不完全で確かな純愛だった
真っ赤に染まる彼女を見て、どの感情よりも先に綺麗だなと思った。
それは一種の自己陶酔だったと思うし、
純粋な恋心でもあったのかもしれないと思う。
しかし、高校生には大きすぎたこの感情の正体を暴くには、僕も彼女も全く子供すぎたのだ。
秋の夕暮れが、一人取り残された僕を嘲笑するかの様に沈んでいった。
彼女の命令通り、僕は最愛の彼女を殺した。
この場所は、呼吸がしづらい。
酸素が薄いわけでもなければ人口密度が高いわけでもない
そんな教室が、僕にとっては密閉された空間のように呼吸がしづらかった。
大学受験以外に使われることの無い数式を名門校の威信をかけて説く教師の声は、敗訴が確定した裁判よりも絶望的な響きだった。
目の前で繰り広げられる難問との戦い方に置いてけぼりを喰らっている僕とクラスメイト達は、
ただただ「どうか自分だけは当たりませんように」と懇願することしか出来ないのだ。なんて無様なんだろう。
そんな懇願とは裏腹に難問の犠牲者は増えていった。
授業終了まで残り10分を切ったところだった。
授業範囲の最終ページ。
つまりは今日のラスボスとも言える難問を指さして教師は言った。
「一色夜、前に出て解け。」
とうとう僕は傍観者から標的に選抜されてしまったのだ。
このレベルの難問なら、教師も出来ないだろう、と
期待半分に構えてくれるはずだし、クラスメイトもあんなに難しい問題は誰にも解けない、と同情の目を向けてくれることだろう。
つまりは今日の授業においてのみ、この難問はサービス問題にもなり得るのだ。
標的になったのが"普通の人間"だったら、の話だが。
生憎教師は出来て当然だと言わんばかりの表情でチョークを差し出してきたし、クラスメイトは一色なら出来るに決まっている、と期待の目を向けてきている。
そう、僕にとってこの難問は死活問題にすらなり得た。
入試から3年生になる今までの成績は学年トップ。
教師からも信頼されていて、生徒からの人望も厚い。
放課後はテニス部の部長として部活動に励み、
生徒会長として文武両道・品行方正を地で行く優等生。
それが「一色夜」という人間なのだ。
つまりこの難問を突破できなければ、僕は僕でいることを許されない。
たかが授業のたかが難問。授業終了のチャイムが鳴ればゲームセット。
賢い脳はそれを理解しているのに、身体だけは正直で手に冷や汗を握る。
窓側から2番目の最後列に名残惜しさを感じながら、
椅子の音を立てずに「はい。」とだけ答えて立ち上がる。
入学時大きめに買ったブレザーは174cmの背丈に丁度よく、
4時に起きて清潔感を出す為に整えた黒髪は、すきま風に揺らされる。
身嗜みを整えるのも優美な立ち振る舞いも、全て一色夜という人間で在る為だ。
僕が一色夜としての肩書きを剥がされた時に何が残るかは考えただけで恐ろしい。
満足気に新品の白いチョークを渡してきた教師に苛立ちを覚えながらも、笑顔でそれを受け取った。
今だけ永遠に続くように見える黒板に向き合って、
指定された数式を眺め、書く。
大丈夫、予習済みの範囲だ、解ける。
背後から「さすが一色」「出来が違う」という小さな声が聞こえる。
僕の手が震えていることは誰も知らない。
イコールまで書き進め答えを書こうとした時、教師はなんの前触れもなく僕の肩に手を置いた。
「一色…お前は偉いぞ、しっかり予習していたんだな。」
そうして僕に前を向かせ、続けた。
「一色は部長をしていて生徒会長の仕事もあるのに、
遅刻も欠席もせず予習も欠かさない、優等生だ。
みんなも一色を見習って毎日励むように!」
教師が言い終わるのと同時に授業終了のチャイムが鳴る。
よかった、教室での一色夜は今日も確かに存在していた。
HRを終えて部室のある体育練へ向かう途中のことだった。
背後から微かに速い足音が聞こえる。
その正体は後ろを振り向かなくともわかった。
「そんなに走ってどうしたの、朱雀。」
自分を見ることの無いまま問いかけた僕に「さすが」と小さく笑って、足音の正体は背中に抱き着いてきた。
「足音だけでわかるんか!さすがやな~シキっ!」
「17年の付き合いでしょ。」
僕とは対照的な赤髪や高校3年生にしては小さな背丈の幼馴染・朱雀 主は唯一気の許せる存在で、
僕と同じくテニス部に所属している。
「今日のシキもほんまかっこよかったで!
こう、シャリシャリーンと現れて、サラサラーっと解いて!」
朱雀は僕のことを、苗字「いっしき」からしきをとって「シキ」と呼ぶ。
「何言ってるかわかんないよ?」
2人でたわいもない話をして笑い合う。
それだけが、この呼吸の出来ない空間で息を吸う方法だった。
「ほな部活行こかー俺らもーすぐ引退やなぁ、5月やし!」
そうだ、僕達3年生はもうすぐ引退。
やっと部長としての一色夜を捨てられる、よかった…。
「高体連、絶対勝って長く部活しような!」
無邪気に笑う朱雀を見てそんな考えに罪悪感を抱いた。
「ありがとうございました!」
部長である僕の挨拶に、同期・後輩が続く。
一緒に帰ろうと朱雀に声を掛けられたが、物足りないブレザーの右ポケットに手を入れて、
家の鍵を教室の机の中に置き忘れたことに気が付いた。
朱雀に先に帰るよう促し、僕は校門に立ち直り教室へ向かった。
5月の太陽はまだ長かった。