(9)あの女のハウス
「――ここがあの女のハウスね」
「お嬢様、ハウスではないかと」
おそらく姉クローディアの蔵書から覚えたであろう台詞を口にしたアンゼリカに対し、リュセットが冷静にツッコミを入れる。
このリュヴェルトワールにおいて魔術師は極めて珍しい存在だ。十年単位で見ればわからないが、ここ最近街を訪れたのはリュイとサフィーリュのみである。
であるからして道行く人に尋ねれば、サフィーリュの宿はすぐに見つかった。何なら足取りまで教えてくれた。サフィーリュは商店街区――魔術師ギルドの方まで向かい、その後シスター・ペトラ……もとい、怪傑ペトラと共に街の外まで向かっていったそうだ。
それを聞いたは宿の前でサフィーリュが戻ってくるのを待ち構えることにした。仁王立ちで。
アンゼリカはもちろんのことリュセットにも戦う力はない。リュセットはレディ・メイドの嗜みとしてダガー・ナイフの扱いくらいは心得があるが、それにしたって最低限でしかない。魔物どころか猪程度でも出くわせば二人揃って逃げ出すしかないのだ。
だからアンゼリカとリュセットは街の外に行かず待ち構えることにした。怖いので。
「――あの、お嬢様」
仁王立ちで宿屋の前に立つアンゼリカに、リュセットがおずおずと声をかける。
「このままずっとこちらでお待ちになるおつもりですか?」
リュセットの問いに、アンゼリカは胸を張って言った。
「もちろんそうよ」
アンゼリカの答えに軽い頭痛がしてくるリュセットである。
アンゼリカが若き魔術師リュイに懸想していることはリュセットも当然承知している。リュイは童顔だが見目も麗しいし、育ちの良さからか礼儀正しく鷹揚である――たまに慇懃無礼だが。
アンゼリカにかかっていた呪いを解いた彼は魔導具を始め様々な商品を手広く取り扱う大店、アールマー商会の御曹司だ。アンゼリカの兄であるエルクラッドとも親しくしている。
アンゼリカとリュイが結婚するデメリットはリュイが貴族でないということであるくらいで、それ以外はメリットしかない。
男爵位、子爵位くらいなら金で買える。リュセットも王都に勤めている知人に問い合わせてみたのだが、聞くところによるとリュイ・アールマーという魔術師は男爵位くらいなら買えるくらいの資産を個人で有しているらしい。
また王家から騎士爵を与えようとしたところ、リュイはそれを断ったとのことだ。
普通は王家から下賜されたものを拒否しようとは考えないし、できもしない。聞く限り王家はできるだけリュイの機嫌を損ねたくないようなのだ。
王宮がそれほど高い評価を下す人物。魔術について造詣のないリュセットには想像が及ばないが――。
アンゼリカが望む限り、リュセットとしても彼女の恋路を応援したいと思っている。
しかしかつての活動的な性格を取り戻したアンゼリカはちょっと空回りしがちだ。さっさと想いを告げてしまえばいいものを、リュイに接近はしてももじもじするばかり。リュセットをやきもきさせている。
この仁王立ちもその空回りの一環である。
そもそも街の外からやってきた魔術師の女がリュイとどうなろうが、今のアンゼリカに口を挟む権利はない。アンゼリカは領主の娘ではあるが、それ以外には何の力もないごく普通の少女である。魔術師と対峙して主人は何をするつもりなのだろうか。女同士の口喧嘩で済めばいいが――いやそれでも外聞が悪いが、それで済まなかった場合どうするつもりなのか。
「お嬢様、今日は一度お帰りになった方が――クローディアお嬢様やエルクラッド坊ちゃまに叱られますよ?」
リュセットはアンゼリカにそう苦言を呈する。当主であり父親でもあるエルグランツは娘たちにすこぶる甘い――代わりに息子には厳しい――し、伯爵夫人であり母親のマーシェリーについては、子供たちはおろか使用人ですら叱っているのを見た事がない。
このため、お転婆に戻ったアンゼリカを叱るのは主に姉のクローディア、時折兄のエルクラッドである。
ちなみに本日も家庭教師の授業をすっぽかしてリュイに会いに行こうとしていたのだからお説教は確定である。アンゼリカはただでさえ貴族の子女として必要な教育が遅れているのだ。
――当のアンゼリカはと言うと、姉兄からのお説教はあまり堪えていない様子で。
「つまんないお勉強より大事な要件がわたしにはあるの!」
いつ役に立つかわからない社交界のマナーよりも目の前の色恋である。それが年頃の娘というものだ。
とはいえ大きな商家というのはなまじっかな貴族より力があったりする。教養のない娘が嫁げば恥をかく可能性があるのだ。ましてやリュイは理性や知識、教養を重んじる論理教徒だ。――今のアンゼリカでは相手にされないだろう。リュセットの女の勘も告げている。
そういう意味でもアンゼリカには勉学に励んでもらいたいリュセットなのだが、なかなか伝わらないものである。
まあ――主人が待つというのなら従わざるを得ない。それがメイドというものである。
リュセットは仁王立ちを続けるアンゼリカの傍らに控えるしかなかった。――通行人の目が痛い。アンゼリカが平然としているのは器が大きいのか、単に若さゆえか。
それから小一時間ほど経っただろうか。
田舎街には似つかわしくない、洗練された服装の少女が宿屋の前にやってくる。
田舎領主の娘とはいえアンゼリカは貴族令嬢だ。身なりはいい。母親に似て目鼻立ちも整っている。
それでなくても自分が宿泊している宿屋の前でメイドを連れて仁王立ちしている娘がいたらリュセットだって二度見か三度見はする。いや四度見だってするに違いない。
アンゼリカと少女はばっちりと目が合った。
少女はさっと目を逸らす。しかしアンゼリカは素早くその視線の先に回り込んだ。
逸らす。回り込む。逸らす。回り込む――それを数度繰り返して、アンゼリカが爆弾を落とす。
「――あなたがリュイ様を誘惑しにやってきた魔術師ね?」