(8)アンゼリカ、立つ
エルフの里を出たムーンボウは、トワール伯爵エルグランツ・ル・トワールから身分保障を受け、リュヴェルトワールの冒険者ギルドに登録することになった。
――というよりもそれくらいしか仕事がない、というのが実際のところではある。
幸いムーンボウは若いエルフにしては腕の良い弓使いであり、シャーマンでもある。“隻腕の”ウィードほどでないにしろ、伯爵家が雇う予備兵力としては十分な能力を持っている。つまり現状としては、トワール伯爵家の食客扱いというところだ。
しかし過去対立していた経緯もあって、リュヴェルトワールの住人はエルフ族を好ましく思っていない。アンゼリカの目を治療し、街で唯一の魔術師として活動しているリュイが例外なのであって、エルフ族には冷ややかな視線が向けられるのだ。
商店街区の店舗を訪ねても商品を売ってもらえない、なんてことはざらにある。またエルフ族は動物性のたんぱく質を消化する能力が人族や獣人族と比べて極めて低い。だから食生活の中心は野菜や木の実、果物になるのだが、これが中々手に入らない。金はあっても売ってもらえないのだ。
そういう事情もあって、ムーンボウは街の外の野原や森に自生している野草の類を採取して食事にしていたのだが、これを見かねたリュイに紹介されたのが『ネムの店』である。
店主であるジンク・ネムも、その娘で実質商いを取り仕切っているマイア・ネムも、リュヴェルトワールの人族にしては珍しくエルフ族に対する敵意がなかった。ジンクはどうにもふらふらと掴みどころのない男だが、マイアは客であれば種族は気にしない少女だった。取り立てて親切というわけでもないが年齢の割にやり手のようで、ムーンボウが街で暮らす上で必要なものは言えば買い付けてくれた。
その日もムーンボウは『ネムの店』を訪れていた。食料品の買い出しするためだ。
人族の食文化でムーンボウが驚いたのは穀物を始めとする農作物である。基本的にエルフ族は、採集はしても農耕はしない。基本的に小食な彼らはそれだけで十分日々の食事を賄えていた。
一方、人族は農耕や牧畜で食糧を確保することで繁栄してきた種族である。
人の管理下で大切に育てられた野菜や果物は甘く瑞々しく、それだけでも衝撃的だった。
それ以上にムーンボウを驚かせたのは香ばしく焼き上げられたパン、甘く味付けられたペイストリーやお菓子だ。エルフ族には農耕の文化がないから、当然穀物――ましてやパンなど目にする機会も、口にする機会もなかった。
人族の手間暇をかけた食事は、目下のところムーンボウの貴重な楽しみとなっている。
そんなムーンボウは、今日も『ネムの店』を訪れていた。様々な品物が雑然と置かれたこの店は、面積自体は広いのだが、どうにも狭く感じられる。
「そう言えばムーンボウ、聞いた?」
「何を?」
品物を受け取って代金を支払うと、マイアがそう尋ねる。この街に来たばかりの頃は少し距離感があったが、今では世間話する程度の仲になっている。
「この街に魔術師が来てるって話」
マイアがなんでもないことのように言う。
「魔術師が?」
ムーンボウは少し驚いて目をしばたたかせた。
一般的な街であれば珍しいことではない。魔術師にとって冒険者として活動することはメリットが大きい。他の冒険者と徒党を組んで行動すれば呪文を唱える時間を稼ぐことができ、安全に魔術の実践や遺跡の探索を行うことができる。
しかしリュヴェルトワールに魔術師が寄り付くことはない。強い魔物が出現するわけでもなく、研究の対象となる遺跡の類があるわけでもない。
リュヴェルトワールはいわば『スタート地点』の街である。
魔術師たちの育成は王都グラン=エルにある王立魔術師養成所で行われている。そこで免状を得て卒業した者たちの一部が冒険者になるのだが、彼らは薬草摘みの仕事さえ碌にないリュヴェルトワールくんだりまでやって来たりはしない。腕磨きにもならないからだ。
だからリュヴェルトワールに魔術師が訪れるというのは、それだけで噂話になるほどの珍事なのだ。
「魔術師ならもうリュイがいるじゃない」
ムーンボウは首を捻る。リュヴェルトワールに住むようになって日が浅いムーンボウは、この街の事情をまだ呑み込めていない。
