婚約破棄で地獄に堕とされた悪役令嬢ですが『没ダンジョン』でレベル9999になって憎き聖女と王太子たちに復讐します!
「アンドロメダ・ヴィオーラ、お前との婚約を破棄する!」
わたくしの婚約者、ルセウス殿下は高らかにそう宣言しました。彼の傍らでは聖女のベガ様が勝ち誇ったような笑みを浮かべておられます。
「聖女ベガ・ビアンコへの度重なる暴言・誹謗中傷に嫌がらせの数々、加えて誘拐・暗殺未遂容疑! 国を救った彼女に対し到底許される振る舞いではない!」
全く身に覚えのないことでした。
ベガ・ビアンコ様。彼女は国にはびこる病をもたらす負の化身を滅ぼす力を持つ聖女です。平民出身の方ですが、ここ数年各地を回って様々な魔物の討伐や病の原因となる汚染地域の浄化活動などを行われた立派な方として知られています。
そのような素晴らしい方を害する理由がどこにあるでしょうか。
仮にもわたくしはヴィオーラ侯爵家の人間であり、ゆくゆくは王妃として国を守り民を慈しむ役目を与えられています。いまだ学生の身分と言えど、自身の立場についてはちゃんと認識しておりましてよ。
王太子からあまり好かれていないことは薄々感じていましたが、学園での夜会という場でまさか本当にこのような責めを受けるとは思ってもいませんでした。
混乱はしていましたが、幸いにも事前に『準備』はできていたので想像していたよりも気持ちは落ち着いています。
「ルセウス殿下。わたくしはベガ様に対する誹謗中傷や加害行為の一切を行っていないことを神に誓って申し上げます」
「白々しい、この期に及んでそのようなふてぶてしい態度を取るとは! 貴様がベガに対して行った数々の行動については何人も証言がある!」
「それは一体、どこの誰の証言ですか、ルセウス殿下」
背後に控えていた背の高い男性、ヒューベルトがわたくしの前に出ます。
「なんだ貴様は!」
「彼はわたくしの友人ですわ」
ヒューベルトはわたくしの幼馴染で、ヴェルデ公爵家の次男に当たります。騎士団の入隊を志す勇ましい性格で、やんちゃで悪戯好きだった幼い頃とは大きく変わった立派な体型と堂々とした立ち姿にはこんな状況においても安心感を覚えてしまいます。
「俺はここ数か月の間、アンドロメダ・ヴィオーラに対して囁かれていた不穏な噂や陰謀について調査をしていた。王立魔法騎士団にも協力の要請をし彼女が無実である証拠やアリバイは既に揃えている! ルセウス殿下、貴方の方こそ婚約者のある身で聖女殿に対する不必要な身体的接触やここ数か月に渡っての行動は目に余るものであると弁えられよ!」
「騎士団だと? このような下賤の輩を咥え込んでいようとは、なんと卑劣な女だアンドロメダ!」
ルセウス殿下はわたくしに対する憎悪と非難の感情を隠すこともなく、憎々し気な視線を向けておられます。一体どうして、ここまでの憎しみを抱かれてしまったのでしょう。
殿下との婚約が決まった6歳の頃より、将来お支えする立場として王妃教育や勉学に励み、魔法の修練についても真面目に勤しんで来ました。趣味としていた魔法の研究はおろか、友人とのお茶の時間すら満足に取れないような日々の中で、聖女様に対する悪意を育み、何らかの陰謀を巡らせる余裕などもとよりありません。
「ヒューベルトは友人です。わたくしの為にただ善意で行動してくれただけですわ」
「うるさい! 貴様のようにあさましく醜い女の戯言など耳が腐るわ!」
あまりに聞く耳を持たないルセウス殿下の乱暴な言葉に身体が小さく震えてしまいます。幼くして国のために定められた婚約とは言え、誠心誠意自分なりに努力を重ねてきたつもりでした。優秀であれ勤勉であれ慈悲深くあれ、誇り高く気高い光の聖女の血筋たるルセウス殿下の隣に立つため、ただそれだけを考えて生きてきました。
殿下の御心について深く察せられなかったことについては何の申し開きも出来ませんが、これほどまでに一方的に悪意を向けられるほど、わたくしは不出来だったでしょうか。
『アン、落ち着け。君はこれまで頑張った。俺はそれをちゃんと知っている』
ヒューベルトの言葉がわたくしにしか聞こえない音で耳に伝わります。風の魔法による伝達術でした。
『ありがとう、ヒュー』
同じくこちらも魔法でごく短いやり取りを交わします。殿下は想像を越えてわたくしに対する敵意と悪意をみなぎらせています。もはや半端なやりとりではかえって反発を招くだけでしょう。教師陣は殿下に対し口出しのできるような空気ではなく、生徒たちからは緊張した空気が漂っています。ここまで来れば、いっそ公の場で釈明をすべきではないかと考えを巡らせます。
何らかの深刻な行き違いがある、きっと周りは理解してくれる。ヒューベルトの助けもあり自身の潔白の証拠は押さえている。ここからは覚悟を決めて応じるよりほかはありません。
殿下に対し、場を改めていただけるよう口を開こうとした瞬間でした。
強力な魔力の波動。空間が開き、外からの来訪者を招き入れます。
「何の騒ぎだ、ルセウス」
場の空気が大きく揺らぎます。姿を現したのはなんと、ルセウス殿下のお父上であるゼウルギス国王でした。転移魔法によって多数の護衛と騎士団まで従えた非常に物々しい様子です。
「いらしてくださったのですか、父上。先日お話したヴィオーラ侯爵令嬢の陰謀について、彼女本人に問いただしていたところです」
突然の父の来訪に驚くような様子もなく、喜々として近づいていく殿下。そのあまりに浅薄な口調にはさすがのわたくしも眉をひそめてしまいます。他でもない国王陛下の面前で何故殿下はあのようなふるまいをなされるのでしょうか?
たとえ殿下と言えど何の根拠も証拠もない罪で、自身の婚約者を裁くなどあまりに度が過ぎています。陛下がそのような発言をお許しになるはずもなく―――。
「あぁ、わかっている。ヴィオーラ侯爵令嬢を捕らえよ」
そう、甘い考えを持っていたのは、わたくしの方でした。自分には何の落ち度もない、証拠されあればきっとわかってもらえると。気が付けば陛下直属の騎士隊に囲まれており、強力な魔力によってわたくしとヒューベルトは動きを封じられていきます。
「アン!」
拘束する魔力を炎の剣で振り払い、わたくしの手を取るヒューベルト。彼は自身の得意とする風と炎の魔法で抵抗を試みます。わたくしは、一瞬迷いましたが彼を逃がさなくてはいけないと我に返り、自らも魔力を解放し、拘束しようと迫りくる騎士たちを押しのけます。
これでも魔法学校では首席。大勢を相手にすることは厳しくとも、一瞬の突破口を開く程度はできるはず。張り巡らされる魔力の流れを読み取り、転移魔法を展開します。完全に空間は封鎖されていない。これなら逃げ出せる、一気に転移を試みた途中で、強大な魔力がわたくしたちを抑えつけます。今まで感じたこともないほどに恐ろしく、そしておぞましいほどに清らかな聖の魔力。
わたくしの眼前に現れたのはベガ様でした。
「ふふ。近くで見るとやっぱり綺麗ね、あなた」
透き通った白い肌に流れるような銀色の髪。思わず見惚れてしまうほどの美貌と、それに似つかわしないどこかあどけない笑み。『聖女』という名の印象を崩さないどこか超然とした佇まいの彼女は、緊迫した場に対してあまりに無邪気な様子を見せています。
「残念だけど、あなたは舞台から去ってもらうわね。このまま行くとシナリオ通り『悪役令嬢』一直線だもの。大丈夫、私が守ってあげる」
「聖女殿、ご無礼をお詫びいたします!」
ヒューベルトが風の魔法で輪を作りベガ様を拘束します。しかし彼女はみじろき一つすることなく、自身を抑えつける魔力を分解。逆に空気中に散らばる魔力を取り込みヒューベルトの動きを封じます。燃えたつ炎の剣を振る彼でしたが、気が付けば右半身が凍結し氷の彫像のような姿を晒しています。
「ヒューベルト!」
彼に駆け寄り氷を溶かそうとしたほんの一瞬、わたくしの身体の動きが停止します。
「ダメよ、あなたを傷つけたくないの。うふふ、ほんと可愛い。ちょっと怯えた表情がすごく新鮮。まるで美しいお人形みたい。その髪は一体どんな手入れをしているのかしら? 肌もいいわねぇ、その瞳も、指も、腰つきも、頬も、何もかもが理想的なバランスね。羨ましいわぁ」
何の憎しみも恨みもなく、ただそこにあるのは純粋な好奇と興味。そのどこか浮世離れした雰囲気と強大な魔力に背筋に冷たいものが走ります。彼女は、これは決して相対してはいけない存在であると身体の芯まで理解してしまうような、恐ろしさ。
まるで、神話の獣のよう。わたくしの頬に彼女の指先が触れます。髪を軽く引っ張られ、首筋を撫でられ、まるで愛玩動物のように頭に手を当てられます。
「あは。やっぱり本物は違うわ。ねぇ、何の苦労もなく怠惰に過ごすって素敵だと思わない? 私が可愛がってあげるから、一緒に遊びましょ? この作られた世界で、『主人公』の私にできないことなんてないんだから」
その人間を人間とも思わないような口調、そしてわたくしを小ばかにしたような態度。これまで感じたことのないほどの燃え立つものを身体の内側に感じます。
「わたくしはあなたの愛玩動物ではありませんわ!」
炎と水の魔法を重ね合わせ、一気に解き放ちます。金縛りのようになった状態から逃れると、ヒューベルトを抱きかかえるようにしてベガ様から距離を取り、目視できる範囲で転移を行います。だけど、当然のごとくその軌道は読まれ、行く先を封じられてしまいます。
「ダメダメ。私レベル99だから。今のあなたの力じゃ絶対に逃げられないよ。面白い、面白いねぇ。可愛い可愛いアンドロメダ様? あなたはこのまま行くと大勢の人間を害する魔王の手先になっちゃうんです。だから、これは親切だと思って、素直に受け入れてくださいな」
全身を非常に小さな光の粒で覆われ、小規模な魔力が大量にはじけていきます。今まで学んだどんな魔法よりも強力で繊細で、問答無用。これが聖女様だけが持つ神聖魔法?
かって世界を救った伝説の人物の再来。わたくしは、弄ばれ、可愛がられ、翻弄されていきます。身に付けた高等魔法をどれだけ放ってもたちまち分解され跳ね返される。まるで大人が赤ん坊をあやすような、あまりにも圧倒的で、一切の疲れもなくただ楽し気な表情を浮かべるベガ様に、わたくしは内心で強く、とても強く苛立ちました。
空中で魔力が弾け、大広間へと落下します。風の魔法で衝撃を緩和しますが、周囲には騎士隊の姿。そして、逃げ惑うわたくしたちを面白げに見つめる国王陛下と、素晴らしく研ぎ澄ました剣を手にしたルセウス殿下の姿が目に入ります。
「さよなら、アンドロメダ。昔からきみのことは嫌いだったよ」
魔力を使い、凄まじい勢いでこちらに向かってくる殿下。輝く銀の刃。目も眩むほどの光が瞬き、聖女様の驚くような顔、とっさにヒューベルトを剣の軌道から逃がそうとします。彼だけは、彼だけはわたくしのたった一人の―――あぁ、自分の気持ちを押し殺してきた罪でしょうか。
本当に、どうしようもなく自分が愚かで恥ずかしく、大切な人を巻き込んだことに後悔の念が膨らみます。刹那に浮かぶのは幼い頃の彼のやんちゃな笑顔。はにかんだような微笑み。成長してからも、あのきらきらした星のような目だけは変わらない。
わたくしは、一体どうすればよかったのかしら?
そんな一瞬の哀しみ。直後に訪れる衝撃と激しい痛みによって、わたくしは凍り付きます。目の前には銀の刃が、彼を、わたくしの大切な幼馴染の体を貫いて。赤い、赤い血がほとばしって。ヒューベルトが殿下の剣によって、胸を貫かれていました。
「いやっ」
わたくしの胸の中で、奥深くにしまってある大事な宝石が音をたてて壊れたように感じました。
「いや、いや、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
その引き裂かれるような痛みと、聞いたこともないほどに悲痛な叫びが自分が発したものであることになかなか気づくことはできませんでした。だってこんなに赤い血が、彼の燃え立つような炎が散らばって、広がって、どこまでもわたくしの心を、壊して、染め上げていく。
ほんの一瞬。
わたくしは、光になりました。
治癒魔法、解毒魔法、解呪魔法、修復魔法、構築魔法、復元魔法、防御魔法、障壁魔法、成長魔法、攻撃魔法、防御魔法、結界魔法、転移魔法、補助魔法、炎魔法、水魔法、地魔法、風魔法、自身の頭と身体に刻み込んだ無数の魔法と言う魔法を、わたくしは全て同時に発動しました。本来、そんな無茶苦茶な真似はできませんし、使う必要なんてありません。ただ、そのときは本当に、何かしなくては、彼を助けなくてはとそれだけをただ願ったのです。
そこにあったのは、もはや怒りも憎しみもなく、ただ深い悲しみと愛情だけが中心に在り、目の前を通り過ぎていく星々のきらめきも過去の美しい思い出と、小さくてか弱い自分を見つめてました。
「なぁ、アン。いつか大人になったらオレはさ―――」
愛しくて抱きしめたくなる幼い少年の面影に手を伸ばそうとして、空を切ります。周りの風景が気付けば真っ暗に変わり、天井も壁も床もなく、ただ底なしの暗闇の中に落ちていくことだけをかろうじて、感じ取ります。そして何にも見えなくなりました。
そこは見渡す限りの荒野でした。
あまりに寒々しい光景は現実離れしていて、しばらくの間呆然としていました。
気づけば、大広間も、傷ついたヒューベルトも聖女様も殿下の姿もなければ、人間の気配など何一つ感じない。得体のしれない魔力がそこかしこに流れていて、とてつもなく気味の悪い薄暗い灰色の空がどこまでも広がっています。ここは、一体どこでしょう、わたくしは、夢でも見ているのでしょうか?
