2−3
放心したように座り込んでいた芝生からやっとのことで立ち上がると、ミハルはそのまま寮に戻った。
いつものように食堂から食料をくすねることさえ忘れて、真っ直ぐ自室のある二階へ。降り始めた雨が金の髪も黒い長衣の制服もぐしょぐしょにしてしまっていたが、ミハルにとってはかえって好都合だった。
「……ミハル、泣いてるの?」
それなのに、部屋でミハルを出迎えたアンジェリカは、出し抜けにそう言った。
機械の翼をがしゃがしゃと鳴らして、慌てたようにこちらに駆け寄ってくる。
「どうしたの? 誰かにいじめられた? ……ひょっとして、ユージン?」
「……っ!」
彼女が口にしたその名前でかっ、と頭に血が昇り、気づけばミハルは彼女をベッドに押し倒していた。
そのままいつかのように彼女に覆いかぶさり、身動きがとれないように拘束する。雨に濡れた制服や髪が、ベッドやアンジェリカを湿らせてしまうが、そんなのどうでもいい。
殺してやる。殺してやる。殺してやる。何もかも、ぐちゃぐちゃにしてやるんだ。
本当は最初からずっと、彼女のことが憎かったんだ。無垢で、清らかで、人を疑うことを知らず、愚かなままでいられる「天使」が、憎くって仕方がなかったんだ。
本当なら、もっと他の方法で利用してやろうと思っていた。でもそんなのどうでもいい。殺してやる。そうしてその死体を、「天国」の腑抜けた奴らに見せつけてやるんだ。
そうすればきっと、少し形を変えてしまいはしたものの、僕の悪巧みは成功する。
「……ごめんなさい」
ミハルに組み敷かれたアンジェリカがぽつりと言った。けれど透徹したその翠の瞳には、本来この場面で浮かんでいるべき恐怖や苦痛の感情は見受けられず、それが余計にミハルの癇に障る。
「何のことだよ。言ってみろ。答えによってはどうなるか、わかってるだろうな」
低い声で唸ったミハルに、アンジェリカはためらいなく答えた。
「彼のこと――ユージンのこと、悪く言って」
それから彼女は、憤るミハルの下で、場違いにふわりと微笑む。
「あなたは彼のこと、本当は大好きなのね」
「……違うっ!」
気づけば声を荒げていた。しかし、この激情はアンジェリカにではなく、どちらかと言えば割り切れない自分の感情に向いたものだった。
言い訳のような言葉が、しずくとともにこぼれ落ちる。
「……確かに昔は、僕だって彼のことを仲間だと思っていた。同じ痛みを抱えた、生き写しのようだと思っていた。でも、今は……っ」
変わってしまった。彼は変わってしまった。姿も、態度も、その立場も。かつてミハルとよく似た少年だったユージンは、ミハルとは正反対のものに変わってしまった。
でも、ミハルは変われない。
「だって、ユージンは、僕の初めての友達だったのに……!」
彼への感情も、何一つ変えられない。
濡れた金髪を伝うしずくとともに、頬を涙が一筋流れた。拘束の緩まったアンジェリカが、その両腕を伸ばしてミハルの頬に触れる。
華奢な指先で涙をそっと拭いながら言った。
「……また、仲良くなれたらいいのにね」
「無理だ。そんなの、無理に決まってる……。だって、僕らはあまりにも違いすぎてしまったんだ」
「……そうね。そうかもしれない。――でも、そんなのって、悲しいじゃない」
そう言ったアンジェリカは、ミハルには初めて見せるような、ひどく切なげな表情をしていた。
その表情を隠すように、彼女はミハルの頭を胸に抱き寄せる。
触れ慣れない人肌の温度に、奇妙な感じがした。そういえば、物心ついてからは母親さえも自分を抱きしめてはくれなかったなと、他人事のように思った。
本当は、ひどい目に遭わせてやるつもりだった。
今だけじゃない。最初からずっと。空から落ちてきた彼女を中庭で拾ったその瞬間から、ミハルはアンジェリカのことを己の悪巧みのために利用することしか考えていなかった。
そのはずだったのに。
「……ごめん。ごめんな、アンジェリカ。でも、もう少しだけ、こうしていてもいいかな」
けれど、今はこの温もりに縋ることでしか、ミハルは自分を保つことができなかった。