(1)魔術師サフィーリュ
この日、サフィーリュ・フランは初めてリュヴェルトワールの土を踏んだ。
なんてことはない、魔導蒸気船の普及でさびれはじめた河港街。
それがサフィーリュの持った第一印象だ。
魔導蒸気船の導入によってこの国の水運は大きく変わった。もちろん隣国ロジロタ共和国から輸入しているものであり、高価な品ではあるが、以前と違い川を遡るのが容易になったのだ。
サフィーリュ・フランは短くまとめたライトブラウンの髪に緑の瞳を持つ美少女である。年の頃は十六歳。王立魔術師養成所を次席で卒業した才媛だ。この年齢はかなり若い。
まあ次席――とは言っても首席とは大きく水を開けられている。彼女の代の卒業生には”天啓の”リュイ・アールマーがいたからだ。
幼馴染の彼は、在学中常に目の上のたんこぶのような存在だった。
先祖返り故発育が遅く、幼い頃は頼りなかったリュイ・アールマーは養成所に入ってすぐに頭角を現し始めた。
入学前から自主的に学んでいたのもあるだろうが、座学については早々に講師が太鼓判を押し――というかこれ以上教えられることがないと匙を投げ、研究室にこもって一日中飽きもせず魔術の研究を続けていた。
それが許されていたのは彼が極めて稀な第五元素――心を操る魔術を扱う素養を持っていたからだ。
第五元素の魔術を実践で使えるものは講師の中にもおらず、必然的にリュイは独学で書物から魔術を学ぶしかなかった。たまに講師に助言を求めることもあったようだが、それがとてつもなく高度なもので、講師の側が返答に窮するというような場面をサフィーリュも何度か目にした。
彼は在学中に第五元素関係の論文をいくつも発表した。それだけなら未開拓の分野だから、と切って捨てることもできただろう。
彼の名声が魔術師の間で広まった決定的なきっかけは『簡易使い魔』の発明だろう。
これまで使い魔はある程度知性のある生命と同意の上で契約を交わすものだった。だがリュイ・アールマーはこの常識を覆した。
無生物と魔力の経路をつなぐことで、一時的に使い魔として扱う――もちろん行える動作は単純なものに限られるが、これに魔術師たちは震撼した。
それまでの論文でもリュイ・アールマーには魔術師ギルドからは報奨金が送られていたが、多額の報奨金と論文閲覧に必要なロイヤリティ、加えてロジロタ共和国から勲章が授与されることになる。
これ以後、彼は”天啓の”リュイ・アールマーと呼ばれるようになり、十六歳の成年を以って導士の地位が与えられることが約束された。
当然、こんな逸材をエルサス聖王国もロジロタ共和国も放っておくわけがない。ロジロタ共和国は最高の研究環境を約束し、魔術師ギルド本部での研究をするように要請があった。一方、エルサス聖王国は宮廷魔術師と爵位の授与を約束した。
リュイはどちらも乗り気ではない様子だったが、しぶしぶと言った方で魔術師ギルドを選んだ――のだが、『ちょっとした問題』があり魔術師ギルドがアールマー商会の逆鱗に触れた。
アールマー商会は魔術師ギルドにとって大口の取引先だ。エルサス聖王国への魔導具の輸出入はこの商会が一手に引き受けている。この商会の機嫌を損ねるのはギルドにとって大きな痛手なのだ。
かくしてリュイ・アールマーの魔術師ギルド本部行きの話は白紙に戻った。そこで持ち上がって来たのが長らく宙に浮いていたリュヴェルトワール支部への魔術師の派遣である。
リュイ・アールマーは――実に奇妙なことだが――この話を一も二もなく承諾し、トワール伯爵領に向かうことになった。
しかしこの采配に納得がいかないのがエルサス聖王国側である。
はっきり言えばエルサス聖王国としてはリュイ・アールマーを手元で『監視』しておきたかったのだ。
心を操る魔術――リュイ・アールマーは詳らかにしていないが、その中には洗脳、魅了と言った類のものもあるとは、容易に推測できる。
これを国の要人――例えば国王にかければどうなるか。
それどころか――先だって彼が行ったように、トワール地方――というよりも、”トワール伯爵領の臣民すべてに虹を見せる”――つまり魔術によって超広範囲の人間の精神に干渉するなどと言うとんでもない技術を持っている『怪物』がリュイ・アールマーという魔術師である。
リュイを宮廷魔術師として囲っているだけで周辺諸国や国内貴族に対する抑止力になる。有事になればたった一人でも戦況を覆し得る。
逆にしっかりと首に縄を付けておかなければ、容易く国の体制を覆すこともできるのだ。第五元素の魔術については知られていないことも多く、宮廷魔術師でも万全の対策が行えているとは言えない。
幼い頃からリュイと親しいサフィーリュとしては『リュイ・アールマーはそんな面倒なことをしない』と理解している。だがそんな言葉でリュイの人柄を知らない者を説き伏せることはできないのだ。
そういうわけで、サフィーリュがこのリュヴェルトワールに派遣されてきたわけだ。
リュイ・アールマーを王都に連れ戻す――可能であれば宮廷魔術師として出仕するよう説得するために。
だが幼馴染とは言っても、仲良し、というわけではない。そもそも口喧嘩をして勝てたこともない。リュイがかわいらしいのは見てくれだけで、子供の頃から理詰めで追い詰めてくる嫌なガキだったのだ。
「はあ……わたしだって自分の研究があるのに、なんだってこんな辺鄙な田舎町に……」
魔術師養成所に入って以来、いつだってリュイは目の上のたんこぶだった。
それは卒業しても変わらないらしい。右手にトランクを下げて活気のあるとは言えない港を眺めながら、サフィーリュは重いため息をついた。