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愛事(まなごと)

作者: 小石創樹

 五つの頃から、私には幼馴染おさななじみが有りました。

 持っていたと言うべきですが、訳あって、有りましたと言わねばなりません。

 彼の名前を、れん君といました。『れん』がどの字を当てるのかは知りません。れん君も申しませんし、お母様も教えて下さいませんでした。お誕生日にお母様が連れて来て下さった、一つ年上の男の子、とだけ記憶しております。

 黒い髪と、涼しげに整った目鼻立ち。やや大人びた風情の、線の細い子でした。一人娘で身体の弱かった私は、家の外に出る事も、同じ頃の子供と触れ合う機会もなく、毎日彼と遊んでおりました。

 お父様もお母様もお忙しい方で、私に付き合って、日がな寝室で過ごすわけには参りませんでしたけれど、れん君は私のする事を、文句もこぼさず付き合ってくれました。いつも優しく微笑み、静かに私を見つめて有りました。


「ただいま、まなちゃん。きょうのごはんは、なんですか?」

「おかえりなさい、れんくん。おしごとおつかれさまです。きょうは、ごはんと、おさかなと、おみそしると……」

 私はままごとが好きでした。つたない舌で転がすぎこちない台詞せりふ。それでも大切な時間でした。

 時々で仕事は変わりましたけれど、れん君は決まって私の旦那様でした。お父さんお母さんをするには、赤ちゃんが居なければなりません。他に無かったものですから、私達は二人きりの夫婦でした。

「まなちゃん、ごはんをたべたら、れんくんは、おふろにはいります」

「はいはい、れんくん。きちんと、ひゃくまでかぞえてね」

「はみがきはすみましたか?ねまきにおきがえして、おふとんにはいって、おやすみしましょう」

 お母様の口調が混ざって、はたから聞くと子供に言い聞かせる様ですが、幼い頭でつむぐ夫婦は、両親の真似から入る単純なものです。一緒に食卓を囲み、並んで眠り、朝起きて、れん君はお仕事へ行き、私はお家の事をする。そんな茶の間の断片が、延々続いて行くだけの生活。

「おやすみなさい、れんくん」

「おやすみなさい、まなちゃん」

 朝も夜も、私の隣には、れん君が有りました。具合の良くない時も、手をつないで眠ると、少し楽になりました。怖い夢を見た時、ひとりが心細い時、私より小さなれん君の手は、変わらず優しかったのです。


    ***


 私が八つの春。近所でお嫁入りがありました。

 表へ出る事を禁じられた私は、部屋の窓から行列を眺めておりました。

 人混みは毒だから。理由を付けてじかに見せなかった。お父様もお母様も、とうにあきらめておいでだったのでしょう。どのみち先の保証出来ぬ娘、無用な憧れを抱かせては酷だと。

 それは夢の様な光景でした。

 桜の花弁がひらひら青空を舞い、季節外れの雪の様でした。薄紅の雪をまとわせて、紅い唐傘からかさがしずしずと進むのです。紋付きの列の中に、その紅だけがはっきり鮮やかで、私は食い入る様に見つめました。

 行き過ぎる傘の下に、白無垢の花嫁。目に痛い程まぶしくて、あまりに綺麗で――。


 箪笥たんすに取ってあった白地の浴衣を羽織り、れん君をお婿むこさんに、お嫁入りをいたしました。部屋の中をくるりと回り、何時いつぞや耳に挟んだ言葉をつぶやきました。

「れん君。いく久しく、よろしくお願いいたします」

「いく久しく、よろしくお願いたします、まなちゃん」

 それがどれだけの重みを持つ事か、子供の私には解らなかったのです。いつもの遊びと思い、何故なぜかその時は気付けなかったのです。二つの声の片方が、私の音色でなかった事に。


    ***


 十を過ぎる頃には、私の興味は、物語や、絵や、雑誌などに移っておりました。

 外へ出るのは叶わぬまでも、成長と共に、床へ伏す時間は減り、気分の良い時になら、表で陽射しを浴びる事も出来ました。

 れん君は、変わらず私の部屋に有りましたが、子供用の椅子に座ったきり。枕を並べ、手を繋いでやすむ事は絶えておりました。

 時折、服や髪をはらいがてら、静かな微笑みに触れるにつけ、気恥ずかしさが込み上げ、目をらす。幼馴染でも旦那様でもなく、れん君はお人形。ままごとは卒業し、もっと背伸びしたい、私もそんな、当たり前の少女になっていたのです。


 ある日、私は熱を出してせっておりました。

 お医者様の薬が効いて、うつらうつらした意識に、誰かの手を感じました。額で熱を確かめ、手を握ってくれる指の、ひんやり心地良い事。

「ここにいるから、安心して」

 声にうながされ、ゆっくり呼吸すると、私は眠りに落ちました。

「おやすみ、まなちゃん」

「おやすみなさい、……」

 

 翌朝、すっきり目覚めた私は、起きようと寝返りを打ちました。

 私の手に繋がれた、小さな手が映りました。

 とっさに飲み込めず、幾度かまばたきました。れん君は椅子に座らせてあったはずなのに。

 昨夜の声と、指の感触が甦ります。お母様が様子を見にいらして、お守り代わりに置いたのか。それとも私自身が無意識に連れて来たのか。恐らく前者と思いつつ、あえて尋ねるのもはばかられ、私は黙って、れん君を椅子へ戻しました。


 次の朝も。その次も。

 私が目覚めると、れん君の微笑みが隣に有りました。私は薄気味悪くなりました。長年親しんだ幼馴染が、得体の知れぬ異形に感じました。

 人形には魂が宿ると申します。もしやそれではないかと、私の中に疑いがきざしました。お話の様に髪が伸びたりする様子はありません。ただ、れん君の手が、以前より重みを増したと思えて仕方ないのです。