「ヒューベルト、どこ?」
我に返ると、とんでもない状況だったことが思い出されます。殿下の剣で刺された幼馴染の姿が思い起こされ、血の気は引き、混乱して周囲を見渡します。彼の名前を必死に呼び続けますが、どこにも姿はなく、その痕跡も魔力の残り香すら感じられません。長いこと、涙を流しながら彼のことを探し続けましたが、見つかりません。
見知らぬ場所で当てもなく動き回るなんて初めての経験でした。わたくしは小説の世界でしか味わうことのないような孤独で無謀な状況下に置かれてただ一人で誰の助けもなく、ただ彷徨い続けています。かろうじて頼りにできるのは、身に付けている魔法だけ。
周囲の気配を探りながら、生きている人間がいる場所を探し求めます。だけど、この世界はまるで何もかもが死に絶えたように一切の生命を感じ取れず、代わりに何か空っぽの存在がそこかしこに漂っているようでした。
変わりばえのない景色、自分がどこまで歩いたかもわからない有様ですが、かろうじて遠くにお城のような建物の影が見えます。どこをどう見渡しても、他にめぼしいものはありません。ひたすらに涙をこらえて足を動かします。
気持ちがある程度落ち着いてから魔法を使うことを思い出しますが、転移魔法を連発したところ、日頃は感じたことのない『魔力切れ』に陥ります。
まだほんの数回使っただけですが、身体の内側にある魔力の量が凄まじく目減りしていてほとんど中のものを使い切ってしまったように感じます。暗闇の中を灯すような唯一の味方まで頼りにできず、わたくしは心底途方に暮れていました。
それでもただ足を進めるよりほかはなく、ヒューベルトのことやルセウス殿下、聖女ベガ様のことなどを考えることしかできません。不安と心配と焦燥、苛立ちと怒り。そして他者に傷つけられたのだと言うことへの哀しみと憤りで胸がいっぱいでした。
そんな油断と隙が生じていたせいでしょう。
わたくしは目の前に得体知れない粘液状の物体があることに気づきませんでした。おぞましく生理的に背筋の冷たくなるような造形は、書物の中でしか見たことのない魔物の一種でした
『スライムと遭遇した!』
「えっ?」
目の前に突然不思議な文字が現われます。空中に一瞬だけ浮かび上がると消え、周りの空間が急に狭くなったような印象を受けます。魔力が切れた状態で、得体のしれない存在と対敵するのはあまりに無謀。その場から逃げ出そうとしましたが『逃げられない! スライムの攻撃』と再び文字が表示され、身体に重たい衝撃がぶつかってくるのを感じます。
『アンドロメダは10のダメージを受けた』
見知らぬ文字ですが、自分の名前を指していることは何故か分かりました。一度も学んだことの無いような字ですけれども……。困惑した状態で、その場から離れることもできずただ『スライム』らしい魔物に追突を繰り返されていきます。わたくしはどうしていいかわからなくなり、手を前に突き出して追い払おうとしましたが、相手は何の痛切も感じることはないらしく、こちらにぶつかってきます。
『体力が0になった。アンドロメダは死んでしまった』
非常に不謹慎な文字が表示されたかと思うと、目の前が真っ暗になります。全身が凍えるような寒気と気持ちの悪さに襲われたかと思うと、先ほど居た何もない場所に立っていました。身体のどこも痛くはありませんが、思わず自分の両肩を抱いて、へたり込みます。生きている、自分は生きている。混乱する自分を落ち着け、とにかく状況を把握することにしました。
ここはどこか見知らぬ世界。
得体のしれない魔力が漂う場所で、罪人用の封鎖空間に閉じ込められ幻を見せられている可能性に思い当たります。この合理性のないただ惑わすためだけにあるような状況からすると、それ以外は考えられませんが……ふと気づくと目の前に何かがあることに気づきます。それに意識を向けるとパチン、とはじけるような音がしました。
アンドロメダ・ヴィオーラ
■クラス・悪役令嬢
■レベル・1
■体力 100/100
■魔力 500/500
■経験値 0
■魔法 闇E 炎A 水A 風A 地A
■死亡回数×1
■魔界に堕ちた悪役令嬢。
目の前に文字が浮かんでいます。先ほど魔物と遭遇した際にも見たものです。外国語は複数学んでいますが、全く見たこともないような文字で、だけどそこに書かれている言葉の意味が、先ほど同様に何故かわかります。自分の名前と魔法、体力や魔力といった文言と、そして―――。
「悪役令嬢って、なんですの?」
恐る恐る、文字に触れてみるとわずかに反応があることに気づきます。見えない透明な板のようなものに文字が貼りつけてある? 不思議な感触のそれを探っていくと文字の一部が少し浮いていて押せるような感触があることに気づきます。
「魔法」の項目を指で触れると、自分が使える魔法の種類と思われる表示一覧と「消費魔力」が表示されました。転移魔法は「50」となっています。その場で転移魔法を使用してみると、目の前の文字の数字に変化がありました。『魔力』の数字が『450/500』になっています。諸々検証してみた結果、どうやら今現在、魔法がこの数字の範囲でしか使えないのではないかと察します。
相手を攻撃する術は、魔法しかない。
再びあの魔物と遭遇した際には、身を守らなくては。
わからないなりに状況を呑み込み、ただはるか遠くに浮かぶ建物の影を目指して歩きます。途中で再び魔物と遭遇しました。回避できる場面もありましたが、どうしても逃れられない場面では仕方なく魔物と戦闘を開始します。弱い炎魔法を使用し、『スライム』に当てます。魔物は避ける様子もなく、攻撃魔法を食らうとそのまま消えてしまいました。
『アンドロメダは勝利した! 経験値を10獲得。アンドロメダはレベル2になった』
直観的にあの文字表示が変わっているのではないかと感じます。
確認してみると『レベル』が2になり、『経験値』が10となっています。『体力』と『魔力』の数字も変化していました。増加している? 敵を倒したから?
魔物を倒すことによって、数字を増やす。
なぜそうなるのかの理屈はまるでわかりませんでしたが、できることは自分の使える魔法を増やすこと。さっぱり意味が分かりませんが、自分が呪いのようなものにかかっていることを何となく感じます。この漠然とした指示というか、手段に沿ってしか行動できない。
できることはあまりに限られていて、直感に任せて動くより他はありませんでした。
どこか物足りなさのようなものはありますが、なぜかお腹がすくことはなく何時間でも歩いていられます。身体の生理現象が止まっているような状態で、眠ることは出来ますが、それ以上のことはできず、ただ歩いて戦って、魔法を使い、眠る。
食べ物は確保できそうにありません。なにせ草一本生えていないのですから。しかしあるとき魔物を倒すと『オレンジキャンディを入手した』と表示されました。名前の通り包み紙に入った飴のようです。不気味だったので最初は捨てていましたが、他に食べ物らしきものは一切ありません。
恐る恐る舐めてみると、普通に口の中に甘い味が広がります。ほんの少し気力と魔力のようなものが戻った気がして、確認すると数字も微増していました。これは魔力補給のための資源のようです。魔物を倒すとお菓子が出てくる。悪趣味で冗談のような話ですが、あまりに変化の乏しい道が続き心も身体も疲弊してくると、わずかな潤いに救いを求めざるを得ません。
遠くに見えるお城に行こうと思いました。死亡するかレベルが上がると全回復しますので、積極的に敵は薙ぎ払っていきます。これは生き物を殺しているのでしょうか。魔物は生き物なのでしょうか? どこか罪を犯すような気持ちでしたが、生きるために歩き続けるためにはその行為を重ねるより他はありません。
ヒューベルト。お父様、お母さま。親しい人々の顔が浮かんでは消えていき、涙をこらえながら前へと進みます。しばらくすると光る水晶玉のようなもの浮かんでおり、触ると『ここまでの行動を記録しますか』と表示されました。最初はその意味が分かりませんでしたが、とりあえず『はい』にしてみました。
特に変化はありませんでしたが、その効果は後になって判明します。
非常に強力な魔物と相対し、不運にも破れ去ったとき。再び暗闇に落ちるような感覚に襲われたかと思うと、目の前に光る水晶玉が浮かんでいました。これは、あの『記録』をした場所です。周囲の様子からすると、どうやら倒された際に元に戻る場所を記録するという意味だったようです。
水晶玉は味方。そう位置づけてそれらしいものがあると積極的に近づいていくことにしました。やがて、風景にも徐々に変化が生じはじめ、遭遇する魔物たちもだんだん変わっていきます。奇妙なことに姿かたちは同じでただ色合いや名前だけが若干違うだけの場合がほとんどです。
『スライム』『強スライム』『もっと強いスライム』『最強スライム』『極限スライム』『終末スライム』『特殊スライム』『異質スライム』『なんかそれっぽいスライム』『酢ライム』
だんだん魔物の名称が投げやりというか、いい加減なものになっていきます。『酢』ってビネガーのことですわよね? 舐めたら酸っぱいんでしょうか、などと想像する余裕さえ生まれてきます。変化に乏しくいい加減で、どこか緊張感を保てない世界。
そう、ここはまるで趣味の悪いおとぎ話の世界でした。
悪夢の中をさまようような不安な気持ちの中で、かろうじて心の支えとしていたのはヒューベルトが生きている可能性でした。ここが何かの牢獄とすれば、彼もあるいは傷を治療されどこかに囚われているかもしれない。出口があるとは限りませんが、せめてもう一度だけ彼に会いたい。あまりに都合の良い思考でしたが、他にすがれるものが何もなかったのです。
自分が罪人として裁かれるならば家族もただではすみません。既に自分が国王陛下にも見捨てられ嵌められたのだということは理解しています。その目的はヴィオーラ侯爵家の力を削ぐこと、あるいは家の断絶を狙ってのことか。
国内でも有数の名家であり、高い魔力を保有する血統。国王や殿下にとって目障りな存在であったのかもしれません。より強い血を取り込むことは王族の責務。けれど、わたくしの代わりに聖女の再来であるベガ様を王妃に据えることで聖女の力を王家に取り込む。
ただの推測ですが、彼らの考えや行動にそこまで深い思慮が感じられませんでした。これはまるで粗雑な粛清。聖女という最大の戦力を保有し、気に入らぬ者たちを切って捨てていく。なんたる暴君。あまりに愚劣極まりない蛮行。あんな下らない人間に頭を下げていたかと思うと怒りで全身が震えます。
不安と悲しみと恐怖。それら怯えの心で居続けることはどうやら難しいようで、徐々にわたくしの中で芽生えていくのは怒りや激情、敵意といった恐ろしい感情ばかりです。それでも正気にさせてくれるのはヒューベルトの記憶や家族の思い出だけ。
あぁ、どうして、わたくしは彼を巻き込んでしまったのでしょう。
幾度後悔しても後悔しても足りません。
ヒューベルトは悪い噂が広まっていることを知り、しばらくの間疎遠になっていたわたくしにわざわざ会いに来てくれて、助けになると優しい言葉をかけてくれました。幼馴染というだけで、ここまで親身になって動いてくれるのかとどれほど感謝してもしたりませんでした。
思い起こせば、人生の中で一番楽しかったのは彼と過ごした幼い日々だったような気がします。その記憶すら今は遠くなっていき、灰色に埋め尽くされていくことが、たまらなく辛い。
繰り返される粛々とした動作と繰り返し。魔物を倒す、数値を確認する。手に入れたもので使えるものは使う。得体のしれない物は捨てる。食べ物以外はあまり試す気にもなれずに放棄していきます。時折変わった食材が手に入ったときだけは、恐怖と不安と好奇心がないまぜになった感情を抱きます。
そのとき私を大いに悩ませたのは『ラーメン』という食べ物です。それなりに重さのある食器を手に、本当にどうしようか心底迷いました。濃いスープの中にパスタと野菜やお肉の乗った謎めいた物体。何故かこの料理らしきものはホカホカと出来立てのように熱く、香ばしく食欲をそそる匂いをしているのです。
ちなみにこれを所有していたのは『トンコツ』という名前のイノシシと豚の混ざったような魔物でした。あまりに薄気味悪くて、最初は捨てていましたが、良い匂いのするものというのは口にしてみたくなるというのが人間の性らしく、やがてほんのひと匙だけ口にしてみることにしました。濃く深い複雑な味付けが口の中に広がります。未体験の味に思わず喉が鳴るのを感じました。
フォークはありませんが、なぜか二本の木の棒を細工したものと変わったスプーンが付属しています。それらを使い、苦労して口に運んでいきます。パスタはもちもちとして噛み応えがあり、スープは口にしたことのない旨みと刺激があり、気が付けば食器の中は空っぽになっていました。
時折パンやお菓子は手に入りますが、しっかりとした温かい食事などろくに口にしていません。食べ終えてから無性に悲しくて、顔を両手で覆いながらすすり泣きます。美味しい物を食べて泣くなんてことは初めての体験でした。
迷ったときはヒューベルトならどうするだろう、と考えながら行動します。子どもの頃は良く言えば無邪気で勇ましく、悪く言えば無謀で猪突猛進。元気のかたまりのような男の子で、こちらもつられて庭を駆けまわり、楽しく遊びました。
