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2−2

     *


 夢を見ていた。

 まだ何も知らない、くだらない絵空事を信じていられた頃の夢。


 ――ハル!


 夢から覚めたミハルの目に映るのは、見上げる中庭の空と、

「――ミハル!」

 あの時と同じ、逆さまになったユージンの顔だ。


 それはミハルが今、一番見たくない顔だった。


「何だよ」


 ミハルは芝生に寝そべった姿勢のまま、不機嫌な気持ちを隠さずにユージンに問う。

 ユージンはあの頃とは違う、気難しい顔をして言った。


「午後の授業の時間だ。月曜の午後の地理も、お前ほとんど出てきてないだろ。……それにもうじき、一雨来る」


 ユージンがそう答える通り、見上げた空には灰色の重たい雲が垂れ込めていた。授業の出席日数だとかはともかく、濡れネズミになるのはごめんだ。

 ミハルはとっさに起き上がろうとして……けれど、今見た夢のせいか身体に力が入らなかった。


「……あー、いいや。ほっといてくれ」


 投げやりっぽい声でそう言うと、ミハルはもう一度目を閉じた。


 身体が重い。

 心も、重い。


 もう一歩も動きたくないし、もう何も考えたくない。

 雨に濡れても、知った事か。


「……なあ、ミハル」


 そんなミハルに、ユージンは意を決したように呼びかけた。

 そして、彼がずっと内側に貯めこんできただろう澱を吐き出すように低い声で言う。


「いい加減、現実を見たらどうだ? 学生のうちは、そういう態度でもいいのかもしれない。

 でも、俺たちはもう最上級生で、すぐにこの学校を卒業することになる。卒業までは、お前のことは俺が手をつくしてやる。先生たちにだって今まで通り何度だって頭を下げてやる。

 それが、お前に対する俺の責務だからな。


 ……だけど、問題はその先だ。どんな進路を選ぶにしても、お前はいつかまともにならなければいけない。なにか生きる手立てを見つけなければいけない。

 そうしなけりゃ、お前みたいな次男スペアはこの世界では生きていけないんだ」


 そこで一度言葉を切り、一層思いのこもったような声音で続けた。


「だから、大人になれ、ミハル」


 ユージンが説くのは、これまで大人たちが訳知り顔で口にしてきたようなありふれた正論だった。


「君には関係ない!」


 そのことに内心がっかりしながら、ミハルは間髪入れずに冷たい声で彼を突き放す。


(……いや、違う)


 ミハルは何とか芝生から身を起こすと、その場に座り込んだまま、背中越しに背後のユージンを見上げて言い直した。


「今の君には、もう関係ない……か」


 十三歳になってなお、痩せぎすで泣き虫なままのミハルをこの寄宿学校に入学させると決めたのは父親だった。彼は少女のように細い身体の倅が、学校の推奨するクリケットやラグビーなどのスポーツでたくましく成長することを期待したようだ。


 そこにミハルの意思はなかった。彼にとってミハルは、軍人一家の息子として、課された役割を果たす操り人形でさえあればよかったのだ。


 寄宿学校への入学を告げられた後、ミハルは三日三晩泣いて過ごした。四日目の朝に涙が枯れ果てるまで、ミハルを慰めにくるものは現れず、それが悲しくて寂しくて、ミハルはまた声だけで泣いた。


 けれど、同じ学校にあのユージンが入学するとわかると、とたんに希望が生まれた。

 彼と一緒なら、何か変わる気がしていた。ミハルが置かれた立場も、この鬱屈した思いも、拭い切れない孤独も、彼との約束が果たされれば、すべて。


 だけど――


「ユージン、君は、変わってしまった」


 入学したこの寄宿学校で再会したユージンは、ミハルの知る彼とは変わってしまっていた。


 ミハルがちらりとユージンを睨む。

 彼は黒い髪を掻き上げ、逃げるように視線を逸らした。


「……仕方ねえだろ」


 それから、感情を殺した声でぽつぽつと語る。


「知ってるだろ。俺がこの学校に入る前の冬に、兄貴が病気になった。悪い病気だ。病名がわかったところで、治るもんじゃなかった。殺しても死にそうにない面してやがったのに、あっという間に骨と皮だけになって……兄貴は結局、次の夏のはじめに、子を残すことなく死んだ」


 そんな彼に、ミハルは間髪入れずにまくし立てる。


「そうして、君は正式にダンタリオン家の跡継ぎとなった。いずれ父上も亡くなれば、晴れて伯爵の位と、代々ダンタリオン家が治めてきたブラッドレイク領は君のものだ。かつて次男スペアだった君をないがしろにした誰かも、きっと君に頭を垂れるようになることだろう。おめでとう! おめでとう! 嘘つきのブラッドレイク公! だから君は変わってしまったんだ。かつては同じ立場だった僕を置き去りにして」


「……仕方ねえだろ!」


 それまでミハルの話を黙って聞いていたユージンが、堪えかねたように声を荒げる。

 その顔は、なぜだか泣き出しそうだった。


「仕方ねえだろ……。兄貴の病気がわかった時、親父が初めて俺の顔をまっすぐに見て言ったんだ。『家を頼む』って。

 ――嬉しかったんだ、俺には、それが。兄貴は死んじまうのに、ずっと次男スペアとしてしか扱われてこなかった俺には、それがどうしても嬉しかったんだ。だから、仕方ねえだろ」


「っ……!」

 泣きたいような気持ちになるのは、今度はミハルの方だった。


 ユージンの気持ちは、ミハルにもわかってしまうのだ。次男スペアとして身内にさえないがしろにされる悲しみを、苦しみを、孤独を、ミハルは痛いほどよく知ってしまっている。


 もしも、もしも、兄さんが何かの間違いで死んでしまったら。

 そうして父さんが、僕を父さんの一番にしてくれたら。


 そうしたらきっと、操り人形としての立場は変わらないとしても、僕はとても幸福だっただろう。


 けれどそれは、ミハルにとってはただひたすらに夢物語でしかなかった。


「……そう、僕は変われないんだ。僕の立場が決して変わらないように、僕の心はこれまでもずっと、なれもしない鳥に焦がれる子供のままだ。」


 今自分が浮かべているであろう表情を、彼には決して見られたくなかった。わざと背中を向けたまま、決別の言葉のように言い切る。


「だから僕はきっと、このまま何者にもなれやしない。君とは違ってね」


 すると、校舎の方からちょうど昼休み終了を知らせる鐘の音が響いてきた。


「ほら、鐘が鳴ったよ。優等生の君は、劣等生の僕みたいに授業をさぼるわけにはいかないだろ。早く行ってしまえよ」


 背中を向けたままそう告げるミハルを、ユージンはしばらく黙って見下ろしていた。


「……っ!」

 しかし、授業の開始を知らせる本鈴の時間が近づくと、とうとう居ても立ってもいられないように校舎に向かって踵を返す。


 芝生を駆けていく足音が、逃げるように遠ざかっていった。


「……やっぱり君は嘘つきだ。あんな約束、信じた僕がバカだったんだ」


 黒雲立ち込める空の下、ミハルの手の甲に一滴のしずくが落ちたのは、ちょうどその時だった。

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