 私はれん君を箱に入れ、押入れに仕舞いました。

 しばらく何事もなく過ぎました。やはり気のせいかと、押入れのふすまを見返って、私は自分の臆病おくびょうを笑いました。物語の奇蹟が、そうそう現実に起こるはずもないのに。

「おはよう、まなちゃん」

 戸口から私を呼ばわる声。朝餉あさげの匂いがいたします。

「お母様?おはようございます……」

 扉を開けた廊下は、無人でした。

 空耳にはしっかりした声。けれど。風邪のひき始めの様な、かすれを帯びた声。

 横へ向くのは勇気が要りました。――ああやはり。何事もなかった微笑みで、れん君は椅子に座っております。

 震える両手に、ずしりと収まる手応え。毎日見るものの変化に、人は鈍感なのでしょう。

 私と同じく、れん君も大きくなっていたのです。ただ大きくではなく、彼は少年でした。滑らかな樹脂の指は、縮尺で言うなら私より長くてのひらは厚く、気付いてしまえば、顔立ちも鋭さを増して――。


『れん君。いく久しく、よろしくお願いいたします』

『いく久しく、よろしくお願いたします、まなちゃん』


 私はしてはならぬ約束をした。世の夫婦が、実際にはどの様に営まれるか、おぼろげに解り始めた頃でした。

 突き飛ばす様にれん君を投げ、箱へ閉じ込めて厳重に封をし、押入れに放りました。いっそ捨ててしまいたいとも思いましたが、それも恐ろしかった。魂の宿る人形は、捨てても戻って来るのですから。

 我がままを言って、押入れにじょうを付けてもらいました。鍵を机の引き出しへ、その上にまた鍵を掛けました。襖の敷居に釘も打ちました。夜毎、押入れでカタカタ音が鳴るのではと神経を尖らせ、隙間すきま風の揺らぎにおびえ、祈りに近い思いで朝を迎えました。

 そんな日々も半年、一年、三年と経ち。私の中から、れん君の記憶は徐々に去って行ったのです。


    ***


 十八を迎えた私に、縁談が参りました。

 お相手は、お父様の取引先のご紹介とうかがいました。物堅ものがたそうな背広の写真。釣り書きには名前と略歴のみ記してありました。

 二十歳を待って、婿養子に入っていただくからと告げられ、振袖の写真を撮られました。確証でないにせよ、私の人生は当初の目算より長びき、私は一人娘で、お父様にはそれなりのお立場がありました。

 (れん)さん。お名前に笑ってしまいました。お母様が彼を『れん君』と呼ばせた、まさかこれが真相でもないでしょうけれど。お人形が生身の人間に代わっただけ。いいえ、私こそ人形だったのです。

 冷めた声で、私は一切のやり取りに『良い様に』と答えました。緞子(どんす)の帯や打ち掛けや、桐の道具がそろえられてゆく度、生涯止める事の出来ない、ままごとに囚われた心地がいたしました。


 婿入りを明日に控えた夜。押入れが振動いたしました。

「……まな」

 低く抑えた一声。

 ふらふら引き出しを探り、鍵を手にして襖ににじり寄った私は、一寸にも満たぬ黒い空白に吸い寄せられました。敷居の釘を引き抜くと、襖は再びガタン、と応じました。

「開けて」

 熱のこもった吐息を感じました。変声期はとうに越し、はっきりと青年でした。幾度かためらって、鍵は錠をとらし込み――かちり。開いたと同時に鎖が落ちました。

 闇へもぐった指をつかまれ、肘から先が引き込まれました。大きさも、痛い程の力も男性のそれでした。けれど、

 ――けれど。固く冷たい作り物の感触でした。

(まな)

 呼び掛けに答えれば、きっと後戻り出来ません。二つの手は拮抗きっこうしたまま、襖の拳一つ内で止まり、長い様で短い様な時間が流れました。


 時計が零時を打ちました。

 指が不意に軽くなり、赤い指のあとを刻んで、電灯の下に戻りました。

「れん君!」

 一杯に開けた襖の先、ふたの壊れた箱が転がっているきりで、れん君の姿は有りませんでした。

 敷居の縁に、削れた樹脂粉が散っておりました。


    ***


 これが、私の体験した、奇妙な出来事の全てです。

 何という愚かな女でしょう。私は心の底から後悔しているのです。人形と婚礼を挙げた事をではありません。れん君の声に応えなかった事を、彼と行かなかった私をです。

 彼の静かな微笑みを、低く切ない別れの声を、指の長さを引き寄せた力を、固く冷たい作り物の感触を、私は忘れられそうにありません。貴方の生きた温もりに触れる度に思い出して、貴方の名を呼ぶ度に甦らせて、終生くらべながら、れん君の面影を追い求めてしまうでしょう。


 ですから、貴方の妻になる事は出来ません、廉さん。

 目覚めてすぐ、お父様達にも申しました。頭から理解の外の顔をしておいででした。その様な戯言たわごとに狂言自殺をはかり、婚礼の朝を血で汚し、家の体面と親の矜持きょうじをいたく傷付けた私は、遠からず病院へ送られます。――ええ、退院する事はありません。どうぞ貴方も、気のれた女と、今日を限りにお忘れ下さい。

 私の運命は、あの幼い約束で決まってしまいました。戻らない彼を命尽きるまで待つ事が、私に課せられた宿業なのです。

 私は独り、人形の「まな」として、閉じられたままごとに遊び続けます。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  参りました。すごい。終始、気持ちを強く惹かれ続け一気に読ませられました。  病弱で文字通りの箱入り娘として育てられた愛(まな)の心が僕の心にも突き刺さりました。はたして作中の『れん君』は…
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