小さな頃だからこそ許された、短い遊び。成長するにつれてそれが許されないことだと学び、本を読み手芸を嗜み美術を鑑賞するなどといった趣味に浸ります。だけど心のどこかで物足りない、なんて考えていました。
「魔法の研究はしないのか?」
成長してから再会した彼にそんなことを言われて、わたくしは首をかしげました。
そんなこと専門家でもないのにする必要はありません。
「小さい頃言ってたじゃないか。自分は魔法が大好きだから大きくなったら王立研究所で魔法の研究家になるって」
「そんなことを言っていたかしら?」
自分の頬に手を当てて考え込む。ヒューベルトと過ごした日々の中でひょっとしたらそんな言葉を戯れに口にしていたかもしれません。無意識に蓋をしていたような思い出に、どこか息が詰まるような思いがしました。
すでにその頃ルセウス殿下との婚約が交わされており、王妃となるための勉強や教育がはじまっていました。魔法の勉強にも時間を割いていましたが、心のゆとりや余裕など一切なく、ただ与えられた課題をこなしていく日々。
「アンは才能がある。きっと誰にも使えない魔法を発見するよ」
そんなことを冗談めかして言ってきて、少しだけ「からかわれているのね」とムッとしたものですが、後になってからそれも悪くはない、と考えを少しだけ改めます。振り返ってみれば、自分の中で確かに未知なものへの好奇心や魔法への探求心のようなものがくすぶっていて、誰もがたどり着いたことのない領域に、宇宙に手を伸ばすこと、そんな想像をすると心の中が夜空に浮かんだ星々がきらめくような、とても素敵な気持ちになるのを感じました。
それからは魔法の勉強の傍ら、ほんの少しだけ空いた時間を利用して魔法の実験を行ったり、新しい魔法や弱くてあまり活用されていない魔法の使い道を考えたりと研究のまねごとをはじめます。短い間の手慰みでしたが、この自由に心を解放する時間はわたくしにとって本当にかけがえのない、自分だけのものでした。
あぁ、ずっと魔法の研究をしていたい。他の事なんて本当は全部投げ出してしまいたい。そんな悲しい気持ちを振り払いながらも、ただ前に進みました。
それからというもの、わたくしはヒューベルトと顔を合わせる機会を見つけては、自分の思ったことや悩みのようなものをぽつりと口にするようになりました。王妃教育が辛いこと、本当は魔法の研究が好きでずっとそれだけをしていたいこと、などを淡々と呟くようなものです。彼は黙ってわたくしの言葉に耳を傾け、「俺にできることがあれば何でも力になる」と返してくれました。
わたくしを取り巻く世界や状況を変えることなんて何もできはしません。これが「俺が何とかしてやる」とか「王妃などやめてしまえ」といった言葉なら彼に対して頑なになっていったかもしれませんが、ヒューベルトはただ「出来ることはないか」と聞いて、ただ話に耳を傾けてくれます。これはどうしようもない、自分の運命。国を守る王妃となることはなによりも誉れとなること。そう言い聞かせていても自身の本当の気持ちは、少しずつ胸の中のひび割れからしみ出していきます。
「辛いの、もう何もかも投げ出してしまいたい」
「俺の出来ることなら、なんでも言え。お前がどんな決断をしても、俺だけはお前の味方になってやる」
どうしてそこまで言ってくれるのでしょうね。時折、何か彼の得になることでもあるのかといろいろ疑ったりもしていましたが、話し相手としての彼を手放すことは一切できず、ただ一緒にお茶を飲んで話をして愚痴を聞いてもらうというだけで、わたくしの心はスッと晴れたのです。どういう思惑があっても、理由があっても、彼の事が自分の中でいつしか欠かせない存在となっていきます。
出会うたびにどこか不機嫌そうな顔をして「きみはいつだって優秀だからな」「悩みなんて欠片もないんだろう」などというルセウス殿下の言葉。時には冷たいとすら言えるような態度。彼が心を閉ざしていたのは過去の出来事も関係していたように思います。
殿下は幼い頃に双子の兄君を亡くしていました。
大人たちが目を離したほんの短い間に、崖から転落し頭を打って命を落とした哀れな王子。魂の半身とも言うべき存在を失い、王位継承者としての責務と重圧にたった一人で耐えるルセウス殿下。そんな彼の支えとなって生きることは大変な誉れとなるはずでした。
それはひいては国の為、みんなの為。顔も知れない大勢の民の中に、ヒューベルトの笑顔を思い浮かべると、とても温かい気持ちになりました。
わたくしにとって、一番大事だったのは果たして誰だったのでしょう。
その内心の感情が殿下に対する裏切りと言われれば、確かにそうだったかもしれません。正直なところを言えば、ベガ様を侍らせ、わたくしに対するむき出しの敵意をぶつけてくる彼のことを目の当たりにして、ほんの少しだけ自分を許しても良いのではと思いました。
殿下が自分の心を押し殺し、自身の役割に殉じ続けるのならば、わたくしもそれに従うしかありません。けれど殿下が奔放にふるまうのであれば、わたくしの心も少しくらい自由になっても良いのではないでしょうか。
わたくしの本質は、きっと自分勝手で己の好奇心や興味を満たしたいだけの幼い人間なのだ。同時に大事な人を愛したい、護りたいという途方もなく大きくて深い欲望のようなものを自覚します。
そして、世界で最も大切な彼を傷つけたルセウス殿下のことを、決して許せない。わたくしを翻弄し玩具のように扱ったベガ様。殿下を諫めるどことか積極的にそれを利用した国王陛下。許さない。許せない。彼らだけは絶対に何があっても許せない。
それは燃えたつ、血のように赤く熱い炎でした。どのようなことをしても償わせる。万が一、ヒューベルトが命を落としていたら―――そのときのことを想像するとどこまでも、『死』よりも暗い闇の底をのぞき込んでいるような気持ちでした。灰色の空には星々はきらめくことがない。
この世界に来てからいったいどれほどの時間がたったでしょう。何日、何十日、何年? 時間の感覚すら曖昧で指標となるものはなし。
いつの間にかレベルの数字だけはどこまでも上がっていて、現在は『レベル3560』に到達していました。だけどこれでは足りません。あの聖女様に対抗するにはまだ全然足りない。魔力を練り上げ、より強力で恐るべき魔法の構築を検討します。短い戦いながら、聖女様の恐ろしさや途方もない力には人知を超えた何かが必要だと感じます。
そして自身の情報が記された文字の中で『闇』といった部分が気になります。属性の一種であることはわかっており、既に十分極めた四大属性と違い、まるで鍛えていない未知の属性。わたくしの興味と好奇心はその魔法の開発と成長に費やされていきます。
時間だけはどこまでもどこまでも存在しますし、このあまりに理不尽で都合の良い無茶苦茶の世界の中では、わたくしは自由に好きなことをしていいのだと気づきました。これまで生きてきた中で、一番自由。怒ることも哀しむことも、憎むことだって抑える必要はありません。
気が付けば恐ろし気な闇魔法ばかりを使っており、暗闇に敵を落とす術や影で相手を拘束する術、闇の獣に敵を食わせるといった野蛮で暴力的な魔法をどんどんと増やしていきました。このままわたくしはきっと悪魔のようになってしまうんだ、と泣きたくなるような気持ちでいっぱいでした。
そんな辛い状況の中で、わたくしは小さな希望と出会います。
それは行く先々で時折見つかる、小さな光の玉でした。『記録』の光とどこか類似性を感じ、自分にとって有益なものであることを察して見つけては持ち歩いていましたが、やがてその効果に気づきます。夜眠る際に、その光の玉を誤って潰してしまったことがありました。
失敗した、と残念な気持ちになったものですが、眠りに着くと懐かしいヒューベルトの姿が浮かびます。それは幼い頃の彼との思い出で、わたくしは夢の中では小さな子どもになって、彼といっしょにどこまでもどこまでも駆けていきました。
それはただの夢というのはあまりにも明瞭で色濃く、ふと光る玉を壊したことを思い出し、次に眠りに付いた際にも同じことを繰り返してみました。すると、再びヒューベルトとの思い出が鮮明に浮かんできて彼と楽しく過ごす子ども時代を堪能することが出来ました。これはきっと、自分にとって愛しい記憶を見せる道具なのでしょう。
夢を見ては楽しい気持ちになり、目覚めては涙を流します。こんな風に自分の心を慰めても、彼が救われるわけではないのです。それでもわたくしはこの甘い夢の中に浸り続けるしかありません。光る玉を見つけては大事に大事に持ち歩きます。
遠き日の思い出だけが、わたくしの荒んだ心を光につなぎとめてくれます。
いつの間にか、手に入れた食料はなんでも口にするようになっていました。魔物も死んで消滅するのでなければ、いずれ口にしていた可能性すらあります。慣れと好奇心。この世界についても様々な考察を立て、調査し研究を重ねています。ここはあるいは、わたくしが使った魔法が暴走してたどり着いた魔の領域、目の前に浮かぶ文字で示された『魔界』と呼ばれる世界なのではないかと考えます。
『悪役令嬢』という意味だけはよくわかりませんが、聖女様や殿下らにとってはわたくしは紛れもなく『悪役』なのかもしれません。闇の魔法を使役し、魔物たちをことごとく食らい尽くす。いっそ『魔女』としてもらった方が今の自分にはふさわしいのではないかと思えます。
そして、繰り返しの日々はやがて終わりを迎えます。それまで途方もなく遠くにあったこの世界で唯一の建造物についにたどり着いたのです。あまりに長く不毛な旅でした。いつの間にやらレベルは上りに上がっていましたし、魔法の種類もこの世界に来る前の軽く数百倍は覚えていました。でも、これでもあの聖女にはかなわない。限界まで、果てに至るまで力を付けなくては。だって彼女はわたくしよりずっとずっと強いのですから。
わたくしがもっと強ければ、誰にも負けないほどの魔法を使えていれば、あの悔しい思いを二度としなくて済む。お城の中に入っても強力な魔物はどんどん湧いてきて、わたくしは歪んだ笑みを浮かべます。
「ごきげんよう、よろしければわたくしの糧になっていただけます?」
きっと間近で見ればとても恐ろしい顔をしているでしょうね。あまりに虚ろで行き場のない憎しみだけが胸の中に空いた穴をどんどん広げていきます。お城の中はとても広く、とにかく上の階を目指します。
不気味なことと言えば、魔物たちがどんどんおかしくなっていくことですね。名前も『未設定』となっており、姿かたちがラーメンやお菓子などアイテムのそれだったりと、明らかに異質なのです。せっかく良い笑顔を浮かべても食べ物相手にすごんでいてはただのおかしな人ですわね。
ここに来て、このよくわからない世界の茶目っ気のようなものに救われます。
わたくし、この時点ではまだ少し和む余裕もあったんです。いい加減な世界ですが、どこかユーモアもある光景にひととき現実を忘れて、奇妙な夢の中にいるような心地でした。
そんな心の緩みと油断。頑張ればどうにかなる、そんな淡い期待と希望を打ち砕く敵が突如現われたのです。
『タピオカ師匠が現われた!』
その魔物を形容すると、黒くて表面が艶々していて、ぶよっとした感じの巨大な球体でした。スライムに似ていますわね。ただ空中に浮かんでおり、真っ黒い炎のようなものが立ち上っています。
ここまでの敵のほとんどは『未設定』と呼称される存在でしたが、意味は不明ながら具体的な名称、ここに来ての独自造形ともなると、多少警戒は致します。
しばらく様子を見てみますと、このタピオカ師匠。攻撃方法はただの体当たりのみでこちら側のダメージは0、その代わりこちらが殴っても同じくダメージ数値0、魔法攻撃でのみダメージを与えられるようでした。そして一定のダメージを与えると『全回復』します。
変わった特性ね、と思いながらもさほどの脅威ではないことを感じます。
ですが、タピオカ師匠の恐ろしさはここからでした。ひたすら攻撃魔法でダメージを与えても全回復を繰り返し、延々とそれを続けるのです。
極大魔法や多種多様な恐ろしい闇魔法を駆使してダメージを増強しようとしますが、表示される数値は『999999』固定。一撃では倒せず、たちまち回復するので終わりが見えない状態です。
ただ相手に底が見えずとも、こちらには魔力の限界があります。回復アイテムを使い、余力を保とうとするのですが、攻撃すれども果ては無し。次第にわたくしは焦り、余裕を失っていきます。魔力回復手段を失った時点で軽い頭痛を覚えます。これは、まずいですわ。
逃げようとしても不可、相手へのダメージ手段は魔法のみ、そして魔力の回復方法も……少し呼吸を落ち着け、大量の魔法の中で何か有効になるものがないかを検証します。その結果、『魔力吸収』というドレイン系の魔法に行き当たります。
ほとんど使ったことがありませんでしたが、幸いにもタピオカ師匠の魔力を吸収することが出来ました。
こちらに魔力の底がある以上、あちらにも限界はあるはず。それだけを頼りに戦いを続けていきますが、やがて『タピオカ師匠は全回復を使った! しかし何も起こらない』という状態に陥ります。ようやく終わりが見えた、と魔法攻撃を繰り返します。
ですがこのタピオカ師匠。体力の数値も相当なようで、繰り返し魔法をぶつけてもびくともしません。どこまでも平然とした状態で無意味な体当たりと回復しない『全回復』を続け、わたくしは徐々に焦りを覚えます。
お待ちになって。これはいったいどこで終わりが見えてきますの?
