第3話 魔法使い
「ん……う……?」
覚醒しかけた秋ヶ瀬ダイチの耳に、心地よい旋律が流れ込んでくる。
何処からともなく聴こえてくる歌は、微睡み再び深い眠りに落ちていきそうな彼の頭をスッキリとさせた。
「ふぁ……ぁ」
ベッドから身を起こしたダイチは、半開きの目を擦りながら窓辺に向かいカーテンを一気に開け放った。
「うっ……!?」
眩い光が目を刺激して、寝起きのダイチの頭は完全に覚醒した。
やがて眩しさに慣れた目が捉えたのは、角部屋の特権である約二七〇度の眺望。この学生寮〝星海寮〟の目の前に広がっている大海原。
ダイチはバルコニーへと出た。
心地よい潮風が彼の頬を撫でる。
「今日も暑くなりそうだ」
肌をジリジリと焼く様な陽の光がそう予感させた。
眼下には〝本土岬〟と呼ばれる岬が見える。
大きな橋一本で繋がっているこの孤島の、稀に本土が望むことの出来る唯一の場所である。
そこは〝星海寮〟から目と鼻の先なのだが、実に不思議な事に、抜群の眺望を誇る最上階である七階の彼の部屋から本土を望む事が出来ない。
その岬に人がいる。遠目だが、それは女だと分かる。
「あれは……」
ダイチはその後ろ姿に見覚えがある。
その見覚えのある後ろ姿は岬の先端で下を覗き込むようしていた。
「昨夜雨が降ったから危ないぞ」
素早く身支度を整えて取るものも取り敢えず部屋を出る。すぐ傍にある非常階段の扉を開け、階段を駆け下りる。
女子は時折身を乗り出すように下を覗いている。
あっという間に一階まで着いたダイチは、今度は寮の建物の裏手にある天然の階段を下りる。
寮から一段低くなっている所には島を一周する道があり、そこを渡ると岬に着く。
岬に辿り着いて、まだ落ちていないと安堵する。
「なにしてんだ、カノンっ!」
「……っ!?」
声を掛けると、カノンはビクッと肩を震わせた。
「ダ、ダイチくん?」
そして恐る恐るこちらを振り返る。その時、彼女のセミショートの栗毛が風に揺れた。
「昨日の雨で滑りやすくなってる。早くこっちに来るんだ」
怯え揺れているカノンの藍色の大きな瞳がダイチの顔を認識すると少し安堵の光を取り戻した。
それでも彼女はそこから動こうとしない。
「帽子が……」
「帽子?」
ダイチはカノンの隣まで行き崖の下を覗いた。
四〇~五〇メートルはありそうなその高さに眩暈がしそうだったが、彼女の言う通りつばの広い麦わら帽子が彼女の手で届きそうな場所に引っ掛かっているのが見えた。
「なんであんなことになってんだ?」
「えっと……。あそこで海を見てたら風が吹いて」
風音が指差したのは、寮の裏庭だった。
「まあなんにせよ危ないから」
「でも……」
カノンは躊躇う。
なぜならあの麦わら帽子は彼女のお気に入りだからだ。
ダイチはそれを知っているから、
「取ってやるよ」
軽く溜め息を吐いてからそう言って、彼女と場所を入れ替わった。
「でも危ないよ」
「お前がやるより危なくない。それに」
「それに?」
「お前に怪我させたらタカネさんに怒られるしな」
タカネというのはカノンの母親の名前だ。
「よっと……」
岬の先端にうつ伏せになり崖下に向けてダイチは手を伸ばす。
「と、届かない」
ぱっと見て手が届きそうだったが、実際彼が手を伸ばしても数センチ届かなかった。
「ダ、ダイチくん……」
「だいじょ……ぶ」
ダイチが思い切り手を伸ばすと指先が帽子に届いた。
「よ……し、あとちょっ……」
更に手を伸ばした瞬間、彼の身体が僅かに沈んだ。
「……と?」
そしてダイチだけでなく、カノンの足元から地面が崩れた。
「きゃぁぁぁっ!!」
「うわぁぁぁっ!!」
二人は崩れた地面ごと崖から投げ出されてしまった。
「カ、カノンっ───!!」
ダイチはどうにかカノンを引き寄せ抱きかかえることに成功した。
しかし落下していく二人の真下は岩肌がむき出しになっている。
助かる見込みなど万に一つも無い。
(こんな所で死ぬのか……!!)
