2-1
――鳥になりたい。
そんな風に思い始めたのは、一体いつからだったっけ?
翼の怪我がすっかり治り、後は彼女の飛び立つタイミングを待つばかりだった小鳥が兄さんに首を締められて殺されてしまうよりもっと前、ともすればミハルがミハルという自我を獲得するより前から、その衝動は自分の中に備わっていた気がする。
だからミハルは、今日も空を見上げていた。
館の裏に広がる緩やかな丘、その芝生の上に寝そべって、青い空を自由に行き交う鳥たちの影に思いを馳せる。
「――お前がミハル?」
ミハルの視界に、突如見知らぬ顔が飛び込んできたのはちょうどその時だった。
上下が逆さまになった少年の顔。目が合うと、蒼い瞳が一度瞬く。
「え?」
ミハルはきょとんとその顔を見つめ、
「な、なんで、僕の名前!」
次の瞬間、そんな悲鳴とともに飛び起きた。
拍子にこちらを覗き込んでいた少年の額と自分の額がぶつかる。とんでもない石頭だった。
「……あー、ごめんな。びっくりしたよな」
お互いしばらく悶絶した後、先に復活した少年が、まだ座り込んだままのミハルに左手を差し出して言う。
「俺はユージン。うちの親父が今日、ここの館に招待されてて、それで連れてこられたんだ」
そう名乗る少年は、ミハルとよく似た姿をしていた。年頃は十歳を少し過ぎたくらい。ミハルと同じくらいの背丈に、空の色に似た蒼い瞳。
それから、明るい金髪。
ただし、少女のような顔つきでおどおどと大人しそうなミハルに対し、ユージンははっきりとした顔立ちに、からっと明るい笑顔が印象的な少年で、父や兄が「軟弱」と称するミハルとはそこだけが違っていた。
「ここのうちには俺と同い年の奴がいるって聞いてたんだけど、でも、お前の親父も兄貴も、そんなことは一言も言わないからさ。……だから、大人たちの目を盗んで探しに来たんだ」
そう言って、ユージンが屈託なく笑う。
(ああ、そうか)
それで、ミハルはすべてを理解した。
思わず頬を涙が伝う。
ユージンが泡を食ったようにミハルに取りすがった。
「なんで泣く? どっか痛くしたか?」
「違う。違うんだ……ただ、この家では、僕なんかいないのと同じだって、わかってはいるんだけど……」
ミハルの家は、先の戦争で大きな手柄を上げた祖父が叙勲を受け、伯爵の位と領地が与えられた新興貴族だった。その降って湧いたような身分を死守するべく、長く続いた戦争が一時休戦となった今も、一族の男子はみな武勲で身を立てた祖父に倣って軍人の道を志すことが宿命付けられている。
また、祖父が亡くなった後、長男として爵位を継承した父は、他の有力貴族たちとの人脈作りに日々躍起になっていた。
しかし、そんな彼の二人の息子は、長男こそ体が強く勇敢な、軍人一家にふさわしい男児だったが、弟のミハルはそうではない。
「仕方ないんだ。僕は次男で、しかもこんなやせぎすで泣き虫だから、誰も――家族さえも期待なんかしてくれない。客人に紹介する価値もないんだ。もしまた戦争が始まって、父さんも兄さんも死んでしまえば、僕に爵位が回ってきて、僕をちやほやするようになる人も現れるだろうけど……そういうことには多分ならないだろう」
「……まあ、そうかもな」
隣に座ってミハルの話を聞いていたユージンが空を見上げる。
五十年前から休戦状態が続いている戦争は、少なくともミハルたちが生きているうちには再開されることはない。そんなことはミハルたちのような子供でもわかりきっている。
「それならいっそ、僕は鳥になりたい。今の名前も立場もかなぐり捨てて、誰も僕のことを知らない場所に飛んでいくんだ。そうすれば、僕はきっと自由になれる」
泣き腫らした目のまま言って、ミハルは空を仰いだ。
それは長年、ミハルの裡でわだかまっていた願望だった。
この世界では、爵位の継承権は長男にしか与えられない。
それゆえに、貴族の次男として生まれたミハルは、貴族の子としての振る舞いを求められながらも、周囲から顧みられることはなく、実の両親でさえも真に愛を与えることはなかった。
そんな日々の中で鬱屈したミハルの叫びは、誰にも理解されることなく、ミハルの心を蝕み続けていくはずだった。
けれどユージンは、そんなミハルの言葉に一度大きく目を見開くと、
「へえ、そりゃいいや」
「……え?」
そう言って、にかっと笑った。ミハルがぽかんとユージンの顔を見る。
ユージンが少し遠くを見ながら言った。
「そういう気持ち、俺にもわかるよ。……俺も、次男坊だからさ。兄貴も全然死ぬようなタマじゃねーし。俺が家を継がなきゃいけなくなることは、万にひとつもないだろうな。だから、親父も兄貴にばっかり構うんだ。そのくせ、十三歳になったら寄宿学校に入って勉強して、良い大学に進んで、将来は家の名に恥じないような立派な仕事に就かなければいけない、とか言うんだぜ。勝手だよな」
俺、勉強きらーい。そう言って、彼は芝生の上に大の字になった。
おどけたような笑顔は、その表情とは裏腹に、どうしようもなく寂しげに見える。
「…………」
どうやら自分と似たり寄ったりの欠落を抱えているらしいその少年を、ミハルは他人だとは思えなかった。
ミハルと同じ、金の髪に蒼い瞳をしたユージンは、似ているのは顔立ちばかりの兄よりも、よほど近しい存在のように思える。
そんな風に思える相手に出会ったのは、生まれて初めてだった。
ユージンが大の字のまま顔だけをこちらに持ち上げて言う。
「だからさ、一緒に行こうぜ。自由な鳥みたいに、空へ。空には大人たちが大事に守ろうとしている窮屈な決まりごとなんかない。そういう場所でならきっと、家の名前とか伝統とかは関係無しで、どこにだっていけるし、何にだってなれる」
「でも、行くって、一体どうやってさ?」
「どうやってって……そりゃ、どうにかしてだよ! どうにかして、俺がお前を空に連れてってやる。いつか必ずだ! この世界の人間が、いまだ誰も見たことのない景色を、俺とお前で見るんだ!」
現実的な茶々を入れるミハルに、ユージンはムキになってじたばたした。その仕草が面白くって、ミハルは声を上げて笑う。いつの間にか乾いていた涙の跡が、頬でぱりぱりと割れる感覚がした。
「それ、本当だろうね、ユージン。約束できる?」
「ああ、いいぜ。約束だ」
そう言って、ユージンが芝生から起き上がり、立てた小指をミハルに差し向ける。
夢物語だとは、ちゃんとわかっていた。
それでも、彼と一緒なら本当に叶ってしまう気がしたんだ。
「……嘘ついたら、許さないからね」
だからミハルはそう言って、彼の指に自分の小指を絡ませた。