彼の魔力が枯渇した以上、こちらも魔力を回復する手段はなし、ダメージを与えられるのは魔法のみ。そしてお互いに通常攻撃ではダメージ0、今現在何かしら意味を持って行動しているのはわたくしの攻撃魔法のみ。だけど、これで倒しきれなかったら?
魔力を節約し、毎ターンダメージ蓄積タイプの毒魔法などを使いますが、こちらは効果はやがて切れることに加えてダメージ数値は低い。まだ攻撃魔法を調整しながら限界数値を叩きだす方がマシでした。補助魔法や様々なからめ手もほとんど意味をなさず、ただ時間だけが流れていきます。
「どうしよう、どうしたらいいの」
魔力の残り数値が目減りし、もはやあと数回しか攻撃はできません。その数回の内に倒せればそれで終わりですが、もし倒せなかったら? だんだんと身体に震えが走ります。確認しても回復アイテムはなし、状況を打破できそうな魔法もなし。ここに来て、わたくしは一旦攻撃の手を止めひたすらに思考を繰り広げます。
この状況はほぼ『詰み』なのでは?
これまでの戦いはいずれも明確な終わりがあり、倒されても記録した地点に戻されるだけでレベルや経験値が減るといったペナルティもなし。死への恐れはありましたが、生き返ることがわかっていれば耐えられないものではありません。
だけど、もしも終わりがなかったら?
逃げられない。攻撃できない。倒せない、倒されない。それでもさながら永久機関のようにタピオカ師匠は動作を繰り返します。わたくしも魔力が尽きればもはや相手を殴るよりほかはありません。
果てがない。この状態でおよそ数時間に相当する時間が流れ、わたくしは激しい疲労を感じます。この不可思議世界では肉体的な疲れはなくとも、精神は疲弊するのです。いっそ眠ってしまえればよいのですが、戦闘中は座ることや地面に横になることは一切できません。直立したまま考えるだけ。
考えても考えても悪い想像しか浮かびません。ひょっとしたら、わたくし、とんでもない地獄に堕とされたのではないかと気づきます。一歩間違えれば『永遠』の中に閉じ込められる。それも立ったまま魔物との体当たりのような動作を繰り返す牢獄です。
これまではどれだけ長い戦いと言えども終わりはきました。けれど、半永久的に終わりのない可能性に行き当たるとはさすがに想像はできません。できるはずがありませんわ。だって、物事には必ず終わりがありますもの、限界がありますもの、でも、その終わりがなかったら?
すさまじい悪寒が背筋を走ります。恐怖と不安をこらえながらも、最後にできる選択肢である攻撃魔法を打ち続けます。一度二度三度、お願い倒れて、倒れて。祈るような気持ちで攻撃を繰り返します。もはや頭の中はぐちゃぐちゃになり壊れる寸前ですが、それでもかろうじて大好きな人たちの顔を思い浮かべ、必ず終わりは来ると信じます。神に祈ります。
『魔力が足りない!』
あまりにも無慈悲な文言。
現実が受け入れられず、ただ「え?」と呟きます。
この魔界の中で、地獄の中で、諦めず、何かを変えようと努力を続け。
きっと彼に会えるのだと、それだけを信じて。
わたくしは。
泣いて泣いて、泣きじゃくって絶望に咽び、あらゆる罵詈雑言を天に向かって投げかけます。けれど泣けど喚けど救いはなく。どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか? ひたすら状況に耐え、頑張ってきたのに。ここに至るまでにもっと慎重に動いていれば。しかし、今となっては後の祭り。
疲れました。うんざり。もはや、我慢の限界です。
世の中がいかに理不尽で、優しくないかを、これでもかと思い知らされました。
もういいですわ、わたくし人間やめます。
頭の中でブチッ、と何かが音を立てて切れました。
不思議と奇妙な覚悟が生まれ、燃える炎のように胸の内側で滾るのを感じます。
ようやく気づきました。
世界が理不尽なら、わたくしがそれを越える理不尽になればいいのですわ。
その後、ひたすらタピオカ師匠との殴り合いを繰り広げることになりました。もちろんお互いの攻撃で相手が傷つくことは一切ございません。ダメージ0です。ターン数表示だけがどんどん積み重なっていきます。えぇ、この行為に意味なんてありません。もうヤケです。他にどうしろって言うんですの?
そんなわけで延々と同じことを繰り返し続けます。そのうちパンチやキック、頭突きといった攻撃手段も覚え、何かしら変化が出ないかを検討し、試行錯誤し、ただ野蛮で原始的なやりとりを重ねます。動物にでもなったような気持ちでぽかすかします。
タピオカ師匠に恨みはありませんが、詰んだのは彼のせいですから仕方がありません。そしてそのうち、黒い艶やかな表面の中に次々憎い彼らの顔が思い浮かびます。国王、聖女様、殿下。わたくしはだんだんと奇声を発し大声を上げるようになり、ひたすらに吠え続けました。
よくも、よくもよくもよくもよくも。恨みが、憎しみが、怒りが、延々と湧き上がります。絶望を越えて思考が焼き切れるんじゃないかというほどにただ魂を焦がします。それで何かが変わるわけでもありませんでしたが、他にできることはなく。
でも泣いて過ごすよりはきっといくらかマシです。ひたすらにタピオカ師匠のたぷたぷとした身体にぶつかっていきます。意味があろうとなかろうともはや関係ありません。時間の流れはわかりませんが、体感的には朝も昼も夜もずっとずっと殴り合いを続けます。数日は余裕で経過したでしょう。我ながらよく精神崩壊しなかったものです。そしてそんなヤケクソ気味な行動の果てに、奇跡が起こります。
『9999ターンが経過しました。ゲームオーバー』
その文言と共に『死』は訪れ、わたくしは『記録』の場所まで戻されます。もはや幾度も幾度も見た温かい光の前で、わたくしは絶叫します。歓喜と興奮。あの地獄のような時間から突如として開放されたのです。
終わりはある、何事にも果てはあるのだ。無意味ではない、続けることに意味はある。そしてひとしきり騒いだ後、わたくしは神に祈りを捧げました。あぁ、この世界にわたくしを生み出してくださって、ありがとうございます。全てのことに感謝をし、そして同時に再び立ち上がる勇気を抱いて前を向きます。もはや恐れるものはありません。ただ戦いに身を投じていくのみです。
タピオカ師匠は文字通り、わたくしにとっての『心の師』になりました。もはや他のすべての魔物は物の数ではありません。所詮はわかりやすいダメージが通るただの甘いお菓子や食材に過ぎないのです。
まず、タピオカ師匠の出てくるフロアより一度下の階層に戻り、アイテムの補充とレベルをひたすらに上げに上げ続けます。数値化されている世界ですもの、恐らく準備さえあればきっと打破は可能なのです。そして再び彼と相対した際に、わたくしはひるまず戦いを挑みました。もちろんそう簡単には行きませんでしたが、ここからはもはやただの意地の張り合いであり、限界への挑戦に他なりません。
やがて、世界は一つの大いなる区切りを迎えます。
『タピオカ師匠を倒した!』
その表示と共に入ってくる大量の経験値。そしてドロップアイテムの『タピオカドリンク』。魔物から手に入れた食料を口にすることにもはや一片のためらいもありません。突き刺さっている筒状の棒を引き抜き、蓋を投げ捨ててその飲み物を一気に喉に流し込みます。むせました。なにやらぶよっとした固まりがいくつも口の中に入ってきて地獄です。終わってもなお油断するなという師匠からの忠告でしょう。
口当たりは最悪ですが、どこか晴れ晴れとしたような気持ちで次の階層へと向かいます。悪魔でも魔王でもかかってらっしゃい。粉微塵にしてやりますわ。どこか夢見心地のような足取りで先へと進みます。もはやわたくしに恐れるものなどなにもなし。ですが一つの困難を乗り越えたからと言って油断や増長は禁物。そう、気が大きくなった時に限って、自分がいかに甘かったことを直後に気づかされるものです。
『タピオカ師匠×4が現われた!』
うふふ。あはははは。もう、師匠ったら。勘弁してください。だけど、そうですわね、油断や隙があるから足元をすくわれるのです。やるのなら、何事も徹底的にやらなくてはいけません。
多数の師匠との『死合い』を繰り広げ、突き進んでいった結果、やがて四天王と名乗る存在ともぶち当たります。彼らは名前こそあれども姿かたちは人間の形をそのまま影にしたような物体であり、ゴチャゴチャ安っぽい挑発を口にします。けれど、あなどるなかれ。世界は全てどこまでも理不尽で恐ろしいものでしてよ。
数々の強敵との戦いを経て、いつしかわたくしのレベルは『9999』に到達しました。特に感慨はありません。数値の変化がなくなった、それだけです。一つの区切りが訪れたからといって、それで何が変わることもなく、ただ平常心とどのような敵に対しても慌てず、油断せず、最大限の警戒をもって戦いに挑むのみです。
進み続けることが出来たのは、終わりがあるからです。本当の恐怖とは、終わりのないこと。
そして最上階、王の広間と思われる場所に『彼』は居ました。
「良く来たな、■□■□よ。我はこの魔界を統べる魔王である。ここで無惨な死を遂げるか、それともわが妻となるか、どちらか好きな方を選ぶが良い」
魔王、と名乗っている通り真っ黒で不気味な服装をしていますし、黒いお角はそれらしいのですが、見た目だけで言えばさほど恐ろしくはありません。人間の男性が少し変わった格好をしているような塩梅です。ただその容姿が、とんでもなくわたくしの感情を逆なでする人物そのものでした。
「ふふふっ、あははっ」
その巡り合わせに、あまりの皮肉さに、なんだか急におかしくなって笑ってしまいます。どうしてかわかりませんけれど、人間ってあんまりに下らない目に遭うともう感覚がマヒしてきて物事を面白がるしかないんでしょうね。もちろん、本当に愉快なわけはないのですが。
ただ憎くて、憎過ぎて、いっそ愛おしい。そんな喜びと、自身の体に収めきれないほどの怒りが、憎しみで胸の中がいっぱいでした。このわたくしの中に溜まりに溜まったそれを、一気に解放できる場面が、ついに訪れたのでした。
「あぁ。うふふ、うふふふふふっ。お会いしたかったですわ『ルセウス殿下』。わたくし、わたくし、わ、わたくし。よくも、よくも、よくも―――わたくしの、わたくしの、わたくしの大切なヒューベルトを、傷つけましたわね」
ここでわたくしが『彼』に何をしたかは詳しくは語れません。ただ魔王とおっしゃる通り随分と『長持ち』される方だったので思う存分に、思いつく限りのありとあらゆる手段と魔法によって叩き潰させていただきました。
軽く記憶が飛んでおり、ものすごく長い時間戦っていたようにも思えますし、一瞬だった気も……いえ、ごめんなさい、さすがにそれはありませんわ。思いっきり憂さ晴らしさせていただきました。タピオカ師匠と違い、彼はとても魅力的で素晴らしい容姿と反応がありましたから、ついついわたくしも興奮してしまいましたの。はしたないですわ。
というわけで、もはや見る影もないほどにボロッカスになった魔王様ですが、多少申し訳なくなりましたので魔法を使って、元の形にまで復元させてさしあげました。よく見ればルセウス殿下のようでいてちょっと顔立ちは違っています。表情と言うかお顔の筋肉の使い方が違っておられるのですよね。小憎たらしさというかイライラする感じが随分薄めですわ。
用心のため『従属化』と呼ばれる魔法を使用させていただきました。これを戦闘中に使うと効果が届く魔物はどこかに逃げ去っていくのです。魔王様の場合は「我は魔王ペセウス。我が主よ、何なりと命令するが良いぞ」と大変に従順な態度を見せてきました。なるほど、こうなるのですかと少し感心しつつ、壊しつくした身としてはほんのりと罪の意識が湧きますわね。
しかし、ペセウスってどこかで聞いたことがありますわね。ヒューベルトの家で飼っていた犬の名前だったかしら。
「ところで、この世界から脱出する方法ってご存知ありませんかしら、魔王様」
転移魔法を使っても、元の世界との接点が見つからないため正直手詰まりでした。
「うむ、それではこちらの水晶に触れるが良い」
それは巨大な水晶でした。『記録』の玉を思わせる光に極めて高純度な魔力が宿っています。魅入られるようにそれに触れると、まばゆい光に包まれました。
戻ったのは私の良く知る世界でした。
あまりに彩りに満ち溢れていて、雑多で、いっそ過剰とも言うべき世界の装飾具合。木々が、草花が、陽の光が、風が、小鳥の鳴き声が、ありとあらゆる命の鼓動を感じます。寒さや匂いを感じ、頬をつねると痛みがしました。
何と言いますか、恐ろしく手間がかかった割には、最後はどこまでもあっさりとしていますわね。これまで一体どれほどの長い間、あの無味乾燥な世界で過ごしたのでしょう。感覚的には数年以上経過していてもおかしくありません。
わたくしの外見は変化していないようですけれど、あるいはこちらでは、もう数十年も経過しているかもしれません。そうだったらどうしましょう。復讐ができませんわ。八つ裂きにしてあげられません。うふふ、ヒューベルト、もしもあなたがもうこの世界に居なければ、わたくしはこの世界を壊してしまうかもしれません。
ヒューベルト、今どこに居るの?
