崩壊
部活動を終え静まり返った廊下を真っ直ぐに進む。
どうやら校舎に残っている生徒はいないようで、
自分の足音だけが空気を揺らしていた。
階段を登り突き当たりまで歩いて、
3年A組の扉を開いたら鍵をとって戻るだけ。
たったそれだけのことだ、直ぐに済ませて帰ろう。
予習をして明日も一色夜でいられるようにしないと、
きっと僕は何者でもなくなってしまう。
僕には自分を保つという単純で誰にでも出来ることが
どんな数式よりも難しく思えたのだ。
優等生の自分も本当の自分も同じ自分なのに
自分に劣等感を抱くだなんて相当可笑しいよな、と笑えてしまう。
廊下を進むにつれ人が本当にいない事を確信し、
纏っていた一色夜の空気から脱する。
誰もいないとはいえ学校で素の自分でいることに
抵抗も覚えたが、日々の疲れからそんなものは直ぐに消え去って、無理やり伸ばしていた背筋を猫背にして歩き出した。
『さすが』だとか『一色は違うな』だとか、『天才』だとか。
そんな安直な褒め言葉に価値など無いに等しい。いや、全く無い。
大体、僕だから出来るんじゃない。僕だけど出来なきゃいけないんだ。それなのに僕には出来ない。でも出来るのが大衆にとっての普通であり一般だ。
出来なきゃいけない。間違えればお終い。期待に応えられなければ存在価値なんて無い。
真面目で文武両道で、それでいて秀麗。
それこそが大衆の望む一色夜なんだ。
だから僕はそれを演じる。演じ切る。絶対に。
たとえオリジナルが崩壊しようとどうだっていい。
だって、誰も一色夜の向こう側にいる僕になんて見向きもしないから__
そんな陳腐で幼稚な事を考えていると、目的地は目の前に迫っていた。
あとは鍵を取って引き返すだけ、1秒も無駄にできない僕は教室の扉に手をかけた、はずだった。
その瞬間、得体の知れない恐怖感に襲われた。
誰かにお前に価値はないと叫ばれるような感覚。
押さえ込んでいた弱い自分からの罵声。
そんなドス黒い何かが足元にまとわりついて僕はその場に膝から崩れ落ちてしまった。
何が起こったのか自分でもよくわからない。
とにかく息が苦しかった。
切りそろえられた黒髪に汗が滴る。
陶器のような白い肌は冷たく凍り目からは大粒の涙が溢れ出した。
既に途切れそうな呼吸に不揃いな自分の心音が加算して
徐々に視界が暗くなっていく。
息を吸おう、と思うのに息が吸えない。
情けない自分の嗚咽にここから逃げ出してしまいたいのに
肝心の脚は使い物にならない。
今までこんなことなかったのに、なんで。
二酸化炭素を吐き続けて脳に酸素が回らなくなる。
なんで、僕は忘れ物を取ることすら出来ないんだろう。
それなのに優等生を演じて、皆を騙して、欺いて、
こんなのは詐欺だ。僕は人間なんかじゃない。詐欺師だったんだ。
僕は最低だ。
本当は容量が悪くて勉強も運動も人の倍こなしてやっと人並みになれる程度の技量で、
人の顔色ばかり伺って本心を見せることに恐怖を感じてしまう。
それなのに承認欲求だけは立派で、嫌われることを恐れ、誰からも愛されようともがく。
こんな最低な奴のどこが、どこが人間なんだよ。
気付けば僕は廊下に倒れ込んでいた。
廊下のひんやりとした温度が身体を蝕み、手も足も動かすことが出来ない。
このまま、死んでしまいたいとすら思った。
このまま体力が尽きて死ぬか、誰かに発見されて社会的に死ぬか、どちらにせよ死ぬのならばもうここで終わりにしたかった。
そうだ、もう死んでしまおう。
なんかもう無理だ、もうやめよう、全て投げ捨ててしまおう。
僕は最期の力を振り絞って倒れ込んだ際に放り投げた鞄を両手で手繰り寄せ、備品箱から借りていた工作用のカッターを取り出した。
生徒会備品ということもあって新しいものでは無いから、きっと切れ味も悪く激しい痛みを伴うだろう。
それでもよかった、そんな痛みは詐欺師でいることの何倍も楽に思えるからだ。
今まで騙してごめんなさい。
一色夜を演じてごめんなさい。
僕は小さな音を立てて刃を出し、それを白くなった手首に当てた。
「ごめ、な、さ、、」
そして力を込めた。