ダイチがそう諦めかけたその時、
『───仕方ないわね』
どこからともなく声が聞こえた。
そしてダイチは見た。
マントのような物をはためかせ宙に浮かぶ、人間のシルエットを。
『登坂マヤ』は日課の早朝ランニングを終えてシャワーを浴びていた。
その彼女の耳が水音とは違う音を捉えた。
シャワーを止め音に耳を傾ける。
「これは……緊急着信っ───!?」
バスタオルを手に取り、濡れた髪もそのままにバスルームから飛び出し、ベッドに置いてある携帯を取り操作した。
『本土岬にて救援求む』
緊急発信モードで着信したメールは、一見どういった状況かは分からない。だが、緊急で発せられた以上はただ事ではない。
それに彼女の責任感がそれを見過ごすことを許さない。
「発信者は……」
表示された名前には覚えがあった。一学年下の男子。学年首席で、この学園のシステム開発者の一人息子。
───秋ヶ瀬ダイチ。
頭の回転も早く、何でもそつなくこなす。良くも悪くも友と呼べる少ない人物であった。
その人物からの緊急の知らせ。
彼の慌てる姿など見たこともない。
その彼が緊急発信メールを送らなければならない状況に陥っている。
つまりはよほど差し迫った状況だと言う証左。
マヤは素早く服を着ると現場である本土岬へと急行した。
ダイチは気を失って夢でも見ているのかと一瞬錯覚した。
人間は空を飛ぶことは出来ない。
昔の漫画では気を操ったり、魔法の力で飛んだりというのはよく描かれていた。
しかし現実においてそれを可能にした人間はいない。
だが今、彼の目の前で見紛うことなく、人間が宙に浮いている。
その姿は絵本やゲームに登場する様な〝魔法使い〟を連想させた。
箒に乗っていなかったり、三角帽子を被っていない代わりに、顔が見えないほどフードを目深に被りマントを羽織っている様子から、絵本よりもゲームやマンガの魔法使いに近い出で立ちだ。
(ん? 魔法使い……?)
ダイチの心にやけに〝魔法使い〟というのが引っかかっていた。
だが、それ以上何も出て来なそうなので一先ずそれは頭の隅へと追いやる。
「……………………」
助けられた礼を言うべきだとはダイチも理解しているが、怪し過ぎて正直どう切り出したらいいか分からなかった。
と、〝魔法使い〟(と仮にしておく)が、手を差し伸べてきた。
「え?」
〝魔法使い〟が差し出したのは、見覚えのある麦わら帽子だった。
「…………ん」
〝魔法使い〟は受け取るように催促する。
「……あ、ああ」
ダイチはカノンが大事にしている麦わら帽子を受け取った。
ふと顔を上げると、目深に被ったフードの奥の目とバッチリ合った。
瑠璃色の右眼と金色の左眼。
不意にダイチは既視感のようなものに襲われた。
やがて色違いの瞳が幽かに笑う。
そしてすぐにフードの奥に消えた。
「……助かった。ありがとう」
この時になってようやくダイチの口からお礼の言葉が、不思議なくらいに自然と出た。〝魔法使い〟は静かに首を横に振った。
『ここからは上に行けない。助けを呼ぶべき』
ダイチの目の前にメッセージウィンドウが現れ、目の前の人物からと思しきメッセージが届く。
ダイチとカノンの二人は本土岬の真下の洞窟の様な場所にいた。
落下を免れることは不可能だったが、宙に浮いた目の前の人物(?)によってまるで綿毛の如くその場所に降ろされたのだ。
「たしかに崖を登るのは無理そうだし、崖沿い辛うじて階段のような段差があるけど、カノンには登れそうにないな」
ダイチは言われた(?)通りに、緊急メッセージを発信することにした。
これはその名の通り緊急時に発信するメッセージシステムで、主に学園の治安を守る保安委員や学園生の心身の健康を守る衛生委員に向けて発信される。
言うなれば一一〇、一一九番通報のようなものだ。
「ところで、あんた……何者だ?」
『まだ言えない』
ノータイムで返ってくる。だが、マントの中で何かを操作している様子は見られない。
「まだ?」
『もう少しすれば分かる』
そうメッセージが届くか否かのタイミングで目の前の人物は上を向いた。
「どうした?」
『助けが来た』
「助け?」
洞窟から出て、ダイチも上を見た。
「あれは……」
『それじゃ』
「え?」
それだけ〝言う〟とマントの人物は空へと飛び立っていった。
寮の中庭で竹刀を使って素振りをしていた『五十嵐レイ』は、緊急着信を見てイの一番に本土岬へ駆け付けてきた。
「なんだ、誰もいないじゃないか」
辺りを見回すが、肝心の緊急着信の送信者が見当たらない。
ふと、彼女の耳に石か何かが転がり落ちていく音が届いた。
「まさか……」
五十嵐レイは本土岬の先端に目を向けた。
そろそろとそちらへ近付いていく。そして崖から下を覗き込んだ瞬間、崖の下から猛烈に飛び上がっていく鳥のような大きな影を見た。
「うおっ?!」
五十嵐レイは仰け反って尻餅をついた。
「な、なんだ今のは……?」
空を見上げるが、その姿はもう見ることは出来なかった。
とそこへ、彼女の端末に着信が入る。
『昨晩の雨で崩れやすくなってる。岬には誰も近付かせるな』
緊急着信の発信者からのメッセージだった。
