新生の名はツカサ・アルブランドー』
自分の脈動が徐々にはっきりと感じられて、ツカサは大きく息を吸った。
『何があろうとも生きろ。その命、捨てることは許さん。リーマスの子として、我が弟として、恥じることの無い一生を歩み続けろ』
とん、とラングが再び剣で肩を叩けば、どくんと心臓が合わせて脈打つ。
剣が退き、鞘に仕舞われる音を聞いて顔を上げた。
「おはよう、ツカサ・アルブランドー」
朝焼けの白い光の中、微笑んでいた口元を、佇まいを、ツカサ・アルブランドーは忘れることはないだろう。
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