「我が主よ、これよりどこへ向かうのだ?」
あら魔王様、いらしたの。この世界で見ると格好がちょっと滑稽ですわ。
こちらの世界では既に10数年の歳月が流れていた―――ということはなく、調べてみたところ、あの婚約破棄の夜からおよそ一カ月ほどが経過していました。
体感的にあちらの世界で相当長い時間を過ごした実感があるのですが、不可解な話です。魔王様にお尋ねしてみたところ「現世と魔界では時間の流れが違う」ということでした。
わたくしの肉体も年を取っているわけではありませんが、繰り返しの日々の中で摩耗した精神は相当に削れ落ちているような気がします。あの世界、魔界から帰還した場所はヴィオーラ家の敷地内であり、通常の転移魔法を使えば実家に戻るにはさほどの苦労は要しませんでした。ただ、わたくしにとっては悲しい現実が待っていました。
わたくしの生まれ育った屋敷は、炎の魔法で焼き払われもはや跡形もありませんでした。
ヴェルデ侯爵家はお取り潰し、一族郎党が捕らえられ審議の定かではない罪状によって次々獄中に叩きこまれ、あるいは処刑の憂き目に遭っていました。
わたくしは魔法で姿を変え魔王様と共に隠密に行動を開始します。魔界で得た多種多様な魔法を駆使すれば身代わりを作ることも、幻を見せて死んだものと思わせるといった手段もそう難しいことではありません。
親族一同を集めるにはかなりの時間を有しましたが、生きている人間は使用人を含めてどうにか救助することが出来ました。ここで非常に働いてくださったのが魔王様です。まず彼は魔界との行き来が自由に可能で、加えて魔王城の中に存在していた魔物をすべて消し去ることができました。さすがに魔界の支配者と言うべきか、様々な権限をお持ちのようです。
「主よ、模擬戦を行うか? これまで戦った魔物と戦うことができるぞ?」
「いえ、それは結構ですわ」
なぜここに来て魔物と戦う必要があるのでしょうか。わたくしの敵は人間です。
「実は魔界の奥深くには我より強力な『大魔王』が存在するのだ。戦いに向かうのならば送ってやるぞ」
「結構です」
行った先で一体何が待ち構えているのか想像したくもないです。
結局救助した家人や親族は魔王城にかくまうことになります。大量の食糧や家財などを搬入し、生活の基盤を整えます。魔王様は幸いにも多芸な方で炊事洗濯家事などをある程度教えるだけでテキパキとこなしていき、ほんの数週間の内にはすっかりベテランの域に達しました。
意外に気さくな方なので使用人の方たちからも大変愛される存在となっています。元は高貴な方にここまでのことをさせるのは流石に心苦しいですわね。
「気にする必要はない。魔界ではやることがあまりに何もなく暇だったのだ」
そのお言葉に甘えることにいたします。何をするにせよ協力者が多いにこしたことはありません。現世に戻ってきた以上、もはや長く『彼ら』を野放しにしておく気も全くないのです。ヴィオーラ家を貶め、ヒューベルトを傷つけ、そしてわたくしのお父様とお母さま、そしてお兄様を処刑した国王陛下、ルセウス殿下、そして聖女ベガ様。
失ったものはあまりに多く、己の我欲が陰謀によって刈り取った命の報いを彼らは受けるべきです。
婚約破棄からまだほんのわずかな時間しか経過していないにもかかわらず、殿下とベガ様は婚約し、気の早いことで卒業と共に結婚式を開くご予定だそうです。まるでアンドロメダ・ヴィオーラは最初から存在していなかったように彼らの中では居なかったものとされています。
一体なぜ、ここまでの目に遭わなければいけなかったのでしょう。わたくしのことが嫌いならば、婚約破棄を命じるだけならそれで良かったはずです。ありもしない陰謀や策略、そうした捏造された罪によって命を奪われたお父様、お母さま、お兄様。死んだ人間はもう二度と、戻っては来ないのです。
「国王陛下。そういうわけです。わかっていただけました?」
「あっ、うっ、ひっ、ひっ、ぎっ」
陛下の背後から暗い影が何本もの手で尊いお身体を締め付けています。まるでカエルのようなうめき声をあげ、様々な体液を漏らしながら小刻みに震え続けておられます。まだほんの触りでしかありませんのに、この程度の拷問で根を上げられましても。
国王の寝室ですから、本来ならば侵入することは大変困難な場所なのですけれど、闇魔法というのは非常に便利なもので、多くの臣下を『洗脳』することによってその鉄壁の防御網を無力化することは実にたやすかったです。それはもう拍子抜けするほどに。人の心を操り捻じ曲げる力、これだけはむやみに使ってはいけないと、こちらの世界に戻ってきてほんの数日は考えていました。
けれど、家族は処刑され、ヒューベルトの消息も不明。一族郎党が獄中に送られたという状況の中において、わたくしのささやかな忍耐力などあっさりと崩壊してしまいます。当たり前ですわよね。
「どういう理由で我が一族を貶めたのです? なぜ、大切な家族を奪ったのです。一体どうして、なぜ? これまで国のために働き、王家に忠誠を誓ってきた我らヴィオーラ家を、何故?」
国王様は震えながらうめくだけでしたので、少しだけ拘束を緩めお口の滑りが良くなる『自白魔法』を使います。現世に帰還した途端、魔物相手には意味をなさなかった様々な魔法が使えるようになったのです。特に闇魔法は人の心に作用する様々な効果が存在します。
「ヴィオーラ侯爵家、は国でも有数の魔力を持ち、力の衰えつつある王族をも上回る力を所有しており、このままではいずれ王の立場も脅かされる……力を取り込み御するよりも、聖女が現われた以上は、邪魔者はすべて排除し。彼女を使い全てを支配することが、王としては正しい、選択……」
「できるのでしたら、もっと優しい道を選んでいただきたかったですわ」
国王陛下の言葉はただ一方的で矮小で、身勝手なものでしかありませんでした。真実と言ってもこの程度のことですわよね。このまま八つ裂きにしてもかまわないのですが、本当にそれでわたくしの気が済むのでしょうか? あまりにも抵抗がなく張り合いがないとも言えます。このままお父様たちの元にお送り差し上げてもよろしいのですが、ふと思いついたので臣下の方に色々なお願いをしたのち、魔界まで陛下を持ち帰ります。
「魔王様、お願いがあるのですが、国王陛下を『模擬戦』にお送りすることは可能ですか? 加えて戦闘回数やゲームオーバーの設定なども調整できればありがたいのですが」
「おぉ、我が主よ。そのようなことは造作もない。存在する全ての魔物と戦い続けるよう設定しておこう」
「それではそれでお願いいたします。経験値は入らないようにしてくださいね」
国王陛下にはわたくしの味わった苦痛の少しでも味わっていただくことにしました。終わりの見えない半永久的な戦い。物理的な痛みはさほどではありませんでしてよ。ただ長く続くとちょっと精神の方が病みますけれど。とりあえず、全てが終わるまではそこでタピオカ師匠らと心の修行に励んでください。それから後のことはまたじっくりと考えますわ。
「や、やめろ、私を誰だと思っている! ルセウス、何故ここに。私を解放しろ、早くしろこの愚息が! いや、お前、お前は……ペセウス! 何故、どうして、生きている?」
あら、国王陛下は魔王様のお名前をご存知のようですね。博識なことですわ。さて、これからが本番ですわね。ルセウス殿下と聖女ベガ様。わたくしにとって、最大の脅威となるお方をこれからいかに排除していくかを検討しなくてはいけません。
洗脳魔法を使い、臣下の一人がさも国王陛下であるかのようにふるまっていただきます。周囲からもそのことに異常を感じないよう調整を施しました。わたくしは真っ先にヒューベルトが隔離されている場所を探し当て、彼の無事を確かめました。わたくしはその姿を見て、泣きそうになってしまいました。あぁ、ようやく、ようやく彼に会うことが出来た。
幸いにも彼は深手を負いつつ生きていました。治癒魔法を使って治療までされており、現在は王族の幽閉のために利用される北の塔で静かに眠り続けています。彼を回収し、魔界で保護します。彼のご家族については現状命の危機まではないようでしたが、当然のごとく厳しい状況に置かれていたようでしたので、後程手は打つこととします。
ヒューベルトに回復魔法や覚醒魔法を使いましたが、なぜか彼は目を覚ましてくれません。体内に生命力は感じます。まるでとても深い闇の中に落ちてしまったように、どれだけ探っても探っても手を伸ばしても声を響かせても一向に反応を示してくれませんでした。殿下に負わされた傷の影響か、死に瀕したことで魂に異常が生じたのか、あるいは、わたくしがあの混乱した状況の中で放った魔法が悪い影響を及ぼしたのか。そのすべてが彼の魂を蝕んでしまったのか。答えは見つけられません。
「大丈夫よ、ヒューベルト。わたくしが、必ずあなたを取り戻してみせます。だから、それまで待っていて」
すべてを終わらせたら、そのときは―――。
わたくしが決戦の舞台に選んだのは殿下とベガ様の結婚式です。花嫁が世界で一番幸せになれる時間。大勢の方に祝福され、この世界の『主役』として迎え入れられる。そんな状況こそ、彼らの裁きに対しては最もふさわしい瞬間であると感じました。わたくしは真っ黒なドレスを身にまとい、血のように炎のように深い赤い薔薇の花を胸に付けて訪れました。
「ごきげんよう、ルセウス殿下。そして聖女ベガ様」
「貴様、アンドロメダ・ヴィオーラ! なぜここに居る?」
しばらくぶりですが、相変わらず殿下はお元気なようです。憎々し気な眼差しも歪んだその表情もやはり魔王様とは全く違っており、その差異にわたくしは妙に安心いたしました。少しでもこの憎しみがゆるんでいたらどうしましょう、と不安でした。殿下はどこまでもご自分らしくふるまっていただければ嬉しいですわ。
純白のドレスを身にまとったベガ様はうっとりするほどにお美しく、その表情には困惑と戸惑いが隠し切れず、その人間的な表情に少しばかり意外さを感じてしまいます。記憶の中での彼女はもっと超然としていて、人を人とも思わないような方でしたのに。
「生きていたの。その姿、やっぱり魔王の手に落ちてしまったのね」
「いいえ。魔界には堕ちてしまったのですが、魔王様はわたくしにとっての良き理解者であり協力者ですわ。ベガ様、わたくしがここに来た理由はお分かりですか?」
「えぇ、そういうイベントだものね。来るならここだと思っていたわ」
彼女はひたすらに喚き声を上げる殿下と違い、どこか落ち着いた雰囲気をまとっています。現状を正しく理解し、こちらの意図を寸分たがわず受け止めてくださいます。相手にして不足なし。彼女個人に深い恨みつらみはありませんが、わたくしの世界をぐちゃぐちゃにした張本人。理不尽の象徴。彼女を目指してここまで来た。どうか、全力で『死』合いましょう。
ルセウス殿下はメインディッシュです。身動きが取れぬよう拘束し、周囲の人々の心と身体も支配して一切動かぬように命じておきます。わたくしたちが本気でやりあえば、常人ではたちまち吹き飛んでしまうでしょう。
「場所を変えましょうか」
ベガ様は転移をお使いになり、その後を追いかけていきます。王城のはるか上空に浮かび上がった彼女は素晴らしく均整の取れた身体と長い髪を陽の光で浴びてどこまでも美しい姿を晒しています。
「本当は、あなたとはあんまり戦いたくないんだよね。だって別に、あなたが嫌いなわけじゃないから」
「あら、思ってもみないお言葉ですね。もしもわたくしに多少なりとも好意を持って下さっていれば、国王陛下や殿下の所業を止めてくださればよかったのに」
「それは、少しだけ申し訳ないわ。でもあの人たちは聞く耳を持たないし、そういう『イベント』だから流れに逆らっても上手くいかないと思ったのよ。あのサブキャラの子もそうだけど」
「ヒューベルトのこと?」
「えぇ、そんな名前だったかしら。あまり好みじゃなかったし、イベントも酷いものだったからあまり細かくは覚えていないんだけど」
「意味が分かりませんわ。そういうお話は、もう沢山」
わたくしは魔力を全開にします。聖女相手にわずかな油断はできません。心を乱さず、けれど怒りや憎しみだけは誠心誠意練り上げて、極大魔法を彼女にぶつけます。さすがの聖女様、初撃は簡単に避けてしまわれます。影の触手によって彼女の動きを拘束、しかしこちらも簡単に切り裂いて逃れていきます。どうもこの闇魔法は神聖魔法とは相性が良くないようです。
「そんなことをしても無駄よ、私はレベル上限99! 全ての魔法と全属性を極めているんだから、闇の悪役令嬢になんて絶対負けない」
「あら。わたくしはレベル9999でしてよ」
定められた物語も、常識も、理屈も、全てを呑み込む『理不尽』。
それが今のわたくしです。
「ぐっ、がっ」
ちっともエレガントではないうめき声と共にベガ様は動かなくなりました。体内の生命力は途絶えていませんからまだ生きておられますわね。神聖魔法は闇魔法とは相性が悪く、聖女様は一定の耐性を持っておられました。しかし、それ以外の魔法においては単純なせめぎ合い。数字の上ではこちらが圧倒的に有利。手数と圧倒的な暴力によって彼女を御するのは非常に簡単でした。
かつてわたくしを赤子の手をひねるように弄んだ聖女様でしたが、今度はその逆でしたわね。タピオカ師匠のおかげでしょうか。
ベガ様は美しい容姿が見る影もないほどにボロボロになっておられます。ここまでするつもりはなかったのですが、ついつい力が入ってしまいました。お美しいお顔やお召し物がまぁ見るも無残に。心が痛みますわね。でも、手加減をして足元をすくわれては元も子もありませんから。肉体的な傷は回復魔法で修復できるとして、問題は中身の方でした。
この方、良く見ると魂が二つ重なっているようです。禍々しいほどに輝く白き加護を受けた魂の影に、おびえたように震えるもう一つの魂を見つけました。魂を軽く探ってみると、どうやらこちらがこの肉体の本来の持ち主であるベガ様のようです。どうも別の誰かに憑依されているようです。助けて差し上げることができるかしら? もしも彼女が何の非もないただの被害者だとするなら、『理不尽』に巻き込まれただけの気の毒な方ですものね。魂に触れるのは闇魔法を使えば難しいことではありません。
白い輝きの魂は抵抗しましたが、圧倒的な闇の力に耐えきれず、やがてベガ様の肉体から切り離すことに成功します。肉体から解き放たれた魂が一瞬人間の姿をかたどります。そこにはベガ様と似ても似つかない大人の女性の姿があり、戸惑い恐れるような顔をしたかと思うと、天高く飛び上がり、いつしかその姿は見えなくなっていきます。彼女の痕跡を逃さぬように掴み取り、後でじっくりと対応を考えることにします。ベガ様の身体を治療したのち、魔界に預けてルセウス殿下の元に戻ります。
さぁ、これでもう邪魔者は居ませんわね。今度こそ、心行くまでお話をしましょう。
聖女ベガ様と結婚式を行われる予定だった王宮の広間。
多くの招待客や臣下の方から、ルセウス殿下も含めて誰一人動く人間は居ません。唯一わたくしに対抗可能だった聖女様も既に居ない。
「アンドロメダ、貴様、このような真似をして許されると思っているのか……」