『無事なのかっ?!』
三次元投影のF2Fウィンドウには五十嵐レイの顔がどアップで映されていた。
一件あった緊急着信の返信を確認しようとしたところへのどアップだったのでダイチは少し面食らった。
「あ、ああ。にしても真っ先に駆け付けてくれたのが〝うらら〟とはな」
『〝ウララ〟ではない。〝レイ〟だ』
レイは漢字で書くと麗となり、本名は〝ウララ〟という。
憧れである保安委員長の登坂マヤが漢らしい(あちらはあちらで自覚なし)ので、可愛らしい〝ウララ〟という本名で呼ばれるのを嫌う。
だが決して彼女は可愛くないわけではない。
むしろ可愛い部類に入るのに(憧れである登坂のように)格好良くあろうとするのか微妙になりきれていない。
むしろそこが可愛いという密かなファンも存在するくらいだ。
彼女自身はそれを断じて認めてはいないが。
その辺りに拘り過ぎているせいか、憧れには遠く届かない状態にいる。
「ともかくだ〝レイ〟。そこは危ないから立入禁止にするように登坂先輩に伝えてくれ」
『分かった。だがしかし、よく貴様は助かったな』
「助けられたんだ」
『助けられた?』
「フードを被ったマントの人物にだ。お前もさっき見たはずだ。前を飛び立っていったんだから」
『なんだと?!』
ウィンドウの向こうで五十嵐レイが上を向いた。
「知ってるのか?」
『知らん。だが、最近よく見かけると報告がある不審人物がマントを羽織った奴なんだ』
「なるほど」
『五十嵐っ!』
ウィンドウの向こう、遠くから登坂マヤの声が聞こえてきた。そして上に辿り着いた彼女に五十嵐レイが経緯を説明している。
『秋ヶ瀬』
ウィンドウに登坂マヤの顔が映った。
超美形の男子、に見えるがれっきとした女性である。
責任感が強く、下手な男より漢らしく、下手な男より強い。
保安委員長、登坂マヤ。
『無事のようだな。通話が繋がらないから少し肝を冷やしたぞ』
「とりあえずは」
一件あった着信は先輩だったかとダイチの中で合点がいった。
「聞いたと思いますけど、昨日の雨で崩れやすくなってます。なのでここから上には登れそうにありません。あとカノンもいるので」
『カノン……、藍原か。藍原は無事なのか?』
「気を失ってます。見た目の外傷は無さそうですし、服に血が滲んでる様子もありません」
ウィンドウの向こうで登坂マヤが自分のメッセージウィンドウを呼び出してメールを打っている。友人でもある衛生委員長に連絡を取っているのだろう。
「きちんと守ったつもりですが何処かぶつけた可能性もあります。ですから」
『了解だ。上からがダメなら海から行こう。すぐに船を出してもらうからそこを動くなよ』
「分かりました」
通話が終了すると共に三次元投影のF2Fウィンドウも閉じた。
カノンが目を覚ましたのは救助に来た船の上だった。
「あ、あれ? ここ、どこ……?」
カノンは辺りを見回した。するとすぐ傍に見知った顔があった。
「おはよう、カノンちゃん」
「ナズナ先輩」
『仁美ナズナ』はカノンやダイチの一つ上の先輩にあたる。
長い薄茶色の髪は毛先が軽くウェーブがかかっていて、垂れ気味の目が性格の穏やかさを際立たせている。さらにはスタイルも良く、学内の男子からは絶大な人気を誇る。
学園生の心身の健康を守る衛生委員の長でもある。
「どこか痛いところはない?」
「え、ええ」
カノンは自分が今船の上にいるのだと、身体の揺れ具合と微かな浮遊感からなんとなく察した。
そして少しずつ、自分の身に起きたことを思い出してきた。
「そうだ。ダイチくん! ナズナ先輩、ダイチくんは?」
「呼んだか?」
船室の扉が開いて秋ヶ瀬ダイチが姿を現した。
「ダイチくん、怪我は……」
「オレは擦り傷程度だよ。それよりお前は大丈夫か?」
「うん。ダイチくんが守ってくれたから」
カノンは微かながらダイチが庇ってくれたのを覚えていた。
「あらあら。私はお邪魔かしら」
「べ、べべつに、そんな……」
カノンが一瞬で真っ赤になった。
「まあ、幼馴染ですし」
そんなダイチの一言に仁美ナズナは溜め息を吐いた。
「ほら、カノン」
そんな彼女をよそに、ダイチは件の麦わら帽子をカノンの膝の上に置いた。
「ありがと」
カノンはそれを手に取って胸にきゅっと抱いた。
「その麦わら帽子が大切なのは分かるけど、二人とも無茶し過ぎ。下手したら死んじゃってたんだよ」
いつも温厚な彼女が目の前で怒っているのに二人は驚いたが、それ以上に心配をかけていたことが胸を貫いた。
「マヤちゃんから状況を聴いた時、気が気じゃなかったわ。二人とも私の大事なお友達なんだから、もうあんな無茶しちゃだめよ」
「はい……」
項垂れるカノン。
「ご迷惑をおかけしました」
ダイチも頭を下げた。
そんな二人を仁美ナズナはギュッと抱き寄せた。
「約束して。もうあんな危ないことはしないって」
「はい」
「もうしません」
カノンに続いて答えるダイチ。
だが既に、そうも言っていられない〝物語〟が始まっていることを彼はまだ知らない。
やがて港に着くと、待ち構えていた理事長である彼女の母親に連行されていった二人は、精密検査とお説教のコンボを喰らったのだった。
つづく