「リュイの時は魔術師ギルドがあるのに肝心の魔術師がいないって状況だったからね。そこにようやく赴任してきたのがリュイだったからそれはそれで話題になったけど――今度来た魔術師はリュイと違ってホントにふらりとやってきた感じなのよね。だから何が目的なのかみんな訝しんでるわけ」
「そういうもの?」
「そういうものなの。ムーンボウはこの街に来てまだ間もないから実感ないだろうけど、ここってほんと、何もない街なんだから」
そう言ってマイアは小さく肩を竦めた。
何もない街に突然訪れた若い魔術師。その目的も不明とあらば詮索したがるのが田舎者の人情というものである。
――要するにみんな暇なのだ。
「魔術師だったらリュイと知り合いなんじゃないかしら。それで彼に会いに来たとか――」
「あの魔術オタクにわざわざ会いに来るヤツなんて家族くらいじゃないの? 友達いないでしょあいつ」
ムーンボウの言葉にマイアは右の眉を上げてきっぱりと言い切った。一見人当たりのいいリュイだが、他人に対してどこか一線を引いているところがある。その才能を差し引いてもアールマー商会の御曹司ともなれば、お近づきになりたい、という人物は数多かったであろいうが――。
「――そ、れは否定できないけど」
ムーンボウは思わず言葉に詰まる。
知らぬ間に『友達いない』認定をされているリュイである。幼少期から引きこもりがちだったのであながち間違いでもないのだが。
「でもさ、気になるのがね」
マイアが声を潜める。
「その魔術師っていうのが、リュイと同い年くらいの若い女の子らしいの」
「? それがどうかしたの?」
ムーンボウは首を傾げた。マイアの意図がムーンボウには理解できない。長命種であるエルフ族は色恋沙汰に疎いのだ。
マイアがにんまりと微笑む。
「だからほら、あれよ。リュイって顔と愛想だけはいいじゃない? だから友達はいなくても追っかけてくる女の子の一人や二人いたっておかしくないでしょ?」
「あ、ああ――そういうことね」
二人がそんなやり取りをしていると、店の扉がバタンと勢いよく開け放たれた。
「話は聞かせていただきました!」
店の扉を開いたのは、アンゼリカ・ル・トワール。トワール伯爵家――領主一族の次女である。目の病が治ってからは慈善活動に精を出し、領民からの評価があがっている。
そのアンゼリカであるが、メイドのリュセットを伴ってリュイの周りをちょこまかとうろついている。魔術師ギルドで行っている貧困層向けのまかないを手伝ったり、今のようにネムの店に出入りしたり。
その意図は考えるまでもなく。
アンゼリカはリュイに気があるのだろう。幼く見えるとは言っても、リュイは美少年だし。若干腹黒いとは言っても、リュイは愛想がいいし。
お陰で貴族とは縁のなかったマイアも、アンゼリカとはすっかり顔見知りである。
「リュイ様の貞操を狙う悪しき魔術師がこの街にいると! そういうことですね!」
アンゼリカが仁王立ちをし胸を張って言うと、後ろに控えていたリュセットが耳元で囁く。
「お嬢様、その、悪しき魔術師と決まったわけでは……」
「お黙りなさいリュセット!」
リュセットの諫言をアンゼリカはぴしゃりと跳ね付ける。
「リュイ様はわたしの恩人よ……それを甘い色香で篭絡しようなんて許すまじ!」
「アンゼリカ様……」
よくわからない使命感に燃えているアンゼリカを、リュセットが何とも言えない表情で見守っている。主人が元気になったのはリュセットとしても喜ばしいのだが、有り余るエネルギーが暴走しがちで、ハラハラさせられるというか、複雑な心境なのだろう。主人の手前でなければ頭を抱えていたところかも知れない。
そんな侍女の内心に構わず、アンゼリカは力強く宣言する。
「外から来た魔術師なら宿屋にいるはずね! いくわよリュセット!」
そう言って踵を返すと、アンゼリカは肩で風を切ってネムの店を出て行った。
リュセットは申し訳なさそうに眉根を下げてマイアたちに一礼すると、その後を追っていく。
残されたマイアとムーンボウは顔を見合わせる。
「リュセットさんも大変ね」
「ええ、人族のことはまだよくわからないけれど、苦労してそうなのはよくわかるわ」
二人はそう言って頷き合うのだった。リュセットに困りごとがあるようなら親切にしてあげようと。