殿下は拘束されても憎まれ口を叩き続けています。大変お元気なご様子ですわね。まぁそうでなくてはこちらとしても面白くありません。
「そのお言葉、そっくりそのままお返しいたしましてよ。わたくしとヒューベルト、そして我がヴィオーラ侯爵家に対する数々の悪逆非道。お許しするわけにはいきません。ねぇ殿下、どうしてそこまでわたくしのことがお嫌いだったのです? なぜ公衆の面前で貶め蔑むほどのことをする必要があったのです。剣を振りかざし、自ら手にかけようとするほどに、わたくしが憎かったのですか?」
「あぁそうだ、憎いとも! 私より優れた魔力を持ち四大魔法を制し、他に比肩するほどのない凄まじい才能を持つ貴様がな!!」
それはむき出しの刃のような憎悪でした。もはや何の虚飾も言い訳もなく、ただ純粋に彼の本音が曝け出されているような言葉です。わたくしは、黙って耳を傾けます。
「お前にわかるか、次期国王候補として生まれ育ち、常に貴様と比較され続けていた私の気持ちなど! 血統を次代に次ぐだけの存在、国を統べる国王とは名ばかりの優れた王妃の影! 貴様との結婚後に訪れる未来は私にとっては地獄だ! この世で最も憎い女の機嫌を取り媚びへつらい、決して満たされぬ渇きを抱き続けて生きる私の苦悩が!!」
「いえ、貴方にご機嫌を窺われたことなど多分一度もありませんわよね」
顔を合わせるたびにとても嫌な顔をされ、好ましい言葉をかけられたことは一度たりともなかったように感じます。殿下にとってはそれでも最大限の譲歩というか媚びだったのかもしれませんが。お話をしているとなんとも想像以上に幼い人であることを感じますわ。
「わたくしのことは別に構いません。好きでも嫌いでもご自由にどうぞ。心までは縛れませんからね。ですが、だからといって他者を理不尽に陥れるなど許されることではありませんわ。そう、世は常に理不尽で救われません。だからこそ、貴き身分であるわたくしたちは自らの感情を律し、ただ国を統べ、民を愛し、自らの心を殺して身を粉にして生き続けるしかないのです。けれど、殿下の気持ちも少しは、いいえとてもたくさん、今のわたくしにはわかりましてよ」
そう、どれだけ気高い誇りを持って生きて来ようとも、そうあるべきことは理解していても、納得のいかない、譲れない想いや感情は確かにあります。たとえそれがどれほど醜くとも許されることがなくとも、心の中だけは自由でいたいのです。そうでなくては、生き続けることはできないから。
「ここからはただの私怨ですわ、殿下。よくもわたくしのヒューベルトを。あの優しい人を、何ら咎なき者を、傷つけてくださいましたわね……!」
怒りが逃げてしまわぬよう強く歯を噛みしめます。
他の人を巻き込まないように周囲の人々を転移させていきました。ですが彼だけは、ルセウス殿下だけはこの王宮の広間で罰さなくては気がすみません。彼は一定の魔力の持ち主なのである程度の耐久力はあるでしょうけれど、念のため『壊れないように』いくつかの魔法をかけていきます。
わたくしは、心を鎮め、これまで経験した全ての物事を思い起こします。厳しい王妃教育、殿下から受けたありもしない罪の糾弾、わたくしをかばい傷つき倒れるヒューベルト、そして処刑されたお父様とお母様、お兄様、あの長くどこまでも続くような不毛で無味乾燥とした魔界をさ迷い歩き、孤独と悲しみにむせび泣いた歳月。きっかけがどこであったか、何が引き金であったかは、もういいですわ。そんなこと、もはやどうでもいい。わたくしは、ただこの男を、ルセウスだけは許せない。
「くたばりやがれ、ですわ」
これまでに学んだ百の魔法、地獄で身に付けた千の魔法、そして今もなお生み出され続ける万の魔法を、そのすべてを彼にぶつけていきます。殿下の体が小刻みに震え続け、数々の魔力によって爆ぜ、脆くも崩れ去っていきます。ですが、その程度で許すはずなどはありません。魔力によって瞬時に肉体を再構築し、傷を癒しまた元の憎たらしいお顔に戻して差し上げます。
「や、やめろ、やめてくれ、いやだ、いやだぁぁっ!!」
とても可愛らしい良い声でお泣きになってくださいます。だけどもはや命乞いや許しを得ようとするのもあまりにあまりに遅すぎました。身の程を知るべきです。わたくしは、魔界に堕ち、地獄の底から現世へと舞い戻った女。
レベル9999の悪役令嬢。
自らの敵を絶対に許しません。
思いつく限りの魔法を試し尽くした後、わたくしはひたすらに拳で殿下を殴り続けることにしました。頬を叩き、鼻を砕き、全身を暴力という暴力で染め上げていきます。肉は裂け血がほとばしるたびに魔法で回復を繰り返し、魔力が底をつくまで続けます。気が付くとわたくしは、知らず内に涙を流していました。どうしてこんなことになったのでしょう。一時は彼を愛し、共に長い人生を生きる覚悟をしていた、そんなお相手でしたのに。お父様、お母さま、お兄様、ヒューベルト。わたくしを止めてくれる人は居ません。いつしかわたくしは、自分を制御することが出来なくなっていました。
もう終わりにしたい、こんなこと、もうしたくない。
魔界での長い年月降り積もった絶望と憎悪、そして底知れない魔力によってわたくしは思考の自由を失いつつあります。もはや心まで魔界に堕ちてしまったのでしょうか。
「我が主よ、少し良いだろうか」
その一言が投げかけられ、ようやくわたくしは手を止めます。
魔王様でした。ルセウス殿下に瓜二つの魔界の君主。ペセウスと言う名前は、そう確か―――。
「あ、兄上……」
ルセウス殿下がうめくように魔王様を見上げます。
幼い頃に亡くされた双子のお兄様。国王陛下も魔王様を見て名前を呼ばれていましたわね。魔王様は元は人間だったということでしょうか。
「あー。我もよくは覚えておらぬのだがな、途方もないほどに昔、幼い我が地上で人間として生きてきた時代があった。そこで我は人の王の子として生を受け双子の弟と共に育ち、ある日命を落とした。暗き崖の下へと落とされ、激しい痛みと灼熱のごとき熱を感じたかと思うと意識を失い、気づけば地の底の世界を這いずっていた。長き苦しい日々の果てに、あの城の玉座に就いたのだが、そこのところはもう、途切れ途切れでしかない、ただかつての我を死に至らしめた者の顔は、よく覚えている」
そう言って、魔王様は殿下の顔を見つめました。憎しみと言うよりも哀れみの深い眼差しを向け、ただ静かに問いかけます。
「ルセウスよ、兄を殺したか」
「うっ、うううっ、うわぁぁぁぁぁ!! 兄上が、兄上が悪いんだ! 私より、ぼくよりも優れた魔法を使えるくせに、周りを謀って、ぼくより劣っているなどと見せかけるからぁぁぁ!! そのことに、このぼくが、ぼくが、どれほどの屈辱を感じたか……!」
殿下は昔からそういう方でしたのね。他者と自分を比較し、常に劣等感に苛まれて相手を排除せずにはいられない。あるいは実の兄上を害したことで歯止めを失っていったのかもしれません。
「ぼくが、どれだけ、悔しかったか……兄上や、アンドロメダにはわからない」
わかりませんわ。わかりたくもないですし。ただ才能の面で劣っていることは決して恥ずべきことではありません。プライドを保つなら別の方法を模索するべきでした。国王陛下の教育の問題でしょうか。子どものように泣きじゃくる殿下を見ていて、ようやくわたくしは拳を降ろすことができました。なんだか、ひどく疲れましたわ。
あまりにうるさく、やかましく泣き続ける殿下に魔王様が頭突きを一発食らわします。ようやく意識を手放して伸びてしまわれたようです。しかし、意外に頑丈な方でしたわね。魔王様とよく似ていらっしゃいます。
「すまんが我が主よ、この愚弟と例の父親については我に処遇をゆだねてもらっても良いだろうか」
頭を掻きながら、ばつが悪そうにしている顔がどこか子どもっぽく見えます。
「えぇ、そうしていただければ、こちらも助かりますわ」
あの魔界で得た唯一の協力者にして味方。魔王様の存在は長く辛かった日々の終わりとして、わたくしにはもったいないほどにありがたいご褒美でした。彼のおかげでわたくしも、この復讐に落としどころを見つけることが出来たのでした。
それからしばらくの歳月がたちました。
大騒ぎの後始末は催眠魔法や忘却魔法を使えばある程度簡単に終わらせることができました。しかし、国王陛下と殿下をブチのめしてしまいましたし、彼らを今後王族として元通りの暮らしに戻して差し上げるわけにはいきません。
長らく『模擬戦』に放り込んでいた国王陛下はだいぶ憔悴していらっしゃいましたが、牢獄で当分御静養いただくとして、殿下は魔力を封印し北の塔に幽閉。彼らの今後については魔王様のご采配次第というところでしょう。
空席となった王の座には魔王様が就くことになりました。代理として使っていた臣下の方もいつの間にやら増長される兆しがあったので即刻解雇しました。全く人は権力を手にするとどうしてこんなに悪い方向に転がっていくのでしょうか。
まぁそれはわたくしにしても同じことですわね。復讐のためとはいえ、あまりに多くの人間の心を弄びすぎてしまいました。ヴィオーラ侯爵家を再興し、新しいお屋敷が出来てからはしばらくの間、病床のヒューベルトの元と自室を行ったり来たりするだけの日々が続きます。
面倒事は全て魔王様に任せてしまいましたので、本当に彼には頭が上がりません。ついでとばかりに求婚をされましたが、もはやわたくしに王妃としての資格はありません。それに真に愛する方がいますので、と丁重にお断りをさせていただきました。
少し残念そうでしたが、「主が幸せであるならばよい」と惚れてしまいそうになるほどに良い笑顔で許していただけました。
ちなみに魔王様は闇の魔法に耐性があるようで、わたくしが以前かけた従属魔法についても既に解けているご様子でした。それでもわたくしに付き合って「我が主」と、同じ調子でやり取りをしてくれています。本当に素敵な方ですわね。
ヒューベルトの現在ですが、肉体的にはどこも異常はないようですが、どうしても意識を取り戻しません。様々なお医者様や研究機関にも協力を頼んで調べていただいたのですが、芳しい成果が出ることはありませんでした。わたくしも自分の持てる魔力をすべて駆使して彼を目覚めさせようとしましたが、ヒューベルトの魂がどうしても深い闇の中に沈んでいるようで全く手が届かないのです。まるで遠い夜空の向こう側にでも居るように。
「お嬢様、どちらへ?」
「ちょっと異世界へ行ってきますわ」
使用人にそう告げて、わたくしは旅立つことにしました。説明としてはあまりにざっくりとしていて不親切極まりないと思いますが、それ以上詳しいことを話しても理解はされないでしょう。可能な限りありとあらゆる手段を検討し、魔王様にも協力をお願いしましたが、ヒューベルトの意識はいまだ戻りません。
私の持つ闇魔法は人の心を操り魂に触れることは出来ても、その奥の深淵に手を伸ばすことはかないません。どこにあるかわからない魂を呼び戻して元の彼に戻してあげることはできない。様々な手段を講じてみましたが、結局手がかりとなるものは全くありません。
可能性があるとすれば、聖女。
ベガ様の中に居たと思われる謎の存在でした。
かって聖女としてふるまっていた彼女は、本来の肉体の持ち主が目覚め、今では実家に戻られて穏やかに暮らしています。自分を取り戻した彼女は聖なる力の一切は失われていました。生来のベガ様は朗らかでとても人当たりの良い方でした。色々とお話もさせていただきましたが、気づけば得体のしれない他人に身体を支配されていた、とのこと。
お願いして、彼女の身体と魂を調べさせてもらいました。ベガ様の肉体に残っている聖女の魂の残滓。それを遡ると、天上へと続く淡い道のようなものが存在していることがわかります。どこまでもどこまでも長く続くその道を辿っていけば、その向こう側に行けるかもしれない。果てしなく遠い道のりではありましたが、一度魔界に堕ちた身ですから天界や異世界にだって行く位なんでもありませんわよね。それに一度聖女様が地上に降りてきた以上、そこまで届かない距離だとは思いません。魔物と戦う位覚悟の上です。
後のことは魔王様に託し、覚悟を決めて転移魔法を使います。高く高く、遠く遠く、どこまでも続いていくその道の先には遠い夜空が広がっていて、幻想的な光景の果てに、巨大な光り輝く世界へとたどり着きました。気が付けば、見知らぬ土地に降り立っており、なんだかやかましく、騒がしい気配に満ちた場所に身を置いていました。わたくしは割と簡単に、別世界に転移してしまったようです。まぁ魔界との行き来を思えばそこまで難しいはずがありませんわね。周囲の人々はわたくしの理解とは少々異なる文化の民のようで、少々格好が目立っているようでしたので姿を消して行動することにします。不思議と言語は理解することができ、どうもあの魔界での奇妙な文字と同じ言語を使用していることがわかります。
聖女様の所在は気配を辿れば見つけることは造作もありませんでした。小さな建物の中に多数の人々が暮らす集合住居のような場所。普通には入ることができないようでしたので、空中を浮かび聖女様のお部屋の窓をノックしてみることにしました。しばらくすると、中の女性が窓を開け顔を覗かせます。どこか見覚えのある平凡な顔立ちの女性でした。
「あら、あなたがベガ様だったのですね?」
「いっ、いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
絶叫でした。
まぁ仕方がありませんけれど。
彼女の本名は白木良子様とおっしゃるそうです。明らかに異なる言語でやり取りをしているのですが不思議と会話は成り立っています。どうも同時翻訳的な力が働いているようで、一度魔界に堕ちたわたくしの力なのか、良子様の力なのかは定かではありません。
「わ、悪かったわよ。許して。ごめんなさい」
彼女はわたくしをお部屋に招き入れて、非常に申し訳なさそうに頭を下げてきます。ベガ様であった頃とはあまりにも人が変わっており、わたくしの方こそ急に現われて驚かせてしまったことを謝罪いたします。そもそも聖女とは何か、一体どうしてわたくしたちの世界に来られたのかなどをまずは質問しました。
「気が付くと、いつの間にか、かな」
彼女曰く、仕事で精神的に病んでいた頃、不思議な夢を見たかと思うと、自分の知る物語の世界で聖女ベガになっていたと言います。それだけではさっぱり意味がわかりませんが、どうやらこの世界にはわたくしたちの世界が物語として存在しているらしく、女性が愛好されるゲームの一種として知られていたそうです。そのお話のタイトルは『天に綺羅めく絆』。
聖女ベガになって、ルセウス殿下をはじめ様々な殿方との恋愛物語を楽しむ内容らしいです。その物語の中には「悪役令嬢」としてアンドロメダ・ヴィオーラも登場し、ヒロインであるベガ様の前に現われる敵対存在として物語の要所で出現した人物らしいです。
「王子さまの婚約者で、婚約破棄の結果魔界の力に魅入られて、世界に災いをもたらす存在になるの。でも貴方はそんなに恐ろしい存在には見えないわね」
いえ、そうでもありませんわよ?
人の心を操り、その気になれば人間を無茶苦茶にする力がありますし、悪しき存在だと言われると否定しきれないところがあります。
ベガ様いわく、物語にはいくつかの異なる筋があり、ルセウス殿下を攻略する場合に通る物語とほとんど同じ筋で様々な出来事が起こったようです。
「失礼ですが、あのルセウス殿下とよく恋愛される気になりましたわね。相当ですわよ、あの御方」
「うん、それは知ってる。でもあの糞雑魚で頭のおかしいところも可愛いっていうか、なんか自分よりもダメな人間を見ていると妙にホッとしない?」
何と返して良いのやら。殿下をお相手とした恋愛物語など願い下げですが、どうもそうした人間的な欠陥や問題のある男性をいかに癒して心を開き改心させていくか、というところがそのお話の魅力だったようです。
「ヒロインが徹底的に甘やかして甘やかして、ちょっとだけ叱ってそれでようやく過去の罪を告白してね、シナリオの最後の最後までおバカな王子さまなんだけど、それなりに幸せな結末になるんだ。それでヒロインは王妃になって尻に敷く」
「やっぱりそういう人ですわよね、彼は」
「アンドロメダ・ヴィオーラはどちらかと言えば、王子に振り回された被害者。でも、彼女は魔界で闇の力に染まってしまい心を失うの。そして、まぁそこからはヒロインが負けちゃったから筋書きは意味をなさなくなった、ってことかしらね」
良子さまは少しだけ言葉を濁します。アンドロメダの末路は何となく察せられますね。本来は聖女に倒されて死んでしまう、といったところでしょうか。
「アンは人気のあるキャラで、私も貴方のことが大好きだったわ。綺麗で素敵で闇堕ちした後の黒いドレス姿も可愛かった」
急にベタ褒めされますと、どういう顔をしてよいかわかりませんわ。でも、ここに来た本来の目的はわたくしのことよりもヒューベルトのことなんですの。彼の魂の行方を求めて来た、と告げると良子さまは非常に難しい顔をされます。
「ごめん、私にはわからない。この世界には魔力も魔法も存在しないの。ヒューベルトのその後は物語にも……いえ、なんていったらいいかな」
あまり良くないことを隠していらっしゃる、そんな様子でした。
良子様いわく、ヒューベルトに回復魔法を施したのは彼女だったようです。物語の筋書きである「悪役令嬢を追放」に従いつつアンドロメダを保護するつもりで、周りの人間を必要以上に傷つける気などなく、ただ気が大きくなっていただけということでした。
その「悪役令嬢を追放」の部分でピンポイントに被害を受けた者としては大変複雑ではありますけど、突然物語の世界に飛ばされて本来とは別の自分になり聖女として力を得る、という体験は確かに人の心を変えるには十分な出来事かもしれませんわね。
かくいう私も、レベル9999の悪役令嬢となって聖女をこらしめた際にはとんでもなく高揚しており、殿下を裁いた際には残酷で冷酷な己に支配されていました。人心を魔法で操作し都合よく利用している現状にしても、異常な状況です。幸い誰かを殺めることはしませんでしたが、殺さなければ何をしても許されるわけではない。復讐心に猛っていた時期は過ぎ去っており、後にあるのは何とも言えない苦み走った暗い気持ちだけでした。良子さまを一方的に責められる立場ではありませんわね。現在進行で私は罪を犯していると言えるのですから。
「良子様、そのゲームについてなのですけれど、わたくしに触れさせていただけないでしょうか」
彼女はためらう様子を見せましたが、こちらの意思が固いことを知って諦めるように頷きました。ただその前にお昼が近いと言うことでランチをごちそうになります。
「お嬢様が口にするような立派なものは出せないけど、何か食べたいものはある?」
「あ、でしたら『ラーメン』というものはあります?」
魔界で魔物から入手したあの食べ物。わたくしの世界では存在しなかった料理ですが、こちらの世界にならひょっとして存在するんじゃないかと思ったのです。「インスタントで悪いけど」と言われましたが、それはわたくしの記憶通りのラーメンであり、具材は色々違っていましたが独特の濃い風味と味付けを久しぶりに味わうことが出来て嬉しかったですわ。あの辛い日々の中少しでも気を紛らわすことが出来たのはこの味と出会ったからとも言えます。
それから良子様からゲーム機という物を貸していただき、何か灰色の鏡のような板に移る流麗な音楽とわたくしの知っているルセウス殿下の顔と声が流れてきました。何と言いますか、恐ろしく奇妙な感覚です。物語を遊ぶのが目的ではなく、ヒューベルトのことを知るのが目的です。彼の存在は最初は出てきませんでしたが、悪役令嬢アンドロメダに絡み、ようやく姿を現わします。
「アン、きみとまた話すことが出来てうれしい」
その声や姿は、まさにヒューベルトその人であり、わたくしは思わず目が潤むのがわかります。元気で快活な彼を見ていると、こんなにも心が安らぐのだと気づかされました。ひょっとすると彼はこのゲームの中に閉じ込められているのでしょうか? そう思い魔力で探ってみましたが、全く何の気配も感じることはできません。良子様に指示を受けながら、物語を進めていきます。
「共通ルート長いんだよね、このゲーム。でも最初からやらないと意味がわかんないと思うし」
夜になるまでゲームを続けていきますが、物語の前半は聖女ベガ様が各地を回って穢れを浄化していくと言う過程が描かれていました。その中でルセウス殿下や他の攻略対象の殿方たちと関係を深めていきます。ヒューベルトは騎士団長の息子の友人、という立場で登場しました。物語の中核にはあまり関係のない存在らしいです。
「アンドロメダの幼馴染で、彼女に報われない恋をする悲しいサブキャラね。物語の幕間として彼女たちの語らいも描かれていくわ」
覚えのある会話とやり取り。わたくしたちの人生の一部が確かにそこで切り取られるようにして存在していました。違うとしたら表情の豊かさや背景、音楽といった点でしょうか。ただ会話の大筋はほとんど記憶の通りです。
そして物語は進み、婚約破棄の場面に行き当たります。聖女様はそこでは一連の出来事についてまったく知らされておらず、殿下と国王陛下の姦計によって追いつめられるアンドロメダ。彼女は獄中からいつの間にか消えており、再び現れたときには悪役令嬢として変わり果てた姿になっています。ヒューベルトの姿は途中から見なくなり、物語はルセウス殿下とやり取りが増え、彼と聖女に対して恨みを抱く悪役令嬢が二人の前に立ちはだかります。この辺りはもう、現実とはいろいろ食い違っていますわね。
「私の行動がちょっとおかしかったからねぇ。ルセウスもゲームでは剣を持ちだして刺そうとまではしなかったし」
現実ではベガ様との関係よりもわたくしへの恨みつらみや嫉妬の方が上回り、といったところでしょうか。アンドロメダが消えていた時期の出来事がわたくしにとっては途方もなく長く辛い日々で、彼女が悪に堕ちた理由も正直とても共感してしまいます。
ただ一つ違う点としては、この世界の『レベル』という強さを示す数値は上限が『99』まで。わたくしの至った『レベル9999の悪役令嬢』という立場がいかに異常であったかがわかります。敵として現れるアンドロメダもそれほどまでの強さではないですから。
長く続けていると大分気力を消耗してしまいました。良子様から一度休むように言われ、お風呂を借りて夜ごはんまでごちそうになってしまいます。夕飯はコンビニというところで買った色んなパンやお菓子などをテーブルにたくさん並べて楽しく食事をします。中には魔界で手に入れたものと同じものがあり、ちょっと懐かしくなってしまいました。色々とこれまでのことをお話しながら少しくだけた会話もします。
「タピオカ師匠という魔物が一番の強敵でしたわ」
「あはは、なにそれ。でも『テンキラ』って魔物のネーミングが結構アレなんだよね」
元聖女の良子様とこんなに和やかなやりとりを交わすことができるとは思ってもみませんでした。ざっくばらんで身分を感じさせない彼女の態度はやはりどこか聖女様を感じさせるところもあります。夜になったので一度眠ることにしましたが、わたくしはやはりヒューベルトのことが気になってしまい、お借りしたベットの上から抜け出し、誰もいないお部屋でこっそりとゲームの続きをします。
「やむを得ずとはいえ、ルセウス殿下と恋愛するのは何とも言えず辛いものがありますわね」
攻略情報というものを教えていただいたところ、とにかく彼になるべく好かれなくてはいけない。物語を正しく進めることで悪役令嬢も現れるから、とのこと。そしていくつもある筋書きの中で、ヒューベルトの出番が最も多いのがこのルセウス殿下ルートということでした。
そしてとにかく話を先に進め続けた、ようやくヒューベルトの姿が現われます。彼は悪役令嬢として魔に身を落とした彼女の前に幾度となく立ちふさがります。
「元の君に戻ってくれ。本当のアンはそんな残酷なことができる子じゃない。俺の、俺のアンドロメダは復讐で誰かを傷つけたりするなんてこと、しないはずだ」
「ヒュー、わたくしはもう、この手を血に染めてしまいました。もう貴方のアンには戻れません。わたくしに残されているのはあの愚かな王子と全ての元凶となった聖女を引き裂くという望みしかありません」
誠実で優しいヒューベルトらしい言葉。そして闇に染まった悪役令嬢。復讐で殿下を追い詰めたわたくしを見れば、きっと彼はこの話のように止めてくれたのでしょう。わたくしは、筋書きとは違えど同じような状態に陥っていたようです。そして、運命の時は訪れます。
ベガ様の胸を貫こうとしたヒューベルト、その前に立ちふさがった彼の胸をわたくしの、アンドロメダが持つ剣が、深々と突き刺さってしまいます。血にまみれ、倒れ伏した彼を前にして正気に戻るアンドロメダ。
「いやぁぁぁ、ヒューベルト、どうしてこんな、醜いわたくしのためなんかに!」
「アン、俺は……お前のことが好きだ」
胸を突きさすような、愛の言葉でした。
「幼い頃、はじめて出会った君に、俺はすっかり心を奪われた。君と話していると世界が華やいで、胸が躍るのを感じた。君の横に立ち、恥ずかしくない人間になれるように、ただそれだけのために俺の人生はあったんだ。きみのことが好きで、好きでたまらない。幼かった俺は、どうやったら君の気を引けるかをずっと考えて、やんちゃなことばかりしていた」
アンドロメダは泣きながら彼の胸の傷に治癒魔法をかけます。
「君のために何かできることがないか、全く分かりもせずに、ただ力になりたいと馬鹿のようにそれだけを囁くしかなかった。本当の俺は、ただ君の関心を引いて必要としてほしいだけの、ちっぽけな男だったんだ」
わたくしは、ただ彼の言葉を聞きます。
「ルセウス殿下になんて、きみを渡さない。アンドロメダは俺のものだ。あの婚約破棄の場で、俺は……胸の中で燃え続けていたのは醜い嫉妬と欲望の感情だった。きみを貶め信じることのない、あの愚かな男を引き裂き、殺すことだけを考えていた。きみを奪って逃げ去り、もしもそれを許さない世界ならば、滅んでしまえばいいとすら思った。この国全てを焼き尽くして燃やし尽くす、そんな妄想だって頭の中で何度となく思い浮かべた」
「ヒュー、わたくしは、わたくしは」
「俺にだってこんな醜い感情がある。誰にだってある、だから、たとえどのような身に堕ちても、きみは美しく……愛しい、俺だけの」
彼の生命の鼓動が徐々に弱まっていきます。悪役令嬢の魔の力が宿った剣の傷はどうやってもふさがることはなく、血はどこまでも広がっていきます。
「いやぁぁ、ヒュー、ヒューベルト!」
いや、もうやめて。お願い、誰か、彼を助けて。
「……愛している、アン。きみはいつだって誰よりも綺麗だ」
目から失われていく光。身体から抜けていく力。そうして、ヒューベルトの呼吸は永遠に止まります。そして、二度と彼が目を覚ますことはなく。
わたくしは、その状態でしばらくの間、動くことはできなくなりました。ただ涙だけが静かに目から流れ落ちてきて、ずっと止まらず、部屋に戻ってベットの中で声を殺しながら泣き続けました。愚かなアンドロメダ。復讐に囚われるよりも、他にもっと大切なものがあったでしょ? 命がけで自分を愛してくれたあの人を、彼と共に生きる、ただそれだけで良かったのに。救われない末路を辿った悪役令嬢があまりにも情けなく、みじめで、そして哀れでした。
翌朝。トーストと卵焼きをいただきながら、わたくしはぼんやりと過ごします。目は腫れぼったいですが、良子様は何も言いません。彼女にもお仕事などがあるのではないかと思いましたが、どうも『求職中』とのことで今はお休みの最中だそうでした。
「この年齢になるまでさ、夢を追いかけるとか結構いい加減な生き方をしてきて、ようやく就いた仕事はブラックだしで本当にろくなことがなかった。それでテンキラにハマったりしてさ、二次創作を追いかけたり考察サイトに回ったりするのが本当に楽しかった。ゲームの中で酷い目に遭っている人たちを見て楽しむなんて、ちょっとアレだけど、頑張ってあがいて必死に生きる人たちの姿って、なんだか勇気を貰えるような気がしたんだ。たとえ復讐に身を落とした悪役令嬢でもさ」
どう答えていいかわかりませんでしたが、「良子様の助けになれたのなら、きっと少しは彼女も報われますわね」と応じておきました。物語の中のアンドロメダはわたくしであって、わたくしではない。今の自分がこれからどう生きるかはわたくし次第です。
ヒューベルトは必ず目覚めさせます。物語の理なんかには決して縛られません。たとえ涙が枯れ果てようとも、負けるわけにはいきません。あの魔界での日々によって得た妙な回復力とたくましさのようなものが、わたくしを支える力となっていました。
とは言え、現在のわたくしに出来るのは良子様のお世話になりながら、ひたすらにゲームをプレイするだけなのですけれど。
この世界とわたくしたちの世界の相関関係はいまだ不明です。ゲームの中から出てきたわけではありませんし、自分の生きてきた世界が作りものだとはとても思えません。わたくしたちには自由意思があり、物語の筋書きから離れた出来事もたくさんありました。ただ、明らかにゲームそのものの部分もあり、人間にはあずかり知れないところで奇妙な力が働いているのは間違いない気がしました。
冷静に考えてもさっぱりわかりませんが、そこはそういうものだとでも思うよりほかないのかもしれません。理解できない現実は、しばしば突然人間を襲うもの。理不尽なのも人生の内です。
「アン、アンドロメダ、ちょっと見て!」
良子様に呼ばれ、彼女の元へ向かいます。なにやらテレビを小さくしたような板の中で『天に綺羅めく絆』のイラストが映っていました。なんですの、これ。
「DLC追加コンテンツの情報なんだけど、スタッフインタビューで『魔界』のことを話してる!」
そのパソコンの情報と、彼女に説明していただいたお話を総合すると、以下の通りでした。
元々『天に綺羅めく絆』では構想として悪役令嬢アンドロメダを主役とした外伝が収録される予定だった、とのこと。
魔界に堕ちた彼女を操って魔王の元に向かうという戦闘要素があり、実際の作品では納期の問題とシナリオ上の兼ね合いからやむなく没にした部分と言うことでした。けれどデータ上には途中まで作ったダンジョンや没データがあり、ユーザーからの要望もあったため、追加コンテンツの一つとして更にシナリオを強化した『悪役令嬢の救済』を描く予定とのことです。
魔王様のイラストや、アンドロメダの前に立ちはだかる真の黒幕であり、愛するヒューベルトの魂を捕らえている『大魔王』の存在が示唆されていました。彼女は彼を助けるために魔王の助けを借りて魔界の最深部へと向かっていく……そんなストーリーとなるそうです。
そういえば、魔王様がそんなような話をしていましたわ。「行きたいなら送ってやろう」と台詞までそのままのゲーム画面が掲載されています。
「良子様、わたくし、これ心当たりが……」
「つまり、大魔王を倒せば彼を助けられるってことよね!」
わたくしたちは抱き合って、その降ってわいた『救いの道』を喜び合い、神様に感謝しました。理不尽であまりに救いのない世界ではありますけれど、ときにはすごく大ざっぱで出来過ぎているほど人を幸せにもするものだと、そんな風に思えます。
ヒューベルトを助ける糸口も見つけましたし、一度元の世界に帰ることにしました。これからの道のりはそれなりに険しく、恐らく長い戦いとなるでしょう。そのための準備やまた魔王様のお力を借りなくてはいけません。さすがにお世話になりっぱなしで心苦しいですわ。せめて、こちらの世界でお土産でも用意して持って帰って差し上げなければ。
最後の日、良子様といっしょにお出かけをさせていただきました。服は彼女のものを借りて、髪型を変えこの世界でもあまり違和感のない格好をします。
「でも滲みだすオーラと言うか、雰囲気が違うわ。美人はどこまでも美人ね」
「いやですわ、そんなこと言われましても」
魔王様へのお土産はゲーム中に貰うと彼が喜ぶというチョコレート菓子にしました。お金は良子様に立て替えていただくことになりましたが、一応わたくしたちの国の金貨をお渡ししておきます。
「売れば高値が付くかも……でも売るのもったいないわぁ。一生の宝物にしちゃう」
喫茶店で二人してタピオカドリンクを飲みます。この蓋についている棒は口を付けて吸うものらしいです。ダンジョンで手に入れたときは普通に捨てていましたわ。香ばしく甘い味わいと独特の噛み応えのタピオカはなかなかに面白くて美味でした。さすがは師匠の味ですわね。
別れ際には良子様は少し泣いておられました。ヴィオーラ侯爵家のこと。わたくしの両親と兄の処刑。国王陛下の凶行を止められなかったこと、自身の軽薄な態度と迂闊な行動。ヒューベルトのこと。現実とも思えない世界の中で自由に振舞ってしまったことなどを改めて謝罪されました。良く考えて行動していれば、無駄に傷つく人は減ったかもしれない、と。
「酷いことをしたわ、ごめん。彼が回復することを祈ってる」
「ありがとうございます」
そのときは必ず報告に戻ってきます。
私も少し、泣いてしまいました。
世の中は理不尽で、取り返しのつかないこともたくさんあります。わたくしの心もいまだその一部が凍り付き、麻痺していて、どこか深い穴が開いています。
憎かった聖女様と何事もなかったかのように明るくお話して居る時点で本当はおかしいんですよね。ですが、自らのふるまいを悔いて涙を流せる人のことをわたくしは、嫌いにはなれません。短い間のお付き合いですが、良子様のことをご友人として好きになっていました。
「でもこれからが大変よね。大魔王とか得体の知れない存在と戦わなくちゃいけないわけだし」
「大丈夫ですわ、良子様。だってわたくしレベル9999の悪役令嬢ですもの」
ちょっと悪戯っぽく笑います。
それからのことは、とても語りきることはできません。と言いますか、はい。予想を超える壮絶な旅路になりました。考えようによってはあの魔界での日々すらも生ぬるいと感じるほどに。ですが、苦しく辛い出来事をいつまでも語っていてはわたくしも、皆様も疲れてしまいますわね。最後に語るのはわたくしのある日の出来事についてです。
暖かく心地の良い空気を感じる日。窓から入ってくる春の風を頬に受けます。ベットに体を横たえたまま、目をつむっている背の高い男性に向かって声をかけます。
「わたくしね、貴方のことが好き。小さいころから元気な貴方の笑顔を見ているのが好きでした。何気ない話をしているときや、ちょっとぼんやりとした顔も、わたくしの為に一生懸命言葉を探してくれている様子も好きでした。貴方はいつだってどんなときでもわたくしを励ましてくれましたわ。辛いことがあっても、どれだけ感情が逆立っても、貴方の笑顔を思い浮かべるだけで気持ちが安らぎました。本当はもっと早くに、この気持ちを伝えたかった」
彼は黙ってわたくしの話に耳を傾けていてくれます。
「辛い目に遭って、全てを失ってはじめて気づくなんて、本当にもう遅いですわよね。もっと何気ない日々に、当たり前のことが当たり前のときに気づくことが出来れば、良かったのに」
失われた日々に、今は遠いあの時を振り返り、今でも胸には痛みが押し寄せます。
「だから、何でもない今日に言いますわ。貴方のことを愛しています。とても優しくて人間的で誰より愛しい人、ヒューベルト」
聞こえているのかどうかもわからない、その言葉を、わたくしは何度だって口にします。貴方が好き、愛している。誰かへの復讐より、この世界のすべてより、何よりも貴方のことが大切です。それだけを、伝えます。ひときわ風が強く吹き、目を閉じてからもう一度彼の顔を見ました。
そこには、わたくしの大好きな穏やかで優しい笑みが浮かんでいます。
「きみはいつだって誰よりも綺麗だよ。愛している、俺のアンドロメダ」
誰よりも愛しい彼の言葉を聞き、わたくしの目からは涙がこぼれ落ちました。嬉しいときにも涙は流れるもの。理不尽であまりに醜く凄惨でときには目を覆いたくなるような世界ですけれど、それでも生まれることが出来て、わたくしはとても幸せです。たとえ、どんなに大変で辛いことがあったとしても、たった一つの素敵なことで、全部許してしまえます。ね、ヒューベルト。
★★★★☆『天に綺羅めく絆』レビュー
ユーザー名■リョーコさん
本編は聖女になって国を穢れから救うRPG要素のある恋愛アドベンチャーゲームです。攻略キャラは全部で四人+一人。王子・騎士団長の息子・宰相の息子・大神官の息子と、隠しキャラ。独特の闇の深いキャラクターが魅力で特にメインの相手役のルセウス殿下がたまりません。ここまで暗愚な王子も珍しい。他のキャラクターもヤンデレや犯罪者やらまともな相手が一人としていないのはもはや確信犯的。隠しキャラの魔王様が一番人が良いってのがまた(この魔王様についても某キャラ好きだと色々……)。ライバル役の悪役令嬢が気の毒過ぎて可愛い。戦闘面の難易度が結構おおざっぱというのかバランス感覚が危ういなと思ったんですが、総合的には良い作品だと思います。ダークな展開やストーリーがお好きな方にオススメです。
追記
追加DLCで悪役令嬢視点でプレイできるのはいいんですが、難易度ヤバすぎ!!本編の大味な戦闘バランスを大幅にパワーアップさせたような仕様です。レベル上限は本編99に対して、なぜか9999。やりこみ要素としてもここまでする必要はあるんでしょうか……?魔物はアンドロメダの強さに合わせてパワーアップするし、トラップの解除方法も複雑、先に進行するための必須アイテムがランダムドロップしかないってどういうこと?入手できるアイテムにも鑑定が必要で回復アイテムの取得一つにも手間がかかります。しかもダンジョン階層99ってもう狙ってやってるのかと。あとエネミーのタピオカ軍団がエグすぎ。制作スタッフはアンドロメダに恨みでもあるんでしょうか。彼女にもっと優しくしてあげてほしいです。悪役令嬢に厳しすぎる世界ですが、ストーリーはハッピーエンドで良かったと思います。こんな言葉じゃ全然足りないけど、本当によく頑張ったね、アン。
最後までお読みいただきありがとうございました。初めて書く悪役令嬢もので、大変な目に遭っても頑張るヒロインのお話でした。よろしければ感想・ブクマ・評価などをいただければ大変励みになります。